レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

愛することの「リスク」?

2016-06-05 05:00:00 | 日記
前回は「悪いニュースと良いニュースが同時に来た場合、どうする?」というようなテーマで書き始め、実際にその前の水曜日に体験したことをご紹介していました。

先々週の木曜日の早朝にスウェーデンへ強制送還されたタリさんですが、こちらでは連日のように抗議集会が続いていますし、向こうのメディアでも取り上げられているようです。

抗議集会はNo Bordersという割とラジカルな市民グループが中心になっていますが、いろんな人が協力しています。私はタリさんを呼び戻すペティションを作りました。

国会議員からも「呼び戻し」の声が上がってきており、これを書いている今現在、先行きは皆目不明です。「望みがない」というのではない、という意味で肯定的に考えています。

さて前回本当に書きたかったことは、良いニュースと悪いニュースが同時に入ってきた際の自分の心の反応についてだったのです。ちょっと書きましたように、私の場合は悪いニュースに引っ張られて、良いニュースは置き忘れになってしまうことが普通のようです。

で、タリさんのニュースのような「悪い知らせ」の場合は、例えば事故で誰かが亡くなった、というのとは違い、まだ何かする余地があるのですから、そちらの方が心の中で優先になってしまうのは、ある意味自然なことかもしれません。

「もうどうしようもない」というのであれば、それなりの落ち着きを持っていて、そちらに引っ張られたまま、ということもないのではないでしょうか?

今回の「良いニュース」「悪いニュース」は私の担当している祈りの集いのメンバー、ハリクさんとタリさんに関わるものでした。そこからまた考えたのですが、「良い」「悪い」というように咲いた花の色は白と黒に分かれてしまいましたが、その根っ子は実は同じものであると気がつきました。

そしてその根っ子とは人間関係。もっと言うと「愛情によって結ばれた人間関係」ということができるでしょう。ハリクさんもタリさんも祈りの集いの参加者であり、私にとってはかけがえのない兄弟です。

どちらのニュースもそのことの故に「嬉しい」ニュースであり「頭にくる」同時に「悲しい」ニュースであったわけです。実は、難民申請者の人と個人的に親しくなることは、いずれこの「白い花」「黒い花」の咲くのを目撃することを意味します。

赤十字のボランティアをしていた時は(現在は休止中)、ベテランとして「なるべく個人的、感情的に入れ込まないように」とアドバイスしてきました。あり得るのは、ボラの女の子と難民の男の子の恋愛なのですが、そんな最中で男の子が「強制退去」とかなると、いたたまれたものではありません。

ですから「そうはならないように」と釘を刺しておくわけです。ですがこれは赤十字バージョンのアドバイスで、教会バージョンではありません。教会バージョンのアドバイスは「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣きなさい」(ロマ書12:10)というものです。

私たちが誰かを愛するなら、私たちは必ずリスクを背負わなければなりません。その愛する人故に傷つくかもしれない、というリスクです。これは恋愛関係だけではなく、友人との関係、兄弟との関係、家族の関係でも同じことです。

例えばお子さんをお持ちの方なら、どなたでもこのリスクはご承知のことと思います。子供というのは、私たちにとっての最大の祝福であると共に、最大のリスクでもあります。

近親者を失くした方などが「もう誰も愛したくない」と引きこもってしまうことはよくありますし、失恋した人が「もう恋なんてしない」と歌うこともあるようですね。

残念なことのリアクションとして、一時期そう落ち込んでしまうことは、ある意味健康なことでさえあります。しかし、そこにいつまでも閉じこもってしまったとしたら、それはやはり望ましいことではありません。

私は人間とは愛し合うようにデザインされている、と信じています。そしてその真逆は「憎み合うこと」ではなく、「誰ともきちんとした関係を築かない」ということです。誰とも関係がないのなら、隣人の故に苦しむことも悲しむこともないでしょう。ですが、喜ぶこともできません。

昨年の秋、祈りの集いを開いているロイガネス教会でのこと。ある難民申請者で、教会にもよく参加していた青年ふたりの強制退去が確定しました。最後の機会に礼拝の後で、また親しい者が集まって祈りの時を持ちました。

女性牧師も、ハウスキーパーも、その他の教会員の人も皆涙を流していました。愛する仲間を失うことが辛かったからです。ですが、この涙の故にそこは「教会」なのです。教会では「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣」くのです。それがキリストの途だからです。

ですがもちろんそれは、教会だけに限られる必要はありません。傷つくリスクを承知の上で「愛そう」と努める人たちには、すべからず共通することと言っていいでしょう。

ちなみに、その涙の送別をしたロイガネス教会の青年ふたりですが、その後の長〜い「闘争」の後に、ふたりとも先々週に難民認定を得ることができました。そして、あの時つらい涙を流した人たちは皆、今度は喜びの涙を流すことができたのでした。


応援します、若い力。Meet Iceland



藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
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