ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

霰松原神社

2012-04-13 05:00:00 | 大阪にて

帰路は紀州街道をまっすぐ北へ進みます。実は往路は大和川まで南海本線の側道に沿って南下したのでした。

昨日のげこ亭があった寺地町駅から一つ南の駅は御陵前という駅ですが、そこから南は路面ではなく、鉄道専用の道を南下します。なので紀州街道はいつの間にか旧の国道26号線になっていて、阪堺線の終点である浜寺駅前辺りで再び合流するのです。地図を見ると軌道の少し西側に紀州街道と書いた道がありますが、昔は現在阪堺電車が走ってる軌道上が紀州街道ではなかったのか、電車を走らせるにあたって、新たに道を切り開くとは考えにくいのです。

             

紀州街道南下の話は少しおいて、帰り道での話、綾ノ町駅の手前のややこしい信号を渡ると、阪堺電車の軌道とは別れて、2車線位の幅の道になります。この道を北上するのが紀州街道ですが、そのまままっすぐ北上するとJR新今宮駅に突き当たります。住吉大社から以北の紀州街道を私たちは住吉街道と呼んでいます。大坂城近辺の谷町辺りが起点となる紀州街道ですが、住吉街道以北の紀州街道はどの道なのかよく分かりません。

             

大和川で少し足を止めて、装いも新たになった大和橋の上です。西の方角、阪神高速堺線と南海本線が交差しているところ、未だカモメが群れを成して佇んでいました。私には玉出より以南のこの阪神高速堺線は自分にとって無用の長物であり、利用したことがありません。

                       

こちらは東側、阪堺線の電車が走ってくるのを我慢強く待って、撮りました。往古の昔、この大和川を遡って斑鳩や飛鳥の地を目指していたのかと思うとロマンチックになりますが、もちろん当時の大和川は付け替えられていて、現在のこの大和川の位置ではありません。

             

大和川を渡ると、安立(あんりゅう)という街に入ります。商店街を抜けると霰松原神社という社があり、ここでも少し休憩しました。松原などと風光明媚な名前が付くような神社とは縁遠いような碑が祀られています。

                       

安立町役場って?いつの頃のことなのか、明治の中ごろ町村制が発足した頃のことなのでしょうが、一つ疑問があります。この神社の境内に置かれている碑なのですが、ここが役場の跡であるなら、安立町の役場は神社の中にあったことになるのですが、それは考え難いことではありませんか。逆に役場の跡地にこの神社を建てたとも考えられます。

             

この案内板を読んでもその詳細は詳らかではありませんが、突然文の中に天水分豊浦命神社というような脈絡のない神社が出てきますが、おそらくこの神社のことを指しているのでしょう、1200年前云々からすると、神社の方が先にあったと考えるのが妥当だと思います。

安立の地名の由来が名医の半井安立という人がこの地に住んで徳を積んだからとか、NHKの気象予報士に半井さんという女の人がいましたね。

そして紀州街道はこの辺りから堺に至るまで松原の続く砂浜であったことも記されています。熊野街道は泉佐野の鶴原で分岐するまでこの紀州街道のことを指していました。そうなると神坂次郎氏の著した『藤原定家の熊野御幸』にあった京を発った一行が藤白の地で初めて海を観たというのは事実ではなくなります。

もう一つ紀州街道のルートとしては、旧の国道26号線を南下して、岬町深日で一旦加太方面へと向かう大川峠越えの道もあったと言います。

                       

天武天皇の第4皇子・長皇子の歌、万葉集にも収録されています。“霰打つ あられ松原 住吉(すみのえ)の 弟日娘(おとひをとめ)と 見れど飽かぬかも”と、慶雲3年9月、文武天皇難波宮御幸の際に作られた歌だそうです。弟日娘とは遊女だそうで、霰松原の素晴らしい景色を共に眺めていると、いつまでも飽きないと詠っているのですが、遊女如きと戯れて歌を作るなぞ、そこらのオッサンと同じ程度の天皇家の姿が浮かびます。尤もそこらのオッサンは歌など作りませんが。

                  gooリサーチモニターに登録!