徒然にふる里を語る

 一市井の徒として、生まれ育った「ふる里」嬬恋村への思いをつづります。

補足

2020-08-28 09:36:30 | Weblog

 コメントをくれた人がいるので、一昨日のブログを少し補足する。細原地区の開拓は戦後の国策により、大前、大笹の2,3男を中心に入植が始まった。嬬恋村には北山、中原、大平などの開拓地があるが、細原地域は浅間押しで、中原や大平開拓地などとは地力が違い、営農には厳しい土地であった。

 社会が少し落ち着いた昭和30年に、大前地域の人々が大前開拓農業協同組合を設立し、国有林の払下げに入った。相変わらず食料増産のために田畑の欲しい時代だったのだ。畑の配分面積は約1haで、机上での配分であった。この時の払下げ価格は約12,000円だったが、これは畑の分で、膨大な採草地と評する付帯地の価格が含まれていない。

 付帯地は開拓農業組合名義で払下げを受け、その資金は組合員が工面したわけだが、当時、祖父と父親が資産家の親戚に借金をしたことを覚えている。併せて5万円を超えていたような気がするが、そこははっきりした記憶がない。

 当時の高卒の国家公務員の初任給が5,900円ということなので約1年分だ。その売り渡し通知書も、組合解散手続きの過程で調べたが、出てこなかった。どこかで資料が飛んでいる。払い下げた付帯地は土地ブームの先駆けとして、昭和30年代から40年代にかけて売却され、今、浅間高原の別荘地だ。

 プリンスランド、寿産業、日本興業の一部などが大前の開拓組合が売り払った土地となる。大前と同時期に鎌原地区も払下げを受けているのだが、両地区の払下げ面積を定める基礎として、採草地としての観点から、牛馬の数が基準となり、大前が有料道路を超えて鎌原側に押し込んだ、と聞いたことがある。

 お蔭で、昭和40年代に大前の家並みが新しくなった。これはもう伝説だ。

 桟敷高原 秋の気配

 


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