暑い。
ストーブをつけているが
消すと寒くなる。
しかも熱いコーヒーなんかも飲んでいる。
思い出を紐解く
入院生活の中の授業で
体育はどんなことをやるのか。
基本的に
激しい運動は禁止であった。
走ったり跳んだりの運動はなかった。
覚えているのは
散歩である。
体育が散歩というのはなかなかオツなものだ。
おいしい空気を吸うことも
治療の一貫だから
それを取りいれていたのかもしれない。
高学年や中学生の体育については知らない。
運動場がなかったので
バスケットをするとか100メートル走とか
外界の小学、中学の体育のようなものはなかったと思う。
山の中の病院、学校だったので
近辺は散策には格好の場所だった。
きっと
現代のベッドスクールはもっともっと
体育の授業は充実しているかと思う。
運動をしない、ということは
後に
私の外界の学校生活では苦痛の対象になっていった。
それはいつか「函館時代」のときに書こうと思う。
一応、学校も併設だから
授業の1つとして体育もきちんと存在した。
持っている写真には
外にて
玉入れに使う紅白の玉をいかに円形に並べるかの競いの写真がある。
それは運動会だったのかな。
冬は
裏山(距離感がちょっとわからない。すぐ裏の山だったのかどうか)に
皆で
大型の橇(そり)を持って
そこで数名ずつ乗って
急な斜面を降りていく。
初めて心臓が止まった(と思った)ような感覚のスピードだった。
子供たちはオーバーなどを着ているが
先生はマフラーをして白衣を着ているだけだから
近くの山に来ていたのだろう。
その写真もお兄さん、お姉さんと笑いあう私だった。
当時はカメラは先生方が写してくれた。
結構、時代の割りにはそのときの写真を所有しているんだ。
今なら入院していても誰もがデジカメ、ケータイを持っていて
簡単に何枚も撮れるが
当時は先生方しかカメラを持っていなかった。
先生方がせっせと思い出作りに
写真を撮ってくれたということだ。
朝の食事の風景は
私がそこに写っていなくても
お姉さんたちが先生たちと談笑しながら食べているのも所有している。
病院敷地内の池の前でお姉さんが写っているのもある。
それらがあるおかげで
私の当時の思い出をなぞることができる。
クリスマス会での
ヒョロヒョロした私の姿。
痩せていた。
でも心は健康だった。
まだまだ
汚染されない、純白に近い心だった。
何かの会で
大人の病棟の人たちがこちらに来て
集会所のステージにて
くだけた日本舞踊を踊ったおばさんがいた。
中年のおじさん、おばさんが楽しみにしていたステージ。
あの踊りしか記憶にないのだが
おばさんが皆に投げキッスをしていて
野太い大人の声援が新鮮だった。
大人ってこういう感じなんだ、と眺めていた。
記憶は断片である。
記憶の先にストーリーはない。
オチもない。
場面が鮮やかに残っているだけで
小説なら、うまく脚色したいところだが
思い出語りなので
唐突に切れる。
ある日
生母がこの病院に見舞いに来るかもしれないということで
私は生母にピアノを披露したいと思った。
ピアノなどはそれまで見たことも弾いたこともないが
集会所のピアノは自由に使えたので
寝る前の自由時間に練習した。
そこでは低学年組がよく遊んでいた。
男の子はチャンバラのような遊びや
女の子はギャアギャア騒いだりしていた。
お姉さんたちはその時刻は
恋の相手と語らったりする貴重な時間だ。
いっしょにテレビを観たり
廊下で話したり。
それらをたびたび見ていた。
あ、この人とこの人は恋をしているんだな、と
7歳なりにわかったものだ。
私の憧れのお姉さんとお兄さんのカップルもあった。
二人とも聡明な感じで、よかったなあ。
今にして思えば
彼らなりの悩みを抱えていたのだなあ。
遠い所から来ていたのかもしれない。
いつかは退院という形で別れてしまうかもしれない。
切ない恋だったのかもしれない。
そう想像すると
つくづく自分は7歳でよかったと思う。
ピアノの練習のところに
先生がやってきた。
事情を知っている先生は一生懸命教えてくれた。
そのうち
先生がピアノを弾き出した。
そこに走り回って遊んでいた男の子も女の子も集まり
先生のピアノに合わせて歌いだした。
私のピアノの練習はグダグダのうちにストップした。
自分もいっしょになって先生のピアノに合わせて歌った。
そして
生母が来ないとわかって
練習はしなくなった。
それでも楽しき思い出である。