ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

しばし休憩

2010-02-15 08:00:00 | 大阪にて
先週の木曜日から釣りに行ってきました。

南紀地方は一日中雨の予報だったので、当日の釣りは諦めていたのですが、車を走らせても一向に雨の降っている所はありませんでした。

でもね、串本に着いた途端にパラパラと雨が降り出して、降ったり止んだりしていたものですから、釣りに出かけてしまったのです。

樫野に着いて、仕掛けを作ってる最中に本格的に雨になりまして、カッパのポケットに入れておいたデジカメに雨水が浸入してしまい、デジカメが壊れてしまいました。

次の日の朝はイガミでもと思い、阿野木漁港へ行ったのですが、海藻が生えているらしく、すぐに根がかりするので、諦めて樫野へ向かおうと思ったところで、2号の竿尻の蓋が無いのに気付き、辺りを探したのですが見つからず、釣りをするには支障は無いものの持ち運びが出来ないので、使用を中止せざると得なくなり、樫野では1、5号の竿を使いました。

この竿は近所のIさんが「いっぺん使こてみてくれ」と言うので、借りていったものです。

樫野は随分と先客がおり、私は一番端っこで竿を出しましたが、一向に釣れず、エサも無くなったので早々に切り上げ、土曜の朝一に期待を込めて、帰宅しました。

翌朝、夜明けと共に樫野へ行ったのですが、駐車場には車が結構停まっていて、釣りに来ている人が多いのが予想されました。

案の定、釣り人は多かったのですが、バラけていたので、どうにか一つの釣り座を確保したのですが、どうも竿先に糸絡みが頻繁に起こるので、よく見ると竿先が裂けているのです。

こんなことは長い釣り人生で初めてです。結局釣りを断念しなくてはならず、今回の釣行ではグレはおろか、魚を1匹も釣ることができませんでした。

デジカメが再度手に入るまで、暫くお休みです。体調が悪いのではないので、ご安心を・・・

            gooリサーチモニターに登録!

万葉歌碑

2010-02-12 05:00:00 | 神戸にて
私がこの『垂水なぎさ街道』を歩いてみようと思ったきっかけは、平磯の海釣り公園を見てみたかったことと、平磯公園の東端にある万葉歌碑というものを是非見たかったから。

おそらくこの垂水の地に因んだ歌が万葉集の中にあったのだと思いつつ、柿本人麻呂が明石を訪ねた際に詠んだ歌があったなぁと、歌の内容も思い出せないまま、歌碑を探していたのでした。

             

国道2号線を歩かなければならない羽目になって、再び公園に戻ったときにふと思ったのは歌碑のあるところを通り過ぎてないかということでした。

まぁそういうことは杞憂であっって、暫らく歩くと歌碑に出会うことが出来ました。たまたまですが、後ろをJRの特急が走っています。

『石走 垂水之水能 早敷八師 君尓恋良久 吾情柄』

万葉仮名で書かれた作者不詳のこの歌は『石走る垂水の水の愛(あ)しきやし 君に恋ふらくわがこころから』と詠みます。

“いわはしる”は垂水にかかる枕詞・・・もう何十年もこんなことを考えたことがありません、懐かしいですね。

歌碑は一つだけだと思っていたのですが、暫らく歩くとまたあるのです。

             

『石激 垂水之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨』

志貴皇子のあまりにも有名なこの歌、またあの市長の名がしゃしゃり出ています。
この公園で万葉の歌碑は全部で六基あったのですが、手跡の名前が出ているのはこの碑だけ、公然とした落書きであり、なんと心無いことをするのだと思うのです。

『石走る垂水の上の早蕨の 萌え出ずる春になりにけるかも』
志貴皇子は天智天皇の第7皇子、壬申の乱の後、天武朝になったころには、この皇子は歌ばかりを楽しんでいたのでしょうか。

             

この碑では万葉仮名が使われていません。

『命をし幸くよけむと石走る 垂水の水をむすびて飲みつ』

                  

『須磨の海人の塩焼き衣の藤ごろも 間遠にしあればいまだ着なれず』

垂水ではありませんが、須磨の塩焼きを詠んだこの歌も、まぁ現代で言う『ご当地ソング』と言えるでしょう。垂水は滝の意味があり、垂水を詠みこんだ上三首は必ずしもこの垂水の地を詠んだものではないかも知れないが・・・という解説が書かれた案内板があり、私には正直で好ましいと思われます。

             

『街道』も東南端にやってきて、柿本人麻呂の句を刻んだ碑が二つありました。

『天離 夷之長道従 恋来者 自明門 倭嶋所見』

『天離る鄙の長道ゆ恋来れば 明石の門より大和島見ゆ』と詠むそうで、前述の解説には『はるか地方の遠い道から恋い慕って来ましたら、明石の海峡から大和の辺りがみえてきましたよ』とあるのですが、この句は人麻呂の羇旅の歌255番なのです。

             

最南端にあった人麻呂のこの句は羇旅の歌254番で、前の句と関連があると考えるのが普通です。

『燈火の明石大門に入る日にか 漕ぎ別れなむ家のあたりみず』とあり、明らかに別れの歌になっています。この歌は人麻呂がどこか遠い地に流されるときの歌のように思われるのです。

                  

いろいろ万葉集を解説したような記事を書きましたが、歌碑の横には丁寧にもこのように万葉仮名と現在仮名の両方を記した標が建っているのです。

            gooリサーチモニターに登録!

垂水なぎさ街道 Ⅱ

2010-02-10 05:00:00 | 神戸にて
釣り公園の入口に向かわなければ、きっと2号線上を歩かんでも済んだのではないかなどと考えながら東へと歩いて、ようやく公園への入口まで辿り着き、2号線ともお別れです。

             

国道2号線ともおさらばしたといっても、その国道沿いに5mほど高いところをこのような道が造られているだけなのですが、雰囲気が全く違うので、好んで国道側を歩く人はいないでしょう。そういえば私を追い越していく人も、行き違う一般人には会いませんでした。ただランニングしている人が前からと後ろから、2人が駆け抜けていきました。

でもこの小径の雰囲気は、とても『なぎさ街道』と呼べるものではありませんね。

             

この『街道』を歩きたかったのには理由があるのですが、それはまた明日ということで・・・

小径の終点まで来るとこのような感じ、何が言いたいのかと問われれば、平磯釣り公園はこのような状態であるのではないかと想像を巡らせてみたのです。

コンクリートの護岸は海に落ちないように、それでいて釣りが出来るような高さで縁が付いています。ただこのような景色を見るのに200円も取るというのは法外であると、私は怒りを以って訴えたい。いえいえ告訴しようと言うのではありません、ここで主張しているだけなのです。

             

『街道』は東の果てで南へ折れていて、その南端がここ。大阪湾が結構広い海であることが分かります。

             

塩屋漁港ですが、漁船の姿はあまり見えません。係留されている2艘の青い船が後で出てきます。
漁港の向こうにJR塩屋駅があるはずです。また2号線に戻らなければなりません。

             

この海岸沿いにポツンと2つの山があります。手前が鉢伏山、スキー場のある有名な山ではありません。ケーブルで山頂まで行くことが出来る須磨浦公園の一角です。奥が鉄拐山とうそうです。

             

国道沿いにあるフィッシングMAXという釣り道具屋の空き地から海が眺められ、『街道』の果てから見た2艘の青い船がここにあります。こうして見ると係留された船には、テトラを伝っていって乗るしかないようです。危なくないのかなぁ。

この辺りでは国道2号線が海辺を走っていますが、塩谷の駅を過ぎるとすぐにJRと交差し、そこから須磨駅辺りまで、JRが海縁を走ることになります。

            gooリサーチモニターに登録!

垂水なぎさ街道

2010-02-09 05:00:00 | 神戸にて
垂水駅にこれと同じ案内板がありました。垂水駅から一つ東の塩谷駅まで道が整備されているようです。

この案内図で見ると、明石海峡大橋のある舞子駅の西寄りの地から、ずっと続いているようですが、私的には朝霧駅の大蔵海岸からも仲間に入れてあげたいのですが、どうやらお上はあの大惨事があったところとは係りたくないようです。

             

垂水駅から国道2号線を超えて、海神社の大鳥居の前の道へと出て、東へと歩いていきます。道はずっと海縁を通っているものと思っていたのに、実はここで川にぶつかり、道沿いに歩くと、一旦2号線まで戻り、そこにある橋を渡らなければ東へとは進めません。

             

福田川の河口、画像では見えませんが、カモが沢山泳いでいました。

橋を渡って、さてどのように歩けばいいのか、とりあえず2号線を歩くのは嫌なので、海岸の方へと戻ります。

             

海の上を漂っているように見えるのは灯台です。雲の下にうっすらと見える山並みは泉南地方のものでしょう。

             

ここまで来ると明石海峡大橋も小さくなり、淡路島の眺めも舞子の辺りから眺めるものとは随分違います。四国の山並みもかすかに見えています。

このフェンスの向こうは平磯釣り公園と呼ばれている波止場、防波堤の向こうが釣り場になっているようです。波止釣りはあまり好きでない私ですが、どのようになっているのか、同じ釣り師としては知りたいものです。でもフェンスで囲ってあるので入れません。よじ登れば入れるでしょうが、何もそこまでしなくてもと思います。

             

暫らく歩くと入口がありました。ここから車でも入っていけるようです。釣りをするのにお金が要るようで、4時間1000円となっていました。見学が200円とあります。

私は料金所で「ちょっとどんなとこか見せてナ」と言うと、「200円」と若い奴が言うのです。「釣りを見たいんと違うね、海を見たいねん」と言っても「入園料が要ります」と固いことをおっしゃる。アホらしくてサッサとその場を去りました。

丁度釣りを終えた人が出てきたので、「釣れました?」と話しかけると「全然」と言います。「(カレイかなと思いながら)何を狙ってたんですか?」との問いに「ガシラでもと・・・」「駅も近いし、1000円で楽しめるから・・・」。どうも1000円も払ってる割には執着心の無い方でした。

釣り人は西へ、私は東へと向かうので、お礼を言って別れたのですが、この先どう歩けばいいのか・・・工事現場へと来てしまって、またまた2号線に戻らなければなりません。

             

2号線に出てきたところにこんな文字が描かれていました。『垂水海浜センタ』何が何だかよく判りません。

             

途中フェンスを越えて上にある道へ登ろうかと考えたのですが、とにかく次の入口まで2号線を歩き続けたのでした。

            gooリサーチモニターに登録!

海神社 Ⅲ

2010-02-08 05:00:00 | 神戸にて
先週の金曜日に社殿の右側の天神社を紹介しました。今日は左側のいったい何を祀ってあるのかよく解らない社を見てみたいと思います。

             

鳥居がいくつも並んでいるのは稲荷神社の特徴ですが、小さい社にはえびす大神と認められた提灯があります。

             

鳥居を抜けると七福神が並んでおり、ここらから何の神様を祀ってあるのか、よく解らない状態になってくるのです。

七福神はこちら側から、布袋さん、福禄寿、寿老人、弁天さん、毘沙門天、恵比寿さん、大黒天の順に並んでいるようですが、順番は決まっているわけではないのですね。この七福神は神仏習合の現れであり、神社だけでなくお寺にも見られます。

後の青い旗には猿田彦神社、赤い旗には倉稲魂命と書かれています。

             

狛犬とお稲荷さんと燈篭が一列に並んでいますが、お稲荷さんが祀られているなら、稲荷神社ということにもなるのです。

             

向かって右の阿形の狛犬の後ろのお稲荷さんも阿形を意識しているのでしょうか。耳だけならモモにも似ています。

             

阿形の狛犬の更に右側に裏参拝道順と書かれた看板が立っていますが、扉は開きません。向こう側からなら開くことが出来そうなのですが、こちらから開くことが出来ないということは、勝手に参拝はさせませんよと言ってるのと同じであり、看板とは矛盾すると思ってしまうのは私のみでしょうか?

             

仕方がないのでフェンスの間から本殿の屋根だけ撮っておきました。

                  

木が痛むので、おみくじを木に結ばないでとのお願いがありますが、あれだけイチョウや松の木の幹を切っておきながら、何という言い草だと思いませんか。

本当に木が痛むと思っているのか・・・木が痛がると思ってるのか?木が傷むと思っているのか?木の育成が阻まれるのか、どれなのでしょうか。意味からして、まず“痛む”の漢字を間違えています。私は木の育成が阻まれるとは思うのですが、おみくじを引いて、その社の木の枝などに結ぶのは、恋愛や神様と縁を結ぶという迷信ですが日本国の風習であり、それはそれとして受け継がれなくてはならないと思うのです。

木に対して思いやりを持つのなら、代わりに何かおみくじを結ぶものを設置すれば事足りるのであって、日本の風習も守れるというもの。私には後片付けが面倒だと思っているだけではないかと、またまた下衆の勘繰りです。

             

まぁ、幾人かは神社のお願いを無視しているのか、日本の風習を大事と思っているのかは判る範疇ではありませんが、木の枝に結んでいる人がいるようです。

             

垂水駅からの海神社の眺めです。上から見ると大きな神社に見えますが、実際に行ってみると駐車場と化しているが如くの様相になっているので、案外狭く感じます。

            gooリサーチモニターに登録!

海神社 Ⅱ

2010-02-05 05:00:00 | 神戸にて
昨日は散々貶した海神社、今日はお褒めの箇所を紹介しましょう。

拝殿の前にこのような箱が置かれていました。『おねがい箱』とあります。なかなかいいアイデアだと思います。

                  

でもね、お志を添えなくても、ちゃんと神様に取り次いでくれないと、貧乏人はいつまで経っても神様のご加護にあやかれません。「地獄の沙汰も金次第」とはよく聞く言葉ですが、ここは地獄ではありません。地獄であるからこそ、沙汰をとりなして貰うための金が必要なのであり、この世では優しい神様は金など無くても願い事を叶えてくれるべきです。

まぁしかし、この世が地獄であると言われれば、「然も有りなん」と肯けはするのですがね。

金さえはずめば、呪詛さえも請け負っていただけるのか・・・それも怖い話です。内容は口外しませんとなれば、誰かを呪い殺そうと思う人が現われないとは限りません。

やはり私には、神様が願い事を成就させてくれるとは考えられません。願い事を叶えるのは、やはり自分が努力する以外にありません。

                  

拝殿の右側に廻ると小さな社があり、天神社と書かれていました。判りますか?片方にしかいませんが、右側に狛犬ならぬ、ネコが鎮座ましまされています。

             

単に日向ぼっこをしているだけなのかも知れませんが、近づいても逃げようとはしません。図々しいと言えばそれまでなのですが、絵にはなりますよね。

ネコの下に貼ってある紙には、「使えなくなった鉛筆や筆に感謝を込めて納めてください。お祓いをして、お焚きあげます。」と仮名だけで書かれています。感謝を込めるだけでいいのですね。

             

天神さんだけあって、絵馬には大学や高校、国家試験などへの合格を願ったものが殆んど、自分の努力で合格を勝ち取っても、このように神様に願い事を託していると、神様のおかげなどと思うのでしょうか・・・そこのところが私にはよく解りません。

             

殆んどの絵馬が願い事を表にして、訪れた人にも読めるようになっているのですが、1枚だけ絵柄を表にしてあるのがあり、興味深々で近寄ってみると、なんとこの神社のものではなく、西宮の戎神社のものでした。絵馬は表だろうが裏だろうが神様なら読んでくれるでしょうが、神戸の垂水にある神社の神が、西宮の神社で授かった絵馬に書かれた願い事を聞いてくれるのでしょうか。
どのような願い事が込められているのかは知りませんが、この絵馬をここに掲げた人は神様が自分の願いなど叶えてくれるはずがないと思って、態々ここへ奉納したと考えるのは邪推というものですかね。

                  

昨日の狛犬の近くにもう一対の狛犬があって、二つも有るなら拝殿の前におけばいいのになどと思っていたら、よく見ればデンと構えた狛犬の咽喉に小さな狛犬が噛みついているような様子なのです。一つの狛犬に2匹の犬が居るのは珍しいですね。

             

こちらは後ろ足にじゃれている姿なのでしょうか。

            gooリサーチモニターに登録!

海神社

2010-02-04 05:00:00 | 神戸にて
舞子からあっちを眺め、こっちを見ながら、ゆっくり歩いて30分程度でしょうか、JRの垂水駅をうっかりと通り過ぎていました。もう海岸沿いの道ではないものの、2号線より南側の道を歩いていたので、何処で曲がったら垂水の駅に着くのか解らなかったのです。通り越したことを気付いたのは、この海神社の大鳥居があったから。

鳥居の中央ずっと奥に海神社の本鳥居が見えます。

             

国道2号線沿いにあるこの神社、昔紹介したことがあるような気がしますが、記事がなかなか見当たりません。神戸に職場があった頃、確かに一度この神社に来ているのです。まぁ、載せようと思っていて、忘れてしまっているのかも知れません。

垂水駅を通り越してしまったといっても、ホンの少しだけ、駅からはこの神社の屋根が見渡せます。

             

この神社には他の神社と比べて変った点が幾つかあります。まずこの写真で右にあるイチョウの木と左に見える松の木を見てください。両方とも幹の途中でスッパリと切り取ってあります。他にも高く聳えるのを厭うように途中で切ってしまっている木が数本ありました。木の霊をおろそかにしているようで、神社としてはあるまじき行為だと思うのですがね。

             

そして、拝殿の前に狛犬がありません。狛犬があるのは本鳥居の下辺り、鳥居の前に狛犬を置いているのは見かけることがありますが、それでも拝殿の前には狛犬を置いているものです。

                  

狛犬自体は古くからあるのもらしく、それがこの位置のままずっと置かれていたのなら、境内の様子を一変させたのかも知れません。まぁ、下衆の勘ぐりという奴です。

             

このように撮ると、拝殿からどれ位離れているか解るでしょう。鳥居の影も写っています。
そして他の神社と決定的に違うのは、上のいくつかの写真で気付かれた方もいるのではないかと思うのですが・・・

             

境内に車がやたらと多いこと、参拝者など殆んどいないこの神社に、何故これだけの車が置かれているのか、最初は不思議でした。

             

2号線を垂水駅に向かって歩くとすぐにこのような看板が目に入ってきました。境内がパーキングになっているのです。

格式ある神社では、例え殿様でも境内に入る前には乗り物を降りて、参拝しなければなりませんでした。相当に金儲け主義的な考え方が手に取るように伝わります。

             

この海神社が格式などあったものではないとは、言わせません。表には堂々と官幣中社と威厳を湛えています。

            gooリサーチモニターに登録!

カレイ釣り

2010-02-03 05:00:00 | 大阪にて
先週の日曜日、うちのチームのセンター兼ピッチャーのA竹君(体調が悪いとか、忙しいとかで一応昨年途中で辞めたことになっている)から、私は練習があることを知っていながらカレイを釣りに行こうと誘うので、先々週の日曜日の練習初めで右足の脹脛を痛めたこともあり、サボりを兼ねて貝塚の人工島に釣りに出かけました。

7時に家を出た頃は曇っていて、8時ごろに人工島に着き暫くすると、雨がぱらつく生憎な天気になってしまいましたが、釣ってられないほどの雨でもなく、アタリも無いのにずっと待ちの釣りを続けていました。

             

川のようなこの渚は、右(南)も左(北)も海であり、私どもが立っているこの場は島です。8時ごろが満潮で釣り始めた頃は右から左へと潮が流れていました。謂わば海峡のようになっているので結構流れが速く、ジェット天秤を付けていても仕掛けが流されていきます。

向こうで釣っているのは、ついて来た三男と私の知らない女の子と三男の友達の3人。友達は釣りが達者なようでエビ撒き釣りでハネを狙っていました。三男は釣りをやってるようなやってないような・・・バス釣りに行く時はもうちょっと真剣なのですがね。

             

こちらが南側で私どもはあの赤い橋を渡って、この島にやってきたのです。昼前になって雨がひどくなってからは、あの橋の下で雨宿りをしながら釣っていました。

座って何やらゴソゴソしているのがA竹君、ずっと向こうになりますが階段の一番下で座っているのはA竹君の次男です。

             

A竹君がまず釣ったのは、このヒトデ。こんな海にもヒトデは居るのですね。
そして1番最初の写真の待望のカレイ、これもA竹君が釣りました。10cm程度でしょうか。

雨がひどくなってきて、橋の下に移動しました。この頃から潮の流れは左から右へと変っていました。

             

するとA竹君にフグ、元気が無くグッタリした感じで、アシカもこんなポーズを取ることがありますね。

             

なんと!A竹君の次男がハゼが釣れました。ちょっと痩せてるけど、結構いいサイズです。

             

釣った魚をどのようにハリから外そうと思案しているのは、今年高校受験の中3君でした。2月の末に受験を控えてるのに、釣りについて来るなんて余裕ですね。

             

この寒いのに目の前ではプレジャーボートに引かれて水上スキーをやってる人が何往復もします。何よりも音が五月蝿い。何故広い海の方でやらんのか不思議です。私どもに見せてくれなどと誰も頼んでいません。

                  

最後にもう1尾、同サイズのハゼを釣った中3君。この日釣った魚は全てアタリ無し、つまり釣ったのではなくて、釣れていたのでした。

この日持ち帰ったのはハゼ2尾だけ。大きめだったのでお造りにしていただきましたが、甘味があって美味しかったです。

            gooリサーチモニターに登録!

垂水海岸

2010-02-02 05:00:00 | 神戸にて
舞子公園から歩き出した海岸沿いの道もそろそろ終わりに近づいて波止が見え始め、先端で釣りを楽しんでいる人が数人いました。この波止にはどのようにして行くのか根元が見えないので、行き方が判りません。

             

暫らく歩くと全容が見えてきました。垂水一文字ですね、この波止場へは渡船でしか渡れません。しかし随分と岸寄りに造ったものです。こんなところに渡してもらって釣れるんですかね。

             

もうここは渚ではありません。右にヨットハーバー、先にある沢山の建物はアウトレットパークです。

             

ヨットハーバー近くにこのような看板が・・・“つり”とひらがなで書いてありますが、釣りのことでしょうね。釣りは危険な行為なんですかね。釣りは何も危険な行為ではないと私は思うのですが、ここで書かれている“つり”とは釣りではないのかな?神戸市産業振興局に問い合わせをしてみたい気持ちに駆られます。

しかし釣りは産業振興局の管轄なのか、それも疑問です。釣りが危険というなら、それは海上保安庁や水産庁が注意すべき範疇だと思うのですが。

             

ヨットハーバーだと思っていましたが、ヨットは1艇しか停泊していなくて、殆んどがプレジャーボートですね。ここに係留するのに1年でどれ位の料金がかかるのでしょう。

             

アウトレットパークの方から見るとヨットは3艇ありますね。もう明石海峡大橋も淡路島も小さくなってしまいました。

             

パーク内にある『さかなの学校』、平日なので小・中学生がいるはずもなく、誰も近寄ってはいません。私も今更などと言うのははおこがましいのですが、入館するのは控えさせていただきました。

遅い昼食でもとパーク内のレストランを見て歩きましたが、どれをとっても割高なので、垂水の駅まで辛抱することに・・・

             

アウトレットパークの駐車場の最も東側からの眺め、休日にはこの駐車場も満杯になるのでしょうね。

            gooリサーチモニターに登録!

花の回廊

2010-02-01 05:00:00 | 読書
双調 平家物語』の9巻も1月の半ばで読み終え、1月発行予定の10巻を待つ間、何か読むものはないかとジュンク堂を徘徊します。新潮文庫の前に立つと、何と待ちに待った宮本輝の『流転の海・第五巻』が発行されていました。新潮文庫は印字の線が細いので、目が見えんようになってきた私は少々敬遠気味にしていましたが、この本は印字も太く読み易かったです。

この『流転の海』1~4巻を読んだのはおそらくBlogを綴り出す以前であり、なかなかストーリーを思い起こすことが出来難く、感想文というものは「書いておくべきものやなぁ」とヒシヒシと感じています。

             

この本では、主人公=松坂熊吾が終戦直後、梅田の阪神百貨店裏のバラック街、一時住んでいた石屋川沿いや中之島の船津橋近辺から福島天満宮界隈等、私の仕事場での関連が多く扱われており、自分自身がここはああやった、あそこはこうやと現場を再現させながら読むことが出来るので、ストーリーを追うこと以外に楽しみがあるのです。

                  

1~4巻は面白かったことを語っていたら、誰かが持って帰ってしまい、今は手元にはありません。5年以上も前のことでもあり、この『花の回廊』と題した第五巻は富山から引き上げてくることから始まるのですが、その富山時代のことはトンと思い出せないのです。

あまりにも間が空きすぎるので、次巻を楽しみにしながらも、もう読めなくなってしまった人も沢山おられるのでしょうね。

             

バス停や信号をしきりに載せていますが、富山から引き上げた松坂一家は、一人息子の伸仁をこの尼崎の『東難波』のバス停の真ん前の蘭月ビルというおんぼろ長屋に預けることから始まるのです。熊吾と妻・房江は電気も水道も無い船津橋のビルでそれぞれが働きながら住むことにしたので、10歳になる伸仁と一緒には暮らせなかったのです。

             

最初のバス停の写真は神戸方面へのもの、最近まで神戸税関前まで210円で走っていた路線は廃止され、今は阪神芦屋までしか走っていません。

次のバス停は大阪方面へのものですが、この本では大阪まで路線があったようですが、私の職場がこちらへ移転してきたころには、杭瀬までしか運行していませんでした。

迷路のような蘭月ビルがあったのは、丁度茶色っぽいビルが建っている辺りだと想像できます。熊吾によるとそこは貧民窟のようだったのですが、伸仁はそこで逞しく育っていきます。

             

このストーリーの中で近くに市場=三和市場の名前が度々登場します。尼崎の商店街といえば前述したタイガースの優勝を祈願した中央商店街を紹介しましたが、中央商店街は東西に長い商店街で、その西端を南北にクロスするようにこの三和本通という商店街が賑わいを見せています。この写真は南の入口のものですが、北の入口は国道2号線に面しています。

             

そして三和市場はこちら、三和本通の南の入口近く、中央商店街と並行するように入口があり、そして再び三和市場と並行するように店が並んでいました。

             

店が並んでいるといっても、殆どが閉店状態、三和市場の使命はもう終わっているのかも知れません。第5巻の舞台となるこの界隈も昭和33年から五十数年経つうちに随分と変わり果てたのでしょう。この古びた三和市場だけが当時の面影を残しているのかも知れません。

             

でも天井もこの様では、なかなかお客も来てはくれないのでしょう。

伸仁に栄養をつけさせようと度々通った明洋軒という洋食屋や名前の無いウナギ屋は何処にあったのか、何処をどう通っていったのかという記述がないので探しようもありません。

                  

福島西通りに一家3人で住める家の段取りを終え、福島界隈が今後のストーリーの舞台になるのかも知れません。第6巻の発売を心して待つばかりです。

            gooリサーチモニターに登録!