ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

睡蓮

2008-05-30 04:50:00 | 大阪にて
神呪寺の仁王門がありましたね。その少し下に小さな池があるのですが、今は白い睡蓮が咲いています。

       

神呪寺まで一丁(約100m)の立て札の畔です。
この100mは間違いないと思います。坂は急やけど、お堂は見えてますもん。

       

おやっ?亀が日向ぼっこしてますよ。

       

ほらネ。

       

東福寺で見た蓮の花とはだいぶ違います。
花弁の数が多いし、花が小さい。

       

仏教で言う『泥の中で咲く花』とは違うんですかね。

       

池には近づけないようにしてあるので、真上から花を撮るわけにはいきません。
これでも望遠10倍で撮っています。

     

おっ、カエルがいますよ。判りますか?

          

真ん中やや左上です、隠れています。

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鷲林寺 Ⅱ

2008-05-29 05:00:00 | 大阪にて
やっとの思いで、鷲林寺の本堂に辿り着きました。
このお寺のお坊さんは拳法を修めないのでしょうか、少林寺拳法に対して、鷲林寺拳法な~んちゃってネ。

       

こちらは多宝塔、建物は皆新しいもののようです。

       

裏山にあった・・・何なんでしょう?左は白山大権現と彫られているし、右は不動明王です。どんな趣でこういう風に並べたのか是非説明が必要だと思うのですが、如何なものでしょう。

       

一番上の荒神堂です。鳥居の額には三寶荒神と書かれています。三寶とは(仏・法・僧)と説明があります。

833年に弘法大師がこの地にお寺を建立しようとした時、この地を支配していたソラン神が大鷲に姿を変え入山を阻止しようとしたので、大師は霊力を用い桜の霊木にソラン神を封じ込め、その木で十一面観音を造りこの寺の本尊とし、寺の名前を鷲林寺としたと記されています。

     

話が巧く出来すぎているような気がします。

神呪寺清荒神もソラン神と関係があるらしい。
ソラン神は麁乱神と書くのですが、ソランといえば私らの年代では『宇宙少年ソラン』というマンガがあったのを覚えているだけです。

       

荒神堂から戻る途中、多宝塔から本堂の屋根が見えたので撮ってみましたが、紅葉の頃にはもっときれいになるのだろうと思います。

       

キョロキョロしてると、こんなものも見つけました。
鳥居の額には若宮神社とありました。

       

この社がこの境内で一番古いものだろうと思います。

       

おやっ?見た事のある詩です。これは行基の詩ではなかったのか。
行基とは関係の無い高野山・真言宗が無断で用いてもいいものなのか?

       

ここにもお地蔵さんの祠がありましたが、神呪寺ほど多くはありません。

       

四国八十八箇所巡りのご利益が得られると言う弘法大師の像を裏側から見てみました。

       

弁財天の祠です。池には鯉が泳いでいますが、判りますか?
祠の右で白い鯉が2尾が泳いでいます。

       

弘法大師が彫ったといわれる十一面観音像は見ることができませんでしたが、ここへ至る道は『かんのん道』と呼ばれているのですね。

木の向こうに甲山が見えています。

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鷲林寺

2008-05-28 04:50:00 | 大阪にて
神呪寺から西へ2Kmほど行くと、鷲林寺(じゅうりんじ)というこれも又真言宗のお寺があるというので行ってみることにしました。

途中、北山貯水池という西宮市民のための水源がありました。
と言ってもあまり大きな池ではありません。

       

池の手前の林の中によく見ると我社の記念植樹の跡がありました。
昭和48年10月、西宮市で電話10万台突破記念と書かれています。

35年ぐらい前は、未だ西宮市でも電話は10万台しか繋がっていなかったんですね。開通させるのに72000円の設置負担金が要り、当時のサラリーマンの家庭ではなかなか手が出せるものではありませんでしたが、企業活動には必須のものであり、商売をする人たちにも熱望され、申し込んでもなかなか電話は開通できませんでした。

今は光ファイバーで繋ぐインターネットが主流になりつつありますが、当時のように開通するまでに数ヶ月を要する地域もまだ沢山あるようですが、今や工事するのにもお金はかかりません。

       

池の西から東側(来た方向)を撮ってみました。

            

これより5丁とあり、1丁は約100mとして、500mぐらいですか。
でも信じられません。

       

ここから300mと言うことはあの丁石から200m来たことになりますが、とんでもありません。あれから随分歩きました。
でもここからの300mは正確だったかも知れません。

       

高野山・真言宗・六甲山・鷲林寺って、山の名前が2つもあるのはややこしくありませんか。

       

ここには武田信玄の墓と書かれていますが、平安末期から鎌倉初期に造られたとする塔婆は信玄の墓である筈がなく、ここで出家・剃髪をした信玄が頭髪を埋めたのだという説の方が信じられなくても、真実味があります。

       

信玄の墓がこんなに雑然としているのも可笑しいし、越後・諏訪・駿河辺りで忙しい信玄がはるばる甲斐の国から摂津の国まで何をしに来たと言うのでしょう。

            

真ん中の手摺さえ無ければ、熊野古道のように年輪を感じさせる杉と古めかしい階段です。

       

個人の菩提を弔うためにお寺の庭を提供する寛大さは何処から来るのか解りませんが、震災での倒壊を契機に被災者の菩提を弔うように変わったのは良かったのではありませんか。

     

やっとの思いで本堂のある境内の一段下まで到達、丁石から20分程度歩いたでしょうか。いくら遅くても500mを歩くのに20分はかからないでしょう。

            

ここにも西国八十八箇所巡りと関連した処がありました。
この像を一回りすると、四国八十八箇所巡りしたのと同じご利益があるそうです。

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神呪寺 Ⅱ

2008-05-27 04:50:00 | 大阪にて
階段を登りきった正面の本堂です。

しかし、何故「神が呪う寺」などと言う名前を付けたのでしょう?或いは「神を呪う寺」なのでしょうか?
いや「神が呪われる寺」なのかも知れません。

「神を呪う」も「神が呪われる」も一緒ですかね?主語の関係でチョット違うかな。

だったら「神に呪われる寺」かも知れません。

まぁ、神自体が存在の明らかなものではないので、主語にはならないとしたら、「神を呪う寺」と解釈するのが尤も相応しいのかも知れません。

       

この寺が出来たのは弘法大師がいる頃ですから800年代中頃でしょうか。

            

鳥居がやけに新しいのですが、古来の信仰のように山を神と見立てていたのでしょうね。実在が疑わしい仲哀天皇を『人皇』などとわざわざ書いてあるのが実におかしいです。神話は神話として古来から伝わってる単なるお話だと解釈して欲しいものです。
つまり、伝わってる話と実際に存在したかどうか解らない人物を絡ませるのは、どのように考えても無理があるのです。

『日本語の字』というものがいつ頃から存在したのか、それも解ってないのですからネ。

            

鳥居の奥に多宝塔がありました。

       

本堂の賽銭箱、ちょっと変わってます。巾着型ですよね。

       

賽銭箱の右側に廊下の角が少し見えていましたが、そこを曲がるとこの仏像があり、一瞬ギョッとしますよ。

何でも賓頭盧尊(びんづるそん)と言い、お釈迦様の弟子で修行を積んで病気を治すことが出来るので、自分の治したい箇所をこの像の同じ所を撫でると良いらしい。
みんなが撫でるから、こんなに剥げてしまってるのかも知れません。

       

本堂の左側、弘法大師を祀ってあるお堂です。このお堂があるから、ここに至る道を大師道という名前を付けたんですね。

       

この本堂の右側のお堂の屋根はヘンですね。角度の関係でしょうが、パッと見ると屋根が二つくっ付いているように見えますが、どうやら奥にもお堂があるようです。

こうして見ると山頂はもうすぐのようです。

       

赤ちゃんを抱いた観音様でしょうか。天気が良ければ下界が美しいと思うのですが・・・

       

観音様の横の鐘楼、ここはお金を払うと鐘を撞くことができます。

       

階段を降りてくるとまたまたお地蔵さんの大群!?
ちょっと閉口してしまいます。

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神呪寺

2008-05-26 04:50:00 | 大阪にて
大師道を登り、神呪寺(かんのうじ)に到着です。曇っていていつもより気温も低かったのですが、汗が吹き出ます。

            

山門前によく見る字が刻まれています。

このお寺は真言宗、『不許葷酒入山門』と山門前に大書きされているのは禅宗の寺ばかりかと思っていました。
まぁ、この寺では『不許酒肉五辛入門内』とあり、酒だけではなく肉や五辛も禁止されているようですが、もともと仏教というのは妻帯や飲酒、肉食を禁じていたのを、1200年代の初旬、法然(浄土宗)という人が「そうではない」という理論を打ち出し、その弟子・親鸞(浄土真宗)が実践に踏み切ったのでした。

五辛とはニンニク・ニラ・ネギ・ラッキョウ・ノビルを指し、現代では体にいいものの部類に入ってるのに、ここの坊さんは食べないのでしょうか?

       

やはり建物にも禅宗色の濃さが漂っているようです。

       

この階段を上り詰めるとお堂があるのでしょう。もう甲山の中腹まで来ている感じです。
六甲山というのは、この甲山が六つあるのかと思っていたのですが、そうではなくてかつて武庫山と呼ばれていた山が、武=六・庫=甲と変わっていったという話です。

尼崎市との境を武庫川が流れていますから、昔はこの一帯を武庫と呼んでいたのでしょうが、兵庫にしても武庫にしても物騒な所であったのは間違いなさそうです。

       

別格本山神呪寺とあり、先週の日曜日に融通観音大祭というのが開かれたらしい。
融通観音という位ですから、信心すればきっと何でも聞き届けてくれるのでしょうね。

この神呪寺には4体の国指定の重要文化財があり、5月18日だけその仏さんを拝むことができるそうです。

       

階段の中ごろ辺りにお地蔵さんがズラッと並んだ広場があり、なかなか壮観です。
やけにこの山はお地蔵さんの多い山ですが、何故なんでしょうね。

       

又、お地蔵さんの集められた祠があります。地蔵とは言えないような石像もありますが、もう一つ八十八箇所巡りが作れそうです。

       

赤ちゃんを抱いたお地蔵さんもありました。
花はどうも造花のようです。

       

やっとお堂の前まで到着、見晴らしのいい所なのでしょうが、曇っていて遠くがよく見えません。

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ブックカバー Ⅱ

2008-05-23 05:10:00 | 大阪にて
朝7時前、決められたゴミを出して出勤しようとマンションのエントランスをふと見ると、小さなものが目にとまりました。

近寄っても動きませんが、生きて立っています。

     

なんとメジロの子供ではありませんか。

手をさし出すと何とか飛び上がり、数メートル先の植え込みに逃げていきましたが、その後どうなったのでしょう?

帰ってきて植え込みを見ても、もういませんでした。

さて、本題。

            

GW前いつも通ってる本屋、堂島のJUNKUDOで何を読もうか考えていると、キャンペーンをやっています。
5000円以上買うと、ブックカバーをくれるのだそうな。

       

今のは、もう2~3年は使ってるし、少しほころびてきています。合成皮革なので汚れは目立たないのですが、そろそろ飽きもきています。

去年新潮社で貰った奴は、夏用なので未だ使っていません。

       

紺の唐草模様のものです。象牙色で魚偏の漢字がズラッと並んだ奴もあったのですが、何だかこだわりそうだったので、こちらを選びました。

この写真で見ると、右へ行くに従ってだんだん細くなっている感じがしますが、錯覚でしょう。本を入れた後、残りの部分は細くなっていますが、大丈夫です。

       

同じように撮っても、こちらは同じ幅でしょう。
赤がドギツイ感じがしますが、裏ですから気にしなくて済むでしょう。

       

くれる物ですから、ちゃっかりロゴも入ってます。
JUNKUDOはジュンク堂とも書きますが、漢字で書くと淳久堂なんですね。

       

その時貰ったレシートにある文庫本3冊がこれ。

       

最近は小説を読まなくなり、このような類の本ばかり読んでいます。
台詞が無いので厚さの割には字数が多く、なかなか進みません。

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談山神社 Ⅳ

2008-05-22 05:00:00 | 
藤原鎌足を祀ってある神廟拝所に足を向けます。

       

拝殿を後にしますが、ここから眺めると意外なことに気付きました。
本殿と拝殿を同列にするために、拝殿の床下は高くなっています。

こんなに急な坂の所にわざわざ作ったのだということは、何を意味するのでしょう?

       

どうやらこの境内の中は、どこでも写真を撮っても良いらしい。
歓迎すべきことです。

中央に鎌足像やこちら側に狛犬がいます。この狛犬は室内犬なのか?

       

ちょっとブレてるけど、ガマンしてください。
鎌足像の左右には、ケースに入ってるみたいやけど、不比等と定慧でしょうね。

前にも狛犬がいるので、3体は御神体ということでしょうか。

       

そんなに凄い人には見えへんけど・・・誰かに似てますかな?

拝殿でも売られてたんですが、談山神社のHPには藤原氏族の苗字一覧が掲載されています。あなたも藤原氏族の一員かも・・・因みに私は彼らの一族ではありません。
ほっとしたような情けないような、複雑な思いです。元々私は人の上に立つなどと言うような、だいそれた考えは抱いたらアカンと思ってる人間でしたから、それだけで藤原一族失格ですね。

       

廟所の向いの総社拝殿です。
大神開眼と書かれています。

       

福禄寿像が開眼したようです。

       

この廟所と総社拝殿の間の庭をけまりの庭と呼ぶそうです。
中臣鎌足が中大兄皇子と親しくなったきっかけは蹴鞠の会だったけど、この庭で行われたものだったのかなぁ?(ここではありません)

       

この廟所は、お寺の講堂だったようです。

       

あまり聞かないけど、増賀堂というのがあったんですね。
そのてっぺんにこの宝珠が乗っていたわけです。

       

総社拝殿の裏にある総社本殿です。エラく寂れています。
他の社と比べると粗末に扱われているような気がします。

       

わざわざ池を造り橋を架けて、その中に祓戸社をこしらえたのですね。

       

ここでも岩にお金を貼り付けています。こんなことを好きな人が沢山いるものですが、お金を粗末にしてはいけません。

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談山神社 Ⅲ

2008-05-21 04:50:00 | 大阪にて
拝殿の床下の横を通って玄関に向かいました。
こういう順序で歩く人は少ないだろうと自分でおかしく思います。

       

道の左側は灯篭が続きますが、こちらは後醍醐天皇とは関係ないのでしょう。

       

楼門があって、靴を脱いで上がると右へ、すぐ拝殿です。

       

右が拝殿、左が本殿ですが、このように見えるようにしてある形は珍しい。
拝殿の中には沢山の資料的なものが展示されていましたが、かなり暗いので写真には撮りませんでした。

中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を襲うシーンで有名な多武峰縁起も置いてありましたが、本物ではないと思います。

この神社を何故談山神社と名付けたのか・・・鎌足と中大兄皇子はここ多武峰で入鹿の殺害を談合したのです。
今談合と言えば政治家と資本家の汚いやり取りを思い起こしますが、当時の談合は・・・それでも密かに行われていたのですね。

       

廊下を歩くと神社に来た雰囲気ではありません。お寺のようです。
そう、ここは昔はお寺だったのです。多武峰寺と言ったそうです。

       

拝殿から見た本殿です。奇妙な思いに囚われます。

            

これは定慧が創建したとされる十三重塔、権勢を誇った藤原一族らしい驕った建造物です。
この辺りから、ここに言われる歴史が怪しくなってくるのです。

       

というのは、定慧は帰唐してすぐ666年に亡くなっていて、この説明文の時には生きていません。そして仏教というものが、鎌足がどれだけ偉かろうと、どのように一族が栄えようと、その権勢を誇らしげにするような教えではないと思うのです。

     

同じような内容の説明文ですが、桜井市が立てたのか談山神社が立てたのか、理解に苦しむ案内板です。


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談山神社 Ⅱ

2008-05-20 05:10:00 | 大阪にて
拝観料500円を払って入山します。

            

長い階段がありますが、豊国廟のことを思えばたいしたことはありません。

       

お城のような石垣を築いてあるところもありました。

       

本殿・拝殿に向かう前に右折、この歳になっては関係ありませんが『恋神社』に寄ります。500円払ったからには何でも見ておかなければ損なのです。

       

恋神社とありますが、東殿です。これも重文です。

       

『むすびの磐座(いわくら)』と呼ばれる石、賽銭を入れる箱をわざわざ付けてあるのに、岩にお金を置いている人がおるんですね。

       

奥に未だ何かあるようです。

       

三天稲荷神社があるそうです。これより150mと書いてあります。

       

こんな山道を5分以上歩きました。150mなどと言うのは大ウソです。

       

やっと何やら建物が見えてきました。

       

左から市杵島姫命、菅原道真公、宇賀魂命を祀ってあるようです。
どれもあんまり変わらんけどなぁ。

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多武峰・談山神社

2008-05-19 05:00:00 | 大阪にて
サクラも満開の4月第1週の日曜日、試合も練習も無かったので、そろそろきれいに咲くでと言われた談山<たんざん>神社に行ってみることにしました。

1ヶ月半も前のことで申し訳ありません。

       

ここは多武峰<とうのみね>と言われる山で、古事記の時代より有名な所ですが、訳有りでここに神社が祀られているのです。

       

サクラを撮るにはちょっと早かったのですが、所々違う種類のサクラが咲いていて、とてもきれいなところもあります。

       

ここは誰も訪れようとしない藤原不比等の塔=お墓です。
不比等が嫌われているのか、こちらの方面に行こうとは思ってないのか、殆ど誰も来ていません。

            

まぁ、本殿の方とは全く違った所にあるし、不比等は直接この多武峰とは関係がありません。
関係があるのは親父の鎌足です。

       

幹は完全にサクラなのですが、花がかなり小さくて赤っぽく、なかなかきれいです。

         

どこかで見たような碑、亀の上に碑文が建てられています。
鎌足公が中大兄皇子を補佐して中国の律令制を導入、日本の今日の基礎を築いたと絶賛しています。
長子・定慧、次子・不比等がこの多武峰の地に墓を改葬、十三重の塔を建立し供養したと刻まれています。

定慧が渡唐していたので、このような中国式の碑を建てたのでしょうね。

       

南北朝動乱が開始された年(1331年)、後醍醐天皇がこの燈篭を寄進したらしい。重要文化財ですが公開されています。

ここまでが境内に入る前でした。

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