座間コミニティー

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1991

2017年02月21日 19時21分55秒 | 小説・詩

元町のバースターダストで待ち合わせている。

利幸、バーボンロックで彩香(あやか)が来るのを待っている。

眉間にシワを寄せて一口飲む、暫くして彩香がドアを押し開けて入ってくる。「私も同じものをちょうだい」

マスターが無言でカウンターにグラスを差し出す。

利幸が「すんだのか?」「そうすべて白紙になったわ、明日ニューヨークに行くわ、過去(昔の思い出を)を捨てて行くの」

利幸は黙って一口飲む、遠くを見る目でつぶやく「明日の君に乾杯」

気怠い今日が過ぎゆく。


◆あなたは、読んでいることが、

2017年02月21日 16時34分40秒 | 聖書
わかりますか。(使徒八・三〇)
もし私たちが、神のみことばである聖書をさらによく理解しようと思うならば、人をもっとよく教える者となり、さまざまな邪説に惑わされない者とならなければならない。聖書の原著者である聖霊のみが、私たちの目を開いてみことばを正しく理解させられる。したがってすべての真理に導かれるために、絶えず聖書の教えを尋ね、聖霊の導きを求めなければならない。
預言者ダニエルは、ネブカデネザルの夢を解く時どうしたか。彼は、神がその幻を開いてくださるように熱心に祈った。使徒ヨハネはパトモス島で、七つの封印で封じられた巻き物を示された。しかし、それを開くにふさわしい者、否、それを見るにふさわしい者は一人も見いだせなかった。巻き物は後に、勝利を得たユダ族から出た獅子によって開かれたが、その前に「私(ヨハネ)は激しく泣いていた」と記されている。ヨハネの涙――それは祈りの中からあふれ出た涙であった――が、彼に関する限り、閉じられた巻き物を開く聖なるかぎであった。
ゆえに、次のことを覚えよ。もしあなたが、自分のために、あるいは人のために「あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされ」ようとするならば、祈りこそ最上の手段であることを。あなたが神に求めるならば、ダニエルのように夢を理解し、かつ解釈することができる。そしてヨハネのように激しく泣いた後に、七つの尊い真理の封印が解かれるのを見る。
石は、根気よくハンマーを振るわなければ砕かれない。そして石切りをするためには、まずひざまずかなければならない。根気のハンマーと、祈りのひざを求めよ。そうすれば、石のように堅く閉ざされた教えも打ち開かれ、あなたに有用な悟りを与える。祈りと信仰によって粉砕できないほど堅い教えはない。あなたは祈りのてこによって、いかなる難路をも切り開くことができる。思考と推理は、真理を捕える鋼鉄のくさびである。しかし祈りはてこであり、聖なる奥義の鉄の箱をこじあけ、その中に隠された宝を得させる。
 

「主はモアブをあなたがたの手に渡される」

2017年02月21日 16時32分39秒 | 聖書

(Ⅱ列王3:18)

ヨシャパテがユダ王であった時、北イスラエルの王はヨラムであった。
北で、モアブの王がそむいたので、ヨラムはヨシャパテに援軍を頼んだ。

ヨシャパテは引き受け、揃って進軍して行くと、途中で水の無い所に来た。
家畜のための水も無く立ち往生だ。この時、ヨラムはネガティブ思考に入った。

この窮地に、神が自分達を進軍させたのは、敵の手に渡すためであり、神に見捨てられたのだと。
しかし、ヨシャパテは違った。神視点に立った。
神はどう思われ、神のお心はどうなのか。
主の御心を求める事のできる預言者を求めた。

状況がどんなに悪かろうと、神に頼り、神の御心を求めて行く姿勢だ。
ヨラムは「ヤロブアムの罪を彼も犯し続け、それをやめようとはしなかった」偶像礼拝の罪を犯していた。

私たちはどうだろう。偶像礼拝とは、単に像を拝む事ではなく、自己中心も偶像礼拝だ。
自分の思い通りに、自分に都合良く行く事を願う。
もしそうであれば、事態が思い通りにならない時、いら立ち、思い煩い、悲観的になる。

ヨシャパテは、自分の思い、都合でなく御心を求めた。
水が無くなった時に、二つの相反する反応が出た。
目の前に、問題が起きた時、思い煩い、ネガティブに陥って行くのでなく、神の主権を認め、「この事における御心は何か?」と祈ろう。
そこに神の御心があり、学びがあり、豊かな祝福が備えられている。
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いつも、自分視点で物事を捉えるなら、神様が介入される所はない。
事態が悪ければ、うろたえ良ければ喜ぶ。
自己中心な生活を正当化し続けるなら、水のない枯れた道をさ迷うばかりだ。


今日の聖人の記念日

2017年02月21日 07時13分26秒 | キリスト教

聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士

1000/1007年-1072年

 ペトロは、イタリア、ラヴェンナの貧しい家庭に生まれた。幼くして両親に先立たれたペトロは、長兄の家に引き取られたがひどい扱いを受けた。見かねた司祭である次兄が弟を引き取り、学問の道に進ませた。ペトロは大学卒業後、しばらく故郷で教鞭を取り、1035年にベネディクト会に入った。

 彼の神に対する熱心さは修道院でも尊敬され、副院長を務めるなど、院内の改革を積極的に行った。また教皇の依頼を受け、各地を回って教会の改革に力を尽くした。特に聖職売買の腐敗に対して鋭い批判をした。彼の深い学識と徳の高さは多くの人々に影響を与え、1057年に枢機卿に任命された。教皇使節として重要な役割を果たし、教会の発展に貢献した。雄弁家であり、多くの著書を残している。


◆気ままな生活の終わり

2017年02月21日 07時12分22秒 | 聖書

そうでないと、他国人があなたの富で満たされ、
あなたの労苦の実は
見知らぬ者の家に渡るだろう。
そして、あなたの終わりに、
あなたの肉とからだが滅びるとき、
あなたは嘆くだろう。      (箴言五10―11)
きのうに続いて、性的な不道徳の愚かさ・恐ろしさを語っています。説教したり、こごとをいっているのではありません。実物・実例・実際の姿を単純に記しているのです。
「終わりよければすべてよし」といいます。若いころから神を恐れることと神と人のために生きることを学んだ私の尊敬する先輩が、三年ほど前天に召されました。若いころは藁を着て寝るような貧乏の中で苦労しました。汗と苦労に満ちた一生だったかもしれません。
しかし、彼のまわりには妻のきよい深い愛がありました。みんなお父さん孝行で、まっすぐに神に従って歩いている子どもたちと孫たちがいました。彼を裏切らない友人たちに囲まれていました。彼が育てた教会には、たくさんの輝いた顔がありました。彼の葬儀に参加するために私の友人が乗った町のタクシーの運転手は、こう言ったそうです。「あの先生の顔を見ると、不平や不満がしぼんじゃったね。」すばらしい人生だったと思います。彼はその人生の最後にその労苦の実をどっさり収穫し、栄光の神のふところにそれを携えてがいせんしたのです。
金もうけをし、社会的な地位は高くなります。しかし性的不道徳を続ける人は、なかなかその愚かさに気がつきません。平気で女遊びをし、それでも自分は利口だ、かい性があると思う人の愚かさは、最後が来ないとその愚かさに気がつかない点にあります。肉体の力が尽きて、愛のあたたかさや豊かな心の平安や喜びが欲しい時に、まわりに人の愛を求めても、一つも見つかりません。
 

◆主ご自身がこう言われるのです。

2017年02月21日 07時11分13秒 | 聖書
(ヘブル一三・五)
私たちが信仰によってこのことばを把握していさえすれば、あらゆるものを征服する武器を手に持っていることになる。どんな誘惑も、この両刃の剣によって倒せないものはない。どんな恐怖も、神の約束の弓から来るこの矢によって射止められないものはない。人生の苦難と死の苦痛、内なる邪念と外なるわな、上より来る試みと下より来る誘惑、これらは私たちが、「主ご自身がこう言われるのです」というとりでの中に閉じこもっているならば、言うに足りないほどの軽い悩みである。静かな時の喜びのためにも、また戦いの時の力のためにも、この「主ご自身がこう言われるのです」というみことばが、私たちの日々の避け所でなければならない。そしてこれが私たちに、聖書を研究することがきわめて必要なことを教えてくれる。
聖書の中には、あなたの場合にぴったりとあてはまる約束がある。しかし、あなたはそれを知らないために、慰めを受けることができないかもしれない。あなたは牢獄の中にいる囚人のようなものである。そして、一たばのかぎの中の一個でとびらを開くことができ、あなたを解放することができるのであるが、もしあなたがそのかぎを捜さないなら、自由がすぐそばにあるにもかかわらず、あなたは囚人としてとどまっていなければならない。聖書の中には、霊薬の処方箋があるが、あなたがそれを研究し、「主ご自身がこう言われるのです」とあるのを発見しないから、あなたの病はいやされないのである。
あなたは聖書を読むだけでなく、あなたの記憶の中に神の約束を豊かに蓄えておくべきではないだろうか。あなたは偉人のことばを記憶し、有名な詩人の詩歌を暗唱しているが、神のみことばを蓄えて、難問や疑いをただちに解決すべきではないか。「主ご自身がこう言われるのです。」これはすべての知恵の源であり、あらゆる慰めのわき出る泉である。それをあなたの中に豊かに住まわせて、「永遠のいのちへの水がわき出る泉」とせよ。そうすれば、あなたは神のいのちの中で、健康に力強く幸福に育つことができる。
 

詩篇18篇16-19節

2017年02月21日 07時09分43秒 | 聖書


18:16 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。
18:17 主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。



私たちが敵と戦う時、敵の数が多ければ、あるいは敵の武器がより優れていたら、また敵の資金が多けらば、勝ち目がありません。

試行錯誤をして、策を練って戦うということもありますが、不安を払拭することはできません。

そして、弱い者をあえて助けてくれる者もいません。

これが世の常です。

 しかし、ダビデは、違うというのです。

主は、私の敵から私を救い出してくださった。

それは、敵が私よりも強かったからだというのです。

主は、主にある者達にいつも目を注いでくださって、守り、支え、ある時には戦ってくださって、その苦しみと不安から救い出してくださるというのです。

小さいからだめだというのではない。

少ないから希望がないというのではない。

小さい者、少ない者を、主は見て、守ってくださる、というのです。


サムエル記第二10章3~4節

2017年02月21日 07時07分34秒 | 聖書


★『アモン人のつかさたちは、彼らの主君ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来をよこしたのではありませんか。」
そこでハヌンはダビデの家来たちを捕らえ、彼らのひげを半分そり落とし、その衣を半分に切って尻のあたりまでにし、彼らを送り返した。』

■O:今日のコラム
9章で登場するメフィボシェテと、10章のアモンの王ハヌンに共通する事があります。なぜ共通したテーマを隣同士に並べるのか?というと、それを主が強く訴えたいからであると思います。メフィボシェテは、幼い頃に足萎えとなり、人に預けられていました。しかし、元王族であるにも関わらず、そこで蔑まれ、バカにされ、自分に対するイメージは最悪でした。イスラエルの文化では、犬を見下げられる存在として扱っていますが、彼は自分の事を犬どころか『死んだ犬』と表現していました。
  これは、私たちにも当てはまります。私たちも王族の子、それも王の王なる方の子として生まれたにも関わらず、虐げられ、偽りを吹き込まれ続けてきました。自分はつまらない存在、役に立たない存在、嫌われている、愛されていないと。嘘です!私たちは、なくてはならない存在です。だから生まれてきました。また、尊い事に用いられる事になっています。だから、イエス様を受け入れてもまだ、地上に置かれているのです。命がけで愛されて、好意を受けるために作られたのです。
  アモンの王ハヌンも同じです。ダビデが好意を注ごうと使いをよこしたにも関わらず、彼は、偽りを語る者に耳を傾け、その好意を無にしたばかりか敵対する者となり、滅びる事になりました。
  私たちは、何に耳を傾けているでしょうか?御言葉に耳を傾けましょう!信仰は聞くことからです。耳を傾けているうちに、その御言葉に御霊の油が注がれ、その言葉は文字ではなく、生きて働く御言葉(レーマ)となるのです。御霊が与える剣である神の言葉(レーマ)によって私たちの心を刺し貫き、今度はその剣をもって世を変革する勇士となっていくのです。
  生活の中で必ず別の語りかけが、自分の心にやってきます。偽りの語りかけが。ハヌンに対して起こった事は、私たちにも起こるのです。一見静かな日常の中に、平和そうに見える家庭や、学校や職場で、偽りが心の中にささやいてきます。どうしたら良いでしょう?その時こそ、御言葉を宣言して剣を抜く時です!そして、この偽りの声に耳を貸してはなりません。エバは、耳を貸して惑わされました。
思い巡らしてはいけません。想像してはなりません。思い巡らすなら御言葉を思い巡らすのです!その時、主の用意している好意、恵みを受け取り祝福されるのです!
  このどこにでも起こる当たり前の状況こそ、霊的な戦いの主戦場なのです。私たちは神の国の側に立ちますか?サタンの国の側に立ちますか?この世には、実はこの二つの国しかありません。私たちはどちらでもありませんという事はありえないのです。教会は、ハデスの門に打ち勝つ存在として作られました。これが教会のDNAなのです。だから戦うことは、私たちにとって幸いな事なのです。
神を愛し、神の側に立ち続けましょう!私たちの戦いは、愛と喜びと平安がある戦いなのです。もちろん苦しみと悲しみも伴います。ですが、主にある愛と喜び、希望はそれ以上にあります。どのような邪悪な日に際しても堅く立つ事が出来るように、今、この時から、小さな戦場を勝利していきましょう!御言葉の上に立ち続けるのです。

■A:考えてみよう
惑わし、偽りに耳を貸さず、思い巡らさず、御言葉を口ずさみ(宣言し)、思い巡らす。必ず結果(実)が実る事を信じましょう!

『まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、
水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。』(詩篇1:2~3)

■P:祈り
御言葉を握り続けさせてください。いつもこの岩の上に立ち続け、あなたと共に歩む者として祝福し、勝利を見させてください。神に敵対する者ではなく、主の側に立つ者であらせてください。主の恵み、好意を見る者、味わう者であらせてください。


2月20日(月)のつぶやき

2017年02月21日 01時29分41秒 | キリスト教