座間コミニティー

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◆信じる者には、

2015年08月08日 16時41分53秒 | 聖書

どんなことでもできるのです。(マルコ九・二三)

多くのクリスチャンが、常に疑い、また恐れ、それが信者の必然的状態であるとしてあきらめている。しかし、これは誤りである。「信じる者には、どんなことでもできる」からだ。疑いや恐れが、渡り鳥のように私たちのたましいの上を過ぎはしても、決してそこにとどまらない状態にまで向上することは可能である。
神に愛された聖徒が経験した、高尚なすばらしい主との交わりについて読む時、あなたは嘆息をもらして心の中でつぶやく。「ああ、私にはこのようなことはできない」と。向上を願う者よ。あなたが信仰さえもっているならば、日の輝く神殿の尖塔に立つことができる。「信じる者には、どんなことでもできるのです」と記されているからである。あなたは、聖い人々がイエスのために成し遂げた事業について聞く。また、彼らがどれほどイエスを喜んだか、どれほどイエスに似る者となったか、どれほど彼らがイエスのために大きな迫害に耐えたかを聞く。そしてあなたは言う。「ああ、私はただの虫にすぎない。そのような標準にはとうてい達し得ない」と。しかし、一人の聖徒が達した状態で、あなたが達し得ないものは何もない。あなたが信じる力さえもっているならば、恵みの高さ、霊性の深さ、約束の確かさ、義務のあり方など、何一つあなたに対し開かれないものはない。
あなたの荒布と灰を捨てて、あなたの尊い真の立場に帰れ。あなたがイスラエルの中で小さい者であるのは、それが必要なためではなく、あなたが向上しようとしないためである。王の子どもであるあなたが、ちりの中を這っているのはふさわしいことではない。立ち上がれ。約束の黄金の王座はあなたを待っている。イエスとの交わりの栄冠が、あなたの額を飾るために備えられている。あなたが信じるならば、美食に満足することができる。あなたの土地には乳と蜜が流れ、あなたのたましいは脂肪と髄でもてなされるように満ち足りるであろう。恵みの金の束を集めよ。信仰の畑で、それがあなたを待っているからである。「信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 


「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。

2015年08月08日 16時41分00秒 | 聖書

全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか」(ミカ6:6)

私達は罪が赦されるために、何か必要なのだろうか。
ミカは、どこまで行なえば受け入れてもらえるのかと言っている。
何をもって御前に出たらよいのか。
一歳の子牛を献げたらよいのか。
いや、一頭でなく、数千の雄羊、数万の油を献げなければならないのか。
いや、それでも足らなくて、子供を殺して、献げる必要があるのか。
罪意識が強く来る時に、それを何とかしようとするなら、子供を殺すところにまで行くと言っている。
これが「邪悪な良心」だ。良心に邪悪なものがあるのかと、不思議に思うが、邪悪な良心とは、神を認めない心だ。
神のして下さった事を認めない。
しかし、キリストの十字架で、主の犠牲により、何もかもが解決されている。
すでに完了している。罪の赦しは成就されている。
それを認めないで、それでは足らないので、何かをしなければと思う心だ。
つまり、全面的に完全に、赦されている事を信じない。
赦されるはずが無いと信じている。
だから、行ないを足して受け取ろうとする。
それなら子殺しにまで行き着くという事だ。
そうでなく、無代価で、無償で、いっさいのかたが着いていて、無罪放免にして下さる。
このプレゼントを、恵みを、感謝して、受け取る事が神の御心であり、喜ばれる事だ。
その時、血の注ぎを受け、邪悪な良心がきよめられ、素直な心にされ、更に神に近づけると。
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人間の生まれつきの価値観の中に、恵みの要素は存在しないので、なかなかわからない。
見た事も聞いた事も無い世界だ。
相反して来る価値観をよくわきまえて、信じて行こうとする意志を主に向けよう。
御霊は働き助けて下さる。


今日の聖人の記念日

2015年08月08日 07時45分42秒 | キリスト教

聖ドミニコ司祭

1170年-1221年

 ドミニコは、スペイン北部、カスティリアの裕福な貴族の家に生まれた。25歳で司祭に叙階され、オスマの司教座大聖堂付参事会の一員となり、司教の顧問役として聖アウグスチヌスの戒律に基づいた共同生活をした。

 そのころ、フランス南部ではアルビ派の異端が広まっていた。この派は、善悪の2神の存在を説き、極端な物質軽視、肉体の蔑視を教えていた。そのため、オスマの司教はドミニコを選んで、異端者の回心にあたらせた。ドミニコは貧しいキリストに倣い、施しを受けながら説教をして各地を回った。彼の説教は、人びとを感動させ信仰を取り戻させた。そして必ずロザリオの祈りを勧め、その結果この祈りは教会全体に広まった。1206年に、フランスに女子教育を目的とするラ・ブルイエ修道院を設立した。その後、同志の司祭が彼のところに集まってきたので、1215年に、教皇に対して、説教、司牧、教育による宣教を目的とする修道会の設立を申請し、翌年に「説教兄弟会」としてドミニコ会が公認された。修道会は発展し、多くの偉大な神学者を輩出し、現代に至っている。


◆後味の悪いこと

2015年08月08日 07時44分21秒 | 聖書


だまし取ったパンはうまい。
しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。(箴言二〇17)

子どものころに、自分より幼いサッちゃんのお菓子をだましとって食べたなんていう経験が、だれにもあるのではないでしょうか。子どものころのことはともかくとして、「後にはその口はじゃりでいっぱいになる」(うまい表現だと思います)ような後味の悪いことを言ってしまったとか、してしまった経験はないでしょうか。
以前新聞に、カンニングを発見された高校生が高圧線の塔に登り、すねて降りてこず、とうとう警察と消防署のごやっかいになったことが出ていました。自分で自分がうまく処理できないほど、よほど後味が悪かったのでしょう。
その時は「やった」と思っても、後でよく考えると、どうもほんとうの満足がないばかりか、落ち着かなくて不安だということがあります。
「人の手からパンをだましとるような直接的行為をしたわけではない。……しかし、私の言ったこと、私のとった態度や行動は、ひょっとすると、人の功績を自分の手柄のようにして奪いとったことではなかったか。自分だけが正しかった、自分だけがえらかった、自分だけがよくやったというような偽りの印象を与えてしまったのではなかったか……」という時も、また、「極端に人をおとしめ、人の欠点をあばいて、自分の正当性だけを強調するようなことにならなかったか……」と思われるそんな時も、実に後味が悪いものです。
後味が悪い時は、心から悔い改めるべき時だと思います。悔い改めて、神にゆるしていただき、きよめていただくべきでしょう。そして、後味の悪い経験をしないための中心的なモットーは、「すべての栄光を神に」、これだと思います。

 


◆彼らは……

2015年08月08日 07時43分31秒 | 聖書

くもの巣を織る。(イザヤ五九・五)

くもの巣をよく見ると、偽善者の信仰について多くの暗示を与えていることがわかる。
それはえさを捕まえるために張られる。くもははえを食べて太り、パリサイ人はその報いを得る。愚かな者はたやすく偽善者の巧言にひっかかり、思慮ある者も常に逃れるとは限らない。魔術師シモンはピリポからバプテスマを受けたが、そのずる賢い偽りの信仰告白は、ペテロによってすぐに見抜かれ、叱責された。習慣、評判、賞賛、昇進、その他のはえ――これらは偽善者が彼らの網で捕えた小さな獲物である。
くもの巣は驚くべき技術である。それを見つめるならば、巧みな狩猟者のたくらみに驚嘆するであろう。詐欺師の宗教も驚くべきものではなかろうか。いかにして彼はずうずうしくもうそを真実のように見せかけるのであろう。自分の持っている安物を巧みに、純金であるかのように通用させるのであろう。
くもの巣はすべて被造物の腹から出る。蜜蜂は、その蜜蝋を花から集める。くもは花をあさりはしないが、いくらでも糸をつむぎ出す。そのように偽善者は、彼らの信頼と希望を彼ら自身の中に見いだす。彼らのいかりは彼ら自身の鉄床の上で鍛えられ、そのいかりづなは彼ら自身の手によってより合わされたものである。彼らは神の一方的な恵みにより頼むことを軽蔑し、自分で家の土台を置き、刻んで柱を造る。
しかし、くもの巣は非常に弱い。巧妙にできているが、長もちするようには作られていない。ほうきや、杖で簡単に払われる。偽善者の希望を粉砕するのに、大砲はいらない。ちょっと風が吹くだけで十分である。偽善者のくもの巣は、ほうきがそのきよめの働きを始めるやいなや、ただちに取り払われる。
このことは、もう一つのことを思い起こさせる。このようなくもの巣が主の家に張られるのを大目に見るべきではないということである。主は絶えず気をつけて、くもの巣とそれを張るものとを永遠に滅ぼされる。私のたましいよ。くもの巣よりもさらによいものにより頼め。主イエスをおまえの永遠の隠れ家とせよ。

 


第1歴代誌3章17-24節

2015年08月08日 07時42分04秒 | 聖書

3:17 捕らわれ人エコヌヤの子は、その子シェアルティエル、
3:18 マルキラム、ペダヤ、シェヌアツァル、エカムヤ、ホシャマ、ネダブヤ。 3:19 ペダヤの子は、ゼルバベル、シムイ。ゼルバベルの子は、メシュラム、ハナヌヤ。シェロミテは彼らの姉妹。



 南王国ユダは、バビロンの侵略にあって滅ぼされました。

それは、彼らがなした偶像礼拝に対する神の怒りによる裁きでした。

その国の有力者達は皆、バビロンの地へ補囚の身とされてしまいました。

 ところが、ここでは始めに「捕らわれ人エコヌヤの子は」と語られて、後継者の系図が延々と続いているのです。

私たちは他国に捕虜として捕らわれていったのですから、それで終わりだと思ったりするものです。

ところが、ここでは豊かにその系図が彩られていて、多くの人々の名が記されているのです。

いったいなぜなのだろうと思います。

そして知ることは、神様のご配慮です。

 つまり、そのことによって、神様が選ばれた民は、決して絶滅することはないと、告げていたのです。


箴言1章2節(ルカの福音書1章)

2015年08月08日 07時39分49秒 | 聖書

★これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、

■O:今日のコラム
シャローム!

今日から箴言とルカの福音書の通読が始まります。

箴言は知恵の書です。

知恵と訓戒と悟り、正義、公義、公正…理解するためです。(箴言1:2-6)


箴言1:7
主を恐れることは知識の初めである。
愚か者は知恵と訓戒とをさげすむ。


知恵とは主を恐れることです。

主を恐れるとはどうしたら出来るのでしょうか?


主を恐れる(ヘブル語でyare)を原語で見ると、「尊敬する」「敬意」の意味もあるそうです。

主を恐れるとは裁きや呪いや地獄に入れられる…などの恐れではなく、わたしたち人間を作られた主を尊敬することです。


主を尊敬するとはどうしたら出来るのでしょうか?

色々あると思いますが、真理の御言葉を知り、たくわえ、体験し、御言葉が自分自身に受肉することだと思います。


■A:考えてみよう
箴言1:1
イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

知恵を求めた有名な人物、ソロモンの箴言。わたしたちは箴言を通して今まで以上に御言葉を知り、主を尊敬し、ますます深い領域で主を知ることが出来ますように!


■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。


8月7日(金)のつぶやき

2015年08月08日 01時43分50秒 | キリスト教