ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

清水峠 Ⅱ

2013-04-30 05:00:00 | 田舎

42号線側の入口から清水峠まで10分ほど、入口には浦神駅まで40分と書いてありましたから後30分は歩かなければなりません。たいしたことはありませんが、目標を達成したのに(清水峠を越えることが目標だったわけではないのですが)未だ3倍も歩かなければならないことになるのが億劫です。

             

地図にも標識にも清水峠と何度も見るので、清水峠がどんな所か期待していたのに、ただ単に清水峠の標識が有っただけだったのには少々拍子抜けでした。串本町の大辺路とは違い、道幅が少し広いのも那智勝浦町の大辺路の特徴でしょうか?かと言っても串本町内の大辺路を歩いてみて比べただけで、田辺から白浜、富田、すさみへと続く路を歩いたわけではありません。

         

清水峠は「しみずとうげ」と読むのではなく、「しみとうげ」と読むそうです。その訳は海蔵禅寺から登っていくと途中で所々にこういった湿地が見られ、水が滲みるということではないかと思いながら歩いていたのですが、本当の所はどうなんでしょう。

             

那智勝浦町での大辺路には道標が多く、ここでも標識が無かったら、左への細い道を上へ上がるのか、まっすぐ行くのか迷ってしまう所です。道が分かれるような所では必ずと言っていいほど標識が立っていますし、この道で良いのかと心細くなってきた頃にも標識があるので安心です。

             

途中石垣があり、昔はこの辺りに人が住んでいたのかとも思われます。畑などもあったようですが、麓からはかなり遠く、水などを運ぶには大変だっただろうと思います。昔はもっと水が滲み出している所も多く、水量も多かったのかも知れません。

                 

急な坂ではありませんが、登ったり下ったり、結構変化に富み、歩いていて楽しい道でした。

             


見晴らしの良い所に出ると、ウグイスの鳴き声が聞こえ、春を感じます。写真だけでは鳥の鳴き声は聞こえませんから、動画をUPしておきました。

             

地図には“浦神湾が見える”と書かれている箇所があり、確かに田原側から登って来ると突然右にこの景色に出合い、感動します。でも浦神側から登って来ると、左に湾を見ながら登って来るのでそう感動は無いのではないかと思います。

             

更に進むと見晴らしが良くなります。板に書かれた“都出て三カ月 無苦集滅この絶景”“熊野古道 大辺路浦神王子”の文字、藤原定家は『明月記』で中辺路を通ったことだとしても都を発って12日で熊野の地を見て感動しますが、ここに書かれている“都出て三カ月”というのは大辺路を歩いたとしても大袈裟、かかり過ぎだと思います。

                       

浦神王子などは聞いたこともありません。大辺路に対する町の思いが大きいのは解りますが、根も葉もないことは書かない方がいいだろうと思います。

             

この見晴らしの良いところには『津波災害避難小屋』が出来ています。でも未だ電気は来ていません。この大きさで何人ぐらい収容できるのでしょうか。有るに越したことはありませんが、人口の割には小さ過ぎると思うのです。

                       

近くには水道がありますが、誰がこの水道料を払っているのか・・・水が出っ放しなので、勿体ないから止めておきました。そして民家が並ぶ所まで降りてきました。立ち止まったり、ベンチに腰掛けてみたり、写真を撮ったりしたので、入口からここまで50分ぐらいかかっています。

             

とうとう紀伊浦神駅の西側の『奥の谷踏切』まで降りてきました。ここでも道標があります。左下ですよ。

         

紀伊浦神駅の裏側を通ります。ツツジの花が見事なピンク、梅の木も実を付け始めています。

             

やっと海蔵禅寺の旗や鹽竃神社の小山も見えてきました。この日のゴールです。昼食をとってからここまで約1時間半かかりました。

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清水峠

2013-04-26 05:00:00 | 田舎

12時を回っていたのに神社とお寺を巡ったので12時半になりました。急いで昼食、浦神の集落の最も西側にある喫茶店『はまゆう』に入りました。ボリュームがあると近所では評判の定食を頂きましたが、私でも食べれるくらいの量、無理矢理コーヒーが付いていて850円ですから、決して安い昼食ではありませんが、42号線沿いを田原の方へ戻り、清水峠への道を分け入るには近いはずなので、この店に入ったのでした。

             

1時に店を出て、42号線を西へと向かいます。途中で那智勝浦町と串本町の境界の標識が現れますが、6~7年くらい前までは串本町ではなく古座町との境界でした。

             

その標識の手前に四角い石碑が建ててあり、少し読み難いですが、『口熊野奥熊野境界跡』と彫られています。口熊野は富田辺りで目にする字ですが、この浦神の手前までを言うものだったのでしょうか、何とはなく口熊野の領域が広過ぎるような気がします。那智勝浦に至って急に奥熊野というのも妙な言い回しではありませんか。口と奥の間に中があっても良さそうなものです。

熊野とはいったい何処までを指すのか、熊野詣の最終地は熊野三山(本宮・新宮・那智)ですが、伊勢方面からの参詣は伊勢道と呼ばれ、42号線にほぼ沿って伊勢方面から南下する道なのですが、尾鷲辺りから熊野街道と呼ぶようになると思うので、その辺りまでを熊野地方と呼ぶのかも知れません。でも伊勢方面からすれば尾鷲だって口熊野であることには違いありません。

             

地図にある車止めと道標を探しながら(車止めはいくつもあった)20分ほど歩くと目的の清水峠への入口がありました。

                 

この道標は東向きに立っているので、田原方面からの車では気付かず走り過ぎてしまいます。かと言ってこの前を新宮からの帰りに何度も通っているのに、この道標には一度も気が付いていませんでした。鎖には“清水峠へ行くにはこの鎖の横を通って下さい”と書かれたプラスチックの板が括りつけられていますが、別段横を通らなくても跨いで通れますが、私は足が引っ掛かってこけたら笑い者になるので、指示通り横を通りました。すぐ先、左側に道標が立っています。

             

ここにこの道標が立ってないとまっすぐ行ってしまいそうな雰囲気です。矢印の方向には普通なら行き難いと思います。

             

道幅は広くて歩き易いのですが、伐採された枝がいっぱい落ちているので足に絡んで歩き難いのです。

             

苔生した岩も熊野古道と言う名を偲ばせます。

        

ここはもう那智勝浦町の管轄なので、串本町の道標とは違った形(私は案内札という言葉を使っていた)をしているし、至る所に設置されているので数も多く、所々に休憩用のベンチも設置されており、那智勝浦町が大辺路に対して寄せている思いの大きさが感じられます。

             

清水峠を越えるとすぐに下り(峠ですから当たり前ですが)、良く陽が差す割には苔生した石が多いのが不思議です。

      

坂道を下ってから振り返って撮った写真です。降りる時に見る坂より、登る時の坂の方が感じが良いので、海蔵禅寺の方から登った方が良かったのかも知れません。

             

竹林と言えるほどのものでもない竹林を通ると、タケノコがニョキッと生え出しています。道の真ん中ですから掘っても怒られはしないでしょうが、掘る道具を持ってないので持ち帰ることが出来ませんでした。ここまで15分ぐらいかかっています。入口から浦神駅まで40分と書いてありましたから、未だ半分も来ていません。

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海蔵禅寺

2013-04-25 05:00:00 | 田舎

田無踏切を渡るとすぐにお寺が見えてきます。踏切脇の道標ではまっすぐ行けば浦神峠へ、左の細い道を採ると清水峠へ行くことが出来るようですが、どちらの道を選ぶにしても、お寺を見終わった後は昼食をとらなくてはなりません。

            

お寺の屋根かと思ったのは鐘楼の屋根、最近見た鐘楼では江田の海蔵寺や田並の円光寺に比べると重厚です。でもそちらは駐車場になっていて、きっと駐車場からお寺に行くのではないのでしょう。

            

手前の標柱に挟まれた参道を歩きます。地図には海蔵寺と書いてありましたが、海蔵禅寺と案内しています。臨済宗・妙心寺派のお寺です。と書いても私は妙心寺派が如何なるものなのか全く何も知りません。 

             

山門の手前のソテツは年数を経た立派なものでした。

               

山門前の六地蔵、山門を潜った際の釈迦如来、境内にあった英霊塔2基、戦争で亡くなった浦神地区の出身者を祀っているのでしょう。英霊塔の後ろに見えている小山は線路を挟んで鹽竃神社です。

             

四国八十八ヶ所巡りは1300kmを歩く苦行であり、有難いもののようですが、東京に一日で八十八ヶ所を巡ることが出来る霊場があると言います。各寺の本尊と砂を置いてあり、砂を踏んで手を合わせるとご利益があるとか、何とも有難味が無い巡礼です。私もブログのネタにとあちこちのお寺に通っていますが、手を合わせることなどないし、そうすることによって何かご利益があるとは思ってはいません。

             

お寺の外にあった熊野古道の道標、いつ付け加えられたのか分かりませんが、10月21日に串本町上田原でクマが目撃されたので、山林に入る人は注意するよう呼びかけています。インクの色が変色しているので去年のものではなさそうです。こんな所でいきなりクマに注意せよと言われてもそのような装備はしていません。もう既にクマも冬眠から目覚めている季節です。

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鹽竃神社

2013-04-24 05:00:00 | 田舎

この日浦神に着いたのが11時半ごろ、その時点でそろそろ昼食の時間でしたが、釣り場を見たりしていると12時近くになってしまい、当日のコースである清水峠越えを田原側から登るか、浦神側から登るか少し迷いました。それならと先ず浦神駅近くにある神社とお寺を見ておこうと思い、東の方へ歩いて行きました。

             

駅の東にある踏切付近に塩竃神社があると地図にはあります。でも神社の鳥居の扁額を見ると鹽竃神社と書いてあります。境内の碑にも鹽竃神社と刻まれています。鹽の字が読めませんよね。下が皿なので盥(たらい)かとも思ったのですが、考えてみれば塩も下が皿ですし、竃の字は合ってるし、他に神社も有りそうには見えませんから、これが塩竃神社なのだろうと思います。漢字は臣に竹冠の片方、その下は口の中は※(こめじるし)です。境内の碑には“大正紀元十三年歳次甲子一月二十六日 東宮殿下立妃奉祝記念”とあり、期日からすれば昭和の天皇であった裕仁と久爾宮家の良子(ながこと読むらしい)の結婚を祝う碑らしいのですが、立妃という意味は結婚というより婚約と見なす方が適格ではないかと思うのです。『うらがみ』と打っても『浦上』としか出てこないような片田舎の小さな神社に後の皇后の成婚を祝う碑が建てられているのが不思議なくらいです。

鳥居の正面に階段があり、境内内の小山に登っていくと拝殿があるのかなと思わせます。

                       

さて階段の登り口にあったこの燈籠、私には理解できない内容になっています。先ず年号の元久(だと思う)ですが鎌倉時代のもの、その四年になっているのですが、元久という年号は3年までしかありませんでした。ここで元久と読める年号はそう読んではいけないことになります。すると文久なのでしょうか?そうなると江戸時代後期です。文久は確かに4年までありました。でも悩みは続きます、干支の巳未です。60年に一度のこの干支は文久4年ではありません。5年前の安政6年にあたるのです。巳未年で元の付く年号は元文と元和、でも2文字目はどちらでもありません。この碑の年号は怪しいですね。

その下に掘られた浦上氏の文字、浦神は元は浦上だったのかも知れません。次の重陽というのは9月9日、菊の節句のことだそうです。でもこの碑の文面には信憑性がありませんね。

             

小山の頂上には本殿だけ、拝殿はありません。

             

拝殿の代わりに門のような拝所が造られています。思ったより新しいもののようです。

        

次に海蔵寺というお寺に行くのですが、その手前に田無踏切があります。眺めていると電車がやってきたので記念撮影。

踏切の傍らには熊野古道の道標がありました。

古びた民家の横に対称的なオレンジのきれいな花が咲いています。

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浦神湾

2013-04-23 05:00:00 | 田舎

浦神には堀渡船と言う渡船屋があり、昔釣りの先輩・K寺さんに2度ほど連れて貰って磯に渡った記憶があります。浦神湾を出て荒船海岸の方へ出て行くコースだったと思うのですが、釣れた記憶はあまりありません。

浦神といえば通る度に気になっている場所があります。駅前を超え、堀渡船を過ぎ、ずっと走って民家が無くなった頃に左へほぼ直角に曲がる所があるのですが、その海岸沿いにはいつも車が停まっていて、その車がどうやら釣り人のもののようなのです。道路からは少しだけ奥が見えていて、どうやら船着き場になっているようで、波止釣りをしているな感じを受けていました。ところが今回実際に降りてみると、なだらかな岩場になっています。先端には誰のものなのか分かりませんが、道具を置いておく台まで設えてありました。

         

この日は車が1台も停めてないので遠慮なしに車を停めさせてもらいました。道路からは右の写真のようにコンクリートの波止場に見えます。確かにあまり大きくない船が停泊していました。岩場に降りてみると先端から案外深そうです。

             

下は砂地のような感じ、何が釣れるのでしょうか、グレよりはチヌの方が居そうな感じです。ここはおそらく満潮時には水没してしまうのではないかと思われます。岩場にはエサのおこぼれもちょっとした仕掛けも何も残ってないのです。同じような岩場がもう一つ100mほど沖にもありました。

         

沖の磯では一人だけ釣りをしていました。こちらの磯では少し足場の悪そうなところにアルミの板が差し渡られており、波止場にはゴミ捨て場まで設置されていて、ここで随分の人が釣りを楽しんでいるのが判ります。何を釣っているのかを知るために何か手掛かりになるようなものが落ちてないか探しましたが、ウニダンゴの紙パッケージが残っていました。まさかここでイシダイを釣っているとは思えません。

             

先の磯で何を釣っているのか気になったので車をそのままにして歩いて行ってみました。仕掛けを見ているとカゴにアミエビを詰め、カゴの上部にサビキを付け、カゴの下に1本針でオキアミを刺していました。アジを釣りながら、あわよくば何か大物が掛かればいいなぁと思っているのでしょう。

             

この磯の沖側にも同じような地質の磯がありますが、そこには歩いては行けません。でもこんな磯に渡船で渡されたら「怒るでシカシ」です。この私の立っているところを岩屋崎と呼んでいるみたいです。

正面やや左寄りに見える小高い山の手前を粉白と言い、玉の浦海水浴場があります。そのむこうの半島は、おそらくこの角度からは太地の半島は見えてないと思うので、下里の先にあたるのでしょう。右に見えているのは島ではなく、荒船海岸から付き出た半島です。この半島に名前が付いてないのが不思議です。

             

この磯から道路側を見ると、古座の虫喰岩と同じような浸食のある岩が見えますが、天然記念物には指定されていないようです。

                       

最初の磯と次の磯の間、道路の山側は小さな公園になっていました。別段遊具が有ると言うのではありませんが、エンジ色の建造物が気になります。

         

近寄って見るとそれは何と地震観測所、そこには太地地震観測所と書かれていました。太地町には近いけど、ここは那智勝浦町です。何故太地の名を騙ったのか、浦神ではあまりにも名が通っていないから、報道する時に「浦神って何処や?」と思われてしまうからなのか、そんなことをすれば、ますます浦神の名前は全国に知られることが出来ません。これを建てた建設省(今は国土交通省ですが、この建物には建設省の名が残っている)もいい加減なものです。

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紀伊浦神駅

2013-04-22 05:00:00 | 田舎

先週月曜に串本にやって来ました。3月は全く釣りをしなかったし、主な行動は大辺路の続きを歩くことでした。そして江田から有田までの大辺路を歩いたのでした。野凪から田並への山越えの道は大辺路ではないことが判明したものの、チャレンジしたのに道を探し出すことが出来なかったことは残念に思っています。有田から貝岡へは既に一度行っていますし、貝岡を抜けると袋まで42号線上を歩くので危ないのでパスします。袋から橋杭、古座から田原へも歩いているので、今回は田原から浦神方面へ歩こうと考えています。

             

翌火曜日は全国的に晴天という予報、かと言って何もすることが無かったので地図を睨みながら、何処へ行こうかと考えていたのですが、取り敢えず浦上方面へ車を走らせてみました。田原を超え車を走らせますが、浦神まではかなり距離があります。紀伊田原駅から紀伊浦神駅までのJRの運賃は180円、紀伊姫駅から串本駅までが140円ですから、姫~串本よりも距離があるということです。歩くとなるとちょっと手ごわいかもと思いながら紀伊浦神駅に到着、結構大きな駅の構えです。車や自転車も結構停まっていて、何処に車を停めればいいのかと迷わなければなりませんでした。

             

『うらがみ』を変換すると浦上であり、浦神とはなりません。駅名も『紀伊浦神』となっているので、日本の国の何処かに浦神という駅があるのかと思いきや、家で調べても他に浦神という駅はありません。何故紀伊を付けたのか?紀伊と付けるからには他の浦神駅と区別するためではなかったのか、紀勢線では富田も日置も有田も姫も田原も紀伊が頭に付きます。他に同じ漢字の駅が有るのであり、逆に周参見、見老津、江住、和深、田子、田並、串本、古座など他に同じ駅名が無い駅には紀伊は付きません。その辺りの不統一さが気になる厄介な私の性質です。因みに『うらがみ』で変換すると出てくる浦上駅は長崎にあるようです。

             

新宮と言う駅も幾つかありますが、紀勢線の新宮駅には紀伊を付けずに他の駅に変化を持たせているようです。上が新宮方面、下は古座方面です。

             

駅舎から構内を新宮方向へ人が二人並んで歩けないような道を少し歩き、線路を渡ってホームに至ります。線路には踏切も設置されたいるのですが・・・

             

こんなところをどんな車が通ると言うのか?人しか通れないような道だということは踏切を設置した人も判っている筈なのに、何故車のことなど書いてあるものを外さないのか、勿体ないとは思わないのか、JRの人のすることは私には理解できかねます。

             

ホーム中央付近、山側にツツジがきれいに咲いていました。他の草が絡まっているようで、その部分の花が見えません。

             

山側から見た紀伊浦神駅のホーム。紀伊姫駅は平均一日乗降者数が4人でしたが、ここ紀伊浦神駅は33人も乗り降りします。近大の水産研究所があるからでしょうか。

             

駅舎内に貼られた大辺路の案内ポスター、これは手書きではありません。でも浦神より東方面への案内です。

             

駅前にあった郵便局、南紀地方の各駅で見られる郵便局ってどれも同じような建物ですが、ここの郵便局はユニークな形をしています。因みに紀伊姫駅近辺には郵便局がありません。

             

これが近畿大学浦神水産研究所、串本ではクロマグロの養殖が行われていますが、ここでは何の魚を養殖しているのでしょう。串本や白浜の近大学水産研究所の養殖魚に特化した魚を出す店が梅田にオープンしたとか、行ったことはないけど一度行ってみないなぁと思っています。

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岸和田城

2013-04-19 05:00:00 | 大阪にて

岸和田に3年ぐらいの間住んでいたと書きましたが、おそらく岸和田城には一度も登ったことはなく、当時から岸和田城があったのかどうかも詳しくは知りません。50年近く昔のことですから、10年一昔とすればもう五昔も前のこと、私の住んでいた頃の岸和田は未だ田んぼの続く平地であり、理科の実験用のカエルを捕まえに行ったりもしたようなのんびりした時代でした。その後革新府政により春木競馬も廃止されていますが、昨今、カジノなる公営ギャンブルを誘致しようなどというけしからん計画を橋下市長率いる政党が提起したりして、世の中を不穏な方向へ導こうとしています。この人たちの真の考えは多くの人が泣こうが喚こうが、一部の人が儲かればそれでいいのです。儲かった方を勝ち組、泣いた方を負け組と称して分別し、さもそれが当たり前かのような枠組みを突き進めようというもの、決して安定した世の中を築こうというものではありません。

             

岸和田城の門を潜り天守閣に入る前に、庭の一種異様な雰囲気に圧倒された気持ちになります。それがこの庭、天守閣の上から見ると三層になっているのがよく分かります。『八陣の庭』と名付けられたこの庭は重森三玲氏によって設計監督されたものだそうで、室町以前の城郭平面図をもとに地取りし、所々に諸葛孔明の八陣法をテーマに大将を中心として天・地・風・雲・龍・虎・鳥・蛇の各陣を配しているといいます。

             

天守からの眺め、西の方つまり大阪湾の方です。こう見ると阪神高速湾岸線で地と天が分かれているようですが、湾岸線以西にはいくつかの高いビルが建っています。逆にこちら側には高いビルが無く、如何にも庶民の街という感じがします。

             

こちらは東側、晴れていれば二上山や金剛山、葛城山が見られます。手前の建物は府立岸和田高校。

             

こちらは南側、和歌山方面です。手前の大きな邸宅は岸和田の財閥・寺田氏のもののようで五風荘と呼ばれていますが、何故か『がんこ』が使っていました。

ここで長男から電話、「2~3日前から頭が痛く、今日職場で倒れて病院に運ばれた」とか、血圧でも高いのかと思いきや「ただの偏頭痛」だとか、しかし「足が無いから迎えに来て」と言うので、手術でもして足を切ったのかとビックリです。考えてみれば足を切るような手術をして、すぐに迎えに来いはないでしょうし、車が無いと言うことかと思い直しましたが、長男は私が車で岸和田まで来ていると思っていたらしく、電車だと答えると「ホンナラもうエエわ」と言って切ってしまいました。

             

長男のことも気になりますが、「もうエエ」と言われたのですからもう少し見学を続けます。庭園に降りてきて八陣の庭の傍です。ここは所謂八陣のうちの雲の位置にあたりますが、そのような気配は感じません。

             

ずっと回って天守閣の対面、こちらは風の位置にあたります。

             

城郭を出るとお祭りの出店のテントがいっぱい、ここが陶器市かと思ったのですが、翌日から『お城まつり』なるイベントがあったようで、前日の賑わいだったようです。でもあの風雨の中で開催されたのでしょうか。それがこの堀の正面に見える白いテント群。堀に沿って右側に並んでいるのが陶器祭りの出店者たちでした。

             

もうつつじが咲こうとしています。陶器祭りは思ったより規模が小さく、個性的と言えば聞こえはいいのですが、私の感性と料金感覚が合わないので結局何も買えません。チラシまで作って人を呼ぶのですから、もう少し工夫をして欲しい、やはり信楽などで催されるものとは規模が違いますね。

             

ずっと堀を回って裏(東側)からの眺め、岸和田高校の前から撮っています。岸和田高校が岸和田城のすぐ裏にあるなんて、今の今まで知りませんでした。

             

平日の割には人通りも多く、ここは車も通行が出来るので、人は車を、車は人を「邪魔やなぁ」と思いながら譲り合っているのでしょう。人が写り込まないように撮るのも一苦労です。

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岸和田城への道

2013-04-18 05:00:00 | 大阪にて

大阪市の公立の学校では、入学式で君が代斉唱の際、起立することを義務付けた条例が施行されていますが、今年は起立を拒否する教員は皆無だったとか、そういうニュースが昨朝流れていました。教育委員会は校長の指導のたまものだと絶賛したようですが、起立しないと処分されるのですから、君が代斉唱の意義を理解してもらう為の校長の指導に納得したというものではないでしょう。そもそも橋下市長の意図する“次代を担う子供が伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛する意識の高揚に資する”事と、君が代斉唱とは何の脈絡も無いと感じるのは私一人でしょうか。全国民をあの侵略戦争に駆り立てた旗印となった日の丸を“伝統と文化”だから尊重せよなどと言うのは時代錯誤も甚だしい、またあの時代の再来かと思っておぞましい限りです。

先々週の土・日曜は時折の激しい雨と春の嵐が吹き荒れるという天気予報が前日からありました。実際に大阪でも風は強く、窓の外はビョービョー・ピューピュー吹いて、何が飛んでくるか分からないので私は外出しませんでしたが、三男はT中君と一緒に金曜の夕方から串本へ釣りに出かけたのでした。私なら大阪で何も用事が無くてもそのような時に釣りに出かけるなんて考えられません。その荒天が未だに気配を見せない金曜日の朝、岸和田城で陶器市が催されると言うので行ってみることにしました。

             

中学生の頃、岸和田市に住んだことのある私ですが、駅は春木、岸和田駅までは二駅あり、岸和田の中心街のことは殆ど知りません。でも岸和田城の前は通ったことがあり、岸和田城へは岸和田駅の次の蛸地蔵駅で降りるものと思っていました。出かける前に地図を調べれば良かったものをだいたい知ってるとタカを括ったのが間違いの元、陶器祭りのチラシを見せてくれた人に何処で降りるかを聞くと岸和田と答えたので、その通りにしてしまったのでした。

       

岸和田駅の前は思っていた通り商店街、食堂などはあまり見かけません。2011年の秋から放送されたNHKの朝の連ドラ『カーネーション』の舞台だった岸和田市、商店街の途中で見たことのある店が二軒ありました。2011年の秋からということは、私が定年前最後の180日を過ごした期間、毎月七日ほどの出勤でしたから、家におれば朝ドラは見られた筈ですが、あまり記憶がありません。そもそもNHKの朝ドラは会社でも見ることがなく興味が無かったのですが、完全に働かなくなってからは『梅ちゃん先生』『純と愛』『あまちゃん』とよく見ています。梅ちゃんは面白い話だったけど、純も愛もミスキャストのような気がして見ていました。今度の海女の話は海好きの私としては、出演者ともども好みです。

             

調子に乗って商店街を歩き過ぎ、ベイエリアまで出てしまいました。曲がらなければならない道路が思ったよりも狭く感じたし、「銀行や証券会社の多いところやな」などとそんな関係の無いことを思ったのが間違いでした。まぁお城の位置はだいたい分かっていましたから来た道を戻らなくても辿り着けましたけどね。

             

何故か岸和田城に行くような人の姿がありません。堀端で催されている筈の陶器市など開かれていません。お城に行けそうな駐車場は、見張りの人がいて歩いては入れそうもありません。だんだん不安になります。

                       

お城が見えなくなってしまったところに『だんじり会館』というのがありました。今は歩いている人など居ませんが、きっと秋になるとこの辺りは活気があるんでしょうね。このだんじり会館の手前の細い道を通ればお城に行けそうな感じだったので、辿ってみると階段もありやれやれです。

             

これが通れそうもなかった駐車場、入り口には駐車料金の表示もありません。

             

内堀から見た岸和田城、右岸にサクラ並木が並んでいます。おそらく翌日の風雨でこのサクラも散ってしまい、今年見る最後の艶やかな姿でしょう。

             

先に陶器市に行こうか、岸和田城に登ろうかと迷ったのですが、内堀に架かる橋を渡って岸和田城に入ることにしました。入場料300円は払いましたよ。

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黄梅庵と伸庵

2013-04-17 05:00:00 | 田舎

堺市博物館を出ると(入る前でもいいのですが)公園までのプロムナードと言うべき道が30mほど続いており、ゆるやかな階段が付いた坂道を登ることになります。左側に端正な門があり、何だろうと気を惹きつけるものがあるので入ってみることにしました。もちろん、受付など無いので入場料は要らないと思っての入門、お金が要るとあっては苦慮の末に入らなかったかも知れません。

             

門を入るとすぐ右手に竹林があり、若葉の季節と相俟って清々しい気持ちになりました。庭園はきちんと整備されており、お金を払わなければ見せてくれない所などより、きれいに清掃が行き届いており、ゴミ一つ落ちていません。

             

右手の竹林に誘われず、左手の小道を選んで歩くと、小さなサクラの木と共に九重塔が佇んでいます。案内の碑を読むと嘉元4年(1306年)の刻銘があるようで、全面には阿弥陀如来が浮彫にされ、他の三面には梵字が刻まれてると書かれています。千早赤阪村小吹の浄土寺にあったものとか、浄土寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったとか、今地図上を探しても浄土寺は見当たりません。芝生の中に立入禁止とは書かれていませんが、近くまで寄って丹念に見ることはしませんでした。

             

庭園の中に有る二つの建物のうちの一つがこの『黄梅庵』、茶道のことなど全く無知の私ですが、この庵は江戸時代に奈良の高市郡の豪商・豊田家で使われていたものを昭和23年になって松永耳庵という数寄者が小田原に移築したとか、堺市が千利休のふるさとなので寄贈を受け昭和55年に再移築したのだそうです。

               

茶室などと言うと頭を低く垂れ腰を屈めて入ることを連想しますが、玄関は「広いやないか」と思ったりもしていたら、横に回ると小さな入り口がありましたが、入ってはいけませんと書かれていました。

             

『黄梅庵』を玄関から横、裏へ回る道を進むとこの『伸庵』の横に出ます。全体を撮るのに少し下がっていますが、ここは裏や横が見れるわけではありません。その代り中に入ってお茶を嗜むことが出来ますが、300円も取られます。私は無料で結構な数寄屋造りの建物を観るだけで満足です。どうも私は食堂で水臭いコーヒーを40円で飲んでいた頃に入社したので、その頃の価値観が抜けていないのかも知れません。

『伸庵』は数寄屋造りの名匠と言われた仰木魯堂という人が建てたもので、芝公園にあったものを福助株式会社が寄贈したと書かれていました。“お茶事にご利用下さい”との案内がありましたが、酒席にはダメなのでしょうね。

             

公園から博物館へのプロムナードは幅10mもあろうかというもので、左右を見ながら歩いていたわけではありません。こちらは入館前に左側にあった千利休の像、2年ぐらい前に読んだ本の中に『利休にたずねよ』というのがありました。もう内容は忘れてしまっていますが、今度映画化されるようです。長男に誘われて観に行った映画『相棒』(杉下警部は1シーンしか出てこなかった)の予告編で知りました。

             

その対面、つまり帰り道の左側にあった武野紹鴎の像、紹鴎は千利休の師匠ですが、大和出身の人で後に堺に移り住んだようです。天下茶屋にその像があり、都島の太閤園にも紹鴎の塔というのがありました。

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堺市博物館への道

2013-04-16 05:00:00 | 大阪にて

私はたまに串本から電車に乗って大阪へ帰ることがあります。1日だけ大阪で用事がある時などなのですが、車でも電車でも往復だいたい1万円ぐらいかかりますから、いつも同じようなことばかりするのはイヤな性質なので、たまには電車に乗ろうと思うのです。第一電車に乗ってると、ゆっくり景色も見れるし、目を瞑っていてもいいのです。お酒だって飲むことも出来ます。車に乗ってると(運転してると)そういう訳にはいきません。ただ紀勢線はトンネルがやたらと多く、「良い眺めやなぁ」と思っていても急に遮断されたりして興醒めになってしまうこともあり、一長一短ではあります。紀勢線を天王寺から乗ると、しばらくして右に大仙陵古墳が見えてきます。知らない人が見ると小高い山がずっと続いているようにしか見えませんが、鬱蒼とした小山を過ぎると緑豊かな公園になり、ここが百舌鳥古墳群であることが分ってくるのです。

             

私の家の近くにはJRは通ってないので、堺の方へ行くには南海電車を利用します。大仙公園へ行くには高野線の三国ヶ丘駅でJR阪和線に乗り換え、一駅向こうの百舌鳥駅で降りると近いのですが、すぐに電車が来るとは限らないし、少なくとも140円ぐらいは要るのでしょうから私は歩きます。三国ヶ丘駅で降りるとすぐに大仙陵古墳があるのですが、後円部分であり、あまり整備がされていません。古墳を右にして道路に沿って暫らく歩いていると、右側で踏切の警報機が鳴ったのでそちらの方へ歩いていきました。踏切の向こうに見える小高い山が大仙陵古墳です。

             

大仙陵古墳は(宮内庁では今でも仁徳天皇陵と言ってるようですが)、宮内庁の指定によって人は立入禁止になっています。宮内庁は自分を何様だと思っているのか、仁徳天皇が実際に存在したという証明をしてみろと言われても、古事記や日本書紀に書かれたものからしか立証できないのでしょう。古墳自体が豪族のものであり、天皇という名称が使われ始めること自体が2世紀も経てからのこと、何を根拠に宮内庁は、人民の苦役によって造営された古墳などを天皇のものだとして私物化するのか不思議でなりません。

人が入ってはアカンけど、カメなら良いと言うのはどういう根拠なのか。

       

カメだけではありません、サギもネコもカモも入っているではありませんか。きっと無数の虫も居ることでしょう。私たちのような庶民はそれ以下の存在とでも言うのでしょうか。

                       

ここは大仙陵古墳の南東角、大仙町7の表示があります。前方後円墳の前方の角にあたります。私の歩いてきた道は百舌鳥三陵周遊路と書いてあり、多くのジョギングする人で賑わっていました。三陵とは百舌鳥古墳群の中で大きい順に、この大仙陵古墳と上石津ミサンザイ古墳と土師ニサンザイ古墳のことを指すと思われるのですが、どうもその三つを周遊しているとは思われません。宮内庁は相変わらず大仙陵を仁徳、ミサンザイを履中、ニサンザイを反正と結びつけているようです。大仙陵古墳のずっと北にある田出井山古墳を反正天皇陵だとする説もあるようです。ミサンザイもニサンザイも陵(みささぎ)の訛ったものですから、単に上石津陵古墳、土師陵古墳と名付けても良さそうですが、訛りを残しているのはどういう意味があるのでしょう。

この記事を綴っている最中にニサンザイ古墳の環濠に杭跡があったというニュースがあり、濠に橋を渡していたのではないかと説明していました。

             

大仙公園の中にもいくつかの小さな古墳があります。おそらくこの古墳は孫太夫山古墳と名付けられた古墳だと思います。百舌鳥古墳群を調べているとドンチャン山古墳などと言う騒がしそうな古墳もありました。

             

孫太夫山古墳の周りに咲くサクラの木の下でお弁当を広げる人の姿もちらほら、春の陽気に誘われて、このような場所で昼食をとるのも一興です。

             

この像はどうやら仁徳天皇らしい。仁徳天皇がこの地に御陵を造営しようとしたとき、野から走り出たシカが倒れ、その耳から百舌鳥が飛び立ったのでこの地を百舌鳥耳原と呼ぶことにしたという記述が日本書紀にあるらしい。でも堺市の地図を探しても耳原という地名は見当たりません。大仙陵古墳より1kmほど西に協和町という地名があり、そこに耳原総合病院と言う有名な病院があるのが耳原の唯一の手がかりでしょうか。因みにモズは大阪府や堺市の鳥に指定されています。

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