今回はアイスランドの平均的なお葬式についてです。「縁起でもない」と思われる方もあるかもしれませんが、アイスランドでは、というかキリスト教会での葬儀は必ずしも沈痛で暗いものではありません。
アイスランド語では葬儀のことをUtfor「ウートファール」といいます。Utは「外で、へ」Forは「行くこと」です。で辞書で一番の意味を調べてみたら「外国へ行くこと」となっていました。
つまり「葬儀」に際してのUtforは「別の国へ行くこと」要するに「天国へ行くこと」を意味して使われるわけです。
葬儀を表す別の言葉はJardarforです。Jardarは「地の」を意味しますので、こちらは「地中へ行くこと」になります。埋葬されるということですね。
どちらも同程度の頻度で使われる言葉ですが、Utforは魂に注目して?天国行き、Jardarforは肉体に注目してお墓行き、ということなのでしょうか?どうせなら天国行きの方が好ましい気がします。実際、葬儀屋さんの名称などは必ずUtforを使っています。
さてアイスランドの葬儀は、100%ではありませんが圧倒的多数が教会で行われます。普段教会通いに熱心でない人の場合でも、葬儀は教会で行われることが多いようです。
「長いものには巻かれろ」ではないでしょうが、キリスト教が伝統的に浸透している環境では、何か別の仕方で葬儀をする、というのはなかなか面倒臭いもので、よほどその気がある人でないと実現しません。逆に教会で葬儀をすれば慣れた人たちが手早くきちんとした仕事をしてくれるわけで、遺族にとっては負担が少なくなります。
レイキャビクにはFossvogurという大きな墓地の中に葬儀専用のチャペルがあり、一日三、四回くらい葬儀があることがあります。これは言わば「全国用」の葬儀会場なわけです。
お葬式専用のフォスヴォーグス教会
−Myndin er ur Kirkjan.net−
それとは別に個別の教会も葬儀によく使われます。アイスランドの教会で面白いのは、結婚式とお葬式に関しては牧師さんたちが自由に教会間を行き来することです。これは日本の教会とはかなり異なっているのではないでしょうか?
例えば私が居候しているのはレイキャビク市西部のネス教会というところですが、この地区は教区民の多い地区でよく葬儀があります。時には週三回くらいあることがあります。
で、ネス教会にはふたりの教区牧師さんがいるのですが、必ずしも彼らがネス教会での葬儀を担当するわけではありません。故人にゆかりの深かった牧師さんが、例えば出身地方からやってきたり、亡くなる前に入居していた老人施設の牧師さんが担当したりと、いろいろな牧師さんが葬儀の担当者になり得るわけです。
ネス教会居候歴十年目になる私は、かなり多数の葬儀を横目で見てきたのですが(私自身は葬儀の担当には滅多になりません)、かなり葬儀の「読み方」には習熟してきました。「読み方」というのはどのくらいの規模の葬儀になるか、という点に関してです。
これは実際的な意味があり、非常に多数の参列者があるお葬式ですと、駐車場がすべて埋まってしまい、うかつに外出しようものなら自分の車を止められなくなってしまうことがあるのです。(ネス教会は「スタッフ専用」のスペースを作らない主義です)
さて参列者が多くなる葬儀というのは、例えば亡くなった方が学校の先生だった場合です。これは教え子というのは無数に拡散?していますので、相当高齢の方の葬儀でも多数が参集します。
また、仕事に在職中の方が亡くなった場合も大きな葬儀になります。まだそれほどの歳ではなかった人が多いわけですが、やはり社会のネットワークにまだ組み込まれていた方は惜しんでくれる人も多いわけです。
時にまだ学生だった人の葬儀もありますが、これも大人数が集まります。若い人の場合は難しい病気もしくは事故が亡くなった原因であることが多いです。突然の交通事故だった場合などは、人が多いだけではなく、空気がズーンと重くなってしまいます。
ところで、葬儀の後には参列してくれた方々にお茶や軽食を出してもてなすのが普通です。Erfidrykkjaエルビドゥリッキャというのですが、このお茶会は、葬儀の大小ではなくて、どういう性格?の葬儀だったかを測るバロメーターになります。
先ほど言ったような若い人の突然の事故死の場合などは、お茶会も当然沈痛な雰囲気に包まれます。あまり経験したくはない雰囲気ですね、あれは。
逆に相当のご高齢だった方が、誰が見ても「大往生」をとげたような場合にはお茶会もそれなりに和やかで落ち着いたものになります。久しぶりに再開した親戚同士があちこちで笑いながら談笑するのも普通です。
これは実は葬儀の最中でも同じことで、牧師さんが亡くなったかたの略歴と思い出を紹介する際に、面白い逸話を紹介したりして参列者の笑いを誘うようなことはよくあります。
そういうお葬式は、いわば「天国への送り」の集まりとしての性格がはっきりと出てきているのだ、といっていいでしょう。
ところが数ヶ月前に実に不思議な葬儀を体験しました。いや、別に葬儀に参列したわけではなく、ネス教会で横目でお茶会を見ていただけです。お茶会が和やかで、当初より大笑いも聞かれたので「これはご高齢の方の葬儀だな」と思い、キッチンに置いてあったプログラムを見てみました。
するとまだ五十代の女性の式だったのです。「変だな」と思い新聞の葬儀欄を開きました。葬儀当日の新聞には、故人の思い出を家族、友人が記したものが掲載されるのが普通です。ところが一通もなし。葬儀があるというアナウンスさえなし。
「五十代で亡くなって、誰も悲しんでない。思い出も語られない。一体どんな人だったんだろうか...?」不思議に思い、教会のスタッフにも尋ねてみましたが、皆、同じように不思議がっていました。
... いまだに「謎」です。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is
アイスランド語では葬儀のことをUtfor「ウートファール」といいます。Utは「外で、へ」Forは「行くこと」です。で辞書で一番の意味を調べてみたら「外国へ行くこと」となっていました。
つまり「葬儀」に際してのUtforは「別の国へ行くこと」要するに「天国へ行くこと」を意味して使われるわけです。
葬儀を表す別の言葉はJardarforです。Jardarは「地の」を意味しますので、こちらは「地中へ行くこと」になります。埋葬されるということですね。
どちらも同程度の頻度で使われる言葉ですが、Utforは魂に注目して?天国行き、Jardarforは肉体に注目してお墓行き、ということなのでしょうか?どうせなら天国行きの方が好ましい気がします。実際、葬儀屋さんの名称などは必ずUtforを使っています。
さてアイスランドの葬儀は、100%ではありませんが圧倒的多数が教会で行われます。普段教会通いに熱心でない人の場合でも、葬儀は教会で行われることが多いようです。
「長いものには巻かれろ」ではないでしょうが、キリスト教が伝統的に浸透している環境では、何か別の仕方で葬儀をする、というのはなかなか面倒臭いもので、よほどその気がある人でないと実現しません。逆に教会で葬儀をすれば慣れた人たちが手早くきちんとした仕事をしてくれるわけで、遺族にとっては負担が少なくなります。
レイキャビクにはFossvogurという大きな墓地の中に葬儀専用のチャペルがあり、一日三、四回くらい葬儀があることがあります。これは言わば「全国用」の葬儀会場なわけです。
お葬式専用のフォスヴォーグス教会
−Myndin er ur Kirkjan.net−
それとは別に個別の教会も葬儀によく使われます。アイスランドの教会で面白いのは、結婚式とお葬式に関しては牧師さんたちが自由に教会間を行き来することです。これは日本の教会とはかなり異なっているのではないでしょうか?
例えば私が居候しているのはレイキャビク市西部のネス教会というところですが、この地区は教区民の多い地区でよく葬儀があります。時には週三回くらいあることがあります。
で、ネス教会にはふたりの教区牧師さんがいるのですが、必ずしも彼らがネス教会での葬儀を担当するわけではありません。故人にゆかりの深かった牧師さんが、例えば出身地方からやってきたり、亡くなる前に入居していた老人施設の牧師さんが担当したりと、いろいろな牧師さんが葬儀の担当者になり得るわけです。
ネス教会居候歴十年目になる私は、かなり多数の葬儀を横目で見てきたのですが(私自身は葬儀の担当には滅多になりません)、かなり葬儀の「読み方」には習熟してきました。「読み方」というのはどのくらいの規模の葬儀になるか、という点に関してです。
これは実際的な意味があり、非常に多数の参列者があるお葬式ですと、駐車場がすべて埋まってしまい、うかつに外出しようものなら自分の車を止められなくなってしまうことがあるのです。(ネス教会は「スタッフ専用」のスペースを作らない主義です)
さて参列者が多くなる葬儀というのは、例えば亡くなった方が学校の先生だった場合です。これは教え子というのは無数に拡散?していますので、相当高齢の方の葬儀でも多数が参集します。
また、仕事に在職中の方が亡くなった場合も大きな葬儀になります。まだそれほどの歳ではなかった人が多いわけですが、やはり社会のネットワークにまだ組み込まれていた方は惜しんでくれる人も多いわけです。
時にまだ学生だった人の葬儀もありますが、これも大人数が集まります。若い人の場合は難しい病気もしくは事故が亡くなった原因であることが多いです。突然の交通事故だった場合などは、人が多いだけではなく、空気がズーンと重くなってしまいます。
ところで、葬儀の後には参列してくれた方々にお茶や軽食を出してもてなすのが普通です。Erfidrykkjaエルビドゥリッキャというのですが、このお茶会は、葬儀の大小ではなくて、どういう性格?の葬儀だったかを測るバロメーターになります。
先ほど言ったような若い人の突然の事故死の場合などは、お茶会も当然沈痛な雰囲気に包まれます。あまり経験したくはない雰囲気ですね、あれは。
逆に相当のご高齢だった方が、誰が見ても「大往生」をとげたような場合にはお茶会もそれなりに和やかで落ち着いたものになります。久しぶりに再開した親戚同士があちこちで笑いながら談笑するのも普通です。
これは実は葬儀の最中でも同じことで、牧師さんが亡くなったかたの略歴と思い出を紹介する際に、面白い逸話を紹介したりして参列者の笑いを誘うようなことはよくあります。
そういうお葬式は、いわば「天国への送り」の集まりとしての性格がはっきりと出てきているのだ、といっていいでしょう。
ところが数ヶ月前に実に不思議な葬儀を体験しました。いや、別に葬儀に参列したわけではなく、ネス教会で横目でお茶会を見ていただけです。お茶会が和やかで、当初より大笑いも聞かれたので「これはご高齢の方の葬儀だな」と思い、キッチンに置いてあったプログラムを見てみました。
するとまだ五十代の女性の式だったのです。「変だな」と思い新聞の葬儀欄を開きました。葬儀当日の新聞には、故人の思い出を家族、友人が記したものが掲載されるのが普通です。ところが一通もなし。葬儀があるというアナウンスさえなし。
「五十代で亡くなって、誰も悲しんでない。思い出も語られない。一体どんな人だったんだろうか...?」不思議に思い、教会のスタッフにも尋ねてみましたが、皆、同じように不思議がっていました。
... いまだに「謎」です。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Home Page: www.toma.is