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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2/9)懐かしき札幌時代④体育

2010年02月09日 23時45分24秒 | 思い出を紐解く
暑い。
ストーブをつけているが
消すと寒くなる。
しかも熱いコーヒーなんかも飲んでいる。


思い出を紐解く


入院生活の中の授業で
体育はどんなことをやるのか。
基本的に
激しい運動は禁止であった。
走ったり跳んだりの運動はなかった。
覚えているのは
散歩である。
体育が散歩というのはなかなかオツなものだ。
おいしい空気を吸うことも
治療の一貫だから
それを取りいれていたのかもしれない。
高学年や中学生の体育については知らない。
運動場がなかったので
バスケットをするとか100メートル走とか
外界の小学、中学の体育のようなものはなかったと思う。
山の中の病院、学校だったので
近辺は散策には格好の場所だった。
きっと
現代のベッドスクールはもっともっと
体育の授業は充実しているかと思う。

運動をしない、ということは
後に
私の外界の学校生活では苦痛の対象になっていった。
それはいつか「函館時代」のときに書こうと思う。

一応、学校も併設だから
授業の1つとして体育もきちんと存在した。
持っている写真には
外にて
玉入れに使う紅白の玉をいかに円形に並べるかの競いの写真がある。
それは運動会だったのかな。

冬は
裏山(距離感がちょっとわからない。すぐ裏の山だったのかどうか)に
皆で
大型の橇(そり)を持って
そこで数名ずつ乗って
急な斜面を降りていく。
初めて心臓が止まった(と思った)ような感覚のスピードだった。
子供たちはオーバーなどを着ているが
先生はマフラーをして白衣を着ているだけだから
近くの山に来ていたのだろう。
その写真もお兄さん、お姉さんと笑いあう私だった。

当時はカメラは先生方が写してくれた。
結構、時代の割りにはそのときの写真を所有しているんだ。
今なら入院していても誰もがデジカメ、ケータイを持っていて
簡単に何枚も撮れるが
当時は先生方しかカメラを持っていなかった。
先生方がせっせと思い出作りに
写真を撮ってくれたということだ。
朝の食事の風景は
私がそこに写っていなくても
お姉さんたちが先生たちと談笑しながら食べているのも所有している。
病院敷地内の池の前でお姉さんが写っているのもある。
それらがあるおかげで
私の当時の思い出をなぞることができる。

クリスマス会での
ヒョロヒョロした私の姿。
痩せていた。
でも心は健康だった。
まだまだ
汚染されない、純白に近い心だった。

何かの会で
大人の病棟の人たちがこちらに来て
集会所のステージにて
くだけた日本舞踊を踊ったおばさんがいた。
中年のおじさん、おばさんが楽しみにしていたステージ。
あの踊りしか記憶にないのだが
おばさんが皆に投げキッスをしていて
野太い大人の声援が新鮮だった。
大人ってこういう感じなんだ、と眺めていた。


記憶は断片である。
記憶の先にストーリーはない。
オチもない。
場面が鮮やかに残っているだけで
小説なら、うまく脚色したいところだが
思い出語りなので
唐突に切れる。

ある日
生母がこの病院に見舞いに来るかもしれないということで
私は生母にピアノを披露したいと思った。
ピアノなどはそれまで見たことも弾いたこともないが
集会所のピアノは自由に使えたので
寝る前の自由時間に練習した。
そこでは低学年組がよく遊んでいた。
男の子はチャンバラのような遊びや
女の子はギャアギャア騒いだりしていた。

お姉さんたちはその時刻は
恋の相手と語らったりする貴重な時間だ。
いっしょにテレビを観たり
廊下で話したり。
それらをたびたび見ていた。
あ、この人とこの人は恋をしているんだな、と
7歳なりにわかったものだ。
私の憧れのお姉さんとお兄さんのカップルもあった。
二人とも聡明な感じで、よかったなあ。
今にして思えば
彼らなりの悩みを抱えていたのだなあ。
遠い所から来ていたのかもしれない。
いつかは退院という形で別れてしまうかもしれない。
切ない恋だったのかもしれない。
そう想像すると
つくづく自分は7歳でよかったと思う。

ピアノの練習のところに
先生がやってきた。
事情を知っている先生は一生懸命教えてくれた。
そのうち
先生がピアノを弾き出した。
そこに走り回って遊んでいた男の子も女の子も集まり
先生のピアノに合わせて歌いだした。
私のピアノの練習はグダグダのうちにストップした。
自分もいっしょになって先生のピアノに合わせて歌った。
そして
生母が来ないとわかって
練習はしなくなった。
それでも楽しき思い出である。





(2/9)懐かしき札幌時代③お姉さんたちの優しさ

2010年02月09日 21時31分45秒 | 思い出を紐解く
あっという間の休日である。
今日は
夫と焼肉を食べに行った。
久しぶりに外で焼肉。
夫も満足して明日からの仕事のスタミナを補給していた。

今日は最高気温が13℃ということで
暖かい日なのだが
雲が一面に黒くあったので
それほど暖かみを感じなかった。
午後の休息は疲れをほぐし
夜のこの時間はゆったりとネットを楽しもうと思う。
夫は8時半に就寝した。


思い出を紐解く

入院生活が退屈ではなく、一日も早く退院したいと思わせなかったのは
やはり
授業があったからだと思う。
授業は苦痛ではない。
高学年になってくると苦痛も出てくるだろうが
1年生の私たちは授業を楽しんだと思う。
そして
昼食が終わると、「安静の時間」がある。
この安静の時間がゆったり感をもたらしている。
何時間か忘れたが
1時間とか2時間くらいだったと思う。
ただベッドに横たわるのだ。
眠ってもいい。
本を読んでもいい。
トランジスタラジオをイヤホンで聴いてもいい。
とにかく数時間
一斉に、おしゃべりを禁止して
横たわる。
この午後の安静時間が心地よい。
7歳は単純だから、きっと眠ったことであろう。
お姉さんたちは
本を読んだり、瞑想をしていただろう。
そうだ。
クラッシックがよく流れた。
その時間帯だと思うが、クラッシック音楽が流れて
7歳にしてそれらの曲を覚えた。
NHKの「みんなの歌」も流れた。

当時の娯楽といえば
漫画の本とトランジスタラジオ。
漫画の本は回し読み。
長い間ベッド生活をしていると
そのベッドのマットレスの真ん中はへこんでいく。
お姉さんたちは読み終わった本をそのへこみの所に挟んでいく。
そしてそれを私たちが借りて、古い漫画を読んでいくんだ。
トランジスタラジオは
年頃の人たちに流行っていた。
今なら、アイポッドとか?新しい名称もよくわからないが。

もちろん私たちにはそんなものはない。
だからよくお姉さんたちから借りて
当時の音楽を聴いていた。
そう。
私の音楽好きの原点はここなのである。
私はこれを書きたかった。
7歳で、ポップスの曲に目覚めた。
自由時間は、7歳3人組はベッドでお姉さんたちと
踊った。
踊りを教えてもらった。
当時の流行の踊りを。
私の踊り好きもここが発祥。

テレビは別な部屋(集会所ではなかった)にあり
そこに年頃の人たちがよく集まって
音楽番組を観ていた。
お姉さんもお兄さんも、中学生が中心だったと思う。
そこに
どうしても音楽番組が観たくて、7歳の私は
場違いのようにいつもいっしょにいた。

トイレは昔のトイレなので
はずれのほうに
薄暗く、共同便所としてあった。
怖かった。
昔のトイレはどうして怖いのだろう。
特に、汲み取り式の共同便所は一段と怖い。
とてもとても一人では行けない。
先生方のトイレは和式の水洗で、
7歳3人組は好奇心でよくそのトイレを見に行った。
便槽のない、底の見えない、白い陶器の水洗トイレを
一度でいいから使いたかった。

何でも面白かった7歳。
養子縁組をしたことなんか忘れていた。
そこの入院生活が当たり前のようにしてあった。
母を恋うとか
外の生活を想像してみるとかなかった。
お姉さんやお兄さんたちがいて
先生方や看護婦さんたちがいて
皆彼らは普通に優しかった。
決して職業としての優しさではなかった。
それは後から感じたことだ。
そのときは優しい人だ、などと
感慨深く思っていなかった。
それらも普通に、当たり前にあった。

が、こうして何十年も経って
その間に
たくさんの人に出会って
はるか昔の
彼らの普通の優しさを改めて感じた。
なぜ彼らは優しかったのだろう。
もちろん
7歳の狭い視野だったから
見当違いかもしれない。
しかし
私の所有している当時の写真を見ると
笑顔、笑顔の自分、彼らがいるのである。
坂本九さんのリサイタルの時の写真に
中学生のお兄さん、お姉さんに挟まって座って
拍手している私がいるのである。
彼らは
年下の人たちの面倒をよく見ていた。
先生に頼まれたわけでもなく
生活をともにしているから
自覚的に
自発的に私たちの面倒を見ていたのである。

当時の娯楽の1つに
映画鑑賞があった。
そんなにしょっちゅうあったわけでない。
覚えているのは2つだ。
1つは
場面にキスシーンがあるから
小学生の人たちは観てはだめだとか
先生たちが言ったのだが
高学年の人が交渉して皆が観ることができた。
当時は
キスシーンなんて子供に見せられないものだと
大人たちは思っていた。

もう1つは
「路傍の石」だ。
貧しい少年が、奉公先で名前を変えられて
そこのお嬢さんに虐げられる場面があった。
私はそれで大泣きした。
こんな不当な扱い(当時はそんな言葉は知らなかったが、そんな気持ちだった)
があっていいのか、可哀想だ、とワンワン泣いた。
映画が終わっても泣いているので
お姉さんたちが私を洗面所に連れていって
「トモロッシちゃん、これは映画なんだから。」と
何人かで慰めてくれた。
う~ん、いい思い出だ。
これも書きたかった。
お姉さんたちの優しさだった。


(2/9)好きな季節ー冬

2010年02月09日 08時18分42秒 | Weblog
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「あなたの好きな季節を教えてください」とある。
四季のうちでおそらく
好きだ、と言われるのが多いのが
「春」だろう。
草花の芽吹き
桜の美しさ
寒い冬からの解放
気分も新たになる季節。
春生まれの私は
春、と書きたいところだが
それ以上に
好きな季節は冬である。

冬は嫌われ者に近い。
寒い。
行動も限られる。
灯油代もバカにならない。
雪国の人は毎日大変だ。
周囲の風景も殺風景だ。
春が待ち遠しい、という言葉がよく聞かれる。
そして自分も
冬が好きでありながらそんな言葉を使う。

冬は
他の季節と違って
自然の姿がまるっきり違う。
それぞれの季節に咲く花がその季節を彩り
人々はそれを愛でる。
冬に咲く花はない。
枯れた枝の寂しさがあるくらいだ。

なのに
なぜ冬は美しいのだろう。
真っ白な雪が道路一面に残り
(これはあくまでも私の住んでいた北国の光景)
太陽の日差しがあっても融けずに
道路はテカテカと光って眩しいくらいだ。
その光景が好きなんだ。
そして夜は
その白さは
青白さに変わる。
神秘的な青白い雪の色。
他の季節にはない色なんだ。

人々も車も
その雪に翻弄され
ソロソロと歩き
ノロノロと運転し
互いに思いやるようになる。
見知らぬ人たちとの暗黙の笑顔。
どんなに文明の世の中になっても
この雪にはまだまだ勝てない。
自然が文明に勝(まさ)っている季節。

そして
冬らしい行事が詰まっている。
冬が苦手と言いつつも
クリスマスを楽しみ
年末の慌しさの中に気分の高揚がある。
家族や親類が集まり
正月の賑わいを味わう。
子どもたちが無礼講のようにはしゃぐ。
おせちや雑煮など
冬ならではの料理を楽しむ。
こんなに
冬は温かい行事があるのだ。
笑顔がいっぱいできる季節なのだ。
私は
クリスマスプレゼントに
母親から
好きなレコードを買ってもらうのが楽しみだったな。
母親と
あのテカテカした道路を歩いて
レコード店に買いに行った日を思い出す。