「しかし、舌を制御することは、だれにもできません」(ヤコブ3:8)
舌で失敗したことがあるだろうか。舌は両刃の剣だ。
良い実も、悪い実も、どちらも結ぶ。
人を励まし、癒し、生かす事もできるし、又、刃物となり、人を傷つける事もできる。
感情的な言葉は、特に要注意だ。不用意な舌によって、人間関係が破綻したり、長年の関係を壊してしまう。
又、御霊に導かれた言葉は、深い落ち込みの中で、ひと言葉によって、勇気づけられ、立ち上がれ、立ち直れたりする。
舌は野放しにすると、どこへ行くかわからない。
悪口、噂話、無益な言葉、不必要な言葉、「舌は火であり不義の世界」「少しもじっとしていない悪、死の毒に満ちている」制御すべきだ。
しかし、誰が制御できるのだろう。「誰にもできません」。
自分は全く無力であることを認め、主に拠り頼もう。
私たちに舌を制御することは不可能だ。
何とかして制御しようとするが、何度失敗した事だろう。
どうしてこうなったのかと後悔する。不必要な言葉を発し、関係を悪化させる。
それは自分の力で舌を使っているからだ。又、自分の弱さを自覚していない。
自分を知らない。だから祈りの備えもなく拠り頼もうともしない。
これが失敗の原因だ。
しかし、御霊に導かれるなら可能だ。
「私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸が守られるよう」祈ろう。
黙すべき時には黙し、舌を御霊の支配に委ねよう。
時、場所、相手をわきまえ、最もふさわしい言葉を語らせて下さる。
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肉で舌を用いると、感情に振り回されて、言葉を発してしまい、必ず後悔する事になる。
自己正当化、自分を守るために、舌を使うい、双方で傷つく。
「誰にも制御出来ない」ので、舌が御霊に導かれて、神の恵みを語るために用いられるよう祈ろう。
聖ヨハネ・クリマコ修道者
570年ごろ-649年
ヨハネは、パレスチナで生まれた。16歳のときに、シナイ山の修道院に入った。ヨハネは体こそ弱かったが、マルチリオ修道士の指導のもと、忍耐と謙遜をもって修道院の規則に従い、人一倍勉強をし、神への追従に努めた。その後、恩師であるマルチリオの勧めに従ってシナイ山麓に小屋を建て、独居生活を始めた。そこで黙想、苦行、労働を行ない、徳を磨いていき、多くの人々に影響を与えた。
その後、シナイ山の修道院の修道者たちに推薦され、修道院長となった。彼は、『天国への梯子』という本を著わした。(ギリシャ語で梯子を「クリマコ」という。)本の内容は、イエスが洗礼を受けた年齢(30歳)にちなんで30の段階に分けられ、聖化の過程が示されている。自らの体験や他のすぐれた聖人たちの言葉が引用されており、後代に大きな影響を与えたといわれている。
夏のうちに集める者は思慮深い子であり、
刈り入れ時に眠る者は恥知らずの子である。(箴言一〇5)
このことには、私たち日本人の平均的な気持ちが表れていないでしょうか。けっして、悪気があったり軽蔑したから笑ったのではないでしょう。思わず笑ったのです。
しかし思わず笑ったその中には、「神のこと・霊的なこと・永遠のこと」を人生の中・頭の中から押し出そうとしている私たちの生き方が映し出されているのではないでしょうか。ほんとうに困った時に、なぜ私たちは、「神さま」と神の前にひざまずこうとしないのでしょうか。
働き盛りの人生の夏のうちに、健康で働けるうちに、今は見えていないもの、つまり永遠の神の存在を認め、その神のみこころを知ることに努力を傾けないでよいはずはありません。また人生の刈り入れ時を迎え、人生の結論をそろそろ出さなければならないころ、やがて永遠の世界と正面きって対面しなければならないのに、何の用意もせず、眠りこけているのです。
これは大変なことではないでしょうか。「恥知らず」といわれても返すことばがありません。
こうされたため、主は罪人の代弁者となることができた。ある種の裁判で弁護士は被告と同一視され、法律的に二者は分離されない。さて罪人が法廷に引き出される時、イエスはご自身でそこへ出て来られる。主は審問に答えるために立たれる。ご自身の脇腹、両手両足を指さして、ご自分が代わられた罪人のために、正義の糾弾に答えられる。ご自身の流された血をもって抗弁し、自ら罪人となり、完全に弁護の任を果たし、裁判官は「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」と宣告する。
私たちの主イエスは、罪人の心をご自分のほうに引きつけるために、背いた人たちとともに数えられた。私たちは、同じリストに載せられている方をどうして恐れることがあろうか。私たちは、はばからず主のもとに行き、自分の罪を告白することができる。私たちとともに数えられている方が、私たちに罪を宣告することはおできにならない。
主が罪人のリストに載せられたのは、私たちが聖徒として登録されるためではなかったか。主は聖く、聖い者の中に名を記され、私たちは罪人であり、罪ある者の中に数えられていた。主はご自分の名前を向こうの聖なる表からこちらの起訴状に移され、一方私たちの名前は、起訴状から取り去られて、受け入れられる者の表に記される。ここでイエスとその民とは、完全に入れ替わるのである。イエスは自らを私たちのあらゆる不幸と罪の状態に置かれ、私たちにはイエスの所有されるすべてのものが与えられる。主は私たちに、主の義、主の血、また他の一切の所有物を持参金として与えられる。主にある友よ。背いた人たちとともに数えられた主とあなたが結合されることを喜べ。また明らかに主にある新しき者の中に数えられることにより、あなたが真実に救われたことを証しせよ。
95:4 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。
95:5 海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。
95:6 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。
地中と山の頂とは、最も低い所と高い所の対称になっています。
また、海と陸というのも対称になっています。
そして、それらのすべてを造られたお方は誰であるかと言うと、主なる神であられると告げています。
地と言い、海と言い、また山と言い、それらは皆、自然に存在しています。
しかし、その存在は自然がもたらしたのではありません。
そこには、天と地を造られた方、人格をもたれる方がおられて、そのお方がお造りになられたのです。
人は、自然のうちに存在する物を見て、観察をしますが、それらを造った方のことを考えることはしません。
しかし、私たちは違います。
神の意志と計画なくして、すべては存在しないと知っているのです。
存在は、人格者を通して、その存在があるのです。
★ヨハネの黙示録11章10節
また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
■O:今日のコラム
シャローム。今日も私たちはこの地にいながら、主の家に住まう者として歩んでいきましょう!
黙示録11章では、神様から遣わされた謎の2人の預言者が登場します。この2人の預言者については、いろんな解釈がされています。ある人はエリヤとモーセだとか、いや、どちらかは、エノクだとか、、。
私たちはこの2人の預言者が誰であるのかということを追求する必要はないと信じます。なぜなら、彼らが来るときに私たちはすでに携挙されているか、もしされていないにしても、現れたならば、聖霊様が悟らせてくださいますので。そこまで、この2人は一体誰なのかということを重視する必要はないと私は思います。
それよりも、ここで語られておられるメッセージが、今日の私に何を悟らせようとしているのかを聖霊様によって教えてもらう方が、はるかに重要であり必要です。
黙示録11章には、いろんなことが語られていますが、私は今日、この10節のみことばから、もう一度矯正され、正しい位置に自分の霊を、また自分の人生を置くことを語られました。
11章前半には2人の預言者がいろんな災害を携えて、主を証しますが、最終的に殺されます。そして、その時の「地に住む人々」の反応はどうだったでしょうか?
彼らは喜び祝ったとあります。なぜですか?苦しみが去ったからです。
「地に住む人々」は、神様からの裁きを「苦しみ」としか捉えず、彼らの肉が苦しんでいることを、喜びません。彼らは逆に快楽を喜んでいるからです。
では、私たちはどうでしょう?もし、私たちが「地に住む人々」であれば、同じ反応をするでしょう。苦しみを通る時、喜びが一切なく、神様に不平不満を言い続け、苦しみがなくなる時には、喜ぶ。その繰り返しです。
しかし、私たちは「地に住む人々」なのでしょうか?
パウロは言いますよね。「いつも喜んでいなさい。」ヤコブも言っています。「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」ペテロも試練の中で喜んでいました。
このような人々は「地に住む人々」と違う反応をしています。苦しみを喜び、そこから得られる主の栄冠を目指し前に進んでいました。彼らにとって、苦しみが取り去られることが喜びではなく、その先にあるゴールを見据えていました。
彼らこそ、この地にいながらの、この地の寄留者であり、「天に住む人々」です。なので、彼らの視点は苦しみから抜けることではなく、ただただ、天の喜びに満ちていたのです。
私たちが「天に住む人々」となる時、私たちは苦しみをただの苦しみとして受け入れず、主にますます近く歩み、また、これから、幸いを得られるという希望に満ちていきます。
申命記8章14~16節には、出エジプトをしたイスラエルの民を苦しめ、試みたのは、「あなたをしあわせにするためであった」と主が語られました。
主は私たちに苦しみを通らされます。しかし、それは、私たちがそこで自分が何者かを知り、そして、主にすがるものとなり、最終的には主にあって幸いを得るためです。なので、苦しみをこの上もない喜びとして、「天に住む人々」として歩んでいきましょう。
■A:考えてみよう
今、苦しみの中におかれているでしょうか?ダビデが戦いの中にいた時、一つのことを願ったように、私たちも、主の家に住むことを願っていきましょう(詩篇27篇)。主の麗しさを仰ぎ見、主を思い、主に目を向けていきましょう。
主がなさいたいことに心を留め、主から受ける報い、それは、愛であり、喜びであり、忍耐であり、御霊の実が、ますます私たちの内側で実っていくことを喜びましょう。
「天に住む人々」として、今日、この地で歩んでいきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
ゼカリヤ書6章15節 goo.gl/pRGygS
— 大西利幸 (@tosi_o) 2018年3月29日 - 07:27
詩篇95篇1-3節 goo.gl/iqDNPb
— 大西利幸 (@tosi_o) 2018年3月29日 - 07:30
◆キリストは御子であられるのに、 goo.gl/ugQ42H
— 大西利幸 (@tosi_o) 2018年3月29日 - 07:32
◆怠 惰 と 勤 勉 goo.gl/6JWz5w
— 大西利幸 (@tosi_o) 2018年3月29日 - 07:33
今日の聖人の記念日 goo.gl/SALxYo
— 大西利幸 (@tosi_o) 2018年3月29日 - 07:34
おはようございます。 goo.gl/H4FcyA
— 大西利幸 (@tosi_o) 2018年3月29日 - 07:35
ローマ8:1 goo.gl/HgZT7u
— 大西利幸 (@tosi_o) 2018年3月29日 - 18:18
◆私が呼んでも、 goo.gl/SzScsV
— 大西利幸 (@tosi_o) 2018年3月29日 - 18:19
私たちの忍耐を働かすように命ずるのを主が喜ばれるなら、主はご自分の民に対して望まれるままにされないであろうか。しかし私たちは、答えが長びくのを、祈りが拒まれたのだと判断することのないようにしなければならない。神の長期手形は期日になれば、必ず支払われる。私たちはサタンが答えられぬ祈りを指して、まことの神に対する私たちの信頼を動揺させようとするのを許してはならない。祈りが答えられないのは、祈りが届いていないためではない。神は私たちの祈りを記録しておられる。私たちの祈りは風に吹き飛ばされるのではなく、王の記録保管所のうちに大切に保管されている。
試練の中にある信者よ。あなたの主は涙のつぼを持たれ、聖い尊い悲しみの涙を保存しておられる。またノートを備えて、あなたの聖いうめきを数えておられる。やがてあなたの訴えは聞かれ、あなたは勝利を得るであろう。だから、しばしの間忍耐をすべきではないだろうか。主の時はあなたの時よりすぐれてはいないか。やがて主はいつくしみの顔を見せて、あなたのたましいの喜びとなり、あなたの長い忍耐の荒布と亜麻布とをしまわせ、希望が成就したというしるしの紅の衣を着せられるであろう。
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(ローマ8:1)
私たちは、罪と死の原理のもとにいた。
主に喜ばれるよう、正しく生きよう、御言葉を実行しようとするが、幾ら頑張ってもできない。
どれだけ頑張っても失敗の繰り返しだ。
そんな自分に自己嫌悪を抱き、落ち込んで行くばかりだ。
肉によって無力になってしまっている。
この原理にどうする事もできなかったが、しかし、「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることが決してない」主によって、罪と死の原理から解放された。
そして、今、いのちの御霊の原理のもとに置いて下さった。
リンゴを落とすと、地上に落下するが、もし、手を伸ばし、それを手の平で受けると、落ちない。
落下しようとする力と別の力が働いて、阻止する。
又、地球では、引力の法則により、物は必ず落下するが、もし、宇宙ならどうだろう。別の力が働く。
そのように、一つの原理に対抗する別の原理を置いて下さった。
それが「いのちの御霊の原理」だ。
自分の力で御心を歩もうとしても、絶対にできないが、御霊によって歩む時、い
のちの御霊の原理の中にいるので、御心を行なうことができる。
主がその肉体をもって、罪を処罰された。
それゆえ、私たちも肉にあって死んでいる。
「~ねばならない」でなく、ただただ御霊の声に従って行く時、御旨を行なって行ける。
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罪を犯す事しか出来ない者が、御霊に導かれて歩む時、いのちの御霊の原理の中にいる事になる。
それゆえ、御心を行なう事ができる。
何という救いだろう。御霊の導きを無視せず、ないがしろにせず、従おう。
目の前の促しにまず従おう。
聖ヨナ、聖パラキシオ兄弟殉教者
4世紀ごろ
ヨナとパラキシオは兄弟であり、ペルシャのベト・アサに生まれた。2人は、熱心なキリスト信徒であった。当時、ペルシャはシャプール2世の統治下にあり、キリスト教に対して厳しい迫害が行なわれていた。兄弟は、捕えられている信徒たちを慰めるために牢獄に出かけていたが、ついに彼らも捕まり、法廷に連行された。そしてペルシャ王を崇拝し、自然の神々を礼拝することを強いられたが、拒んだために死刑を宣告された。
残酷な責め苦の後に、ヨナは体を押しつぶされ、パラキシオは尖った木を体に突き刺されるという刑を受け、最後まで神を賛美しながら殉教した。
無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。 (箴言一〇4)
「わたしゃ、このマージャンをやるために、昼間は会社で働いているんですよ」という人にも会いました。これもどうかと思います。けれども一般に、日本人の勤勉はただがむしゃらに勤勉のための勤勉となっていませんか。つまり、ほんとうに生きがいを感じ、使命感に躍動しつつ、喜んで一生懸命働いているのかというと、そうではないらしいのです。
厚生省の統計情報部がまとめた一九七八年の数字によると、働き盛りの四十代五十代の人の自殺率が、もはや二十代の自殺率を追い抜いています。今まで日本では、老人の自殺に次いで二十代の自殺が多く、働き盛りは少ないといわれていたのに、ショッキングです。「悩み多き四十代」と新聞には見出しが出ていましたが、人生の目的がはっきりしていなければ、働く喜びも生きがいもあるはずはありません。
ある牧師はこう言いました。「こんにゃくだって、一本くしを通せばシャンとする。日本人に必要なのは、精神的バックボーンである。」神を知り愛を知り、神のため人のために汗を流し涙を流すという一本筋の通った勤勉な人生は、豊かな人生を生み出すのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ一〇10)。
しかしキリストが「苦しみによって従順を学び、完全な者とされた」との事実の中に、一つの非常に慰めとなる思想がある。それは、主が私たちに対して全き同情をもたれるということである。このキリストの同情が私たちを支える力となる。昔、ある殉教者はこう言った。「私はこの苦難のすべてに耐えることができる。それはイエスが苦しまれたからであり、今も私の中にあって苦しんでおられるからである。主は私に同情してくださる。それで私は心強い」と。主にある友よ。苦しみの時いつもこのことばを思い出せ。
あなたが主の足跡に従う時、主を思い、自らの心を引き立てよ。主のご同情の中に麗しい心の支えを見いだせ。そして苦しみは名誉であり、キリストのための苦しみは栄光であることを深く覚えよ。使徒たちは、御名のために辱しめられるに値する者とされたことを喜んだ。キリストのために苦しみ、キリストと共に苦しむ恵みを与えられるのに応じて、主は私たちに栄誉をも与えられる。クリスチャンの宝石はその苦難である。神の油注がれた王たちの位を証明するものは、彼らの困難と苦悩と悲哀である。だから、この名誉が与えられる時にそれを避けず、抜擢されるのに顔を背けることのないようにしようではないか。悲しみは私たちを高め、困難は私たちを引き上げる。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」
95:1 さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。
95:2 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
「主に向かって、喜び歌おう」「喜びの歌を持って、主に喜び叫ぼう」といっています。
歌にもいろいろあります。
悲しい歌もありますし、寂しい歌もあります。
自分の心に向かって歌う、慰めの歌もあります。
しかしここでは、叫ぶほどの声を持って、主に喜びの歌を歌おうと言っています。
自分に対してではなくて、主に向かって歌おうと言っているのです。
それはなぜかと言いますと、作者は、主が「われらの救いの岩であるからだ。」と言っています。
岩とは、動くことがなく、変わらずに存在し続けるものです。
そのように、主はその救いと助けを変わらずに、また確実に、私たちに与えて下さるお方であるからだ、と言っているのです。
喜びが与えられた時、それは主が与えて下さったことを覚えて、その恵みの主であられるお方に私たちも心から感謝して、ほめ讃えて参りたいと思うのです。