座間コミニティー

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◆さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、

2016年02月20日 18時01分35秒 | 聖書
御霊に導かれて荒野に上って行かれた。(マタイ四・一)
 
誘惑は聖なる人物をも襲う。イエスは誘惑をお受けになった。サタンが私たちを誘惑する時、火の粉が燃料の上に落ちる。しかしイエスの場合には、サタンの投ずる火は水の中に投げ込むようなものだった。それでも敵はその邪悪な働きを続けた。悪魔がむだであっても努力を続けたとするなら、まして私たちの心がどんなに燃えやすいものかを知った時にはどういうことになろうか。たとえあなたが聖霊によって高度にきよめられていても、地獄の猛火はやはりあなたにつく。
人の中にいる時、私たちは誘惑される。しかし孤独の中にいる時、同じ誘惑を受けないわけではない。イエス・キリストは人間社会から荒野に導かれて、悪魔の試みを受けられた。孤独には魅力もあれば良い点もある。それは、目の欲、暮らし向きの自慢を抑制するのに役立つかもしれない。しかし私たちのどんな静かな隠れ家にも悪魔は来る。恐ろしい考えをもち、神を汚す誘惑に会うのは、世的な人たちばかりであると思ってはならない。霊的な人々にも同様なことが起こるのであり、最も神聖な地位にあっても最も暗黒の誘惑にさらされるのである。どんなに霊がきよめられていても、サタンの誘惑に会わないという保証はない。
キリストは完全に聖であられた。父のみこころを行うことは、主の食物であり飲み物であった。しかし主は誘惑を受けられた。あなたの心は、イエスの愛のゆえに、セラフィムの炎のように燃え上がるかもしれない。しかし、悪魔はあなたをラオデキヤ教会のなまぬるさにまで引きずり下ろそうとする。
もしあなたが、神がいつクリスチャンに武装解除を許されるかを告げるならば、私はあなたにサタンが誘惑を断念する時を告げよう。戦国時代の武士のように、私たちは眠る時にもかぶとや胸当てをつけていなければならない。なぜなら、敵は私たちのすきをうかがい、私たちを
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「マケドニヤへ出かけることにした…

2016年02月20日 18時00分46秒 | 聖書

確信したからである」(使徒16:10)

確信は大切だ。パウロは「確信した」とあるように、神は導きを与え、「確信」を与えて下さる。
この箇所では導きは環境によって示される。
パウロはアジヤとビテニヤ方面をストップされたわけだ。
もし環境による阻止が無ければそちらへ行っていた事になる。
そちらでなく、マケドニヤに渡り、ヨーロッパ伝道という大きな御心が用意されていた。
あっちもこっちも閉ざされて、戸惑いにあっただろうが、確信が与えられたので、行動できた。
神には人の思いとは異なる、深い高いご計画がある。
目の前の道が閉ざされたからと悲観、悲嘆する必要はない。
あなたに遙かに良い別の道があるという事だ。
結果的にそれは最高の道だ。環境の閉じ開きは、主の御心だ。
閉ざされたなら別の道だ。
又、環境が開き、御言葉が与えられ、不安がなく平安があればゴーサインだ。
導きを得るためには、一番大切な事は、自らの意志を明け渡す事だ。
右でも左でも、御心のままにとの態勢でいる時、必ず示される。
そして、必ず御霊の「確信」が与えられる。
「確信したからである」の通り、あなたの求めている導きに、今必要なものが「確信」だろうか。
確信が与えられるよう祈ろう。
----------
導きに対して、御霊の「確信」が与えられる時、行動に移れる。
そして、その確信は、御心を行う上で様々な困難に会った時も、揺るがない土台となり、進んで行ける。
確信は大切だ。

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今日の聖人の記念日

2016年02月20日 14時47分25秒 | キリスト教

聖ヨセフ(レオニッサ)司祭

1556年-1612年

 ヨセフは、イタリア、アッシジ近郊のレオニッサに生まれた。幼いころ両親に先立たれたヨセフは、大学教授の叔父に引き取られて育てられた。学問の才能にも恵まれ、前途を有望視されていたが、より高い理想である神との生活を求めてカプチン会(フランシスコ会の流れをくむ修道会)に入った。

 1587年に会からトルコに派遣され、イスラムへの宣教に力を尽くしたが、皇帝に捕えられて拷問を受けた後、国外に追放された。イタリアに戻ったヨセフは20年の間、骨身を惜しまずに各地を説教して歩き、多くの人を信仰に導いた。

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◆人格の尊厳を売り渡すな

2016年02月20日 14時46分20秒 | 聖書

子どもらよ。今、私に聞け。
私の言うことばから離れるな。
あなたの道を彼女から遠ざけ、
その家の門に近づくな。      (箴言五7―8)
 
「人格の尊厳」がよく言われます。権力をかさに着たり、暴力によってあなたの人格の尊厳を侵すものは人類の敵です。
しかし実際は、権力も暴力も、真底まであなたの人格の尊厳を破壊することはできません。人があなたの顔にたんつばをひっかけ、あなたの着物に汚物を塗りつけても、あなたの人格がけがれるわけではありません。洗えば落ちます。殺されても地獄には行きません。
イエスは、外からのものはあなたをけがさない、あなたの体を通っても、みな排せつされてかわやに出てしまう、あなたの内なるものが、あなたをけがすのだ、と言われました。
だれでも、自分がみじめになったり、あわれな者になったりしたい人はいません。しかし、確実にあなたの人格をけがし、あなたをみじめにするものがあります。それは性的不道徳です。性的不道徳には、強力な罪の喜びというわながしかけてあります。お金と引き換えにその一時的な喜びを買ったその後には必ず、尊厳さを売り渡したみじめなあわれなけがれた魂の寂しさ・孤独があります。性的な不道徳をくりかえしていると、必ず人生の最後に貧しさ・病気・不安・独りぼっち・そして神のさばきが待っているのです。
近づくな。ひっかかるな。私たちにはみな弱い所があります。その弱さを自覚して神の愛ときよさを追い求めること、そこに秘訣があります。自分は大丈夫と思う人ほど失敗をします。
「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい」(Ⅱテモテ二22)。
 
 
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◆気落ちした者を慰めてくださる神……。

2016年02月20日 14時45分31秒 | 聖書
(Ⅱコリント七・六)
 
だれが神のように慰めることができるであろう。友よ。あわれな憂いに沈む神の子どものもとに行き、美しい約束を告げ、その耳に慰めのことばをささやけ。彼はへび使いの声に耳を貸さない、耳の聞こえないまむしのように、聞こうとしないだろう。彼は毒草やにがよもぎを飲んでいるのである。そしてあなたがどんなに慰めても、彼の口から聞くのは一言二言のあきらめのことばだけであろう。神に対する賛美の歌や、ハレルヤの叫びや、喜びの詩などはとうてい聞くことはできない。しかし神がその子どものところに来られ、その子どもの頭をもたげてくださるなら、嘆いていた者の目は輝いてくる。あなたはその悩んでいた人が次のように歌うのを聞くだろう。
 主よ、あなたのおられる所が楽園です
 あなたのおられない所は地獄です
あなたは彼を励ますことはできなかった。しかし、主はそれをなさった。ギルアデにない乳香が神にはある。造られた者の中には医者がいない。しかし創造者はいやし主である。神の甘美な一言がクリスチャンにとってどんなに心を打つ完全な歌になるか、驚くほかはない。神の一語は金の一片のようなものである。クリスチャンは金箔師であって、その約束を何週間分にもわたって打ち延ばすことができる。
かわいそうなクリスチャンよ。あなたは、あわれな乾いた井戸である。ポンプが乾いている時には、まず水を注ぎ入れよ。そうすれば、水を上げることができると聞いたことがあるだろう。主にある友よ。そのように、あなたが渇いている時には神のもとに行き、その喜びをあなたの心に注ぎ入れられるように求めよ。そうすれば、喜びがあふれるだろう。地上の友のもとに行くな。せいぜいヨブの友人のような慰め手を得るだけだろう。まず第一に「気落ちした者を慰めてくださる神」に行け。そうすれば、「私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように」と言うことができよう。
 
 
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第2歴代誌24章20-22節

2016年02月20日 14時44分16秒 | 聖書


24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、主の宮の庭で、王の命令により、彼を石で打ち殺した。
24:22 ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。その子は死ぬとき、「主がご覧になり、言い開きを求められるように」と言った。



 民が偶像礼拝に走ったことを見た、祭司エホヤダの子のゼカリヤが、主の霊によって立ち上り、民を責めました。

ところが、そのことを不快に思った民は、策略をもって、彼を主の宮で殺害してしまいました。

 ヨアシュは、かつてゼカリヤの父エホヤダによって指導されて良い歩みをしていたのに、この時には、ゼカリヤが殺害されることに同意していました。

そこで、ゼカリヤが殺害された時に、彼は王に対して次のように告げました。

「主があなたに、言い開きを求められるように」と。

つまり、彼が行ったこと、またその取った態度に、主が彼に対してその責任を問われるようにと告げたのです。

王である指導者の働きは、主の御心に民を従わせるということにあったからです。


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マタイの福音書25章6節 (ヨブ記25章)

2016年02月20日 14時42分15秒 | 聖書


★ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。


■O:今日のコラム

マタイ25章で主イエスは10人の娘のたとえ話しをされますが、これは終わりの時に生きる私達に対する重要なメッセージです。

油を用意した賢い娘は、賢い(思慮深い、知恵のある)と言われているので、御言葉を悟り従順した者達の姿です。御言葉に従順する時に必ず豊かな油注ぎがもたらされます。

ダビデは詩篇の中で

「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油(最上の油)です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります。」(詩篇141:5)

と言っています。ここに私達が絶えず御霊に満たされ、油を備えた賢い娘(花嫁)となる為の重要な秘訣が記されています。それは御言葉に従う事と祈る事です。

ノアはその悪い時代においても主の御言葉に従順しました。また聖書に登場する多くの信仰者達が悪が増大し、不義が満ち、あらゆる試練に遭う時にも、主を礼拝し、この地をとりなし祈りました。今の時代の中において私達もそのように歩もうではありませんか。そうするなら必ず主の再臨の為に準備出来た花嫁となります。

愚かな娘はその準備が出来ていませんでした。私達は今の時を悟る力を持つ事が重要です。今は私達が思う以上に、主イエスが再び戻ってこられるのに非常に近い時と言えます。主の時を悟る時、愚かな生き方では無く、主を愛し、主の為に準備されて生きる事が出来ます。

「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」(エペソ5:15~18)

しかし、私達は備えにおいては賢い娘の様に生きる必要がありますが、働きにおいてはこの箇所に登場するもう一人の人物の様になる必要があります。

それは「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ者です。

絶えず祈る事や、福音を宣べ伝える事。御言葉に従順する生き方や、再臨について述べる時、人々から嘲笑われたり、のけ者とされる事もあるでしょう。しかし、同時に多くの人々が霊的に目覚めて、キリストの花嫁として整えられて行くでしょう。この「叫ぶ者」に与えられる報いは本当に素晴らしいものです。

「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル書12:3)


■A:考えてみよう

「叫ぶ者」として働き、多く人々を神の義へと導く為に、日々自分自身が御言葉に従順し、祈り、御霊に満たされ、主イエスの血潮により聖められる事を追い求めて歩みましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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2月19日(金)のつぶやき

2016年02月20日 01時42分33秒 | キリスト教
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