僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(6/7)義母の米研ぎ

2017年06月07日 18時28分14秒 | 日常、仕事、認知症
ここ数日、家の米研ぎは私がやっている。
米研ぎが私の仕事ではないって?とお思いでしょうが
これは義母の仕事だった。
義母の唯一の仕事、
米研ぎと、自分の食べた食器類の洗い。
半分認知症気味の義母に与えられた仕事。
勿論、それまできちんとしていたが
ここ1カ月ほど、
夕食の時のゴハンがやたら柔らかい。
うちは、絶対2合、と決めているので
それを義母はずっとやってきたのだが、
どうも、計っているとき、カップ2回が、適当になっていた。
彼女に、「お義母さん、ちゃんと2合計った?線も2のところにした?」と聞いても
「適当にやった。」と答える。
そのやりとりが繰り返されているので、
とうとう私も「じゃ、次から私がやるから。」と私の方から降参した。
昔から習慣づいていることは本能的に身に着いて、ギリギリまでやらせようと思ってきたのだが
余ったゴハンのタッパーが増えていくばかり。
チャーハンにしたりしても、柔らかすぎて、なんだか塊になってしまう。
私がやる、と言っても
彼女の習慣で、米を研ごうとするから、夫に「朝食べ終わって釜を洗ったら、隠して。」と頼んでおいた。
今日は帰宅したら玄関の上がり框に置いてあった。
夫が、私がわかりやすいように置いたのであろう。
安心して、米を研ごうとした。
すると、キッチンの上に
もう使用していない猫のトイレが置いてあった。
中に、米が入っていた。
義母だ。
研ごうとしても、釜がないのでそれに入れたのだ。
しかも、2合には見えない。計ったら3合あった。
「なんで、猫のトイレに入れるのよ!」と言うと
「私じゃない!」といつもの答えが出てきたので(「あの女だ!」とか「ガキどもがやったんだ」とかそういういつもの返答ね)、
その話はそれで終えた。
米も、移動しなかった私が悪いのだ。
釜さえ隠せば、米研ぎはしないだろう、と思ったのが甘かった。
習慣はそのまま行動に出るけれど、その行動そのものが痛かった。
夫は私を責めるだろう、米も見えない所に置くべきだった、と。

食器洗いにしても、
洗うには洗うけれど、すすぎを流水にして、カゴに収めたかと思ったら
またそれを手にして洗い始める。
なんで、洗い終わったものをまた洗うの?と尋ねると
「あら、何回もすすがないの?」とまるで、自分は丁寧に何度も流水で洗っている、という意味を込めて言う。
いやいや、何回も水の流しっぱなしの無駄だよ、と言っても、それは納得していないようだ。
そのうち、義母の茶碗洗いも私の仕事になる。
そりゃ、後から食べる夫の分と一緒に洗えばいいだろう、と簡単なことだが
敢えてそれをさせている意味がある。
義母は、「私の用は何をしたらいいのでしょう」と聞くときがあるので
「じゃ、自分のトイレのほこりを被った飾り物を処分してください。」と言うと、絶対しない。
中身の空になった、消臭剤やら、人形やら、飾るのは大好きだが、それらを捨てることをしないために
トイレの足元には消臭剤が積まれている。
義母のトイレ掃除をしなければ、と思いつつ、腰の重い自分である。立腹しながらやるのが目に見えている。
飾るだけ飾って、後始末をしてくれないのはトイレばかりじゃない。
毎日、義母におやつを置いていくのだが(以前は袋の状態で置いて、それを好きな時に食べればいいと思っていたのだが
残したものをあちこちに隠して、とんでもない所から出てきたりするので、今日はこのくらいの量、と決めて配給制にした)、
残したおやつやパンが仏壇から幾つも幾つも出てくる。カビの生えた状態で。
お供えするのはよいが、なぜ、古いものを捨ててから、新しいものをお供えしない?と聞いても
ガキどもがいたずらしていったんだ、といつもの答え。
毎日毎日、言い訳だけは冴えている。