レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

末端の男の「隠し金」

2018-11-18 03:00:00 | 日記
十一月も中旬となり、レイキャビクでは朝晩の暗さがいよいよ冬のものになってきました。おととい金曜日の日の出が9:59、日の入りが16:26でした。気象局のサイトにはわざわざMyrkur「闇」という欄もあり、これは暗くなる時間を指しているのだろうと思います。金曜日は17:26に「暗く」なりました。

その反面、気温の方は持ち直していて、週末は8~10度くらいの暖か目の日となっています。そのかわり雨ですが… 雨降りだと気温が上がるのは日本と同じですよね。




今月初めには自宅近辺でも積雪


もうあと二週間でクリスマス前の「アドヴェント」に入ります。今年は少し遅めで十二月に入ってからになります。街もクリスマス用の飾り付けを始めていますが、私の感覚ではいつもより遅いです。

一時期、十月半ばくらいからクリスマスの品が店に並ぶことがあったのですが、今年はそれがないようにも思われます。なにかしら速さを競うのを「自粛」する取り決めが商店街であったのかもしれません。

教会も忙しさが増してくるコーナーにさしかかっています。私のところもです。ですが私のところは、アドヴェント近し、の故の忙しさではなく、例によって難民関係の故での忙しさです。

ところで「忙しさにというのにはふた通りある」というのが私の持論です。エラそうでスミマセン。ふた通りというのは、ひとつは物理的にすべきことの量が多いこと。

そしてもうひとつは心奪われると言うか、時間を取られる考え事がある場合です。その場合、そういう事項そのものはそれほどたくさんではないかもしれません、数としては。

今現在の私の忙しさは、どちらかというと後者の方です。考えなくてはならない事項があるのですが、それがどうもスッキリクッキリ解決することのない類のものなのです。何かというと「お金」。

私は移民の人たちのケアをする牧師なのですが、教会の中の「社会部」とか「奉仕部」(例えばです。そういう部局は実際にはありません)とかいう「組織」には入っていません。故に、一般の部局が活動の基礎にするような「予算」もないのです。

その一方で、普通の教区牧師のように、ある一教区に在籍しているわけでもありません。ですから教区の教会が活動の基礎にしているような「予算」もないのです。

これは私だけではなく、他の特別職の牧師さんたち、例えば障害者の人たちに専門で関わっている牧師さんや、受刑者とその家族の人たちのための牧師さん等も同様の状況にあります。

では、活動資金はどうするのか?というと、毎年、教会本部の基金からの支援金を申請し、それをもとに予算を組むわけです。予算を組むといっても、事実はそれほど大げさなものではなく、出費をその支援金額内で収めるというだけのことですが。

私の場合、活動資金として申請する額は、過去数年はわずか六、七十万クローネでした。日本円でもそのまま六、七十万円相当。来年度は成長分を見込んで少し上乗せしましたが、それでも百二十万くらいのものです。礼拝(ミサ)の時のオルガニストへの謝礼が出費のメインです。

教会の基金というのは複数あるのですが、例えば教会堂の維持管理のための基金などは、やはり額が大きくなり、「何千万」が基本単位になります。それに比べたら、私の予算なのまさしく「小銭」の域なのです。




四十歳の二十周年記念に古巣のヒャットラ教会から頂いたお花


ですが、私のポジションの場合、このわずかな予算とは別の「隠し金」があります。それは -勝手に「難民基金」と呼んでいますが- 難民の人たちが「今夜泊まるとこがない」「バスに乗るお金がない」「弁護士費用が足りない」等々の緊急事態に対応するためのお金なのです。

これがなぜ「隠し金」かというと、もともとこの基金は教会の予算から出たきたものではなく、引退して田舎の農場を売り払い、フロリダへ移住した老夫婦が「困っている人のために使って」と差し出してくれた百万クローネだったからなのです。

このお金は非常に役に立つもので、かの老夫婦には心より感謝しています。説明するのはちょっと難しいのですが、例えば「誰かが野宿をするのを防ぐための宿代」とかいうのは、正規のルートで得ようとしてもなかなか承諾が得られるものではなく、仮に得られるとしても複雑な事務手続きを経ることになり、今夜の用に間に合わないのです。

そういう点を回避できるこの隠し金は、私にとっては「伝家の宝刀」的な価値を持ち始めています。

ところがです。百万クローネは今日(こんにち)ではそれほどの巨額ではありません。三年も経てば残りわずかになってしまいます。何とかしなくては。というわけで、私自身毎月一万クローナを自分の給料から献金していますし、日本からの旅行者の方の結婚式等で得る「臨時収入」もこちらへ回すようにしています。

それでなんとかバランスを保てていたのですが、ここのところ「弁護士費用」「バス代」「緊急食費」等々が重なってきたため、台所が火の車的な状況になってしまっているのでした。

先週末には、アフガン難民の女性(といってもやっと二十歳で、まだ女の子)と話しをしました。とにかく大変な体験をしてここまでたどりついていたのですが、心のケアを専門家に相談する必要がある、と別の難民アドバイザーから言われていました。だのにそのためのお金がない。ということで、そのための費用として16.000クローナを教会が出せるか、出せないか、を決めなくてはなりませんでした。

ジリ貧になってくると、16.000という額は深刻な額なのです。

でも、世の中を見渡してみると「16.000クローネなんて、そう大した額ではない」というのも事実です。ガソリン、一回満タンにしたら7.000かかりますからね。レストランで外食一回したって、ふたりで15~6000くらいはかかるでしょう。




ハウテイグス教会での「難民の人たちとする祈りの集い」


テレビやネット、新聞等での広告を見ても、16.000クローネ前後の額はごく「当たり前」のものとして飛び回っています。人ごとではなくて、自分もそうなのです。この間ユニクロでダウンのロングコートを買いましたが、それが17.900円。正直言って「安い」と思いましたよ、ダウン製品にしては。質もいいし。

それくらい嬉しく使える額なのですが、それが「難民女性が専門家に心のケアをしてもらう」ということになると、急に重く、しんどい額になってしまうのです。「しんどい額」というのは私が出し渋っているということではなくて、「それ用の予算の中から出すには、楽な額ではない」という意味です。

お金の価値は均等ではないし、お金の分配もフェアではない、と感じざるを得ません。公平に考えて、私がユニクロのダウンを求めた必要性よりは、このアフガン女性が専門の精神ケアを求める必要性の方がずっと高いと思います。

結局、16.000クローナは出すことにしましたが、その分の補充を考えないといけません。次が来る前に...

と、いうようなことを考えていて、このところ忙しくなっているのが私の現状です。スケールの大きさ(小ささ)というか、扱う額の小ささというか、ワタシはやはり末端の生き物だと感じさせられます。

まあ、逆にそういう末端だから感じることのできる喜びとか、見ることのできる美しさというものもあるのだろうと思います。例えば、あのアフガン女性が微笑むことができる日が来た時とか。

ウーン、札束よりはそっちの方がいいかな?ワタシは...
やはり末端で生きる生き物ようです。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is
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