一月中旬になっても、まだ気温は3度から9度、もちろん雪はまったく積もっていない2019年のレイキャビクです。もっともストームは定期的にやってきているようで、これと雪が重ならないでくれることを願います。
個人的なことを言うと -このブログは始めから終わりまで個人的なものではありますが- 一月からかなり忙しくさせてもらっています。それは大歓迎なのですが、ひとつだけままならないのは、約束の時間に大幅に遅れてくる人がいることです。
難民の人の場合は、バスと徒歩でやってきますので、車族ほど時間は安定しません。だから三十分くらいの遅れはいつも計算しているのですが、さすがに一時間以上となると「なぜそうと事前に言わんかい?」という気持ちにさせられます。
いけませんねえ、年頭からこれでは。でもここで、それを一言書くと、それでかなりスッキリします。(そういうわけでブログやってんのか?(^-^; )
さて世の中には「制服フェチ」なる言葉がありますね。制服を着ている人が特に素敵に、魅力的に見えるので、制服そのものや制服姿の人に魅入られる人のことのようです。
まあ、この言葉はそれなりにアダルトな方面へ繋がることも多いようですから、それ以上は深追いしません。
ルーテル教会の通常の礼拝式用の「制服」アルバとストーラー
Myndin er ur Vera
そういう方面ではなくても、「制服」というものに特別な愛着と敬意を抱くことはかなり一般的なのではないかと思います。さらに言えば、自分自身の職業で制服を使う職種にいらっしゃる方は、おそらく自分自身の制服というもに関しては、それなりの自負とプライドを持っているものでしょう。
聞いただけなので、実際はどうなのかよく知らないのですが看護婦さん(看護士さん、ですね今は)になる方が「戴帽式」への期待を語っていたのを覚えています。
自衛官とか、警察官の方々もおそらく人一倍制服に対する誇りは高いのではないだろうかと想像します。これは一般のメディア等で得たイメージなので、あくまで想像です。プロ野球の選手だって、憧れのチームのユニフォームに袖を通すのは嬉しいことに違いありません。
私はルーテル教会というプロテスタントの一派の教会の牧師です。カトリック教会とか、オーソドックス教会のように、非常に多彩な祭服(教会儀式を行う時に使用する一種の礼服)や祭具を使用する教会ではないのですが、それでもルーテル教会の牧師さんたちにも、制服というか牧師用の服装というものがあります。
非常に大雑把な話しになりますが、英国国教会(聖公会)やルーテルのように、カトリック教会から分離した当時の伝統や習慣を、割り合い多く保持している教会は、祭服祭具なども多くあります。
対して、宗教改革以降にも変化を続けた教会(改革派教会)や、むしろ宗教改革後に生まれてきた教会(バプテスト教会)等では、特定の祭服等を使わないようです。例えば牧師さんは普通のスーツや、その上に黒のガウン(裁判官みたいな)を羽織って礼拝などの宗教行事に向かいます。
話しがつまらなくなるでしょうから、元へ戻ります。で、私にも一応「制服」的な衣装があります。普段から着ることの多い牧師のシャツ、それに結婚式や礼拝の時だけ使うガウンのような祭服が日常的な「制服」です。
今回書きたいのは、この「牧師シャツ」のことです。これは、皆さんがテレビや映画で見る時によく見かけるあのシャツ、黒くて高校生の詰襟のような形態で、喉元だけ白いカラーがのぞいているヤツです。このシャツはカトリック教会の神父さんと「共通」のものと言えます。
十八世紀アメリカの牧師ジョナサン・エドワード これがラバ
ですが、ずーーーっつと昔から、このような形態のシャツが使われていたわけではありません。実際は長らく教会の司祭や牧師は、「ラバ」と呼ばれる、結んでいない蝶ネクタイというか、小さな襟ナフキンというか、そのような形態のものを垂らしていたようです。
白くて丸いカラーの外側に黒シャツの襟が囲んでいる、お馴染みの「ローマンカラー」と呼ばれるものがこれに取って代わったのは、割と最近で1930年代のことだそうです。
現在、最も出回っているのは、このローマンカラーを簡略化した「ミニカラー」と呼ばれるもので、カラー部分が喉元の15-20センチのみの「はめ込み」になっているものです。
私もこの簡素版を愛用しています。制服とか祭服にはそれぞれの謂れがあるのが普通ですが、この現代の神父・牧師シャツにもそれなりの理由があるようです。
その「理由」ですが、これは首の「喉仏」をリンゴ -アダムとイブが食べてしまい最初の「罪」となったあのリンゴ- にみたて、それを黒い死が囲んでいるのを、白いカラー、つまり復活と生命が救う、というようなことのようです。
ローマンカラーのシャツ カラー部分は取り外しできます
牧師さんにも色々なタイプがあり、私はそれほど伝統儀式とか、なにか儀式中にもちいるものの謂れとかに執着するタイプではないので、正直言ってこの方面は勉強不足です。スミマセン。m(_ _)m
にも関わらず、私はこの牧師シャツを着ることを気に入っています。
実際的なことを言うと、このシャツを着ないとすると、礼拝式の時にどのようなスーツ、シャツ、タイを選ぶか?というのはかなり面倒くさい問題なのです。地味過ぎたらカッコ悪い、派手過ぎたら文句言われる等々。制服、ユニフォームの隠れた利点のひとつは「考えなくていい」ということですね。
加えて、このミニカラーシャツは、カラーを外しておくとオープンシャツ化しカジュアル、カラーをすればオフィシャルにもなりますから、広範な職務状況に対応できます。さらに自信が足りない時に「牧師様だ」と衣装で権威を借りるにも便利。
マイシャーツ 色は黒だけではありません
ですが、このシャツを気に入っている本当の理由は、それを着ることで自分がこの牧師職にあることを実感できるからだろうと思います。
牧師になる前、神学校にいた最終学年、学校の礼拝でこのシャツをフライングで身につけ「まだ、牧師じゃないだろ」の文句を受けたことがありましたが、「いいじゃないか」とかばってくれた先生もいました。ありがたや。
アイスランドに移り、周囲の牧師さんたちがやたらに権威主義的に見えた時期がありました。その時期は反抗して牧師シャツではなく、なるべくスーツで通しました。別にスーツも嫌いではありません。
ですが、牧師シャツとスーツでは根本的に違いがあります。牧師シャツは私の制服であり、制服はそれを着用している人の存在証明のようなところがあります。実際にはそれだけで、その人がどういう人かの証明にはなるものではありませんが、その人が「あるべき姿」を思い起こさせてくれる効果はあります。
時々、色々な面倒くさいことが重なったりして、疲れるし、嫌になることもあるんですけどね。そういう時にはシャツをただ取り出して眺めたりします。すると、単純な作りのワタシは、それだけで気分が良くなったりするんです。
「まだこの仕事に就いているんだ」「まだこのシャツを公に着ることができるんだ」という喜びを再確認することができるんです。そうすると、たいがいの難しい状況でも、辛抱し抜け出す術を考える意欲が湧いてきます。
自分が生きがいを感じることのできる仕事に就いているとしたら、それは相当にありがたいことでしょう。実際はそうはいかない現実があることと思います。それでも、なんとかより多くの方が、「これをしたかった」という仕事に就けますことを願います。
「この制服を着たい」「あのユニフォームに袖を通したい」ということでも、非常に具体的な夢、目標になり得るでしょう。特に若い皆さん、あきらめないで!!
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
個人的なことを言うと -このブログは始めから終わりまで個人的なものではありますが- 一月からかなり忙しくさせてもらっています。それは大歓迎なのですが、ひとつだけままならないのは、約束の時間に大幅に遅れてくる人がいることです。
難民の人の場合は、バスと徒歩でやってきますので、車族ほど時間は安定しません。だから三十分くらいの遅れはいつも計算しているのですが、さすがに一時間以上となると「なぜそうと事前に言わんかい?」という気持ちにさせられます。
いけませんねえ、年頭からこれでは。でもここで、それを一言書くと、それでかなりスッキリします。(そういうわけでブログやってんのか?(^-^; )
さて世の中には「制服フェチ」なる言葉がありますね。制服を着ている人が特に素敵に、魅力的に見えるので、制服そのものや制服姿の人に魅入られる人のことのようです。
まあ、この言葉はそれなりにアダルトな方面へ繋がることも多いようですから、それ以上は深追いしません。
ルーテル教会の通常の礼拝式用の「制服」アルバとストーラー
Myndin er ur Vera
そういう方面ではなくても、「制服」というものに特別な愛着と敬意を抱くことはかなり一般的なのではないかと思います。さらに言えば、自分自身の職業で制服を使う職種にいらっしゃる方は、おそらく自分自身の制服というもに関しては、それなりの自負とプライドを持っているものでしょう。
聞いただけなので、実際はどうなのかよく知らないのですが看護婦さん(看護士さん、ですね今は)になる方が「戴帽式」への期待を語っていたのを覚えています。
自衛官とか、警察官の方々もおそらく人一倍制服に対する誇りは高いのではないだろうかと想像します。これは一般のメディア等で得たイメージなので、あくまで想像です。プロ野球の選手だって、憧れのチームのユニフォームに袖を通すのは嬉しいことに違いありません。
私はルーテル教会というプロテスタントの一派の教会の牧師です。カトリック教会とか、オーソドックス教会のように、非常に多彩な祭服(教会儀式を行う時に使用する一種の礼服)や祭具を使用する教会ではないのですが、それでもルーテル教会の牧師さんたちにも、制服というか牧師用の服装というものがあります。
非常に大雑把な話しになりますが、英国国教会(聖公会)やルーテルのように、カトリック教会から分離した当時の伝統や習慣を、割り合い多く保持している教会は、祭服祭具なども多くあります。
対して、宗教改革以降にも変化を続けた教会(改革派教会)や、むしろ宗教改革後に生まれてきた教会(バプテスト教会)等では、特定の祭服等を使わないようです。例えば牧師さんは普通のスーツや、その上に黒のガウン(裁判官みたいな)を羽織って礼拝などの宗教行事に向かいます。
話しがつまらなくなるでしょうから、元へ戻ります。で、私にも一応「制服」的な衣装があります。普段から着ることの多い牧師のシャツ、それに結婚式や礼拝の時だけ使うガウンのような祭服が日常的な「制服」です。
今回書きたいのは、この「牧師シャツ」のことです。これは、皆さんがテレビや映画で見る時によく見かけるあのシャツ、黒くて高校生の詰襟のような形態で、喉元だけ白いカラーがのぞいているヤツです。このシャツはカトリック教会の神父さんと「共通」のものと言えます。
十八世紀アメリカの牧師ジョナサン・エドワード これがラバ
ですが、ずーーーっつと昔から、このような形態のシャツが使われていたわけではありません。実際は長らく教会の司祭や牧師は、「ラバ」と呼ばれる、結んでいない蝶ネクタイというか、小さな襟ナフキンというか、そのような形態のものを垂らしていたようです。
白くて丸いカラーの外側に黒シャツの襟が囲んでいる、お馴染みの「ローマンカラー」と呼ばれるものがこれに取って代わったのは、割と最近で1930年代のことだそうです。
現在、最も出回っているのは、このローマンカラーを簡略化した「ミニカラー」と呼ばれるもので、カラー部分が喉元の15-20センチのみの「はめ込み」になっているものです。
私もこの簡素版を愛用しています。制服とか祭服にはそれぞれの謂れがあるのが普通ですが、この現代の神父・牧師シャツにもそれなりの理由があるようです。
その「理由」ですが、これは首の「喉仏」をリンゴ -アダムとイブが食べてしまい最初の「罪」となったあのリンゴ- にみたて、それを黒い死が囲んでいるのを、白いカラー、つまり復活と生命が救う、というようなことのようです。
ローマンカラーのシャツ カラー部分は取り外しできます
牧師さんにも色々なタイプがあり、私はそれほど伝統儀式とか、なにか儀式中にもちいるものの謂れとかに執着するタイプではないので、正直言ってこの方面は勉強不足です。スミマセン。m(_ _)m
にも関わらず、私はこの牧師シャツを着ることを気に入っています。
実際的なことを言うと、このシャツを着ないとすると、礼拝式の時にどのようなスーツ、シャツ、タイを選ぶか?というのはかなり面倒くさい問題なのです。地味過ぎたらカッコ悪い、派手過ぎたら文句言われる等々。制服、ユニフォームの隠れた利点のひとつは「考えなくていい」ということですね。
加えて、このミニカラーシャツは、カラーを外しておくとオープンシャツ化しカジュアル、カラーをすればオフィシャルにもなりますから、広範な職務状況に対応できます。さらに自信が足りない時に「牧師様だ」と衣装で権威を借りるにも便利。
マイシャーツ 色は黒だけではありません
ですが、このシャツを気に入っている本当の理由は、それを着ることで自分がこの牧師職にあることを実感できるからだろうと思います。
牧師になる前、神学校にいた最終学年、学校の礼拝でこのシャツをフライングで身につけ「まだ、牧師じゃないだろ」の文句を受けたことがありましたが、「いいじゃないか」とかばってくれた先生もいました。ありがたや。
アイスランドに移り、周囲の牧師さんたちがやたらに権威主義的に見えた時期がありました。その時期は反抗して牧師シャツではなく、なるべくスーツで通しました。別にスーツも嫌いではありません。
ですが、牧師シャツとスーツでは根本的に違いがあります。牧師シャツは私の制服であり、制服はそれを着用している人の存在証明のようなところがあります。実際にはそれだけで、その人がどういう人かの証明にはなるものではありませんが、その人が「あるべき姿」を思い起こさせてくれる効果はあります。
時々、色々な面倒くさいことが重なったりして、疲れるし、嫌になることもあるんですけどね。そういう時にはシャツをただ取り出して眺めたりします。すると、単純な作りのワタシは、それだけで気分が良くなったりするんです。
「まだこの仕事に就いているんだ」「まだこのシャツを公に着ることができるんだ」という喜びを再確認することができるんです。そうすると、たいがいの難しい状況でも、辛抱し抜け出す術を考える意欲が湧いてきます。
自分が生きがいを感じることのできる仕事に就いているとしたら、それは相当にありがたいことでしょう。実際はそうはいかない現実があることと思います。それでも、なんとかより多くの方が、「これをしたかった」という仕事に就けますことを願います。
「この制服を着たい」「あのユニフォームに袖を通したい」ということでも、非常に具体的な夢、目標になり得るでしょう。特に若い皆さん、あきらめないで!!
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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