午後3時前、急に雨が強くなりだした。
ずっとテレビの台風情報をつけているのだが
いよいよ仙台にもあの強い台風が来た。
夫とは
朝から連絡を取っている。
今日は午前に小樽。
午後の便は当然欠航。
札幌に戻って、今日泊まるホテルを確保したらしい。
明日は
全国的に晴れ
マークがついている。
お昼過ぎに帰ってきてそのまま仕事になるそうだ。
昨日も強い雨で
その強さのピークに私は実家に出かけた。
父の友人のファミリーがやってくる。
早めに行って
料理の準備をと思っていたのだが
いろいろと作ってこちらに訪問するということで
あまり用意しなかった。
もう父も母も食が細くなっているので、余ったりしたらこの季節、まずい。
もったいない、もったいない、と言って食べる母だから。
何十年ぶりかに会う人たち。
父の友人は数年前に亡くなっている。
実はこのおじさんに対しては
私は複雑な思いを持っていた人で。













そもそも
私たち家族が、北海道から仙台に来たのはなぜか。
父はもともとこちらの県北の出身。
田舎の優等生だったが(通知表はオール優。生徒会長。)、大学進学はせず
北海道に就職。
父と同窓のそのおじさんも北海道へ。
そして
おじさん家族は先に、こちらの県に戻り
仙台で飲食店の商売を始める。
父は、その頃、道内の転勤族で
2,3年であちこちの支社に転勤になり
そのたびに母と私は付いていく。
そのうち、私も大きくなり
北海道の最終の地、苫小牧に。
そこで中学を卒業して、地元の高校に行くつもりでいたのだが
中学3年の6月ごろに
両親から
「会社を辞めて、仙台に行く、商売をする。」と言われる。
おじさんに誘われたらしい。
私は信じられない思いで
父に内緒で
おじさん宛に手紙を書く。
1通じゃない、2通か3通出したと思う。
おじさんさえ誘わなければ、父は北海道に留まったはずなのに、
なぜこの時期に、仙台に行かねばならないのか、と
抗議の手紙だった。
その手紙をおじさんは
父に全部、送り返して来た。
私の気持ちは一切無視された。
もう決まっていて、その抗議も空しかった。
あのころは日記を書いていたときだったので
今でも
当時の自分の気持ちを紐解くことができる。
どんなに抵抗しても
この親なので
私は条件を出した。
せめて、夏休みは苫小牧で過ごしたい、
飼っているネコも仙台に連れていきたい、と。
両親とネコは先に苫小牧を出発し
私は夏休みの間は
友人の家に居候した。
母は
私に
「仙台は、大学もたくさんあるし、今度住む家は一軒家(苫小牧ではアパート)だし、
いい所だよ。」なんて騙し騙しね。
そして
仙台に来て驚いたのは
その一軒家に、おじさん家族と住むことになっていたこと。
小さい借家である。
2学期から転入した学校では
「北海道から転校生が来た」と物珍しがられ、いじめもあった。
私の心は北海道にあったから
そこでの生活は「仮」と思って、能面のような表情で過ごした。
成績もすこぶる下がり、というより
こちらの学生は時期も時期だから、皆勉強家に見えた。
私は
卒業するまでの数ヶ月の生活を封印している。
自分の中学校は苫小牧だ、と思って過ごしてきている。
そのおじさんには、何かと突っかかっていた。
おじさんの子どもたちは可愛かった。
その子どもが昨日会った人たち。
おじさんも父も数年後独立して
それぞれ、繁華街に店を持つ。
そのころは
おじさん家族のことは
話に聞くだけで、会うことはなかった。
父は頻繁に会っていたようだが。
おじさんが再び登場するのは
私の結婚の件である。
私と夫は一人っ子同士の結婚。
父や母は
おじさんに愚痴っていたのだろう。
特に私は
養女で、育ててもらった恩がある、というのが付きまとう。
その割には
今では問題になりそうな、言葉と身体への虐待もあった。
M家(実家)を出ていく私を父はあの口調でいろいろと言ったのだろう。
ある日
夫の実家に突如と現れるおじさん。
父が頼んだか、おじさんが勝手に判断したかはわらないが
夫の実家に乗り込んで
「M家ではこの結婚を反対している。考え直してもらいたい。」とかなんとか。
夫の不在のときに
夫の両親に言ったようで
その話を聞いた夫は激昂。
見ず知らずの人間がやってきて、夫の両親を翻弄して帰っていく。
あまりにM家にこだわるので
夫の両親は
「別に、息子がM家に婿になっても構わない、本人同士がいっしょになりたいのだから
それはうちの息子に任せる。」と言ったそうだ。
何を余計なことを知らない人間が言いにくるんだ、と
おそらく今でもその件を許していないだろう、夫。
私は
このことでますます
M家を出よう、早く出たい、と思っていた。
結婚前は、両親のことでよく泣いていた。
あのころのことも封印したい。
そのおじさんが病気で痩せて痩せて今にも死にそうだ、ということを聞いても
あ、そう、という気持ちだった。
そして昨日
おじさんの奥さんであるおばちゃんが
「いやあ、あのころの私たちは商売に夢中で、子どもたちの気持ちを
全く考えていなかった。トモロッシちゃんの気持ちも全然考えていなかった。
手紙を読んでも、全然考えていなかった。ごめんね、トモロッシちゃん。」と
何度も言っていた。
私は
過去を許して、今を肯定することは安易にしなかった。
仙台に来て
しばらくは北海道のことをひきずり
そこで生活をして夫と会い、
ただただ
人生に「もしも」はない、全てのことが流れの中の出会い、出来事だと思っている。
親として、子どもの気持ちを汲んで上げられなかった、と言う言葉は
実は
私の両親の言葉として聞きたい。
しかし
自画自賛の父は言わないだろう、死ぬまで。
それは予測している。
今、仙台を好きだから、許す、ということでもない。
昨日の帰りは
家族で、うちに送ってもらった。
うちのカエルやネコ、義母にも会わせた。
今度また会いましょう、と笑顔で別れた。
歳月である。
ずっとテレビの台風情報をつけているのだが
いよいよ仙台にもあの強い台風が来た。
夫とは
朝から連絡を取っている。
今日は午前に小樽。
午後の便は当然欠航。
札幌に戻って、今日泊まるホテルを確保したらしい。
明日は
全国的に晴れ

お昼過ぎに帰ってきてそのまま仕事になるそうだ。
昨日も強い雨で
その強さのピークに私は実家に出かけた。
父の友人のファミリーがやってくる。
早めに行って
料理の準備をと思っていたのだが
いろいろと作ってこちらに訪問するということで
あまり用意しなかった。
もう父も母も食が細くなっているので、余ったりしたらこの季節、まずい。
もったいない、もったいない、と言って食べる母だから。
何十年ぶりかに会う人たち。
父の友人は数年前に亡くなっている。
実はこのおじさんに対しては
私は複雑な思いを持っていた人で。













そもそも
私たち家族が、北海道から仙台に来たのはなぜか。
父はもともとこちらの県北の出身。
田舎の優等生だったが(通知表はオール優。生徒会長。)、大学進学はせず
北海道に就職。
父と同窓のそのおじさんも北海道へ。
そして
おじさん家族は先に、こちらの県に戻り
仙台で飲食店の商売を始める。
父は、その頃、道内の転勤族で
2,3年であちこちの支社に転勤になり
そのたびに母と私は付いていく。
そのうち、私も大きくなり
北海道の最終の地、苫小牧に。
そこで中学を卒業して、地元の高校に行くつもりでいたのだが
中学3年の6月ごろに
両親から
「会社を辞めて、仙台に行く、商売をする。」と言われる。
おじさんに誘われたらしい。
私は信じられない思いで
父に内緒で
おじさん宛に手紙を書く。
1通じゃない、2通か3通出したと思う。
おじさんさえ誘わなければ、父は北海道に留まったはずなのに、
なぜこの時期に、仙台に行かねばならないのか、と
抗議の手紙だった。
その手紙をおじさんは
父に全部、送り返して来た。
私の気持ちは一切無視された。
もう決まっていて、その抗議も空しかった。
あのころは日記を書いていたときだったので
今でも
当時の自分の気持ちを紐解くことができる。
どんなに抵抗しても
この親なので
私は条件を出した。
せめて、夏休みは苫小牧で過ごしたい、
飼っているネコも仙台に連れていきたい、と。
両親とネコは先に苫小牧を出発し
私は夏休みの間は
友人の家に居候した。
母は
私に
「仙台は、大学もたくさんあるし、今度住む家は一軒家(苫小牧ではアパート)だし、
いい所だよ。」なんて騙し騙しね。
そして
仙台に来て驚いたのは
その一軒家に、おじさん家族と住むことになっていたこと。
小さい借家である。
2学期から転入した学校では
「北海道から転校生が来た」と物珍しがられ、いじめもあった。
私の心は北海道にあったから
そこでの生活は「仮」と思って、能面のような表情で過ごした。
成績もすこぶる下がり、というより
こちらの学生は時期も時期だから、皆勉強家に見えた。
私は
卒業するまでの数ヶ月の生活を封印している。
自分の中学校は苫小牧だ、と思って過ごしてきている。
そのおじさんには、何かと突っかかっていた。
おじさんの子どもたちは可愛かった。
その子どもが昨日会った人たち。
おじさんも父も数年後独立して
それぞれ、繁華街に店を持つ。
そのころは
おじさん家族のことは
話に聞くだけで、会うことはなかった。
父は頻繁に会っていたようだが。
おじさんが再び登場するのは
私の結婚の件である。
私と夫は一人っ子同士の結婚。
父や母は
おじさんに愚痴っていたのだろう。
特に私は
養女で、育ててもらった恩がある、というのが付きまとう。
その割には
今では問題になりそうな、言葉と身体への虐待もあった。
M家(実家)を出ていく私を父はあの口調でいろいろと言ったのだろう。
ある日
夫の実家に突如と現れるおじさん。
父が頼んだか、おじさんが勝手に判断したかはわらないが
夫の実家に乗り込んで
「M家ではこの結婚を反対している。考え直してもらいたい。」とかなんとか。
夫の不在のときに
夫の両親に言ったようで
その話を聞いた夫は激昂。
見ず知らずの人間がやってきて、夫の両親を翻弄して帰っていく。
あまりにM家にこだわるので
夫の両親は
「別に、息子がM家に婿になっても構わない、本人同士がいっしょになりたいのだから
それはうちの息子に任せる。」と言ったそうだ。
何を余計なことを知らない人間が言いにくるんだ、と
おそらく今でもその件を許していないだろう、夫。
私は
このことでますます
M家を出よう、早く出たい、と思っていた。
結婚前は、両親のことでよく泣いていた。
あのころのことも封印したい。
そのおじさんが病気で痩せて痩せて今にも死にそうだ、ということを聞いても
あ、そう、という気持ちだった。
そして昨日
おじさんの奥さんであるおばちゃんが
「いやあ、あのころの私たちは商売に夢中で、子どもたちの気持ちを
全く考えていなかった。トモロッシちゃんの気持ちも全然考えていなかった。
手紙を読んでも、全然考えていなかった。ごめんね、トモロッシちゃん。」と
何度も言っていた。
私は
過去を許して、今を肯定することは安易にしなかった。
仙台に来て
しばらくは北海道のことをひきずり
そこで生活をして夫と会い、
ただただ
人生に「もしも」はない、全てのことが流れの中の出会い、出来事だと思っている。
親として、子どもの気持ちを汲んで上げられなかった、と言う言葉は
実は
私の両親の言葉として聞きたい。
しかし
自画自賛の父は言わないだろう、死ぬまで。
それは予測している。
今、仙台を好きだから、許す、ということでもない。
昨日の帰りは
家族で、うちに送ってもらった。
うちのカエルやネコ、義母にも会わせた。
今度また会いましょう、と笑顔で別れた。
歳月である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます