僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(6/5)父が泣いた。

2017年06月05日 21時34分41秒 | 両親のこと、入院のこと
昨日は夫と義母と病院で待ち合わせをして、帰りは
私は地下鉄で帰ろうとしたが(会社に自転車を置いているので)
車に乗って、スーパーに寄ってそのまま自分も帰宅した。
よって、今日の朝は、歩きでの出勤。
ちょっと寒かったかな。

仕事を終えて
また地下鉄に乗り、母の元へ。
父と父の友人がいた。
母は
口を開けて呼吸し、髪は上部で結ばれ
目は混濁した状態で、まるで今にもあっちに逝きそうな顔で
深い眠りの中にいた。
その傍で
父と父の友人は諦めた表情で話していた。
昨日の母の様子を父にメールをしておいたのだが
今日はその、良い兆候は見られなかった。
そして、父の友人は帰っていった。

その後、私のあれこれが始まった。
「お母さーん!」「〇〇〇〇さーん!」とフルネームで何度も呼んで、
色々と話しかけた。
腕、手、額、あちこちをマッサージして
話しかけた。
ベッドも少し上部を持ち上げて目が覚ましやすいようにした。
父には、前日の私の友人のIさんの話をした。
「いっぱい話しかけて。奇跡は起こるから。」と。
現実主義の父には、半信半疑の言葉であったろう。

そして。
母は目覚めた。
深い眠りから、こちら側に来た。
混濁した目に輝きが出てきた。
「お父さん!ホラ、お母さんが目を覚ましたよ!」
「良かった!良かった!お父さんだよ!」と
父は手を握って感激の余り、泣き出した。
「お父さん、もう諦めていたでしょ!」と私。
「うん、もうだめだと思っていた。」
「諦めちゃだめなんだよ。」
そして、父は一生懸命に母に話しかけていた。
母の頭は段々開いてきて(この表現、わかるかなあ)、父や私の言う事を理解できるほどに目が輝いていた。
これは、奇跡じゃない、実は、眠りが深くて、表情があまりに死相っぽく見えるから
目が覚めたことが奇跡のように思えるのかもしれない、コツがあるのだと思った。
前の病院で、母の向かいのベッドのおばあちゃんもそんな感じだった。
どんなに呼びかけてもビクともしない。
私も見ていて、このまま死んでいくのか?と思ったくらいだ。
そこへ、看護師さんが、「〇〇さーん!」と野太い声で起こしていた。
このぐらい、大きい声にしなければ、頭の芯に届かないのだ。
これが参考になっていた。
そしてIさんの「いっぱい話しかけて」も参考になった。
看護師さんがあのくらい大きな声で呼びかけるのが通常なら、
私達だって、そのくらい声を出して呼び覚まそうと思った。
父や私の話に
母の口角が上がった。笑っているんだ。
それを見てまた父が
「母さんが笑った、笑った。」と泣き出した。
よっぽど、諦めていたんだ、父。
相変わらず、父の性急さが出ている。
だって、つい数日前まで、普通に会話をして、食べていたのに、
幾ら「いつ急変してもおかしくない」と医師に言われていても
人間の生命力は未知だ。
検査の数値が客観的に物語っていても、母が苦しい、苦しい、痛い、痛いと苦悶の表情にならない限り
私は可能性を信じている。

そして漸く、看護師長との話になった。
父に、「お母さんに話しかけておいて。私が聞いてくるから。言いたいこともあるから。」と言って談話室で話した。
とにかく、然るべき人から、これまでの説明をしてもらいたかった。
これはメモとして残していたものだ。
疑問だった。
食事はもうできないのか。死ぬまでできないのか。
その説明もこれまでなかった。
誤嚥の問題もあろう。
点滴のみに切り替えた日付、その理由、今後の検査によって、食事を再開することもある、と言われた。
私は自分の考えを言った。
「担当の看護師が誰なのかわからない。自分が病室にいても、母の様子を見に来る看護師に会ったことがない。
この病院は最長3カ月の入院で、それ以降は別な病院にまた転院ということも最初に聞いたが、
転院ということはそれだけ長く生きていられるということだから、3カ月本望。自分としては諦めていない。
3カ月退院を目指したい。こちらも頑張るので、そちらも最善を尽くしてほしい。諦めてはいない。」と
何度も念押しした。
しゃちさんの言うように、あるいは、現場に勤めている友人のIさんの言うように
患者が置き去りにされているような、見舞客も少なくなっている空気の療養病院。
退院とは、良くなってのそれじゃない。
しかし、逆に考えれば、看取りのための入院が、生き延びて転院するというのは喜ばしいことじゃないか。
そう、考えるようになった。

病室に戻って、父がこれから銀行に行く、というので先に帰った。
私は母と話した。
日常の話だ。私の一方的な話であるけれど、母は何度も相槌を打ち、笑い、
か細く「会社終わってきたの?」といつも尋ねることを聞いてくれた。
母が点滴を指さすので
「これはね、今ゴハンが食べられないから、これで栄養を摂っているの。これが血液の流れに乗って、全身に栄養が届くようになっているの。
またゴハンが食べられるように、お母さんもね、頑張ろうね。」と言うと頷いていた。
そして
はっきりと「ありがとう」と言った。
「明日もそれを言ってね~」と答えた。
これはきっと、いつものありがとう、だ。前の病院でもよく言っていたので、それだ。
決して最期の言葉じゃないよ。
明日も来るのを約束するということ、母の「生きる希望」に繋がればいい。
死に至る病、それは絶望。キルケゴール。(読んではいないけれど)

地下鉄までの道のり。
川沿いのベンチに座り、母の残した牛乳を飲む。一服。
トモロッシよ、頑張れ。
おまえは、今、母を救っている、父を救っている、同僚の新人を救っている、大した人間じゃないのに、
おまえは、今、大した人間だ。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする