下呂市小坂町赤沼田にある赤沼田天保林に出かけてきました。
「南方山方植木一件」に、天保12年(1841)小坂村ほか46ヶ村に対し、1ヶ年につき1戸50本公役造林を課し、翌年から実行され、飛彈國小坂郷赤沼田村では天保13年1,890本、翌14年には2,189本植栽したという記録が残っていることから天保の時代に植えられたものであることが以前から分かっていました。
平成12年に樹幹解析によって分析したところ天保7年(1836年)に植林された176年生の恐らく下呂市内で最も古い人工林だと思われます。
植樹は今のように畑で苗を生産したわけではなく、山で天然更新した稚樹を引き抜いたものを植えたということです。
江戸時代の享保6年(1721年)以降、たびたび植樹令を発して慢性的な尽山化(森林資源の枯渇)に対処していたという記録があります。
ヒノキやサワラを植林していたということを知った時、面白いな~と思ったのは御嶽山を越えた尾張藩の天領ではヒノキは天然更新によってヒノキ林を造成していたという記録があります。
下呂市小坂町の幕府直轄天領でも天然更新は行われていたかどうか分かりませんが、植林も行っていたということは尾張藩と違います。
江戸時代の頃も、管理する人の考えの違いによって森の作り方が違うということが興味深いと思っています。
さて、赤沼田の天保林は古いヒノキ人工林として知られているので、きっと私の愛読書の斐太後風土記にも天保林の記載があるに違いないと思い読み返してみるが記述は無い。
何でだと冷静に考えると斐太後風土記が編纂されたのは1873年ですので、今でこそ江戸時代に植林された貴重な人工林と言われていますが斐太後風土記が編纂された年だと37年生の人工林ですので、現在の岐阜県の人工林の平均樹齢より若いのです。
なので特段大きなヒノキが沢山あったわけでもなく、当時の天領の政策により結構な面積が小坂郷で植えられたことから珍しくなかったんだということが自分なりにわかりました・・・
ちょっと脱線しますが斐太後風土記では赤沼田村のフリガナは(あかぬた)と書かれていました。
今は(あかんた)と読んでいます。いつから(あかんた)になったんだ?という疑問が追加されました。
恐らく、(あかぬた)では言いにくかったので(あかんた)になったと思うんですが・・・
江戸時代という言葉で、とんでもなく古い人工林と思いがちですが樹齢は200年を越えておらずヒノキとしては、それほど古くないんですね~
実際に林野庁中部森林管理局のホームページの天保林についての記載をみると今なお生長を続けていることがわかります。
将来、どういった森になるのだろう?といる自分自身の興味がわいてきました。
さて、実際の森の様子ですが177年生ということもあり天然更新した木曽ヒノキの森と比べると正直なところ迫力不足のところがあります。
ただ、林床植生の様子や広葉樹が混交している状況をみると、かなり近い状況になりつつあり知らないと人工林と思わないのではないでしょうか?
色々な意味で興味深い赤沼田天保林なのでした。
歴史的背景から考えると非常に面白いところですがヒノキの巨木を期待して訪れる人には物足りないところだということを付け加えて小難しい話を終わりにしたいと思います。(管理人)
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「南方山方植木一件」に、天保12年(1841)小坂村ほか46ヶ村に対し、1ヶ年につき1戸50本公役造林を課し、翌年から実行され、飛彈國小坂郷赤沼田村では天保13年1,890本、翌14年には2,189本植栽したという記録が残っていることから天保の時代に植えられたものであることが以前から分かっていました。
平成12年に樹幹解析によって分析したところ天保7年(1836年)に植林された176年生の恐らく下呂市内で最も古い人工林だと思われます。
植樹は今のように畑で苗を生産したわけではなく、山で天然更新した稚樹を引き抜いたものを植えたということです。
江戸時代の享保6年(1721年)以降、たびたび植樹令を発して慢性的な尽山化(森林資源の枯渇)に対処していたという記録があります。
ヒノキやサワラを植林していたということを知った時、面白いな~と思ったのは御嶽山を越えた尾張藩の天領ではヒノキは天然更新によってヒノキ林を造成していたという記録があります。
下呂市小坂町の幕府直轄天領でも天然更新は行われていたかどうか分かりませんが、植林も行っていたということは尾張藩と違います。
江戸時代の頃も、管理する人の考えの違いによって森の作り方が違うということが興味深いと思っています。
さて、赤沼田の天保林は古いヒノキ人工林として知られているので、きっと私の愛読書の斐太後風土記にも天保林の記載があるに違いないと思い読み返してみるが記述は無い。
何でだと冷静に考えると斐太後風土記が編纂されたのは1873年ですので、今でこそ江戸時代に植林された貴重な人工林と言われていますが斐太後風土記が編纂された年だと37年生の人工林ですので、現在の岐阜県の人工林の平均樹齢より若いのです。
なので特段大きなヒノキが沢山あったわけでもなく、当時の天領の政策により結構な面積が小坂郷で植えられたことから珍しくなかったんだということが自分なりにわかりました・・・
ちょっと脱線しますが斐太後風土記では赤沼田村のフリガナは(あかぬた)と書かれていました。
今は(あかんた)と読んでいます。いつから(あかんた)になったんだ?という疑問が追加されました。
恐らく、(あかぬた)では言いにくかったので(あかんた)になったと思うんですが・・・
江戸時代という言葉で、とんでもなく古い人工林と思いがちですが樹齢は200年を越えておらずヒノキとしては、それほど古くないんですね~
実際に林野庁中部森林管理局のホームページの天保林についての記載をみると今なお生長を続けていることがわかります。
将来、どういった森になるのだろう?といる自分自身の興味がわいてきました。
さて、実際の森の様子ですが177年生ということもあり天然更新した木曽ヒノキの森と比べると正直なところ迫力不足のところがあります。
ただ、林床植生の様子や広葉樹が混交している状況をみると、かなり近い状況になりつつあり知らないと人工林と思わないのではないでしょうか?
色々な意味で興味深い赤沼田天保林なのでした。
歴史的背景から考えると非常に面白いところですがヒノキの巨木を期待して訪れる人には物足りないところだということを付け加えて小難しい話を終わりにしたいと思います。(管理人)
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斐太後風土記に書かれている地名由来を紹介します。
「村名義は、【和名抄】に安藝國沼田郡、沼田郷、出雲國楯逢郡にも、沼田郷見えたり。此村には赤き水澁(ミシブ)つきたる沼田ある故に、村名に負しとなり。今俗にぬまだと云えども、古語ヌタなること、料理の沼田合にて知られぬ。」
赤い水が出る沼があるのか、料理の沼田なのか?結局よく分からないみたいです。
疑っているのは道の駅の周辺かな?
あのあたりは古い家も無いし。小坂川が荒れた時に水がたまりそうだし。
地名の由来は調べてみると面白いですよね。