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◆神はその光をよしと見られた。

2018年01月05日 17時12分39秒 | 聖書
(創世一・四)
「神はその光をよしと見られた。」主は、満足と喜びをもって、光をよしと見られたのである。愛する友よ。もし主があなたに光を与えてくださったとするなら、主はその光を特別な関心をもって見られる。なぜなら、光は主の御手のわざであるため、主にとって慕わしいばかりでなく、ご自身に似たものだからである。「神は光であ」るから。神の目が、その始められた恵みのわざの上に、優しく注がれているのを知ることは、信仰者にとって心強い。主は私たちの土の器に宝を入れ、それから決して目を離されない。時に、私たちは光を見ることができない。しかし神は常に光を見ておられる。それは、私たちが見るよりはるかによいことではないか。さばき主が私の無罪をご覧になることは、私がそう見たというよりもよい。自分が神の民の一人であることを知るのは非常にすばらしいことである。しかし、私たちが知ろうが知るまいが、主がそれを知っておられるなら、私たちは安全なのである。
「主はご自分に属する者を知っておられる。」これが基礎である。あなたは生まれつきの罪のために、ある時は嘆息とうめきの中にあり、自らの暗黒のために嘆くこともあるだろう。しかし主はあなたの心の中の「光」をご覧になる。なぜなら、主がそこに光を置かれたからである。そして、あなたのたましいのすべての曇りとやみも、主のあわれみ深い視線から、あなたの光を隠すことは不可能だからである。あなたは失望してしまうこともあるかもしれない。しかし、もしあなたのたましいがキリストにわずかでもあこがれをもち、また主の成し遂げられたみわざに憩うことを求めているなら、神は「光」を見てくださる。見てくださるだけでなく、その光をあなたの中に守られる。
「わたし、主は、それを見守る者。」注意深く見守り、警戒していても、ついに自らの無力を知った人にとって、これは実に尊い思想である。このように主の恵みによって守られた光は、時が進めば、主によって、真昼の輝き、栄光の満たしにまで発展させられる。内なる光は、永遠の日の光である。
 

「しかし、私自身については、

2018年01月05日 17時11分25秒 | 聖書

自分の弱さ以外には誇りません」(Ⅱコリント12:5)

み言葉の言う弱さとは、自分の限界を知り、認めているということだ。
この世の言う弱さは違う。この世界は比較の中におかれ、比較の中で生きている。
人より仕事ができない、勉強ができない、運動ができない、テキパキ処理できない、対人関係がうまくできない、そんな弱さは悪という価値観だ。

どこまでも競争ゆえ、それなら「負け組」ということになる。
そのようなこの世の価値観、古い価値観の影響を受けると、できない自分、だめな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者になり、自分で自分を受け入れることができず、認めることができない。

問題はここだ。自分が自分を受け入れず認めない。
だから人も認めることができないし、又、自分の弱さを、人にも受け入れて貰えないと思ってしまう。
それゆえ、人に弱さを隠す事になる。競争なので、弱さを見せると、負けになる。
尊敬を失い、自分の価値が下がる、だから絶対に見せられない。

自分で自分を縛り、窮屈にし、がんじがらめにしている。
しかし、御霊の世界は違う。神の力は弱さのうちに完全に現される。
神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それらを弱さの中で初めて体験する。
身をもって知れる。自らの弱さを「認める」時に、御霊の自由の中に入れられ、解き放たれ、平安にされる。
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自分の苦手な部分、弱い所を認めて祈る時、神様の取り扱いを経験をする。
弱さの中で与えられる慰めや励ましは、神様からだと知れてなんと愛されている事かと喜びに満ちる。


今日の聖人の記念日

2018年01月05日 06時08分31秒 | キリスト教

聖シメオン(柱の行者)

390年ごろ-459年

 シメオンは、キリキア州に近い、羊飼いの家に生まれた。ある日、福音書に記されているイエスの山上の説教を読み、感銘を受け、人間の真の幸福とは何かについて悟った。修道者として生涯を送りたいと決心し、アンティオキアの近くにある修道院の門をたたいた。彼はみなから愛されたが、より厳しい生活を望み、規則の厳格な修道院に移った。423年ごろから、一層厳格な修行をするために柱上での生活を始めた。柱の高さは次第に高くされ、最後は約20メートルに達したといわれる。シメオンの行いは人々の好奇心だけでなく、信仰心を呼び起こし、彼のところには多くの人が訪れた。彼は日に2度説教をし、多くの人々に影響を与えた。弟子の中には、聖人となったダニエルもいた。

 シメオンの死後、柱の周囲に修道院と教会が建設された。


◆あざけらない生活

2018年01月05日 06時07分14秒 | 聖書

あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、
愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。(箴言一22後)
「あざける生活をやめよう」と、聖書は語りかけています。
もし神が私たちの罪深さ・きたなさ・偽り・愚かさをあざけられるなら、どうなるかを考えてみましょう。「へん、あんなやつ」とせせら笑われるとしたら、いてもたってもいられないほど恥ずかしい嘲笑を受けるはずの私たちではないでしょうか。
しかし神は、ただだまってあなたを理解し受け入れて、あなたのために死んでいかれました。それは、十字架の出来事にはっきり示されています。そして人間の中のあざけりの心も、イエスをあざけった十字架上の盗賊の例に明らかに見られます。「ふん、お前は神の子か、神の子なら自分を救ったらどうだ。ついでに、おれも救ってくれ」と嘲笑したことが、聖書の中に出ています。あなたの心や私の心の中に、そういうあざけりの心がないでしょうか。
神に近い生活には、あざけらないことが含まれています。イエス・キリストは、「悪に対して悪を報いるな、善を返せ」と言われました。この方こそ、人の罪や背きを一身に引き受け、十字架の上でそのいのちを与え、あらゆる悪と罪とさばきに、ストップをかけてくださった方です。
 十字架のうえに あげられつつ、
 敵をゆるしし この人を見よ
と讃美歌はうたいます(一二一番)。
私たちも、イエスがしてくださったように、人々を知り理解し、そのあるがままを受け入れて、愛し、ゆるすことです。そのようにあざけらない生活が、神に近い生活といえるのです。
 

◆神はその光をよしと見られた。

2018年01月05日 06時06分25秒 | 聖書
そして神はこの光とやみとを区別された。(創世一・四)
光がよかったのは、「光よ。あれ」という神のよいご命令によって生じたからである。光を受けている私たちは、さらに光について感謝をし、その中に、またそれによって、いっそう神を知るべきである。
ソロモンは自然の光でさえ快いと言ったが、福音の光はさらに無限に貴重なものだ。永遠のものをあらわにし、滅びることのない私たちの性質の益となるからだ。聖霊が私たちに霊の光を与え、私たちの目を開き、主の御顔のうちに神の栄光を見せられる時、罪の真相を見、自分の真の状態を知り、ご自身を現された聖なる神と、あわれみのご計画と、みことばに示された来るべき世界を見る。霊の光は光線が多く、色彩もとりどりだが、それが知識であろうと、いのちであろうと、すべて神から来るものであり、よいものである。
啓示の光でさえ、このようによいものであるなら、神の本質的な光の輝きはどんなにすばらしいものであろう。神がご自身を直接啓示される場所は、どれほど栄光に輝いていることだろうか。主よ。光のこのようなすばらしさのゆえに、さらに多くの光を与え、真の光であられる主ご自身をさらに多く与えてください。
この世界によいものが現れるやいなや、区別が必要になる。光とやみの間に関係はない。神はこの二つを分離された。私たちはこの二つを混同しないようにしよう。光の子は、やみの行い、教え、偽りと関係をもってはならない。昼の子は、主の働きをなすのに、真面目で、正直で、かつ大胆でなければならない。やみの働きは、永久にやみに住む者たちに任せなさい。私たちの教会は訓練によって、光をやみから分かち、また私たち自身を世のものと明確に分かつべきである。判断において、行動において、聞くことにおいて、教えることにおいて、友との交わりにおいて、尊いものと卑しいものとを区別し、主なる神が、世界の第一日になされた区分を守らなければならない。
主イエス様。この一日を通し、私たちの光となってください。あなたの光こそ、人々の光ですから。
 

詩篇85篇4-7節

2018年01月05日 06時04分13秒 | 聖書

85:4 われらの救いの神よ。どうか、私たちを生き返らせ、私たちに対する御怒りをやめてください。


私たちが日常の生活の中で、人から怒られたり、怒りを感じるという時は、自分で具体的にそのことを感じることが出来ます。

大きな声で怒鳴られたり、あるいは暴力を振るわれることによって、自分が、怒られているのだと感じるからです。

しかし、目に見えない神様が自分たちに対してお怒りになっていると感じるのは、どのような時なのでしょう。

それは、自分たちが実際に神様の御心にそぐわないことをしてしまったり、そうした歩みをしている時ではないかと思うのです。

その時には、神様がお怒りになっておられるのかなと思うので、神様に祈った時に心に平安がなかったり、また祈りに熱意が入らなかったりすることが起こってきます。

また咎を思い出して、心が苦しくなることがあります。

そうした神の怒りを私たちが自分で感じる時、私たちはどうしたらよいのでしょう。

すべきことは、自分の罪の悔い改めと、赦しと助けを求める祈りなのです。



ヨハネの福音書19章38節(アモス5章)

2018年01月05日 06時01分26秒 | 聖書

★そのあとで、 イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、 イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。 それで、 ピラトは許可を与えた。 そこで彼は来て、 イエスのからだを取り降ろした。


■O:今日のコラム
今日の聖書の箇所、ヨハネの福音書19章でイエス様は十字架にかけられます。いや、人からかけられたのではなく、むしろ自ら十字架への道を歩まれ、それを実行し、私たちに愛を示して下さった箇所です。
ヨハネ19は、あまりにも沢山の出来事が起こっているので、1節ごとでマナメールを書けるほどの内容になっていますが、今日はその中からアリマタヤのヨセフという人に注目してみたいと思います。

まず、他の福音書で彼はこのように紹介されていますので、比較してみたいと思います。

(マタイの福音書27:57)夕方になって、 アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。 彼もイエスの弟子になっていた。
(マルコの福音書15:43)アリマタヤのヨセフは、 思い切ってピラトのところに行き、 イエスのからだの下げ渡しを願った。 ヨセフは有力な議員であり、 みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。
(ルカの福音書23:50-51)さてここに、 ヨセフという、 議員のひとりで、 りっぱな、 正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。 彼は、 アリマタヤというユダヤ人の町の人で、 神の国を待ち望んでいた。
(ヨハネの福音書19章38節)そのあとで、 イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、 イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。 それで、 ピラトは許可を与えた。 そこで彼は来て、 イエスのからだを取り降ろした。

ここから分かるのは、アリマタヤのヨセフという人物は地位の高い人でありながらも、メシヤ(救い主)を待ち望んでいたということです。
また、「アリマタヤ」というのは地名で、これは預言者サムエルの生まれ故郷、ラマと同じ場所では無いかと言われている所になります。

このようなアリマタヤのヨセフを、四つの福音書が名指しで紹介しているというのは驚くべきことです。
なぜ、これほどまでに四つの福音書で彼が取り上げられているかを祈りの中で思い巡らした所、アリマタヤのヨセフがいなければイエス様の死を証明できなかったからではないかという思いに導かれました。

アリマタヤのヨセフはお金持ちで地位のある人物でした。そうでなければ、イエス様のために新しいお墓を用意することができません。
また、地位の高い人物でした。そうでなければ、ピラトに謁見し、交渉するということは難しいでしょう。

それでありながら神の国を待ち望んでいる人物がアリマタヤのヨセフです。

彼が自分の用意したお墓をイエス様の埋葬のために提供したことで、ピラトは番兵を出して墓を見守らせることができました。また、律法学者、祭司長たちはその墓に封をすることができました。
この事を通して、異邦人もイスラエルも、多くの人がイエス様の「死」を確かなものとして受け入れ、証明されたことになります。

そして皆さん御存知の通り、この墓からイエス様は死を打ち破られ、力強く復活して出てこられます。

このように、アリマタヤのヨセフはイエス様の十字架の死と葬りと復活に大きく関わった人物なのです。


■A:考えてみよう
アリマタヤのヨセフはお金持ちで地位の高い人物でした。もちろん、彼がそういう家の下に生まれたことも大きく影響するでしょうが、彼自身も勤勉に努力し、その地位を勝ち取ったのではないかと思います。
神様は天地創造の時、6日間は一生懸命働かれ、第七日目の完成の時に安息されました。律法の中においても、6日間は働くことが勧められています。

私たちは、仕事中にサボる事を考え、神様を礼拝している時に仕事のことを考えたりしていないでしょうか。

仕事をするときには神様が働かれたように、神の子どもである私たちも一生懸命働かなければなりません。しかし、そこで忘れてはいけないのは仕事をしながらもいつも神様を見上げるということです。
自分の生きていくために仕事をすることを超えて、神の国の拡大のために自分は職場に遣わされ、そこで働いているという神様からの使命を受け取りましょう。
皆さんがその職場にいなければ、他に神の国を知るものがその職場にいないかもしれません。たとえ一人でも神の子どもが居るのであれば、そこに主の臨在を運ぶことができます。

みことばを読み、祈って神様からのアイデアを求めて、置かれている場所で一生懸命働きましょう。そして、できることなら、神様に思い切った昇進を求めましょう。なぜなら、高い地位に付くと責任も生じますが、権威が与えられるからです。

例えば、FOREVER21というアパレルショップがありますが、そこのショッピングバックの底には「神は、 実に、 そのひとり子をお与えになったほどに、 世を愛された。 それは御子を信じる者が、 ひとりとして滅びることなく、 永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3書16節)」と日本語でみことばが印刷されています。
これは、一社員が願っても実現は難しいと思います。社長が「みことばを印刷しなさい」と命じれば、社員はそれに従わなければならないのです。
であれば、神の子どもがそのような高い地位につくことで神の国を拡大させていくという働きも必要になってくるのではないかと思います。

アリマタヤのヨセフがイエス様の十字架の死と葬りと復活に深く関わったように、働く皆さんを通してこの日本に神の国がもたらされることを願います。


■P:祈り
天のお父さん、私に日々働く機会と場所と力を与えてくださっていることを感謝します。どのような職業であれ、今置かれている状況・環境に満足し、その中で私が最大限に貢献できる方法を教えてください。
今までは仕事に嫌気が差すことがあったかもしれません。上司や同僚の嫌な部分だけが気になり、職場で噂話や陰口が耐えなかったかもしれません。しかし主よ、私はそのような者とは違うということを教えてください。神の国を待ち望み、時が来たら勇気を持って行動したアリマタヤのヨセフのように、私を職場で用いて下さい。
なぜ今自分がこの職場に遣わされているか、その意味を明確にしてくださいますように。そして、その召しがどのように偉大なものであるかを知恵と啓示の御霊によって悟らせて下さい。
人は使命を明確にされると同じ環境、状況でも全然違った働きをすることができますので、私にはっきりとした使命を悟らせて下さい。
そして、自分のためだけに仕事をしていくのではなく、この仕事を通して神の国をその場所に、関わる一人ひとりに解き放って行くことができますように。
ヤコブの家畜がおびただしく増えたように、私の手の業を祝福し、顕著な結果を出すことができるよう、イエス様の血潮の力を宣言して祈ります。
私にアリマタヤのヨセフの油注ぎを与えてください。私を神の国をこの国にもたらす一人として用いて下さい。
愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。