人の中にいる時、私たちは誘惑される。しかし孤独の中にいる時、同じ誘惑を受けないわけではない。イエス・キリストは人間社会から荒野に導かれて、悪魔の試みを受けられた。孤独には魅力もあれば良い点もある。それは、目の欲、暮らし向きの自慢を抑制するのに役立つかもしれない。しかし私たちのどんな静かな隠れ家にも悪魔は来る。恐ろしい考えをもち、神を汚す誘惑に会うのは、世的な人たちばかりであると思ってはならない。霊的な人々にも同様なことが起こるのであり、最も神聖な地位にあっても最も暗黒の誘惑にさらされるのである。どんなに霊がきよめられていても、サタンの誘惑に会わないという保証はない。
キリストは完全に聖であられた。父のみこころを行うことは、主の食物であり飲み物であった。しかし主は誘惑を受けられた。あなたの心は、イエスの愛のゆえに、セラフィムの炎のように燃え上がるかもしれない。しかし、悪魔はあなたをラオデキヤ教会のなまぬるさにまで引きずり下ろそうとする。
もしあなたが、神がいつクリスチャンに武装解除を許されるかを告げるならば、私はあなたにサタンが誘惑を断念する時を告げよう。戦国時代の武士のように、私たちは眠る時にもかぶとや胸当てをつけていなければならない。なぜなら、敵は私たちのすきをうかがい、私たちを