ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

家原寺

2014-06-30 05:00:00 | 大阪にて

営業職をしていた頃、あちこちで見かけた行基の像、行基の生誕の地が堺の家原寺町であることは知っていましたし、その街に家原寺があるのも知っていましたが、なかなか訪れる機会もなく、先日大鳥大社を訪れた際に帰ってから地図を見ていたら、近くに家原寺があることに気付き、どうせ大鳥五社のうちの残り三社を訪れるのですがら、その際に寄ってみようと思っていたのでした。

             
                              山門(仁王門)
大鳥北濱神社を見つけることが出来ず、諦めて家原寺を目指したのですが、方向だけ分かっていて、後は勘に頼って走っていると、急に大鳥大社の前に出てしまいました。浜寺元町からずっと東へ走っておれば良いものを、途中鳳小栗街道という信号で南に曲がってしまい、何処かから熊野街道と書いてあった道を走っていたことになります。

                       
                              有料ですが、料金の徴収場が無いので、任意のようです。私はちゃんと200円を払いましたよ。
「しまった!」と思ったけど、その時点では未だどちらに向かって走れば良いのか分かっていました。阪和線のガードを潜った辺りでお腹が減ってきて、時間を見ると12時前でした。でも適当な食堂も無いし、そのまま走っていたら目指している津久野1丁目の信号がなかなか見つからず、そりゃそうです、思い違いして道を間違っていたのでした。方向としては合ってるのですが、広い道としては2本も西を走っていたので、おかしいと思って、左方向に走り出した時には、もう家原寺への道を過ぎてしまっていたのでした。

                    
                    仁王さんは外を向いているのではなく、互いに向き合っています。行基の像は建っている所によって顔や姿が違いますね。
私は高校生の頃、堺市に住んでいましたが、ずっと南の方、大阪狭山市と隣接している北野田というところ、学校は大阪市内だったせいか、堺市の地域については殆ど知らないので、おまけに通学・通勤には南海高野線を使っていたので、今回の阪和線沿線である毛穴町、堀上緑町、八田寺町という住宅街に入ってしまった折には、もうどっちを向いて走っているのか、さっぱり分りません。

             
                              板塀の向こう側が中院
更にUP・DOWNが激しくて、自転車ではきつい、だんだん疲れてきました。どうしたら良いのかと思って呆然としていると、思い出しました。私には便利なツールが有ったのです。スマホ、音声検索で「えばらじ」と発声すると、なんと荏原寺というお寺が検出されたので、今度は「いえはらてら」と唱えると、出てきました。現在地からは案外近い所に有るのですが、自分がどの方向を向いているのか分からないものですから、地図を見ていても分りません。前回、方違神社を探すのに迷った時は、自分がどちらに向かっているのかが分かっていたのです。

             
                               一願不動明王を祀る護摩堂
地図を頼りに少し走ってみてもやっぱり判らないので、じっとスマホを見ていると、“ナビを開始”というボタンが有るのに気付き、タッチするとナビが開始されましたが、自転車ですからずっと見ているわけにはいきません。時々見るとナビのように案内しています。ようやく家原寺に着いたのは1時前、間違わなければ大鳥大社からでも5分ぐらいで来れたところだと思います。

         
                  行った時のハスはあまり咲いていませんでした。蕾が多かったので今日以降ぐらいが良くなってるかも知れません。
行基という坊さんは、飛鳥から奈良時代にかけて、お寺もたくさん建てていますが、灌漑用の池を作ったり、橋をかけたりして活躍し、人民の為に尽くした人で、空海などよりも私は偉い僧だと思います。

        
                             薬師堂の手前の大木はヤマモモ、真ん中のトイレのような建物は経堂、右は東門です。
空海は貴族・天皇家などに仏教を説き、宇多天皇に寵愛されましたが、行基は仏教の民間布教に専念し、僧尼令に違反したとして朝廷から弾圧を受けたのでした。同じ仏教を広めるにしても全く逆な立場の二人ですが、生きた時代は違います。行基の方が古いので、行基は空海の事を知りませんが、空海は行基のことを知り得たので(知ってたかどうかは判りませんが)、知ってたとしたらどう思っていたのでしょう。でも家原寺は高野山真言宗の別格本山になっているのです。

             
                              地蔵堂
思っていたよりも広い境内ですが、大戦後の農地改革で敷地を大幅に減らしたそうです。それでも2万坪もあるようですが、板塀の向こうはどのようにして行くのか分りませんでした。

       
                              池の端に建つ観音像、横に咲いていたのは花菖蒲
三重塔にも行きたかったので、一旦門外に出て、駐車場があるという左側の方へ行ってみたのですが、案内板に書かれていた信号を曲った途端、上り坂になっていて、もう体力の限界と諦めて帰ったのでした。

             

この板塀の何処かに中院への入り口を作ってくれたら良いのにと思います。でもこの板塀は昔からあるものではなさそうです。

20分弱散策して、府道30号線所謂熊野街道を北上して帰りましたが、疲れ果てて走っている感じ、途中までは思い出せない道でしたが、大仙古墳の辺りまで来ると見たことある風景、堺東駅の前を通り、大和川を遠里小野橋で渡ったら、だんだん東へ斜め向いて行く感じ、松虫通りの手前で西に曲がって、家まで相当時間がかかったのでした。

大鳥北濱神社

2014-06-27 05:00:00 | 大阪にて

昨日は多くの写真を載せ、長い文章を書いたので、今日はその反動です。以前なら昨日の南宋寺の記事の量なら、2回に分けて書いてネタを引っ張ったものですが、あまりネタも無いくせに1回で終わってしまいました。

タイトルに大島北濱神社などと書くと、写真の鳥居がその神社かと思ってしまいますが、実はそうではないのです。南宋寺の総門へ帰る途中、右側にある駐車場の片隅に鳥居と祠がチラッと見えたので、行ってみようと思ったのですが、その辺りからは駐車場へ通じるような道はなく、一旦自転車まで戻り、コの字型に走って駐車場までやってきました。

             

途中、少林寺施設所という閉鎖された建物があったので、よく見てみると幼稚園か保育所のような雰囲気の建物でした。保育所が足りないと言われて久しい昨今、こういう施設を放っておくのは勿体ないと思います。

             
                            鳥居の両側に置かれている比較的新しい唐風狛犬

この神社、地図を調べても何と呼ばれている神社なのか載っていません。勿論、神社の周りにも案内板は一切ありませんから、何も書きようがないので、さっさと切り上げ、東に見えている高架下の道路を南下することにしました。この高架上の道路が第二阪和国道、26号線です。高架下の道路を走っても、何処まで繋がっているのかは分らない状況で走ったのでした。道幅は狭いですが、一応ずっと高架下を走っていけましたが、石津川の手前で堤防に上がるための階段が有り、押して上がらなければならない事態になってしまいました。堤防に上がり橋を渡ると、さぁ今度は何処で降りたら良いのか分りません。川に沿って暫らく海の方へ走りましたが、降りれるところが無いので、元に戻って危なそうなヘアピンカーブの坂を下ったのでした。私の自転車はもう5年以上乗っていて、ブレーキの効きが悪くなっているので、ブレーキシューも摩耗しており、ワイヤーもいつ切れるかとビクビクしながら走っているのです。

             

目的の大鳥北濱神社は浜寺元町2丁にあると書かれていました。26号線を南下すると浜寺元町2丁の角で出逢うようになっていて、丁度角には八剣伝という居酒屋があるので分かり易く、東西に5本の道路、南北に2本の道路で区切られたごく小さな街です。5本の道を縫うように走ればすぐに探索は終わりなのですが、何処にも神社自体が有りません。おかしいなと2回も回ってみましたが、やはり神社は有りませんでした。大鳥北濱神社を探すのは諦めて、家原寺を探しに走り出したのでした。


南宋寺

2014-06-26 05:00:00 | 大阪にて

先週の水曜日、18日に都議会で起こった「早く結婚しろよ」等のセクハラヤジ事件、5日間経った今週の月曜になって鈴木某議員が自分が発言したと詫びを入れたようですが、事件直後の記者会見では「自分が言ったのではない」「(議員を)辞職すべきだ」と言っていたのに、自民会派を離脱しただけで済まそうとしています。他人事のようにウソを言い、他人なら辞職を当然視しながら、自分のこととなると言ったこととは正反対の行動を取るような人物が、よくもまぁ都議会の議員になれたものだという思いです。この人物、右翼団体『日本会議地方議員連盟』の正会員、2年前の8月に上陸禁止の魚釣島に立ち入ったとする軽犯罪法違反容疑で警察に事情聴取されてもいます。他にも「子どもが産めないのか」とヤジった議員もいるとか、サッサと名乗り出るべきだと思いますが、右翼って“お国の為に死ね”という感覚でいると思っているのですが、違うのですかね?国の為に犠牲になる覚悟を持つ人が(別にそれがエライと思ってるわけではありませんが)、自分の事となると庇ってしまうなんておかしいですよね。次の都議会選挙では大田区民の動向を注目したいものです。

             

デジカメのバッテリー残量が気になりながら、頓宮の東の道を南へ走り出しました。途中左手に少林寺というお寺があったので寄ってみようかと思ったのですが、あまり大きなお寺では無さそうなので、気を取り直して南へ進みます。少林寺は中国のカンフー映画でお馴染みですが、堺市では町名にもなっているお寺です。そのまま南下していくと突き当りになりそうだったので、左へとハンドルを取ると大きなお寺があるので、そこで停まると『南宋寺(なんしゅうじ)』と何処かで聞いたようなお寺の名前、気になったので入ってみることにしました。

       

総門を潜ると前は真っ直ぐな道、左右は墓地です。その先に見えてきたのが『甘露門』国指定の重要文化財ですが、道脇にあるので門の役目は果たしていません。そして徳泉庵というお寺がありましたが、中には入れません。

             

これが甘露門、角度を変えて撮りました。1652年の建立とか。

                       

南宋寺は臨済宗大徳寺派の禅寺で、三好長慶が父・元永の菩提を弔うために1557年に建立、大坂夏の陣(1615年)で焼失、1617年沢庵和尚によって再建された三好氏の菩提寺です。これから三好長慶の坐像を建てるなんて、遅いですね。

       

石畳を歩いていくと橋がありますが、水は流れていません。その先に紅葉したモミジ、季節感がずれてしまいます。鐘楼の前では写生している女性がいました。そして海会寺というお寺、ここも入ることが出来ないのです。大坂の陣の元となった方広寺の鐘銘を書いた文英清韓もこのお寺の住職でした。

             

やっと南宋寺の字が見えてきました。ここまで来るのに写真を撮ったりしていますが、10分かかっています。手前の『第一義』と刻まれた碑は、どういう意味を持つのでしょうか。

       

南宋寺に入る前に鳥居があったので、神社かと思ったのですが、違っていました。鳥居の手前に天慶院というお寺、鳥居の奥は本源院というお寺でした。どちらも入ることが出来ません。

                       

本源院の山門の前には『織田信長・信忠公供養塔』と書かれた板が立てられていました。

             

幾つかあったお寺の中で中に入れるのは南宋寺だけ、でも入るとお墓ばかりで、写真を撮っても仕方ありません。この時は全く知らなかったのですが、拝観料400円を払うと国の名勝に指定された古田織部作と言われる枯山水風の庭園や、徳川家康のものと言われる墓、千利休一門や武部紹鴎の供養塔、三好一族の墓などが有る本坊に入れたと言います。これはもう一度訪れなければなりますまい。

             
                              山門を潜ったところに有った禅堂

徳川家康の墓というのは、大坂夏の陣で真田幸村勢の奮闘に恐慌状態に陥った家康は自害すると言い出したのですが、部下に誡められ、駕籠に乗せられて逃亡中、後藤基次(又兵衛)が家康の駕籠を槍で突き刺し、重傷を負った家康は堺まで運ばれてきた時には死んでいて、南宋寺の開山堂の下に隠し、後に改葬したと伝えられている説が有るのです。

             
                              国指定重要文化財の仏殿

秀忠・家光の両将軍が立て続けに南宋寺を訪れているのも、ここが家康最後の地だった証しなのかも知れません。

             

それが事実なら、家康が死んだと言われる夏の陣の翌年まで、誰かが家康の影武者を演じていたことになります。家康の影武者と言えば昔こんな本を読んだことがありました。でもこの南宋寺の話とは別設定でした。

             

元来た道を戻っていますが、南宋寺の壁に向かった石畳が有り、その道を辿ってみると唐門が有りました。これも国指定の重要文化財です。この写真ではよく分かりませんが、屋根瓦と屋根の下の丸い紋には徳川家の紋所である『丸に三つ葉葵』が描かれています。

             

案内板によるとこのお堂が方丈なのかも知れません。でもやけに新しいのが気がかりで、歴史が感じられません。

南宋寺どころか、この辺り一帯は大坂夏の陣の際に焼失してしまいましたから、家康の遺骸を隠したというのは少し無理な話だと思うのですが・・・デジカメのバッテリーの残量を示す電池のマークは赤く点滅を続けているのですが、未だ写真は撮れるようです。

大鳥井瀬神社

2014-06-25 05:00:00 | 大阪にて

大鳥大社へ行った時に大鳥五社というのがあるのを知り、ついでやからと甲子園で雨に降られた翌日は晴れと言うことだったので、再び自転車に乗って堺を目指しました。目的地は先ずは宿院の大鳥井瀬神社、次に浜寺元町に有るという大鳥北濱神社、大鳥大社の近くに家原寺が有るというのでそのお寺、そして羽衣の大鳥羽衣濱神社です。4ヶ所も回るので朝9時には家を出たのでした。

             

今回は国道を通らずに、紀州街道で南下、国道は信号の度に停まらなアカンし、そこに段差が有るのでガタンガタンと鬱陶しいのです。紀州街道を南へ走って行くと昔勤めていた会社の堺支店が有りますが、営業業務をしていた1階は和菓子屋になっていました。電話のことなど少しも知らなかった私は16年前にその堺支店で2週間ほど電話の勉強をさせられ、116の仕事をするようになったのでした。そんなことを思い出しながら走っていると、宿院の交差点に到着です。

                    

宿院の交差点から東の方を見ると、車道の中に常夜灯が2つ建っているのが見えます。随分前からこの常夜灯が有るのは知っていましたが、刻まれている字を読んだことがありません。今回自転車を降りて何と書いてあるのか写真を撮っておきました。左右とも同じことが書かれ、上から永代常夜灯、左海、たも(む)こ、包丁鍛冶と読めますが、この位置からだと左は海ではありません。左は大阪方面であり、海は私のいる方、手前です。だからこの常夜灯は何処からか運んできたものと思われます。堺のものだとすると、大阪方面を背にして建っていたことになります。

右の写真は宿院交差点より一つ東の交差点、ここにも石碑が建っており、大鳥・住吉両大社頓宮と彫られています。ここにその頓宮とやらが有るのです。

             

大鳥井瀬神社が有るのは宿院町東2丁と書いてありましたから、このお宮の一帯にある筈ですが、何処を探しても他に神社は無いのです。なので大鳥と名前が付いているのでここが大鳥井瀬神社なのかと思うのですが、どうも納得がいきません。

             

境内には兜神社蹟の石碑が建っています。兜神社とは神功皇后が三韓征伐から堺に帰ってきた時、兜を埋めて戦勝を祝った場所に建てられた神社ですが、そんな事実が有るわけないので、きっと神社自体は何処かに作為的に造られたのでしょうが、この神社の境内ではない筈です。

             

神社の西側は宿院公園という公園と隣接していて、ちょっとした遊具と共に『白夜の兎』群像という彫刻が置かれていました。

               

宿院公園の中にまたまた鳥居が有り、ここは飯匙堀(いいがいぼり)と言われる堀が有ったところと言われていますが、ここに海幸・山幸神話に登場する『潮干珠』を埋めたところで、どんなに雨が降っても水が溜まらないという伝説があると言います。公園の西の外側にも飯匙堀の石碑が建った鳥居が有りました、丁度公園内の鳥居の裏にあたります。

              

公園の東側の外側に有った堺市議会開設百周年の記念碑が建っていましたが、いつ建てたのか書いてないので、堺市議会が初めて開かれたのがいつなのか分りません。写真を撮って歩いているとバッテリーの赤信号が点り始めました。これでは遠くへ行っても証拠写真、ネタに使える写真が撮れません。

雨の甲子園

2014-06-24 05:00:00 | スポーツ

9日に行ったホークス戦、この日は雨が降ると言う予報が出されていたので、帽子や折り畳み傘を持って行ったのに結局雨は降りませんでした。18日も甲子園へ行く予定、天気予報はまたしても雨だったのですが、早朝に降ったらしく、モモの散歩に行った時は道が濡れていましたが、雨はもう止んでいて、それからずっと曇りの時間が続いていました。マンションから六甲方面を見ると、黒い雨雲は有りませんが、空が白っぽく六甲山も見えていません。念のために防水の帽子と折り畳み傘をカバンに入れて用意をしておきました。9日は4時に家を出ようとして少し遅くなったので、この日は3時に家を出ることにし、阪神電車に乗って尼崎駅に着いたころから雨が降ってきました。まぁ走っている電車の窓に当たる雨はすぐに消えていくぐらいの降りで、これで試合が中止になることはないだろうと思って甲子園駅で降りたのでした。

 

今回は時間があったので、駅を降りてすぐのダイエーで買い物をするのではなく、甲子園球場を越えて、ららぽーと甲子園内にあるイトーヨーカドーまで行って肴を物色しました。どっちみち席は外野だったので、入場門に近いららぽーと甲子園の方で買い物をしたかったのです。ダイエーよりもイトーヨーカドーの方が売り場が広いし、駅からは遠いので客もごった返さないので好きなのです。でもららぽーとから出てくるとかなりの雨が降っていたので、帽子を防水用のものに被り直しました。

       

5時前に入場、未だタイガースのバッティング練習をやっていて、先発メンバーも発表されていません。それから守備練習があり、セレモニーがあって、6時に試合開始です。レフト側の日ハム応援スタンドはあまり人が入っていません。雨はきつくなったり、緩くなったりで、カッパを来ている人も見かけますが、私は傘を差すほどではないと思っていました。

             

日ハムのキャラクターの名前は知りませんが、こんなんやと初めて知りました。北海道へも九州へも試合など観にいけませんから、おそらく生で見るのは初めてかも知れません。あんまり可愛くないですね。

             

先発はタイガースが岩田、日ハムは大谷でした。両方とも調子はまずまず、大谷の方が調子は良かったみたいです。なんせ私が帰ろうとした8回裏まで四死球なし、ヒットは6回ツーアウトから1本打たれましたが、そのランナーは盗塁死で、要するに8回まで1イニング3人づつの24人で退けていたのです。

       

一時は傘を差さなければならないほどの雨に見舞われましたが、7時過ぎには雨も上がり、空もピンク色に染まり出しました。9回はピッチャーが交代したらしく、大谷の完投、完封は無かったようですが、ピッチャーである限り先ずは完全試合、それが叶わなくなればノーヒットノーラン、次に完封勝利を目指していると思うので、続投でも良かったんじゃないかと思いますね。

帰路

2014-06-23 05:00:00 | 大阪にて

先週の土曜日は夏至、日の出が1年のうちで一番早く、日の入りは一番遅い日でしたが、一日中曇っていて太陽は観れない夏至の日でした。昨日から徐々に日照時間が短くなり、冬至まで明るい時間が短くなっていくので寂しさ、虚しさが増していくのですが、実際にはこれからが夏本番、涼しさを感じるころになるまで楽しい日々が続けばいいなぁと思っています。

大鳥大社は堺のJR鳳駅の近く、鳳って遠いと思っていたけど、自転車で来れる程度ですから、思っていたより近くに感じました。与謝野晶子は堺の生まれ、生家は堺の宿院の近くに有りますが、大鳥大社の境内に歌碑が有りました。“和泉なる わがうぶすなの大鳥の 宮居の杉の青き一むら”と与謝野晶子倶楽部(こんなクラブがあったなんて知らなかった)の名誉会長の田辺聖子による筆、会長の難波利三による案内板が設置されていました。

             

30分ほど散策して12時近くになったので、そろそろ帰ることにしました。大鳥大社の前の南北の道、大鳥大社前の信号がある道なのですが、熊野街道の標識が有りました。どうやら谷町筋、あべの筋と繋がっている府道30号線が、大鳥大社の手前で府道30号線から分岐し、と言うよりは元々大鳥大社の前を通る道が熊野街道だったのを、府道の方が熊野街道を何処までも辿らずに新しく道を造ったのでしょう。この街道は鳳駅の近くを通り再び府道と繋がりますから、きっと熊野街道も府道に戻るのでしょう。

             

来た道を戻ると第二阪和国道と呼ばれる国道26号線と交わりますが、ふと堺から自転車でもこの道を利用してここまで来れるのかと疑問を持ちました。国道26号線は宿院の東で右折し、高架に上り阪神高速と吸収されますが、勿論併合すればもう阪神高速ではなくなりますが、自動車専用道路なのです。でも高架の下を辿る道があればここまで来れるわけです。

                       

26号線まで戻った時はもう12時、何処かで昼ご飯を食べようと大阪方面を見ると、九州のうまいもんという看板に惹かれて、ちょっと寄ってみました。寄ってみただけでここで食べようとは決めてなかったけど、時間も無いことですし、ここで食べることにしました。私は朝食が早いので、昼食も11時半ごろには済ませたい生活を送っていて、12時にもなると夕食の時間の調節が難しいと思っているのです。

             

店に入ると靴を脱いで座敷に上がるようになっていて、たいそうやなと思ったのですが、入ってしまったのですから仕方ありません。サンダルなので靴を脱ぐような手間は要りませんが、昼食ぐらいなら履いたままでカウンターに座って済ませたいのです。店は女の人が二人で切り盛りしていて、あまり客が入ってくる様子がありません。厨房ももちろん女の人で、私の着ている服を見て、「涼しそうですね、夏みたい」と言ったのでびっくりしました。私はもうすっかり夏だと思っていたのでした。

             

ブログでは先に浜寺公園を案内しましたが、実はこの後浜寺公園に寄ったのでした。その後一路北へ向かう訳ですが、大浜北の信号まで来ると、このような店が南東角に有ります。もうかなり前からこの看板を掲げたままです。大浜北の信号は私が串本に行く時、帰って来る時、湾岸線に乗り降りするときに曲がる交差点です。

             

“お米のことしか知らない米屋”って、そんな馬鹿なことがあるでしょうか。以前から思っていることですが、ホントにそうなら、そんな米屋でお米を買いたくありませんよね。

菖蒲苑

2014-06-20 05:00:00 | 大阪にて

大鳥美波比神社から戻ろうと参道を西に向かって歩き出すと、左側に囲いが有り、扉が開いたような状態になっていたので、近寄ってみると“菖蒲が見ごろを迎えています。火気厳禁・・・”と書かれていたので、ラッキーと思って中に入ってみました。菖蒲の花が咲くのは5月下旬から6月中旬にかけて、大鳥大社にこのような菖蒲苑があるとは知らずに来たけど、たまたまたくさん花が咲いていて、タイミングが良かったなと思っています。

             

だけど、この菖蒲苑の菖蒲は「しょうぶ」なのか「アヤメ」なのか、どちらなのでしょう。どちらも漢字では同じ字を書くのでよく分からないのです。カキツバタも良く似ていますが、京都の太田神社へ見に行ったことがあったので、色が紫系の単色であり、少し短かったし、水辺に咲いていたので、ここの菖蒲が「しょうぶ」であれ「あやめ」であれ、カキツバタではないのは明らかです。

       

そこで帰ってから調べてみると、「しょうぶ」と読む菖蒲だけが、サトイモ科だそうで、一般に見かける菖蒲は花菖蒲なのだそうです。そして、花菖蒲もアヤメもカキツバタもアヤメ科アヤメ属で同じ系列の植物、なのでここの花は花菖蒲かアヤメと言うことになってきました。

             

咲いている場所でも区別できるそうですが、カキツバタは必ず湿地に咲くそうですが、アヤメは乾いた畑に咲くようです。でも花菖蒲はどちらでも咲くようなので、ここの乾いた畑に咲いているのは、やはり花菖蒲かアヤメということになります。

       

そこで花の特徴となると花菖蒲は花の種類が多く、紫系統や白や黄色いのもあるそうですが、アヤメは花の種類が多くないようで、これでここに咲いているのは花菖蒲であることが解りました。他に見分け方を調べていると、花菖蒲の花弁の元は黄色い目状の模様が有り、アヤメには網目模様があるそうです。

             

どれも花弁元に黄色い模様が有りますね。

             

来た時はこの看板に気が付きませんでした。この写真では判り難いですが、左端の行は“入苑料無料円”と書かれているのです。実は無料の箇所は一旦ホワイトで消してあって、下に薄く200と書かれているのが分かってしまいます。以前は入苑料として200円取られていたのですね。それにしても堺市の観光案内を見ると50種10万本と書かれていますが、10万本も無いと思いますよ。

大鳥大社

2014-06-19 05:00:00 | 大阪にて

大鳥大社へは浜寺公園南信号を左折して1本道だと覚えていましたが、信号の名前などすぐに度忘れするので、何処を曲がるのかと道が有る度に左を見ますが、何処も南海本線が走っており、なかなか踏切のある道が見えてきません。そのうち「ここやな」と思える道があり、周りを見てみましたが大鳥大社への標識はありませんでした。そんなに有名な神社ではないのかも知れませんが、阪和線から見える柱看板は大きなものですし、かなりの樹木が茂っており、広い境内なのは間違いありません。

             

10分も走らないうちに正面に大きな鳥居が見えて、ここが大鳥神社であることがすぐに判りました。写真を見て貰っても分るように参道の奥に社殿は見えていません。この参道を突き当たって右に曲がり、20mほど歩いて左に曲がります。遠いですが正面に鳥居と社が見えてきて、「エライちっちゃな社殿やなぁ」と思いながら進んでいたら、左方に大きな鳥居とその奥に社殿があったので、こっちが大鳥大社なのかとすぐに判りました。

             

お宮参りで写真を撮るためなのでしょう、ひな壇が設けられていますが、とても神域とは似つかわしくない代物です。

               

鳥居の両側には今年の春阿部野神社で知った小賀玉木(おがたまの木)が植わっていますが、阿部野神社で見た木よりもずっと大きな樹木でした。境内は約1,5万坪も有り、千種の森と呼ばれる森が四方を取り囲んでいます。

             

こちらは拝殿、何となく凛々しく見えます。ラッキーなことに参拝する人が殆ど居ませんでした。大鳥大社は日本武尊が死んだ後、白鳥になって飛び立ち、最終的にこの地に舞い降りたので神社を建てたというお話しから日本武尊を祭神としてきましたが、明治時代の考証で大鳥連祖神に変えさせられました。神社側としては不満だったそうで、昭和36年になって日本武尊を追加できるようになったと言います。

       

こちらが参道を2回曲った時に正面に見えた鳥居、大鳥美波比神社と書くそうですが、何と読むのか分りません。大鳥五社というのが有るそうで、大鳥大社とこの大鳥美波比神社がこの地、他に浜寺元町に大鳥北濱神社、羽衣に大鳥羽衣濱神社、ちょっと遠いですが宿院に大鳥井瀬神社が有るそうで、初めから分っておれば全部回ったのにと思っています。左側の写真は美波比神社の左に有った稲荷社です。

                  

境内の木々はあまり剪定されていないようで、折角の富岡鉄斎の筆による平清盛の歌碑もその案内板も隠れてしまって読めませんが、概ねこうです。平治元年、平清盛・重盛親子が熊野へ参拝の途中、都で兵乱あるとの急報を聞き、引き返す途中、大鳥大社で戦勝祈願した際に“かひこぞよ かへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ 大鳥の神”の和歌と神馬1頭を献じたと書かれているのです。真ん中の写真、こんな名前を付けて貰った人も居るんだと密かに笑ってしまいますが、慎太郎よりはマシかも知れません。参道を歩いていると大鳥大社の社殿の手前にある神馬像と、こちらも未剪定の葉が邪魔して正面からはよく見えない日本武尊像です。

ばら庭園

2014-06-18 05:00:00 | 大阪にて

2008年から2012年の5年間も法人税を払ってなかった世界のトヨタ、そんなトヨタが“増税もまた楽しからずや”というような広告を出したと聞いて、またビックリです。“楽しからずや”は決して“楽しくない”という意味ではなく、“楽しいことがあろうか→いや楽しい”と問いかけておいて強く肯定する意味です。税金を払ってない企業が、いけしゃあしゃあと口に出来る言葉ですかね、更にその口で法人税減税も要求しているのです。国税で一番滞納が多いのが消費税だそうで、来年の3月になれば、納税できない個人事業主が多くなることが予想されています。更に来年10月には消費税率は10%、地獄が見えて来るようです。

             

アメリカは特定企業の優遇策になるからと消費税は導入されていません。自由競争を何より重視する国としては導入できない税制なのだそうです。アメリカのお気に入りの国になりたい日本国、庶民いじめだけはアメリカとは違う方針を取っているようです。

       

もうそろそろ終期に近いであろうバラの庭園が公園の中央部に有ったので、気が進まなかったけど入ってみました。所々で作業をしている人が居て、バラの花の管理をしているのが分りますが、これは府の職員なのでしょうか。公園の管理運営者は大阪府都市整備部になっていますから、そんなことを考えたのでした。花を枯らしてしまっては大変ですが、府の職員としては、随分気楽な仕事です。山野の原風景をイメージした造りになっていて、ゾーン毎に名前が付いています。入り口から入って最初のゾーンが『まちの景』というところ、バラはあまり咲いていませんでした。

       

『湖沼・水路の景』というゾーンでは睡蓮がたくさん咲いていました。コイも泳いでいて、人が近づくと寄ってきます。

             

この辺りが『里の景』、緩やかな坂を登っていきます。

             

登って行くと水車小屋まで設置されていて、あまりきれいくはない水が勢いよく水車を回していました。一番最初の写真は『里の景』を登り詰めた『山間の景』。

       

一周廻ってここは庭園の西端で『海辺の景』、砂浜と共に伝馬船の廃船が置かれていて、なんとなく海辺という感じを与えていますが、そんなに広くはありません。

             

20分ほど散策して、入った時とは違う出口に出てきてしまいました。この門の横にパンフレットが有ったので、ここが入り口だったのかも知れません。そのパンフレットに『○×の景』の説明が載っていたのでした。

浜寺公園

2014-06-17 05:00:00 | 大阪にて

サッカーのワールドカップが始まった先週の金曜日、早朝から開催国ブラジル対クロアチアの試合が放送されたので観ていたら、モモの散歩が遅くなってしまい、どの犬も散歩が遅れたのかと思っていたのですが、そうでもないらしく、普段出くわす犬とは出会いませんでした。久し振りに青空が戻ったので、「今日こそは」と何処かへ行こうと思いながら、家に帰ってGoogleの地図を見ていると、電車に乗って串本へ帰る際に目にする大鳥大社が目に付いたので、ルートを辿ってみると、浜寺公園南という信号を左折して真っ直ぐ1kmほど走ると突き当りにあったので、これくらいなら自転車で行けるやろと思って、10時に家を出たのでした。

             
                              突き当りのレンガ色の屋根が浜寺公園駅
国道26号線を南下すると、南海本線の堺駅を越えたところからは、旧26号線は府道204号線に名称が変わっています。南海本線の駅名で辿ると、堺の次は湊、石津川、諏訪ノ森の次が浜寺公園ですが、思っていたよりも遠くて、家から1時間ぐらいかかってしまいました。

                    

浜寺公園駅から西へ歩くとすぐに浜寺公園なのですが、自分が若い頃と子供たちが幼い頃はよく浜寺プールに泳ぎに行ったものですが、もう20年ぐらいは浜寺プールには行っていません。駅からの道は昔はもっと狭く、両側に浮き輪とかジュースやかき氷を売る店が並んでいましたが、今は拡幅され両側の店も無くなってしまった模様です。

家から浜寺公園へは南海本線か阪堺線で来れますが、阪堺線は本数が少ないので利用した覚えがありません。阪堺線の浜寺駅前駅は終着駅で、ここより南へは行っていません。

             

浜寺公園に改めて入ってみると広い公園で、松が現在でも5000本以上生えていて、白砂青松の面影を残していて、日本の名松100選にも選ばれているそうです。

                    

公園の西端は浜寺水路になっていて、1年前にここで小型船舶の免許を取りに来たのを思い出します。水路の対岸は埋め立て地ですから、昔は浜寺公園の西はすぐに大阪湾だったようです。今は松が植わっている地域を浜寺公園としていますが、きっと昔はもっと南北に松が植わっていたことでしょう。

                    

一角には野球場やサッカー場も有りますが、芝生は植えられていません。金曜の昼だというのに野球の試合が催されており、審判も雇われているようで、何処かのリーグ戦かトーナメントをしているのでしょう。私たちのソフトボールは日曜でもなかなか人を集めることが出来ないのに、平日でも試合が可能なチームも有るんですね。と言っても私の若い頃の野球チームは職場で結成していましたから、日曜・祭日などに試合は無く、いつも平日でした。私たちは輪番勤務でしたから、試合をこなすために週休や夜勤に変わって貰ったり、2時間とか半日とか年休を取ったりしていました。勿論、会社の近くの公園での開催でした。

             

明治のころは公園内にも別荘が立ち並び、火災から守るために消火栓が設置されていたそうで、製造年度が残るプレートが一つだけ残っているようですが、残念ながらその数字が消えてしまって読めません。消火栓はあちらこちらにたくさん残っています。如何に公園内に別荘や料亭が建っていたかを窺わせます。

             

こちらが浜寺プールの一画、南紀白浜では5月3日だったか海開きをしましたが、大阪では未だシーズンに入っていません。なので未だ開門されていませんが、今はプールの掃除をやっているようです。こんな仕事なら私でも出来そうなのですが・・・