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◆神はその光をよしと見られた。

2016年01月05日 17時40分38秒 | 聖書
(創世一・四)
 
「神はその光をよしと見られた。」主は、満足と喜びをもって、光をよしと見られたのである。愛する友よ。もし主があなたに光を与えてくださったとするなら、主はその光を特別な関心をもって見られる。なぜなら、光は主の御手のわざであるため、主にとって慕わしいばかりでなく、ご自身に似たものだからである。「神は光であ」るから。神の目が、その始められた恵みのわざの上に、優しく注がれているのを知ることは、信仰者にとって心強い。主は私たちの土の器に宝を入れ、それから決して目を離されない。時に、私たちは光を見ることができない。しかし神は常に光を見ておられる。それは、私たちが見るよりはるかによいことではないか。さばき主が私の無罪をご覧になることは、私がそう見たというよりもよい。自分が神の民の一人であることを知るのは非常にすばらしいことである。しかし、私たちが知ろうが知るまいが、主がそれを知っておられるなら、私たちは安全なのである。
「主はご自分に属する者を知っておられる。」これが基礎である。あなたは生まれつきの罪のために、ある時は嘆息とうめきの中にあり、自らの暗黒のために嘆くこともあるだろう。しかし主はあなたの心の中の「光」をご覧になる。なぜなら、主がそこに光を置かれたからである。そして、あなたのたましいのすべての曇りとやみも、主のあわれみ深い視線から、あなたの光を隠すことは不可能だからである。あなたは失望してしまうこともあるかもしれない。しかし、もしあなたのたましいがキリストにわずかでもあこがれをもち、また主の成し遂げられたみわざに憩うことを求めているなら、神は「光」を見てくださる。見てくださるだけでなく、その光をあなたの中に守られる。
「わたし、主は、それを見守る者。」注意深く見守り、警戒していても、ついに自らの無力を知った人にとって、これは実に尊い思想である。このように主の恵みによって守られた光は、時が進めば、主によって、真昼の輝き、栄光の満たしにまで発展させられる。内なる光は、永遠の日の光である。
 
 

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