悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。
正しい者の祈りは主に喜ばれる。 (箴言一五8)
ある時、「私、主人にきらわれたら、もう生きていく気がしないんです。あの人に喜ばれるように喜ばれるようにと生きてきたんですのに」と中年の女性に相談を受けて、心を打たれたことがあります。
人生で一番祝福された生き方は、神を喜ばそうとひたすら生きる生き方ではないかと思います。神に忌みきらわれるなら大変です。きよく正しく、しかも愛と真実なお方である天地万有の創造者・支配者にきらわれることは大変なことです。
どういう人が神に喜ばれ、どういうことが神にきらわれるのでしょうか。毎年、天皇陛下が、新宿御苑の観菊会に人々を招待します。時には、ほほえましくうれしくなるような町の人・庶民も招かれることがありましょう。しかしたいていは、権力や地位のある人・学識のある人・大きな財産を持つ人・大きな影響力のある人・有名な人・成功者ばかりです。いわば貢献度のある人、言い換えれば、目に見えるいけにえを携えてこられる人が招かれます。無位無冠の手ぶらでは無理なのです。ところが神は、心はよごれて自分勝手なのに、おみやげばかり華々しい、これみよがしの高ぶった人をおきらいになります。そんな人は、ほんとうの意味では神の愛の前に立つことはできません。
神のみ前に出るには、手ぶらで、何もいけにえはなくてもいいのです。神を神とし、真実のくだけた心がほとばしり出る祈りを持つ人を、神は喜び、み前に引き出し、ゆるし、きよめ、満たし、励まし、新しくしてくださるのです。ダビデは、このように歌いました。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一16―17)。