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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(1/16)情けない自分

2012年01月16日 21時02分06秒 | 東日本大震災
新年早々
自分が情けなくなってくる。
今日は16日。
年が明けて、心新たに頑張ろうなんて
いつも年頭に誓うが
正直この16日間、心身休まった日がない。

身体はワーカホリックの如く
仕事のための一日、仕事のために寝る、仕事のために起きる、仕事のために家事省略、
仕事のために食事がお粗末な状態。

昨日は疲れに疲れてとうとう寝坊。
携帯の目覚ましも全然聞こえず、鳴ったのか?と疑問に思うほど。
帰宅後は熟睡した。
夫は「疲れているときは寝るのが優先」と言ってくれて
3時間熟睡した。
夜はなかなか寝付けなかったが、あの熟睡がなければ
家事もできなかっただろう。

さてその自分の情けなさだが


ある機関に重要書類を先日送った。
返信用の封筒が入っていたので、それに書類を入れて投函した。
ところが締切日になっても到着していないということが今日わかった。
その問い合わせの電話である。
書類の内容のことを伝えて、そちらの返信用の封筒に「御中」と書き直して
確かに投函した、と言ったのだが
どうも郵便局からその機関に電話があり、
私はまちがって、返信用の封筒の入った、差出人がこちらの名前のものを
投函したらしい。
しかし、私は確かに返信用の封筒を送った、と思っての会話である。
一応探してみる、と言ってみたが、自分に確信があるから
そんなはずはないと思っていた。

そして
乱雑な書類の山から
返信用の封筒(書類も入って封印してある)が出てきた。
あのポストに投函したのは
封の切った、機関からの自分宛のものであった。
情けない。
自分が情けない。
折り返し電話をして謝った。
よくも怒りもせず、丁重に対応してくれたこと。
明日それを直接
持って行く。どうしても直接謝りたい。
改めて投函してください、と言われたが
直接持っていく。
迷惑をかけ、心配をかけ、イライラもさせてしまったであろう。
申し訳ない。


こんな自分の連続なのである。
自転車のタイヤのパンクを直しに行けば
こんなツルツルなタイヤではだめだ、と言われて
タイヤ交換し、寒い中1時間も待たされ
ようやく直って快適、と思った一昨日。
そして今度は後輪が空気が抜けている。
パンクなのかどうか。
自分で空気を入れたが、日を置かずに空気が抜けて、いたずらではないか、などと
疑ってみる。

こんなことで煩って、時間を消耗して
自分のミスで自分の心を痛めて
なんという幕開け。
まだまだ私の本当の夜明けは来ていないようだ。
自業自得という言葉は
私のための言葉である。

ネコの相手をしていない。
夫も
寄ってくるヒカルたちを邪険にしている。
ごめんね、皆。

(1/10)2012年最初のブログ

2012年01月10日 20時55分53秒 | 東日本大震災
あけましておめでとうございます。
もう、正月気分も抜けて新年の挨拶の空しい響き。

私の休日は変更になり
明後日。
年末と元旦にお休みをもらったのですが
朝から大忙しの31日。
それでも夜は紅白を割りとゆったりと観ることができました。
長淵剛、ガガ様、石川さゆりがよかったね。
元旦は
作ったおせちを持って、実家に。
震災以来の両親。
あまり気が進まなかったけれど、この機会を逃したら
ずっとずっとあのままのような気がして
短時間滞在してきました。
父がおせちを作っていました。
脳梗塞の母は、料理が全くできません。
あんなに料理が上手だったのにね。
父もだしにこだわったりと、おいしく作っており
80歳を越えても全く衰え無し。

また来るからね、と言って
新年の訪問を無事終えました。

そのあとは仕事仕事の日々で、正月気分を味わう暇なし。


年末の記事の続きも書けずにまた日が経ってしまいました。
いつになったらこの気分は落ち着くのでしょう。
明日か明後日、ゆったりと書こう。

(12/31)去りゆく人々①

2011年12月31日 04時53分55秒 | 東日本大震災
今日と明日が休み。
よって
今朝は目覚ましをセットしないで
思う存分、好きなだけ寝て起きる、と予定していたが
昨夜は9時に寝て
今朝は4時前に目が覚める始末。
こんなに早く起きても
台所でガタガタしていたら姑が起きてしまうので
二階でネット。
そして今頃また眠くなってきた。

昨日は私の仕事納め。

震災関係の人々が前日から続々と帰郷していった。
何ヶ月も滞在してようやく区切りをつけて故郷に帰っていく。
長い間ごくろうさまでした、という気持ちだ。

その中で
私の就任と並行して4月から滞在していた人が
とうとう昨日で仕事が終わり
大阪に帰っていった。
白石ウーメンがおいしい、と言っていたので
それをおみやげに持たせる。
正月休み明けに再び戻ってくるのかと思っていたが
もう戻ってこない、と先日言っていた。

仙台に8ヶ月もいて
それなりに大変だったと思うが
たくさんの知人ができたり
いろんな所を巡って愛着も出たことであろう、こちらで仕事をしたら、と
以前私は半分冗談、半分本気で言った。

大阪の気候と東北の気候は違いすぎる。
それにあちらで安定した仕事があるわけだから
無謀な話である。

すると
昨日の最後の会話で

こちらで事務所を開くつもりだ、と彼は言った。
夏ごろをメドに事務所を移転したい、
こちらには
土地がある、緑が豊かである、知人がたくさんできた、と
言った。
私の目は輝いた。
大阪の大都市からこの東北の小都市に移転することの決断。
彼の心に焼き付いた仙台という街。
こちらで休日のときは
仙台で知り合った陶芸家のところで焼き物を伝授してもらったという。
福島のいわきまで足を延ばし美術館に行き、
仙台に帰ってきたとたん雪で滑ってころんだ、という。
彼の休日は非常に充実していた。
この夏に一度だけ帰省しただけという。
あとはずっと仙台での仕事、休暇である。

また有島武郎の一節を出すが

ある程度知り合った者同士が、いったん別れたら最後、この地球上で呼吸を
しながら未来永劫と会うことがなくなる、この不思議な寂しさ・・・
   (原文はもう少し違うと思う)

出会いがあり、笑顔を交わし、挨拶がその日の糧になり
いつかは別れゆく、そのときに感じる私の寂寥感が
あの有島武郎の一節に集約されている。

今回もそうだ。
大阪のその人に限らず、何ヶ月も滞在した、日本の各地から来た人々に
その思いは共通する。
仕事として来た仙台。
故郷の暖かさが逆に際立つ東北。
だが
それなりに愛着を持ってしまった仙台。
彼らの胸に何かしら、熱い思い出を残していった仙台。
そう忖度して
私は笑顔で
「長い間、復興のお仕事ごくろうさまでした。」と送り出す。
いつかは
家族と恋人と、この街を訪れてほしい。

さて
その大阪の人も今頃は
温かい自分のベッドにもぐって疲れを癒しているだろう。
そしてやはりここの地がいい、と思っているかもしれない。
あの事務所移転をどこまで実現できるかわからないが
再びこの我が街に降り立つことを待っていよう。
私も成長しているだろうか。
人間として未熟な私は成長しているだろうか。

(12/16)雪が降った

2011年12月16日 21時34分17秒 | 東日本大震災

洗濯をしながらここに。
日中にもしたのだが
起きている間に、何かしておこうと思って
また洗濯をし始めた。
ネコたちの敷物がたくさんあるので、何度もしている。

今週は火曜日と今日の金曜日が自分の休み。
あとは年内、2日だけの休みとなる。
31日と翌日1月1日が連続の休みになった。
そのあとは2日から10日間仕事である。
ここの仕事は正月休みがない。
新人の私は正月からの休みなしを覚悟していたが
元日は休んでいい、と言われたので従うことにした。

ヘンな話、この仕事をしてから
身体が丈夫になったような気がしている。
痩せたからかもしれない。
1日、何千歩も早歩きして、休憩も儘ならないような状態。
食事も激減。ただし、甘いものはしっかり食べている。
4月以来、10キロ以上は痩せている。
かつての痩せていたときのズボン(パンツというのか)がまた穿けた。
捨てなくてよかった。
ああ、もしかしたら昔のスーツなども着ることができるのかもしれないね。
それらを着る仕事じゃないけれど。
去年あたりに、駐輪場の地下から地上に昇る階段で動悸がして
年のせいだ、と思っていたのだが
それが無くなった。

ところで
今日、雪が降ったんだ。
2011年12月16日、都会に雪が降り積もる。
そしてはかなく消えていった。
仙台は街の中はすぐに消えていく。
でも一瞬でも積もったので
いよいよ私の季節だ、と思った。
明朝もマイナス1度くらいの寒さの中、出勤する。
頑張れ、トモロッシ。


ではまた明日。
ゆったりと書きたいよ。

(11/27)恩師の死と日常

2011年11月27日 20時57分34秒 | 東日本大震災
今日は
普段通りに出勤して最も忙しい時間帯に早退する。
義父の墓参。
夫と私の休みが合わないため
日曜日しか行けなくなっていた。
他の同僚の配慮で、行くことができた。
感謝。


昨日
北海道の中学時代の恩師が亡くなった、と
連絡が入った。
71歳である。
この数字を書くと
老齢ではあるが
若かった。
まだまだ活躍してもおかしくないくらいだ。
5年前にこちらでクラス会を開いてくれ
先生もいっしょに来てくださった。
中学のときと全く変わらない若々しさに
まさか5年後のこの年になくなるなんて
想像できなかった。
あの頃は病の兆候もなかったのだろう。
あっという間である。

思春期に2年間担任をしていただき
彼の蔵書に驚き
彼の影響で
いろんな書物を読み始めた頃でもあった。
樽前山の麓に広大な土地を買い
農作物を作りながら
定年後もずっと教育に携わっていた。

私が将来何になりたいか
という希望を持ったとき
彼の影響が大きかった。
その気持ちを伝える機会を過去に持てたことはよかった。

あのクラスで
教員になったのは
二人いた。
二人とも、家庭の複雑さを抱えていた。
そして
彼は
「その二人が教員になれたことが嬉しい。教員になるべくしてなった、と
思っている。授業を教えるだけが教師ではないからね。」と言ってくれた。

片方の人は現役で頑張っている。
もう一人の私は10数年前にリタイアしている。

今年の震災後に
先生から電話があった。
「生きていたか。大丈夫だったか。」と。
私は、あの時
自分のことで精一杯だった。
余震に怯えていた毎日だった。
先生の身体のことを尋ねる余裕もなかった。
まさかそんな病気だったなんて知る由もなかった。
あれが最後の会話である。

テレビではお笑いの人が映っている。
職場では忙しさの中で、人間関係がピリピリしている。
日常が流れている。
明日も早朝4時、寒く暗い中を出勤する私だ。
先生、お悔やみに行けなくてごめん。
でも、いつか必ず
北海道に帰ったらお墓に行こう。皆と。

私は
自分の希望の未来を
1つ叶えたけれど
その後がダメなんだ。
ずっと浮遊したまま漂っている。
漂ったまま、私も死を迎えるのだろうか、と最近はそんな考えでストップしているよ。

(11/22)久しぶりの日記

2011年11月22日 10時16分15秒 | 東日本大震災
あれよあれよと
カレンダーがあと一枚。
月日の流れについていけない自分がいる。
ブログを滞らせて1ヶ月余り。
あれほど
書く、書くと言いつつも
再出発できないでいた。

日々の記録も兼ねたブログのはずだが
一体
いつ
何があったのか、の記録までもやめてしまっていた。

相変わらずの停滞気味の精神だから
なかなか
奮起してこれを開くことができなかった。
そしてこれからも
こんな自分なんだろう、と絶望的な憶測をしている。

いつだったか
今年はどんなめぐり合いがあるだろう、と書いた。
自分の心をときめかせるような
好奇心が動くような
感動が支配するような

これまでの
オトメちゃん
はやぶさ
山P
などなど
自分の心が躍るような対象が
突如として現るような
出会いを期待していた。
しかし

そんなことは滅多に起きない。
今年は
暗いことの連続。
暗い知らせの連続。
生きていれば
楽しみも増える、生きる分だけ
知らないことを知る、と思っていたが
それとは逆に
暗くなることの知らせが次々と入ってくる。
私に
どれほどの心の修行をせよ、と言っているのだろうか。

今年はどういった年だったのだろう。
あんな大きな天災が身近に起きて
救われた命、と思って
大事にしなきゃならない命なのに
現実には
生きることのつらさのようなものが
ぼんやりと
生活を支配している。

大きな地震にも拘らず
生きていることに感謝、なんて
心配して電話してきた北海道の恩師に
話したら
その恩師がすい臓ガンで
限られた命を削っている。
悔しい、と言っている。
まだまだ働いていてもおかしくない年齢なのに。




そして
最近知ったこと。
毎年正月に
家族いっしょの幸せな写真付きの年賀状を
送ってくる教え子のご主人が突然死していたことを知る。
まだまだ若い働き盛りの年齢。
あの人が?!という思いである。

どこかで不幸が突然やってくる。
自分の不幸を嘆いているときに
もっと過酷な不幸
この世と別れてしまう不幸を経験する人が身近に存在する。
それらが
もしも自分の身にふりかかったら
どう対処したらいいのかわからなくなってくる。


そんなことを考えている日々だ。


それでも生きなくちゃならない。

(8/30)震災にてドイツ人を救った人の話

2011年08月30日 17時21分41秒 | 東日本大震災
季節感喪失気味のトモロッシです。
いつのまにか
夏が終わりそうです。
毎日
上司に怒られながらも
必死に働いて
プライドなど捨てている自分。
いい年した女が
年下の男上司に怒られてばかり。
私をいびるのが好きみたい。
夫に
お前ら、SMか、と言われています。
やめたいけれど
やめられない経済事情。
夫、もっと頼りになれ。

9月から
毎日、少しでもブログを書くように努力しよう。
それこそ、一言でもいいじゃない。
とにかく
丸一日、夫の顔を見ないまま
朝早くに出て、帰宅してどっと疲れて
夫の夕食準備をしたあとに
夫が帰宅する前に寝てしまう始末。
猫の相手もしないで、カワイソウ。

腰が痛い。
足の骨が痛い。
痩せてきて、ズボンがずり下がる。
ずり下がったまま仕事をしている。
栄養状態も悪いのではないか。
午前中は、パン1個で過ごし
夕食は自分の分は手抜き、缶詰をおかずに食べている。
まずい、まずい、この状態はまずいと
思いつつも
こうしてダラダラと生きていくのだなあ、と予測している。
夫に
こんなふうにして
死んでいくものなの?なんて聴いてみる。
そうだなあ、と返事。
あなた、私たちの夢はどうなったの?

どんどん遠ざかり、そのうち死んでしまうと思ってしまう。
そのうち老いる、という書き方ではなく
そのうち死んでいく、という書き方ですよ。

元同僚(それほど親しくはなかった)から
葉書が届く。
なんで、今、近況報告やお食事でも、という誘い?
嬉しかったよ。
気にかけてくださって。
ありがとう。

今日の感動的なニュースを。
地元の新聞より。

震災の時、ドイツ人の旅行者を救った方のお話

いろんないろんな物語があの震災にある。

(8/19)大きな地震だった

2011年08月19日 18時06分11秒 | 東日本大震災
今日の午後2時過ぎの地震は
何の前ぶれもなく、突然来た感じだった。
地鳴りがするとか、カタカタ何かが揺れる音がするとか
じゃなくて
いきなり地面が大きく揺れだした。
直下型のようだった。
おそらく震源が浅いのだろう、近いのだろう、と
1階のオーディオルームで昼寝をしていた私は
揺れが止まってから
2階に上がった。
猫たちは皆目を丸くしていた。
テレビをつけたら
久しぶりの大きな地震、津波警報であった。
あの3月11日の、4月7日の地震を思い出させる。
最近また余震が増えていたばかりなんだ。
昨日も一昨日も
話題は
「地震があったよね。」と会話している。

テレビをつけていると
ニュースで各地の地震のときの映像が流れ
その中で
携帯のギュイッギュイッと警報の音が出ている場面があった。
とても小さく流れた音だったのだが
うちの猫たちはそれに反応してしまい
トチもシンノスケも離れた場所から飛び起きて私の顔を見ていた。
とにかくうちの猫たちはあの音が大嫌いなんだ。
あの音が鳴れば、必ず大きな揺れが来ることがわかっているから。
テレビの画像を通しての、小さな音だったけれど
すぐにわかって敏感に反応していた。
猫も怖がる地震です。
当たり前ですが。


久しぶりにブログを書いたのはいいが
地震のこと。

今日から急に
涼しくなりました。
昨日まで暑くて暑くて
夜中も扇風機をつけて寝ていたのに
急激に温度が低くなり
猫たちも丸くなっている。

8月は祭りの季節。
仙台も大きな祭りがあり
その写真を撮ったのにUPしないまま
今日に至る。
もう遅いね。
とうとう中旬も過ぎて
9月を待つばかり。

何をしても
精神的に低迷する日々です。

(7/11)片岡さんの猫

2011年07月11日 15時37分16秒 | 東日本大震災
片岡さん(拳論ブログ)の
被災猫が帰ってきた。

元々ノラだった猫だが
地震のとき
ブロック塀の下敷きになったのを
助けて
治療に専念してきた片岡さん。
なかなか人に懐かない、警戒心の塊だったが
目も見えるようになり、身体も動くようになり
ノラの気持ちに沿って、離してやった5日前。
その後、気になっていたと思うが
(私も、それがいいのかどうか、判断つかなかった。)
また姿を見せたのだ。
ちゃんと、鳴いて、存在をアピールしてきた。
去勢もしてあるので、もうそれほど遠くに行かず
今後、ゆっくりと
片岡さんに心を開き、徐々に近づいてくることだろう。

猫って
結構頭がいいんだ。
一度、声をかけると、その存在をわかってくれる。
うちにいたロッシもそうだった。
毎日来るようになった。
すぐに去勢をしようと思ったが、捕獲に大失敗して
二度と姿を見せないのじゃないかと
後悔したが
すぐにやってきた。
そしてとうとう我が家の猫になった。
去勢していないときのロッシは
怪我をしていようと、とにかく外に、雌を求めて、大雪が降ろうと
出ていく。
ようやく、去勢したっけ。
そのあとは穏やかに、すっかり打ち解けたカワイイ猫になった。
そのロッシが逝ってもう8年。
早いなあ。

とにかく、良かった良かった。
片岡さんの心の鉛も取れたことであろう。
ボクシングの取材で大忙しだろうけれど、
鉛が取れて、仕事に専念できると思う。

(7/5)仕事をしないうちに辞任

2011年07月05日 15時21分33秒 | 東日本大震災
忙しくて、身体がつらくて
全くブログを更新していないけれど

昨日は
ニュースを見てさすがに立腹し、
それを明日(今日)書けたらいいな、と思っていたら
早くも急転直下、辞任ということになった。
そう、あの人。
彼の話の内容はあきれるばかりだが
それ以上に
あの話しぶりに、即、これはない、この人は大臣にふさわしくない、と思った。
人間としての資質に大いに疑問を持った。
こんな考え方をしている人、こんな話し方をする人に
どれほど復興を期待できるだろうか。
村井知事も、いきなりあのような言い方をされて、非常識な話しぶりに
おそらく立腹したかと思うが、放送される手前、怒りをぐっと
飲み込んだことと思う。
その後、よくぞ冷静な不快感を表明してくれたと思った。
国と県は主従関係か。
大臣はふんぞりかえるお客か。
初対面で、あのような対応をする人の力は借りたくない、というのが本音だ。
村井知事、前途多難、と思ったことだろう。

ところが
今日、仕事をしているとき、たまたまテレビで
辞任会見をやっているのを観る。
音声は聞き取れなかったが、文字に「辞任」とあったので
当然だ、と思った。
これが辞任でなければ、
あの話しかた(飲み屋でもないし、朋友でもないし、部活の先輩後輩でもないし)
と内容を謝罪すべきだ、心を入れ替えて、公僕として、被災地の復興を全面協力する、と言うべきだと思っていた。
しかし謝罪しても、遅い気がした。あの言い方は、彼の本質である。本質はそうそう変えられるわけでない。そういう生き方をしてきたのであろう。
恫喝、高圧、不遜、それがこれからも、折々に出てくるはずだ。
よかった、辞任して。
ご免蒙る。
県も国の一部である。まるで、別な国をしかたなく、仕事だから助けてやるんだ、という意識が丸見えである。
宮城県も、日本国です。


私は
あのような話しかたをされたら、返事はしません。
「わかったか!」と言われて
「話の内容がわかっても、ストンと胸に落ちませんね、その言い方だと。」と
ついこの間
職場でやり合ったばかりである。
思い出した、あの場面。

今、その彼女とは表面的には
何とか仕事をしているが
やはり最初に、本質を見てしまったから
どうも心の底から
信用できませんね。
毎日それの繰り返しです、今。

(6/18)地震

2011年06月18日 21時01分33秒 | 東日本大震災
さっきの地震は
あの3月11日を思い出させる揺れだった。
ただ短かった。
台所にいたのだが
一瞬立っていられないような感覚だった。

これまで余震は何度もあったけれど
地震は収まっていくんだな、と思ってきただけに
やはり
自然はわからない。
人間のほうで、勝手に収束なんて思っているのかもしれない。

枕元の置くべきものを忘れていた。
懐中電灯は絶対離さない。
ラジオはテーブルの上。


もう眠くなったので寝ることにする。
明日行けば
また明後日休みになる。
ずっと休みを取れていなかった分、後半に集中して取れる。

(6/1)6月に入った

2011年06月01日 20時12分27秒 | 東日本大震災
 


    そこにあなたは座って
 
    何を見ていたのだろうか

    毎朝

    同じ時刻に

    同じ場所に座り

    人けのない通りを眺めていた

    3ヶ月

    この生活が続いた

    定刻にバスに揺られ

    廃墟の町々を訪れ

    瓦礫を拾う

    人々の哀しみの瓦礫を拾う

    それが仕事だった

    それが賃金になった

    窓辺から眺む街は

    あなたの街じゃない

    あなたの街は遠い西にあり

    瓦礫とは縁のない活気のある街だ

    帰りたい、と思っただろう

    この埃と泥まみれの服を早く脱ぎ去りたいと

    思っただろう


    5月末日雨の日

    ようやく

    この街から解放されたようだ

    突然その日は来たのか

    何の前兆もなく

    忽然と消えた

    使命を終えて

    予定された日に去って行った

    私は

    またこの6月も

    あの窓辺の席に座っているものと思っていたが

    忽然と消えた

    そうだ
  
    初めから決まっていた

    この街の人じゃないことを



    ありがとう

    皆ありがとう

    今度

    この街を訪れるときは

    さっぱりとした服とさっぱりと短く切った髪と

    笑顔で来てほしい

    あなたが汗水流して

    片付けた瓦礫の町が

    きっとあなたを迎えてくれる

    見て欲しい、こんなに美しく甦ったよ、と

    両手を広げて

    その町は迎えてくれる

    

    あなたが西の故郷に降り立ったとき

    きっと

    毎朝

    眺めた街の通りの光景を

    懐かしく思うだろう

    こんなに

    故郷に帰りたい、と思っていたのに

    いつのまに

    東の町、街の光景が焼きつき

    再び訪れてみようと

    思うだろう

    と

    私はあなたの心を予測している

    ありがとう

    ありがとう

    東の町は

    今日もあなたの代わりの誰かに

    助けられている



    ひとりひとりに

    私は

    ありがとうの気持ちを込めて

    今日も

    笑顔で挨拶する  

(5/19)ボクシングの二つのブログ(ネコブログ)

2011年05月19日 16時18分35秒 | 東日本大震災
私は
ボクシングのファンじゃない。
夫や義母は、格闘技のファン。
よくボクシングを観ていた。
それに釣られて
私も、内藤選手が活躍したころによく観始めた。
特に、亀田選手との試合のころ。
そしてそれをきっかけに
ある2つのブログをお気に入りに入れている。

1つは
以前紹介した、内藤選手の所属する宮田ジムのブログ。
そこには、ヒロ君という名物ネコがいる。
そのおかげで、宮田ジムのネコのコーナーを
たまに開いては、楽しんでいる。
つい最近、ネコのコーナー以外のところを開いてみると
山Pのサインが宮田ジムに届けられた記事を読んで
小躍りする。
宮田さんは本当にネコ好き。
ヒロ君は、人を怖がらず、いつもボクシングのマットの上に横になっている。


もう1つは
片岡亮さんという、ボクシングのライターの「拳論」というブログ。
有名なブログだと思う。
そこでは「猫論」というブログも書いている。
片岡さんは、怪我をした猫たちを救ってきた。
今回、震災で大怪我をしたネコを助けて、今奮闘中である。
絶望的な状態から、少しずつ少しずつ、回復に向かっている。
姿を見れば、ギョッとしそうだが
絶対に治ることを信じている私だ。
このまま治らないのじゃないか、という気持ちは
私も幾度か体験してきた。
しかし、うちにも奇跡のネコは何匹かいる。
皆、今元気だ。
だから、頑張れ、という気持ちで片岡さんのブログを観ている。

世の中に
こういう人たちがいる。
縁があった以上、できる限りのことをしてやりたい、
私は
ネコの神様に祈る。
どうか報われますように、と。
ネコも、奮闘する人たちも、良い形に残してほしいと。
今日も祈ります。
世の中の、不幸な動物たちが1匹でも多く救われるように。
そして
できるならば
自分自身が、その担い手の一人になりたい。
しかし
しかし
私は、今ここにいるネコたちで精一杯。
なんとも不甲斐ない。

(5/16)久しぶりに長く書く。

2011年05月16日 15時39分34秒 | 東日本大震災
新緑の季節。
ああ
もう5月は中旬になっていた。
曜日感覚も、日にち感覚も消えてしまっている今、
今日は何曜日、今日は何日、とすぐに出てこなくなっている。
震災前は
テレビのドラマなどで、楽しみの曜日があったりしたのにね。
あれから
日常のいろんなことが変わってしまった。
観るものも、目に入るものも、皆日常から消えていった。
テレビも全くつまらないものになってしまった。
これまで現実だったもの、バラエティの面白さとか動物の可愛らしさとか
日常の事件の憤りとか、皆
それらは何だったのだろう、と思うほどに
うたかたになっている。
泡の如く消えていった、私の中で。


今日は休みだ。
疲れに疲れて、たった1日で回復しない疲れだ。
5時半に起きて、久しぶりに夫の朝食を用意する。
早朝に出勤する私の代わりに
夫は自分の朝食と、ネコたちの食事とトイレ清掃とゴミ出しを
してくれる。
朝の出勤前のそれらは大変なんだ、夫にとって。

そのあと、洗濯を3回する。
ネコたちの敷物などを大量に。
お天気が良いのでできるだけ、今日のうちにしておきたい。
少し部屋の片づけをしていたら
もう疲れてしまい、疲れにまかせて眠ることにしよう、と
ソファで仮眠。
そして見る夢は
今の職場の人間関係。
恐ろしい夢だ。

盗聴器が義務付けられて(夢の中のお話)、
私も盗聴器を付けなさい、と先輩から言われる。
そんな・・・と絶句して、その場を離れ
コーヒー豆を買いに行く。
そこまで行くのに距離があり、遠回りしながら買いに行くんだ。
やっと辿りつきそうになると
犬が邪魔をして、引き返さなくてはならない。
その徒労感。
人の群れが恋しくて、パチンコ屋に入ろうとするが
どこのパチンコ屋も閉まっていて、人がいない。

ヘンな夢だった。
そして、私の見る夢に、新たに、今の職場の人たちが登場することになった。
お世話になっている人たちなのに、
いきなり盗聴だのの裏切り行為をする夢だなんて、申し訳ない。

習慣になった、早い時刻の就寝。
昨日は、翌日が休日だから、遅くまで起きていても安心なんて思っていたけれど
9時前から眠くて眠くて
「仁」を観る前から横になってしまった。
ハッと気づいたときには、後半の部分。
よくわからないうちに終わってしまった。
唯一の楽しみのドラマさえもこうして観られなくなってしまいそうだ。
すぐにそのあと眠る。
携帯の目覚ましも止めて、時計の目覚ましだけにして。
なんとも乏しい生活である。




さて、先日
「好事魔多し」と書いたが
それも慣れてきたような。

あの日、ショックで食欲なし、夕飯を自分だけ
何とか梅干1個で食事をしたっけ。

それまでの1ヶ月間の人間関係に
いつもにこやかに接してきたから
滑り出し順調、と思っていただけに
新しい人が入ることによってどれだけ
そのバランスが崩れることか、と実感し
ショックも大きかった。
その人は初日に険しい表情をしてやってきた。
「来てやったんだ」という意識が強かった。
そう見えた。
忙しいときに、本来の仕事を全くせずに、傍観し、いきなり大清掃から始めていた。
よくも、こんな汚い(彼女からしてみれば)所で仕事をしていたな、という態度だった。
全て、彼女の考えのもとに変えられた。
私はまだ1ヶ月だから、しかも震災後だったから
そこがどれほど汚いかよくわからない。
私の目からすれば、綺麗な職場だったが。
とにかく清掃清掃である。
これは今も変わらない。

出てくる言葉もきつかった。
それまでいた人の否定である。
そしてショックだったことの1つは
その交換になった人に全て責任をなすりつけるような、残った人の言葉。
まあ、いなくなった人に責任をなすりつけることで
これからいっしょに仕事をしていくためにはそれはそれでいいのかもしれないが
無言の私は
心の中で
その人一人の責任じゃないだろう、ここにいる人たち皆の責任だろう、と
叫んでいた。
私自身、その去っていった人と、冗談言ったり、一服したりと
楽しかったから、そういう思い入れもあったのかもしれないが
いなくなった人に全てをなすりつけるような言い方をした人に対しての
ショックだったのだろう。
私は新人であることをいいことに
説明する立場になかったので、新しい人とは全く会話しなかった。
おそらく、無愛想な私に映ったことであろう。

それから翌日の夜に
交換して別なところに移動した先輩から電話があった。
なんと
散々、その人のせいにした人から、長々と電話があった、と話してくれた。
そうだったのか・・・
私はその人の心を察した。
彼女もつらかったろう。窓口として、これまでの説明をしてきた彼女の態度や話しぶりに
立腹していたけれど
彼女なりに、窓口説明の役は辛かったに違いない。
それを単純に二枚舌、と書くには想像力が乏しい自分になる。
それもしかたなし、彼女自身が辛かったに違いない、と思った。
彼女と、出ていった人との確執もあったらしいが
それなりに、頼っていたのかもしれない。
そして
いきなり、「今日、旧メンバーでお茶会よ。」と言われて
仕事が終わったあとに会う。
私は終始聞き役。煙草の量、増える。
でも、お互いに吐き出して頑張ろう、と言っていた。
そうなんだ。
現実は
新しい人とうまくやっていかねばならない。
組織は大きいけれど、実際に働くところは狭い世界である。
これからのほうが長い。
寧ろ、これまでの1ヶ月のほうが過去になっていく。
たまにまた、冗談を言える仲間、ということになっていくのだろう。

そして
ショックから一夜、翌日は
新しいリーダーは殊勝だった。
前日の態度とは大違い。
その理由はわからない。
まあ、前の職場と、私たちの今の職場の忙しさの違いから来るものかもしれない。
前のところは非常にヒマ(これはそちらに行った人の実感。楽だ、と言っていた)な
ところで、こちらはものすごく忙しいところ。
規模が違う。
だからこそ、初日に、なぜこんなに悠然と構えているのか、と私は気になったのだが。
悠然と構えていられないくらい、忙しいんだ、と実感したことであろう。
それからは、すごい馬力。
そして
つい先日書いた、「8時間休みなしの、食事なしの仕事って、有り?」に
つながる。

ここ数日いっしょに仕事をしていて
とにかく
休まないんだ。
仕事を見つけては仕事。
「さあ、皆さん、一息つきましょう。」なんてリーダーシップを発揮するどころじゃない。
寧ろ、仕事を続けること自体がリーダーシップ発揮していると思っているに違いない。
「止まれば死ぬ」なんて言葉があてはまるくらいに。
こちらは少し休まねば、死ぬ、続かない、と言いたいくらいだ。

己に厳しいんだね。だから他人にも厳しい。
それはわかった。
すごくわかった。
だが、人の身体それぞれである。
機械じゃないから、同じというわけにいかない。
これを習慣化してしまうのは、長い目で見て良くない。
これじゃ、新人がつぶれて、他の新人が来てもつぶれてしまう。


しかし、昨日あたりはかなり軟化していたなあ。
私が勧める椅子に座っていた。
それさえも自分に課することを禁止していた人だった。


そういえば
こういう自己に厳しく他人に厳しい人は
私の以前の職場にいた。
山羊座だ。

私は
新しいリーダーの星座を、頭の中で想像しながら
立ち働く。
私には私の役割がきっとある。
そう思って
これから長い期間、頑張ろうと思う。

とは言っても
この状態から脱せないと
息が詰まって、私は逃げ出してしまうかもしれないが。
弱音をすぐに吐くね、私。

でもそうなんだ。
浮世離れした自分には
空を見上げること
吸う空気の微妙な変化を感じること
それを感じない日々を過ごすことは苦痛なのである。



覚えているかい。
震災の夜、大停電になった仙台の夜空。
真っ暗な空に
無数の星がちりばめられていたことを。
ああ
夜空って、こんなに美しいんだ、って思った。
だがしかし
地上ではあんなに大変なことになっていたとは
都会の生きている人間にはまだ
わからなかったことだ。
一瞬、夜空の美しさをときめいて感じたことが
罪深いことだったなんて・・・




(4/23)夜中に地震で目が覚める

2011年04月23日 03時16分40秒 | 東日本大震災

数日前の桜

夜中に起きてしまった。
強い地震で目が覚めた。
前日の夜は8時過ぎに寝たので、4時間ほどの睡眠で
すっかり身体が目覚めてしまった。
しかたない、このまま眠るより
起きるしかない。
まもなく、携帯の3時の目覚ましがなる。

こんな起き方をしたら、身体を壊すぞと夫に言われた。
確かに。
でも、寝たい、と思う時刻にすぐに寝られるからいいんだ。
前の仕事なら、夜にも勉強しなければならず、眠いときに寝る、という
ことが儘ならなかった。

天候が不順である。相変わらずの、冬スタイルで私は出勤する。
雨が続くようだ。公園の桜が曇天の空をバックにして寂しそうだ。
せっかくの満開の桜は青空の下で見たいものだ。
数日前の青空が恋しい。


苫小牧の中学時代の人たちとの掲示板があるのだが
もう、すっかりあちらでは
この震災の報道も少なくなっているようだ。
おそらく、向こうの感覚では
東北の被害も落ち着き、復興まっしぐらと思っているに違いない。
しかし現実は遠い。
確かに、街の中は人が溢れて、車も溢れて、活気が取り戻せてきたような
気がするが
震災を機に閉業するところがたくさんあり、いろいろと深刻な状態が残っている。
沿岸の町々が津波にやられ、復興する際、再びここで立ち直れるのか
またはすっかり町ごと移転して、高台のほうで再建するのか
いろんな場所で、いろんな問題が山積している。
忘れられた町もあろう。話題にも上らない町もあろう。
でもそこに人が住んでいた限り、それなりの問題が必ずあるのだ。
ローカルのニュースでは、粘り強くそれらを報道してほしい。
私は今テレビを全く観ていない。
好きなドラマも今回は何をやっているのかわからない。
仁だけは観ようと思っている。
バラエティも観ていない。
かと言って、何か震災に関しての番組をやったにしても
熱心に観ていない。
6時過ぎのローカルだけは、夕食に合わせて観ている。


仕事を始めて2週間。
同じ8時間労働でも、時間がずれるだけでも、かなり疲労度や家事の進捗具合が
違ってくる。
家事がなかなかできない。
震災のままの部屋に入ると、良心が痛む。片付けなければ、と思いつつも
これを片付けるには、気力が必要、今はその気力なし、とそそくさと部屋を
出てしまう。
仕事場ではあんなに完璧に近いほど掃除を徹底してやるのに
家では、皆無。
休み無しの8日勤務はつらいね。
もっともっと大変な労働時間、勤務の人が世の中たくさんいると思う、
でもこの私にはまだまだ慣れていない。
只管、家にて寝ることだけを優先している生活である。

これから、パンを食べて職場に向かう。