昨日の、自ら自転車のチューブを、駄目にしてしまったのでサイクリングは中止・・・
今日は下呂市萩原町と馬瀬の境にある日和田峠を越えて岩屋ダム方面に自転車を走らせようと考えていました。
その、日和田峠は昔は、檜皮峠と書かれていたようです。
今朝、暇だったので、斐太後風土記を眺めていたら、阪嶺の項目があり、飛騨國内の坂について書かれています。
阪嶺の下に俗作峠と書かれているので、峠を紹介するものです。
その中に檜皮嶺が二つ書かれていて、その内の一つの説明が「跡津古関より名丸村へ越。」と書かれています。
跡津古関は、今の下呂市萩原町古関のことで、名丸村は下呂市馬瀬名丸のことですから、檜皮嶺は、今の日和田峠のことが書かれているなと気がつきます。
今では、日和田と書かれていますが、昔は檜皮だったんですね。
いつの時代から、日和田になったのだろう?と思いながら斐太後風土記を眺めていました。
あと、まったく話は逸れますが、日和田峠の道は廃道となり、峠の下にある日和田トンネルを越えることになります。
その、日和田トンネルの馬瀬側の抗口の近くに、お地蔵さんがあります。
この、お地蔵さんは、ひょっとして昔は峠にあったのかな?と思っています。
トンネルができて、人の往来が変わったので、動かしたのではないだろうか?と思っています。
ただ、今の日和田トンネルを人力で越える人は、希ですので、存在を知っている人のほうが少ないだろうな~と思っています。
(管理人)
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今では、日和田と書かれていますが、昔は檜皮だったんですね。
いつの時代から、日和田になったのだろう?と思いながら斐太後風土記を眺めていました。
あと、まったく話は逸れますが、日和田峠の道は廃道となり、峠の下にある日和田トンネルを越えることになります。
その、日和田トンネルの馬瀬側の抗口の近くに、お地蔵さんがあります。
この、お地蔵さんは、ひょっとして昔は峠にあったのかな?と思っています。
トンネルができて、人の往来が変わったので、動かしたのではないだろうか?と思っています。
ただ、今の日和田トンネルを人力で越える人は、希ですので、存在を知っている人のほうが少ないだろうな~と思っています。
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でも、萩原から馬瀬に普通に行けば日和田を通るのだけど・・・
ここの檜皮は、檜皮が運ばれた峠だと思います。
斐太後風土記の中の下山村の下山の名の由来の説明をみると「上馬瀬には川上ヶ嶽の内、一ノ谷・二ノ谷等、上木繁茂の山あり、此下馬瀬にては、此村に字厚谷と云て、檜・椹・栂・樅・槻等の、上木繁茂の山あれば、上馬瀬の山に對へて下山と云るにや」と書かれています。
これから推察すると、馬瀬郷の山にはヒノキが沢山あったことが推察できるので、檜皮が運ばれた峠という説が成り立たない?というわけです。