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◆沈みかけたので叫び出し、

2016年01月14日 18時22分59秒 | 聖書
「主よ。助けてください。」と言った。(マタイ一四・三〇)
 
主のしもべにとっては、沈む時は祈る時である。ペテロは危険な行動に移る前に祈りを怠った。しかし沈み始めた時、危険に気がついて嘆願した。彼の叫びは遅くはあったが、手遅れではなかった。
苦痛や心労の時、難破船が波のために岸に打ち上げられるように私たちは祈りに追いやられる。狐は穴に保護を求め、鳥は森に隠れ家を求めて飛ぶ。そのように、試みにある信者は、安全を求めて恵みの御座へと急ぐ。天の大いなる避難港は、祈りである。あらしに悩まされた無数の船がそこに港を見いだした。あらしが来た時、急いでそこに駆け込むのは賢明なことである。
短い祈りで十分である。ペテロがあえぎつつ嘆願したのは、非常に短いことばであった。しかし、それで十分だった。祈りにおいて望ましいことは、長さではなく強さである。差し追った必要こそ、簡潔を教えるすばらしい教師である。私たちの祈りが高慢の長い尾羽をもたず、強い翼をもっていたら、さらによいものとなったであろう。祈りにおいてことば数が多いのは、穀物にもみがらがついているようなものである。簡潔さに価値がある。多くの長々とした願いの中で、本当に祈りたいことは、ペテロと同じように短い嘆願で言い表せるのではないだろうか。
私たちが窮境に陥った時、主は働かれる。私たちがせっぱつまって叫ぶ声を、イエスはすぐ聞かれ、その耳も心も共に動き、その手もまたためらわない。私たちは万策尽きてから主に訴える。しかし主の機敏な御手は、私たちの遅鈍を補い、ただちに有効な処置をとられる。私たちは、苦難の激浪にまさにのまれようとしているのだろうか。では、自分のたましいを救い主に向かって上げて祈ろう。そうすれば、主は決して私たちを減びるままになさらないことを知って、安んずるであろう。私たちが何もできない時、イエスは一切をなされる。イエスの力強い助けを願おう。そうすればすべてはよくなるだろう。
 
 
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