ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

酒船石

2008-02-29 05:40:00 | 
のどかな田んぼ道を通って、酒船石のある所へ行ってみました。
小学校か中学校で遠足に来ているはずですが、登り口はこんなんやったかなぁ?
若い時にも1度訪れた記憶があります。

       

多勢で行くときは、この道を通らないのかも知れません。

       

右へ行けば酒船石か・・・すぐでした。

            

ホントにこんなものをいったい何に使ってたんでしょうね。
確か、手塚治虫の『三つ目が通る』で謎解きをやってたような記憶がありますが、中身は忘れてしまいました。

     

この案内板の説明では①酒を造った②油や薬を作った③庭園の施設だった、と考えられています。

先ほどの竹林まで戻り、亀形石造物の方へ降りていきます。

       

雪がけっこう残っており、数人の人が見えます。

       

入口があり、観光客が立ち止まってるところを見るとお金を払ってるようです。

入口の看板を拡大すると・・・

     

亀形石造物と書いてあって、その写真が貼ってありました。
亀形というより便器のようです。
そしてこれは所謂『亀石』ではありません。

お金が要るのなら、入場は辞めておきました。
確か30年ぐらい前に来たときは、お金を払うようなところは無かったと思います。

のどかな田んぼ道を引き返していると、チッチ・チッチと鳴くので、ふと見上げるとメジロがいます。       




メジロは保護鳥です。捕ってはいけません。
でも撮ってもいいんですよね。

       

酒船石のある竹林です。




今度はヒバリ、カメラを向けると飛んでいきはしませんでしたが、鳴くのを止めてしまいました。

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飛鳥寺

2008-02-28 05:50:00 | 
飛鳥神社から南西に向かって歩くと(南西方向に道が付いているわけではありませんが)飛鳥寺に行くことが出来ます。

       

おっと、日の丸が・・・行った日は建国記念の日だったのでした。
建国記念日など信じてないけど、休みやからね。
この日は2日前の雪とうって変わって暖かく、のどかな飛鳥路でした。

     

この飛鳥寺は蘇我馬子が物部守屋との戦いに勝った時に建てたお寺だそうで、本尊飛鳥大佛は1400年の歴史を刻んでいるといいます。

でも拝観料が要ったので、観ませんでした。

            

この鐘楼、みんな上がってゴ~ン・ゴ~ンと鳴らして行きます。

       

『上は有頂天より下は奈落の底まで、響けよかしと念じて静かに一度』と書かれています。それで皆さん撞いていかれるんですね。

       

こちら思惟堂、厩戸皇子が何か考えていた所なのでしょうか?

       

思惟堂に飾られてた絵馬、ナウいですね。

監視カメラが私を見てました。

       

飛鳥寺の裏から甘樫丘の方に50mほど歩くと、蘇我入鹿の首塚がありました。
ここで殺されたわけでもないのに、皮肉なのでしょうか?

       

ここは飛鳥寺の西門があったところ、まぁ民家も建ってることやし、再建はしないんでしょうね。

     

       

何故か今は柱跡などが埋められ、更地になっています。

       

山門がないせいか、こちらから観るとお寺には見えません。

ここであの大聖勝軍寺で悩んだ件が・・・この飛鳥寺、宗派がありません。

でも本当に宗派は無かったのか?今度訪れたら誰かに聞いてみよう。

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飛鳥坐神社

2008-02-27 05:10:00 | 
この神社の案内板が見当たらないので、いつ頃からある神社なのか判りません。
飛鳥坐(あすかにいます)という名前からして、古い神社なのかも知れません。

       

小高い丘の上にあるので、古墳の上に造られた可能性もあります。

       

神社の見方がよく解っていない私、ここの祭神が何なのか全く判りません。
本当は飛鳥坐と神社の間に何か言葉があるのかも知れません。

       

目と口があるようにも見えますが、何のつもりなんでしょう。

       

こんな神石もあり、一応『むすびの神石』と説明があり、解るような気もします。

       

神楽でもする舞台のようです。
軒下に雪が残っていました。

       

本殿の周りにはこのような祠を祀ってあります。

     

民俗学者の折口信夫は、この神社の88代宮司の六男が祖父なんですって。
祖父の故郷をよく旅して、詩歌をよく詠んだようです。

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飛鳥水落遺跡

2008-02-26 05:00:00 | 
甘樫丘の駐車場を出て、何処かエエ駐車場は無いかいな?と思っていると、明日香村埋蔵文化財展示室という広いスペースのある所があり、有料とは書いてないので気兼ねなく停めることにしました。

実は甘樫丘の駐車場は1日500円要ったのですが、誰も徴収に来ないのでタダで停めておいたのでした。

       

埋蔵文化財展示室は見ないで、その辺をウロウロ、まずこの飛鳥水落遺跡というのがありました。
後ろの平屋建ての建物が埋蔵文化財展示室だろうと思います。

       

天智天皇は律令国家体制を求めるべく、この水時計を作って都の人々に時間を知らせました。
当時は宮に出仕するのは夜明け過ぎから昼ぐらいまで、『だいたい』でしたから、水時計といっても各家にあるわけでもなく、ここから鐘を撞いて知らせたのでしょうから、時間に縛られるという観念はこの時代から始まったのでしょうね。

ここから飛鳥坐神社を目指しましたが、途中でエライもんを見つけてしまいました。

       

トラックがこけてるやん!
こかしてるのか?

       

いやぁ、完全にこけてると思います。
風が吹き付けたのか、車がぬかるみにハマってバランスを崩したのか、判りませんが、倒れた先が人家で無くてよかったです。

       

トラックには誰も乗ってなかったのかなぁ?

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伝飛鳥板蓋宮跡

2008-02-25 05:00:00 | 
甘樫丘を降りて、皇極天皇が居たといわれる飛鳥板蓋宮<あすかいたぶきのみや>のあった処に行ってみることにしました。

       

甘樫丘には2日前に降った雪が、所々に残っていました。
蘇我入鹿は皇極天皇と恋仲になり、自分の館から常に見下ろせる処に板蓋宮を作らせ、天皇を住まわせたのでした。

       

なるべく人が写らないようにと思うのですが、なかなか退いてくれそうもありません。

蘇我入鹿はこの板蓋宮で、百済や新羅・高句麗の使者と会うという皇極天皇の勅により参内し、中大兄皇子(後・天智天皇)や中臣鎌子(後・藤原鎌足)によって誅殺されたのでした。
これを乙巳の変と言います。

     

皇極天皇はこの板蓋宮が気に入っていたらしく、目の前で恋人の入鹿が切られたのにも拘らず、その後もずっとこの宮に住んでいたということです。

この案内板にはそういったことは一切書かれていませんが、かなり古いので何が書いてあるのかよく解りません。立て直して欲しいと思いました。

       

板蓋宮は当時としては珍しく、字の如く屋根を板で葺いた館でした。

板蓋宮から眺めた甘樫丘です。

       

丘の右端に立っている2本の木の辺りが、広場のあった処ですね。

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飛鳥へ

2008-02-22 05:40:00 | 
大聖勝軍寺を後に飛鳥へと足を伸ばします。
柏原市辺りの大和川です。

飛鳥に宮があった頃、瀬戸内海を経由する交易は、大和川を使って途中の亀之瀬と呼ばれる大きな岩のある所まで船で上り、そこから小舟に乗り換えるか、陸路で飛鳥に向かっていました。

今でこそマシな河川になりましたが、一時ワースト1の汚染度で大阪人をがっかりさせたのも大和川でした。

       

この山が二上山、奈良側からの眺めです。
天武天皇の後継を巡って草壁皇子と争って負けた大津皇子の霊が眠っていると言われます。

       

甘樫丘の西を流れる飛鳥川、石舞台の方から流れてきます。

       

ここに書かれているように、蘇我蝦夷と入鹿は飛鳥の宮を一望に出来るこの丘の上に館を建てたのでした。
天皇家を見下ろす・・・こんなところにも蘇我氏親子の権力欲が伺えます。

       

もちろん7世紀半ばにこのような階段は無かったに違いありません。

       

頂上から北を眺めると、丁度この写真の真ん中に三角形の山がポツンと見えるのが、天香具山です。

       

こちらは東側一帯です。こちらに飛鳥の宮があったのではないかと思います。
小さすぎて確認できませんが、飛鳥寺が写っています。

もう少し右にあたる所に板蓋宮跡があります。

     

頂上の広場にあった銅版に書かれた地図、写真では何を書いてるのかよく判りませんね。

       

丘の南へ通じる道、時間が無かったのでこれ以上は進みませんでした。

       

志貴皇子が藤原京に遷都したことを悲しく思った詩、最後の孝書とは犬養孝という人の手によるものなのだそうです。

犬養氏は大阪大学の名誉教授で、明日香村の名誉村民、万葉集の風土民芸学的研究を行い、全国の万葉故地保存に尽力した人だそうです。

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本泉寺

2008-02-21 05:00:00 | 大阪にて
JR伊丹駅と産業道路の間に本泉寺という日蓮宗のお寺があります。

このお寺も頑丈な柵を施してあり、中に入ることはできません。

       

何故こんなにも閉鎖的なお寺が多いのでしょう。
不思議な感じがします。

       

正面に案内板があり、楠公の墓があるそうな。
河内の悪党であり、神戸湊川で討ち死にした楠正成の墓が何故この伊丹の地にあるのか、それも不思議です。

そしていくら右に誰某・左に何某と説明されても、入れないのでは意味がありません。

       

こちらは本泉寺の裏側、お城のような感じがします。

ところがここはJR伊丹駅から西へ向かうメインストリート、本泉寺はみんなが通る道に背を向けていることになります。

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法巖寺と正善寺

2008-02-20 05:40:00 | 大阪にて
JR伊丹駅の西側、白雪や老松の酒造会社から岡田家住宅がある一帯を旧伊丹郷町と呼んでいますが、その一角に二つのお寺が並んでいます。

            

この寺の楠も大きな樹です。

       

重要文化財ですから、当局から補助金が出ているものと思うのですが、このお寺は入ることも許されていません。

       

重要文化財の楠は「塀の外から拝んでおれ!」という態度です。
市民の税金が使われているのですぞ(私は払ってるわけではないのですが)。


       

門の外からはこの程度しか中を窺うことができません。

       

特別室でしょうか、お地蔵さんは見せてくれるようです。

       

隣の正善寺、ここも入れないよう扉を閉めてあります。
       

幼稚園も併設しているようですから、入れないようにしているのは納得できます。

            

南無阿弥陀佛のいわれを説明してくれていますが、「なむあみだぶつ」と唱えることで極楽浄土に行けることとの関連がもう一つ解りません。

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大聖勝軍寺 Ⅱ

2008-02-19 05:00:00 | 大阪にて
聖徳太子はどうやら私たちの年代の者が歴史で学んだ名前であり、最近は厩戸皇子と呼ぶのが正当だそうな。
つまり、720年に完成した日本書紀が十七条憲法や聖徳太子という名を創造したらしく、後の人が作った名前よりも生前呼ばれていた名前を使う方が正しいということになったらしい。

だから私もこれからは、聖徳太子と呼ばずに厩戸皇子と呼ぶことにします。
厩戸皇子の曾祖父は蘇我稲目です。

だから蘇我氏と厩戸皇子は親しかった。
だけど厩戸皇子の子・山背皇子は、稲目の曾孫・入鹿によって殺されてしまいました。

『和を以って 貴しと為す』は十七条憲法の第1条の冒頭部でありますが、最初の字の『呂』のような字は何でしょう?

『以禮為本』は第4条の中に出てくるのですが、民を治める本(もと)は礼にあると説いた条文です。

冠位十二階は6つの位階に大小をつけて十二階としたのですが、礼は上から5~6番目の階位です。

            

大きな樹の下に祠らしきものが見え、近寄ってみると祠の中に厩戸皇子らしき像が座っていました。
でも逆光でよく見えませんね。

       

写真上部の額が切れてしまっていて、何と書いてあるか判りませんが、『神妙椋樹』と書いてあるのです。
 
       

後ろに回って、やっと判ります。
       
       

そうここは、仏教擁立派の蘇我馬子と古来から敬神派の物部守屋が激突した地らしく(らしくと書くのは守屋が稲城を築いたと言われる渋川はこの地よりずっと北方にある)、守屋の軍勢に取り囲まれて絶体絶命の窮地に立たされた皇子は、椋の大木が真っ二つに裂けたことにより、九死に一生を得たとウソみたいなことが書かれています。

       

おまけに守屋の首を洗ったとされる守屋池まで造ってしまっています。

       

不動明王、不気味ですねぇ、怖いですねぇ。

       

門の外にも厩戸皇子の立像です。皇子の像が好きな寺です。

       

お寺を出て国道25号線を東へ50mほど歩くと、物部守屋の墳墓がありました。

       

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大聖勝軍寺

2008-02-18 05:00:00 | 大阪にて
先日、聖徳太子古戦場の件で投稿しました。

3連休の最後の日でしたが、早速どんな所か確かめに行って来ました。

       

家から車で30分程度でしょうか・・・信号が無ければもっと早く着けると思うのですが、やたらと信号が多く、普通に走っていると信号2~3ヶ所毎に停められてしまいます。
そういう風に作ってあるんですね。

上は道路から見た写真ですが、聖徳太子古戦場の文字がやたらと目立ちます。
その上は佛法元始と書かれています。
あくまで日本でのお話、仏教の祖はお釈迦様なのであります。

       

ここは正式には『大聖勝軍寺』、真言宗のお寺です。
お寺にしては勇ましい名称で、何となく聖徳太子には似つかわしくないように思います。

聖徳太子開基、推古天皇勅願所の文字が見えます。

右の看板は太子堂、全国にいくつもあるのだろうと思います。
上には佛法最初・・・最初と元始はどうちがうのかな?

       

真言宗なので弘法大師の像が置かれているのでしょうが、どうも疑問に思うのです。

聖徳太子や行基の頃には、仏教に宗派はありませんでした。
ところが昆陽にあった行基建立と言われる昆陽寺も今は真言宗のお寺になっていました。この寺も真言宗になっています。
法隆寺は聖徳宗というような聞いたことも無い宗派でした。

聖徳太子が開基ならば、その聖徳宗でもいいのではありませんか?
何故宗派を変える必要があるのか?

        

お寺から言えば、信徒が集まらないと成り立っていかない。
宗派から言えば、沢山の我が宗派の寺を建てることで、勢力を増す。

そんな相互関係があるのかも知れません。

            

ところが四天王寺は法隆寺とともに聖徳太子が建立した寺として有名ですが、既存の宗派にこだわらない全仏教的な立場で和宗という名称になっています。

四天王寺は私の家からでも自転車で行ける距離ですが、まだこのBlogには登場していません。

和宗にしても○×宗とある限り一宗派になってしまうのです。

○×宗と冠の付かないお寺は、この日本には皆無なのでしょうか?

       

こちらは暗くて判りませんが、毘沙門天を祀ってあります。

       

本堂。
1・2枚目の写真には東大寺の金堂の屋根に似た金の角が見えますが、こうやって近づくと後ろは見えません。
新しくお堂を造っているとのことですが、結構離れた所に建てているんですね。

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