レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

「馬子にも衣装」 じゃ、駄目だろー!

2019-01-20 03:00:00 | 日記
さて、今回のトピックは前回の続きで、もう少し教会の牧師さんの「制服」というか、衣装についてです。前回は自分の気の向くままに、牧師シャツについて制服として紹介したわけですが、実際には他にも色々と「衣装」はあります。

日本の皆さんにはなかなか馴染みのあるものではないと思うので、雑学のひとつぐらいの気持ちで読んでいただければ幸いです。

教会で行われる礼拝式などは、堅苦しく言うと「(宗教)祭儀」と呼ばれますので、「祭服」いうのが正式な呼び方になります。

この祭服ですが、例えば私が属しているルーテル教会(宗教改革を起こしたドイツのマルチン・ルターの教派)は、世界中に広がっているのですが、それでも同じ教派ですので、祭服の様式等も一応は共通性があります。

しかしながら、やはりそれぞれの国の文化や教会がどのように発展したか等の歴史的な経緯もありますから、まったく同じでというわけでもなく多様性があります。

アイスランドの教会は、国が長らくデンマーク国王の統治の下にあったこともあり、デンマーク国教会の影響を多く受けています。祭服もまた然り。

ちなみに私はアイスランドの教会を「国民教会」と呼ぶようにしています。一応国の権力からは独立した教会だからです。ですが、デンマークの教会のことは「国教会」と伝統的な呼び方を使います。なぜならそこでは「国の教会」という性格がいまだ強いからです。

さて、日曜日の礼拝式や、結婚式、葬儀等の祭式においての、牧師さんの基本の服装は前回お話ししました牧師シャツにパンツ(ズボンの意味で)です。下着のパンツとシャツなんかももちろんですよ。(^-^;

スーツの上着は着ずに、シャツの上からヘンパHempaというローブのようなドレスを着ます。これはとても厚い生地でできていて、色は黒のみ。相当重い衣装です。そして、このヘンパを着た上で、首の周りにピープクラーギという首輪のようなものを付けます。




ヘンパとピープクラーギの牧師さん デンマークの映画より


ピープはパイプ、クラーギはカラーを意味し、その名の通り、この首輪(カラー)は小さなパイプ状に生地を丸めたものがつながってできているのです。

子供が小さい時に、お風呂で頭を洗うのに丸いスポンジ製のものを被せてあげて、目にお湯が入るのを防ぐことがありますよね。あの丸いスポンジを首の周りに付けると思っていただければ、だいたい正解です。

このヘンパにピープクラーギというのが、アイスランドの牧師さんの第二の平均的いでたちです。この上に、さらに儀式の種類や季節によって、トッピング?の衣装が重なっていきます。

... なのですが、私はこのヘンパを持っていません。昔はひとりの新牧師が誕生すると、必ずヘンパ一着がもらえたようなのですが、今ではこの衣装を縫う人が少なくなり、品不足に加えて高価格なのです。一着十万クローナ、と二十年くらい前に聞いた覚えがあります。

こちらの教会で正式に奉職するようになって二十二年になりますが、私がこのヘンパ+ピープクラーギの格好をしたのは、僅かに三回だけです。1997年のカルトゥ監督の就任式、2012年のアグネス監督の就任式、そして昨年のある新人牧師の按手式(牧師となる時の式です)の三回。

この三回ともヘンパの着用が義務付けられているので、複数持っている同僚から借りて出かけました。

でも「制服」たるヘンパがなければ困るだろう?と思われるかもしれません。が、大丈夫です。私が使うのは「アルバ」と呼ばれる白い色のローブです。これは生地がヘンパよりもずっと薄く軽く、普通皆さんが思い浮かべるであろうような代物です。

実は、ルーテル教会を世界規模で眺めるならば、このアルバの方がずっと「普通」な制服なのです。ヘンパはアイスランドとその親分のデンマーク、そして北ドイツの一部だけで使われる「ローカルな衣装」なのでした。

二十年ほど前、礼拝にアルバで参加したのですが、礼拝の後でひとりのおじいさんが「なんでそのような変な衣装を着けているのか?」から言われたことがありました。「あのですねえ、こちらの方がフツーなんですけど... 」

個人的には、ヘンパを使いたいとは思いません。なにしろ生地が厚いから、夏は暑いです。汗が染み込んだって、気軽に自宅で洗濯できる代物ではないし。みんな、汗臭いのを我慢して使っているに違いありません。不衛生。不健康。

歴史的な意味がありますから、保存の意味を込めてたまに使うのはいいでしょうが、いずれ日用からは消え去ることでしょう。「絶滅危惧種」ですね。

さて、礼拝式での伝統的装束は、このヘンパの上に薄い白い上っ張りのようなものを着ます。リッキリーンといいます。そしてこの上にストーラーという、帯状のものを肩に掛けます。首を中心にして、前の左右にその帯が垂れてきます。前回のブログの写真を見ていただければ明瞭。

ストーラーの起源は定かではないようですが、その意味するところはキリストの背負った十字架です。




聖餐式を行なうためのハーカットゥルを着けた牧師さん フル衣装です


そして、さらに聖餐式というパンと葡萄酒を皆で分かち合う儀式 -これは教会の中では大変に重要な儀式です- を行う際には、さらにこの上にハーカットゥルHokullという袖のないチョッキのようなものを被ります。

これは元をたどると「小さな家」を意味するのだそうですが、何のために用いるのか、正直私は知らなかったのですが、先輩ん牧師さんに訊いたところ「キリストの代行」をしていることを表すのだそうです。それはそれは。そのような大切なことを知らずにゴメンナサイ。(本心から言っていませんが)

ストーラーとハーカットゥルは、白、赤、緑、紫と四色あり、教会暦の季節によって用いる色が決まっています。ハーカットゥルには金色もあることがあります。色は白、赤、緑、紫の順番で、それぞれに「純潔」、「血」もしくは「聖霊」、「信仰の成長」もしくは「生命」、「悔い改め」を表します。

私は、自分の自由裁量が許される限りにおいては、ハーカットゥルの使用は拒否しています。暑いし、重いし。なくたっていいじゃん、そんなもの...

てなこというと、「ふざけるな。ひとつひとつに意味が込められているのだ」という人が必ず現れましょう。それは確かにそうです。

しかしながら、多少真面目に言わせていただくと、大層な衣装や舞台装置の故に、一番根本にあるべき霊性、精神性がしぼんでしまうのも確かです。私の実体験的に言って、それこそ深刻に考えるべき点のあることです。




スカンジナヴィアの監督が一堂に会した昨夏よりの一枚 それなりのいでたち
Myndin er ur Frettabladid


「平民」の姿をして牧師としての威信を勝ち取りたければ、それにふさわしいことを語らなければなりません。衣装で威信を振りまきたがるならば、結局衣装負けしてしまうのです。

総論として言いますと、私はアイスランド国民教会の祭服、祭具には「過剰」なところがあると思います。不必要な飾りは捨て、もう少し胸元を開いて人と相対する方がはるかに宗教的な霊性を健全に保てるであろう、と常日頃考えています。

「制服」がダメ、というのではありませんよ。前回書きましたように、牧師シャツは大好きですから。ただ、「行き過ぎ」てはいませんか?ということです。

これを書いていて、なぜか「裸の王様」の話しを思い出しました。相通じるものここにあるような、ないような。寓話というのは、やはりものを語るか... ?


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is


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