座間コミニティー

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◆主は私の受ける分です。

2014年05月13日 16時06分43秒 | 聖書

(詩篇一一九・五七)

おお、キリスト者よ。あなたの所有を見よ。そして世の人の分け前と比較せよ。彼らのある者は土地を所有する。彼らは富み、収穫によってますます財産は増加している。しかしあなたの神に比べれば、その収穫が何であろう。はちきれそうな穀倉も神に比べれば何であろう。神は天のパンをもってあなたを養われる。ある人々は、都会でその分け前をもつ。彼らの富は豊かであり、収益は絶えず流入し、それはついに黄金のたまり場のようになる。しかし神と比較すれば、その黄金が何であろう。財産を食べて生きることはできず、霊のいのちは黄金では支えられない。悩む良心の上に黄金を置いて、その苦痛がいやされるか。黄金を気落ちした心に適用してみよ。それは孤独なうめき、悲しみの一つでも軽減させるか。しかし、あなたは神をもっている。そして神にあって、金や財産で買える以上のものをもっている。ある者たちは、多くの人が愛するもの――賞賛や名声――を自分のものとしてもっている。しかし、あなた自身に問え。おまえの神は、それらのもの以上ではないかと。
否、人生には富によっては和らげられない悲哀があり、財産ではどうすることもできない臨終の時の深い求めがある。しかしあなたが、神をあなたの分としてもつ時には、神以外の一切のものを合わせたよりも、はるかにまさるものをもつ。主にあってすべての欠乏は――生においても死においても――満たされる。神をあなたの分としてもつならば、あなたは真に富める者である。なぜなら、主はあなたの必要を満たし、慰め、悲嘆を包み、歩みを導き、暗黒の谷間でもあなたと共にあり、そしてあなたを天の家に連れ帰り、あなたがとこしえに、主を自らの分として楽しむことを得させてくださるからである。
エサウは「私はたくさん持っている」と言った。これは世的な人が口にする最上のことばである。しかしヤコブは「神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから」と答えた。このことばは肉的な心では理解できない。

 


「わたしのことばにとどまるなら…わたしの弟子です。

2014年05月13日 16時06分01秒 | 聖書

そして、真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:31)

よく自由とわがままを勘違いする。
自分のしたい事をするのが自由だと思い、思い通りに出来ないと自由を奪われたと反発する。
不倫をして自分の気持ちに真実に正直に生きると言う。
責任を伴わない自由などあり得ない。
それは自由でなく肉欲であり罪だ。
自由は御言葉から来る。御言葉からしか来ない。
何でも好き放題できるのが自由なのではない。
主は真理そのものであられ、自由であられた。
しかし、自分の思いでは何一つされず、父に服し父の御心に従い、父に示された事を行われた。
御言葉に従うところに真の自由があり、溢れる喜びと平安を味わう。
自分の思いを遂げる自由は、つまり肉であり必ず苦い刈り取りをする事になる。
世の人は自分は自由だと言う。
しかし、真理によればサタンの奴隷だ。
愛なる神の奴隷、義の奴隷になる事が自由なのだ。
今、示されている事があるなら御言葉に従おう。
ますます自由にされ、喜びを経験する。
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何でも出来るのは、肉の奴隷、感情に翻弄されているという事だ。
まとわりついてくる肉の思いから完全に解放されるならどんなにいいだろう。
御言葉に留まり御言葉に従い肉に勝利しよう。


◆勤勉な者の心

2014年05月13日 06時55分36秒 | 聖書

なまけ者は欲を起こしても心に何もない。
しかし勤勉な者の心は満たされる。(箴言一三4)

私たちはみな、「○○したい」という大きな願いを持っているのではないでしょうか。新年には、テレビで有名人・政治家・芸能人などが、この年の抱負を語っているのをたくさん見ました。みんな大きな抱負がありました。
しかし、あるところでこんな文を読みました。「私たちには、○○したいが多すぎる。これが○○するんだに変わらなければならない。たいがだに言い直された時から、ほんとうの人生が始まる。」考えさせられることばでした。
多くの人が自分の人生を変えたいと思い、変わりたいと願っています。しかし、聖書の言う「なまけ者」は、○○したいと願っても、一向に何も決断しないし実行しない人です。ですから、いつも心は、昔どおりにむなしいのです。ところが、聖書の言う「勤勉な者」は、このたいをだに変える人なのです。私は○○するのだと決断し、一歩踏み出して実行します。そして、実行し続けるのです。そんな人の心は祝福され、充実しているというのです。
私たちはだれでも一人残らず、高い人格・きよいもの・愛・親切・思いやりをいいなあと思います。すべての人の心に基本的に、「そのようになりたい」という心があるのです。自分勝手なずるい悪い人をすばらしいなどとは、けっして思いません。しかし、そのようなすばらしいものは、すべて神の中にあります。ですから私たち人間は、意識的にしても無意識的にしても、神を求めているといえるでしょう。
そんな気持ちを、ただの○○したいというレベルから、○○するんだに変え、神に向かって一歩踏み出していただきたいと思います。その時に、心の充足があるのではないでしょうか。

 


◆夕暮れには涙が宿っても、

2014年05月13日 06時54分47秒 | 聖書

朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇三〇・五)

主にある友よ。もしあなたが試練の夜にあるならば、夜明けのことを考えよ。主が来られることを思い、あなたの心を奮起させよ。忍耐強くあれ。「見よ、彼が、雲に乗って来られる」からである。忍耐せよ。農夫である主は刈り入れの時を待っておられる。忍耐せよ。あなたは「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」と言われたのがだれであるかを知っているからだ。もしあなたが、現在ほど不幸な境遇に置かれたことはないとしても、次のことばを覚えよ。
「太陽があと幾たびか出、また没するなら、あなたは美しいカナンの岸に着くだろう。」
あなたが現在、困難のいばらの冠をいただいているとも、遠からず星のように輝く冠をいただく。あなたの手は心配でいっぱいかもしれない。しかしやがて、その手で、天上にあってたてごとを奏でる。あなたの衣は、今はちりにまみれているかもしれない。しかしそのうちにそれは純白になるのだ。しばらく待て、私たちが困難や試練を後ろに顧みる時、それはなんと小さく見えることか。ところが前途に見る時、それは測り知れないほど大きく見える。しかし天国に行けば、
 私たちは喜びにあふれつつ
 足もとの勤労を追憶する
その時、私たちの試練は、わずかの間の苦しみであったことがわかる。いかに夜が暗くても必ず朝が来る。それは、地獄の暗やみに閉じ込められている者には想像も及ばぬ、すばらしい朝である。あなたは、将来に生き、希望に生き、天国を期待しつつ暮らすことがどのようなものであるかを知っているか。このような確実で慰めに満ちた希望をもつ信徒は幸いである。
今はまっ暗であるかもしれない。しかしまもなく光が来る。今は試練のみであるかもしれない。しかしすぐ身に余る幸福がおし寄せてくる。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」なら、今受けるしばらくの軽い患難は何ほどのことがあろう。

 


第1サムエル記21章1-6節

2014年05月13日 06時53分58秒 | 聖書

21:6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、【主】の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。



 ダビデは逃れている途中で、部下と共に、ノブの祭司のアヒメレクの所に行きました。

ダビデは食べ物を持っていなかったので、彼から何か食料となる者を求めたのでした。

通常でしたら喜んで提供したかと思うのですが、当日は、神さまの前に温かいパンが献げられ、その代わりに引き下ろされていたパンだけしかありませんでした。

それは、神さまの前に献げられたものですので、聖なるものとして扱われました。

従って、罪に汚れた者には与えられない物でした。

そこで祭司は、ダビデと家来の人々が女の人に触れず、汚れていないのでしたら、もしこれで良かったらお出ししましょうと言いました。

ダビデは誰も汚れた者はいないと答えた上で、その提供されたパンを受け取りました。

イエス様が後に語られた、パンよりも人の命の方が尊いということが、そこに提示された瞬間でした。

これは今も大事な判断です。



詩篇3篇5-6節、4篇1、8節

2014年05月13日 06時52分44秒 | 聖書

★3:5-6  私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
  私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。

★4:1、8  私を呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私を あわれみ、私の祈りを聞いてください。

平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。

■O:今日のコラム

5月13日の朝です。今日1日も、神様に信頼して委ねていきましょう。苦しみの時にこそ、神様の平安のうちにゆとりを受け取っていきましょう。状況は関係ないからです。

苦しい時、苦しいことを嘆くか、その時にこそ主に目を向けていくのか、僕らは選択することができます。苦しみに留まるか、平安をもつか。すべて僕らの選択によって、状況さえも変わります。

ダビデさんは、苦しい時こそ賛美をしていました。詩編の多くは、苦しみの中で生まれた賛美です。忠実に仕えていたサウル王から命を狙われている時、息子から命を狙われている時、罪を犯した後、賛美ができるような状況でない時に新しい賛美が生まれました。それは、自分の力に頼らず、神様に信頼することでした。

イエス様は、十字架に架かられる前に賛美を歌い、祈りの中で天のお父さんの御心を求めました。すべてを天のお父さんに委ねました。物質があってもなくても、天のお父さんに信頼しました。

僕らも、声をあげて主を呼ぶことができます。主こそ、僕らのまわりを囲む盾、僕らの栄光、僕らの頭を高く上げてくださる方です。僕らは、どんな状況でも、身を横たえることができます。敵がすぐそこにいたとしてもです。

僕らは、自分の力ではなく、主なる聖霊様によって、主なる天のお父さんに委ね、主なるイエス様の御名と十字架と復活の勝利を宣言し、僕らを通して全ての敵を打ち負かすことができます。

だから、今、主の平安を受け取っていきましょう。

■A:考えてみよう

今、ゆとりがないことは何だろうか?
主に委ねていきましょう。

今、恐れがあることは何だろうか?
主の勝利を宣言していきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。