蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

日本人の職業観 読切

2024年04月03日 | 小説
(2024年4月3日)静岡県知事川勝氏が突然辞任を表明した(4月2日)。理由は県の新入職員入職式(1日)での発言「野菜を売ったり牛を飼う仕事をしている者たちとは違って公務員は頭が良い」に世上多くから批判が浴びせられたことによる。私(部族民蕃神ハカミ)は一次発言を聞いていない(音源はネットには出てない)。メディア報道によるものでどのような文脈で発言したかは不明だが、これだけを切り取ってもその思考言い分に不遜さは感じ取れる。

なぜ不遜か?日本人の職業観、更には人と成り、あるべきその姿と全く相容れないからと(私は)思う。あるべき姿とは ;

仕事の場に向かい手抜きいい加減で片付けると、結果、完成度の低い作品を生み出してしまう。レヴィストロースはこうした作品を « Bricolage » やっつけ仕事とした。先住民(近代国家では遠隔地)の産品にたいして完成度の高い近代工芸品、あるいは寸法材質に規格を設けている工業製品と比較のうえです。(著作野生の思考から)
彼は日本を度々訪問したなかで、地方の産物と製作工程に関心を持ち、お土産工房を訪問していた。輪島塗の工房を訪れ作品完成度の高さに驚いた。のみならず他の産地でも真摯な制作姿勢を見て取った。日本には « Bricolage » は無いと結論づけた(著作月の裏側を参考にした)。


Georges Méliès 映画初期の監督(1861~1936年)。彼の生きた19世紀末20世紀初頭にはロケットもコンピュータも発明されていない。月に人工物を送るには「この手しか無い」と大砲を持ち出して、月にぶち込んだ(脳内作業)。JaxxaのSlimが近代科学発展の金字塔だとすれば、Mélièsの月面旅行は Bricolageと言えよう。レヴィストロースはSlimの快挙など知る由もないが、なんとも先見の明があったことか。なおこの写真はBricolageの一例として野生の思考に紹介されている。
下の写真は

着地してひっくり返っても、Méliès大砲に100年以上も先を越されても、マイナス170度の夜でも、なんとか頑張っているSlim。ヤッパ、属性分解して作成する近代科学はスゴイ(写真はYoutubeスクリーンから)

農業とはどんな仕事だろうか?
野菜を栽培するとは土壌の吟味、種の選定、種まきの時期、水やり…幾重かの工程に分かれそれらの一つに判断を間違えば収穫にならない。丁寧さ、真摯さが要求される。いい加減では生活できない。農民の就業姿勢、更には人と成りの姿が、生産財野菜の形と味に現れている。牛の飼育農家(酪農家)にも同じように段階工程を経ているとおもう。公務員の仕事を私は知らないが、作業には幾段階の積み重なりがあり、一箇所でも誤ると成果が出てこない。
両の作業を比べて、一方は「頭の悪い人の仕事」もう一方は「良い人」と断定するのは誤りである。いかなる生業に「やっつけ」はありえない。「職業に貴賤はない」の格言がこの思想を教えている。この言葉を学童(たしか三年生)で習った。キセン貴賤の意味を知らず、教諭は「優劣、どちらにも良い悪いはない」と説明した。今持って心に、言葉と意味の教えを植え付けている。これは本投稿の接近者様と同じ、日本人であれば皆に共通であります。

川勝発言をきっかけにして職業、人性、意識を捉え直し「貴賤はない」の意味を考え直した次第です。

メディア報道を本にした個人的感興です。発言の一次音源には接していないので「付和雷同」の気味があったら乞うご指摘(4月3日)。  
 了 
追: « Bricolage » のレヴィストロース的用い方は「それなりに苦心しているが完成度は低い」としての寄せ集め作業。先住民は「モノそれ自体の運動とモノ同士の連関」が宇宙の森羅と思考している。モノの本質とは属性にあるとする近代科学(コペルニクス、デカルトの創始)と対比している。この対比を手作業、仕事、生産品に敷衍しての比較評価です。蔑んだ意味は付加されていない。
コメント
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