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僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(4/21)桜の花の散る時機はある

2011年04月21日 20時13分31秒 | 東日本大震災

また職場の帰りに、この公園に寄ってみた。

先日、美しい桜の木に誘われたと書いたが
あのあと、温度が急激に下がり、風が強くなり、みぞれまで降った日が続いた。
この風で、桜の花びらは散っただろうか、と心配していた。
しかし
今日行ってみるとまだ咲いていた。
どんなに強い風が吹こうと、花びらと枝と幹と一心同体だった。
そして時機が来て、無風であっても花びらはハラハラと散っていくのだ。

この公園で、のんびりと一人過ごしてみた。
鳩がいて、桜を写真に撮る人がいて、本を読む人がいて、躍りの練習をしている人がいて、穏やかな時間が流れていた。
とても、震災があったとは思われない、優しい時間だった。
おそらく、私はこれからも職場の帰りに
こうしてこの公園を訪れることを予測している。

元の職場の人から電話があった。
仕事が明日から始まるとのこと。
例年とは違う始まり。いつもなら、私の誕生日あたりに
始まるのに、この変則的な日々。
全て、震災の影響である。
私の隣の席の人であるが、なぜか
山P仲間の人とで、私の話になったらしい。

私が新しい仕事に就いたことを山P仲間に話していない。
隣の席の人に先日話したばかりだった。
自分の今の生活のペースに乗るのに精一杯なので
親しくしていた人やお世話になった人たちにさっぱり
挨拶をしていない。
もう少し、待って欲しい。
きちんとお知らせするので。
でも、前に言っていたんだ。
「私の消息はブログで見てね。」と。
その通り、ブログを見ていてくれているらしい。
しかし、ブログを見ても、どんな仕事か書いていない。


昨日、家にて、階段から滑り落ちた。
左脚の内出血が痛々しい。
熱を持っている。
滑るスリッパで、投げ捨てた。
今、怪我もしたくない、余計な心配はしたくない。

寒くて、まだ朝は冬スタイルで出勤している。
手袋、帽子、防寒具、懐中電灯、マフラー、日中に帰るときは
さすがにそれらははずしている。
しかし、まだまだ朝の気温は油断できない。
風邪も大敵。
頑張れ、トモロッシ。
元同僚と、「お互いに頑張りましょう。」と激励し合って電話を終える。
いつまでも、友だちだ、職場が違っても。

(4/18)いろいろと。あっと言う間に一日過ぎる。

2011年04月18日 20時08分47秒 | 東日本大震災
今日は私の休日。
携帯の目覚ましは止めておいて
自然に目を覚ましたのが6時過ぎ。
昨日、ドラマを観てから寝たので、必要な睡眠時間を
これぐらい取れればいいのか、と思って起きた。
洗濯をして
ネコのペットシーツを買いに行かねばならないので
自転車で出かけた。
大手のスーパーに売っているのだが
そこは2回目の4月7日の地震で、また徹底して営業不能、延期を強いられたところだ。
この2回目の地震で、ずいぶんととどめを刺された会社やビルなどが
多かった。

そのスーパーは店頭販売しかしていなかった。再開するのはもう少し先のようだ。
ペットシーツが売っていたことは幸いだった。
ここのが一番割安なんだ。
それを持って、他のスーパーに肉などを買いに行った。
ペットシーツを持ったままだったので、レジのところで
「それもですか。」と聞かれた。
「これは○○で買ったものです。」と言った。
聞かれると思っていたんだ。大きなもの(200枚入り)だったので
袋に入らないもの。
レジの人はジロジロとそのシーツを見ていた。あとで点検するつもりなのだろう。
何しろ、それはそこのスーパーには売っていない。
最初のスーパーのオリジナルだから。
そのうちわかって、「ああ、○○と書いていますものね。」と言われた。
私は何も答えなかった。
答えるとしたら、何て答える?
ニコニコするのもヘンだった。

そして家に帰って、お昼はパンを食べ、寝た。
少し寝ればいいと思っていたけれど
疲れていたんだなあ、目が覚めたら5時近く。
足や足の裏にまで湿布薬を貼っている。
疲れたら寝よう、これに徹する。
食事もあまり進まない。相変わらずだ。
あるもので食べた。
肉は明日にしよう。義母が食べたがっていたので。
ゴミ袋が全く手に入らない。
乾電池が手に入りにくいというのと同時に
ゴミ袋がない。
どこも品切れだ。
10枚入りで450円なので、2セット買えば、1000円近くもするものだ。
皆、それを買い溜めしているのだろうか。

家の中の片付けもできていないなあ。
割れた食器がそのままになっているところあり。
私の部屋も恐ろしくて、長く滞在できないんだ。
またいつ、来るかと思うとね。

明日から8日間仕事。頑張れ、私。
ちゃんと何でもいいから口にせよ。
朝、出かける前のパンは確保。

(4/17)桜咲いて、祈りを捧ぐ。

2011年04月17日 20時04分20秒 | 東日本大震災


仕事の帰りに、小さな公園に寄った。
桜並木が私を誘っていた。
ちょっと、見て行きなよ、青空の下で、休日に見るなんて最高だぜ、
なんて言われている気がして。



ここにいた人たちは毎年、見に来るのだろうか。
もっともっとたくさん咲いている大きな公園があるし、名所があるのに
ここに、たくさん人がいた。
今年の桜は特別な気がした。
いつもなら、そんなに気に留めずやり過ごしていく私なのに
今年はどうしても桜を見たい、と思った。
どんなに地が騒ごうと、暴れようと
平常心を持って、桜は暖かい日に開花した。
これを人々は求めていた。
堂々と、いつもの春と同じく咲いている桜を見て
人々は不安を払拭した。
そして、祈った。
私も祈った。
自然の怒りを、自然が鎮めてほしいように、
来年もまた見られるように、
人々が安らぐように、元気になるように、
いろんな祈りを込めた。

仕事を始めて
一週間が過ぎた。
大分慣れてきた私だ。
しかし
早朝の起床にはいつも神経を使う。
結局今朝の起床は
定刻より早い2時起床になってしまった。
定刻までぐっすり寝たい、一度目が醒めてしまえば
二度寝の危険を知っているので
そのまま起きてしまう。
すると、後に支障を来たしてしまう。
疲れがどっと出る。
これがちょっと悩みだ。

午後の1時半に帰宅するのだが
そのあと、少し寝ることにしている。
あまり寝てしまうと夜が寝られなくなるから
疲れを取る意味で寝るようにする。
ほとんど家のことができなくなってしまう。

まだまだ
この生活のリズムに乗れていない。

それから食事もそうだ。
自分のイメージとして
早朝起きたら、少しパンやおにぎりを食べて
腹ごしらえしてから出勤のつもりでいたが
それができるときと、食事を受け付けないときがある。
何も食べないで出勤して
お昼まで、口にするのは冷たい水だけ。
そしてお昼にようやく
持って行った食パンにチーズを載せて食べる。
それが朝食昼食の食糧である。
家に帰ってから甘いものを口にして
夕方、何か作って食べるのだが
それも大して食欲湧かず。
今日なんか
義母があれこれ買ってきたのだが
ほとんど口にできなかった。
栄養が偏ってしまうね。
少しおなかの肉が減ったような。
でもそれが続くと、やはりまずいなと思う。
おいしい、と思って食事をすることがないというのは困る。

明日、休み。
脚の疲れを取りたいが・・・
そのあと一週間以上続けて働くことになる。
休みの取り方も一考。
身体が続かなくなるよ。

これから
ドラマ「仁」を観るんだ。
明日が休みでなければ、きっと観られないだろう。
寝ることが優先だから。

まだまだ変則的な生活が続く。

(4/13)今日はたくさんの優しさを受ける

2011年04月13日 20時30分25秒 | 東日本大震災
あれよあれよと
寝る時刻が迫っている。
午後に帰宅して
布団の中で眠ってしまい
ぐっすり寝たような気がする。
夕飯を食べて
包丁を研いで、うちにある使わない包丁を
明日職場に持っていこうと思う。

そのあと
秋田の友人に電話する。
お昼ごろ
職場にいたときに電話が来たので
その折り返しの電話である。

今日は
その友人の電話を始め
2通の手紙が届いていた。

一つは
元の職場の若い子から。
地震当日、地震になる直前にちょうど彼女に
私への贈り物のお返しをして以来だった。
当日から今までの様子を書いての近況報告。
なかなか時間が取れないので返事を書くのが遅れそうだ。

もう一つは
友人であるジャスさんから
誕生日のプレゼントが届いた。
私が汗かきだから
キティのタオルハンカチをたくさん送ってくれた。
ありがとう。
すごく嬉しい。
これから大事に使います。重宝します。

そして
秋田の友人。
苫小牧の中学の同級生である。
彼女の娘さんが仙台で就職していて
(4月から神戸に)、地震当日には関西の方に娘さんがいたため
被災しなかったが
住んでいた所がどうなっているのかわからず、
その荷物を引き上げに
15日に仙台に来ることになった。
ちょうど当日、私の休みの日。
彼女は、秋田の米を届けてくれるとのこと。
ありがたいな。
こちらの家庭の事情を話した。


今日のニュースでは
仙台空港が一部開通し
小さな一歩を踏み込んだことをやっていた。
少しずつ、少しずつ復興の兆し。

暖かかったせいか
公園の桜が少し開いていた。
遠目で見て、和む。
自然よ、地に繋がる自然よ
君たちはいつものように
落ち着いて規則正しく生きているね。
それが、人間に安らぎを与えてくれるんだね。
今年の桜を見て、ああ春が来た、今年も生きることができた
と思えることが、根本なんだよね。
一つ一つのことを慈しむ心を忘れていたなあ。
来年があると思ってはいけない。
一日一日を大切に生きなくては、と思わせる日々の全てである。
だから、優しさをいつも募らせよう。

(4/12)今日は涙もろい

2011年04月12日 20時03分42秒 | 東日本大震災
今日は
いろんな話題に涙ぐんでいます。
涙もろくなっている。
心が弱っているね。

昨日の夜、5分置きの余震にすっかり不安になってしまって
誰かの声が聞きたかった。
先月やめた職場の、私の隣の席の人に電話した。
自分が再就職できたこと、元職場はどうなっているかの話をした。
すると
彼女は、新しい情報として
かつて私が専門職だったときにお世話になった先輩同僚が
この津波で亡くなったと聞かされた。
絶句した・・・
具体的な名前が出ての死亡、衝撃だった。
こんなにもこんなにも人の命って、生と死隣り合わせだって、
人生ってはかないって
なんとも言葉が出なかった・・・

お互い、激励の電話のはずが暗い気持ちで切った。


ブログ仲間のしゃちさんのところにいたネコが
昨年だったか、行方不明になった。
病気で、病院に連れていったりしていたが
姿が見えなくなって
おそらくどこかで死んだのだろうと、思ってはみても
なかなかあきらめきれないし
自分がきちんと管理できなかったことに自責の念だろうし(私にもその体験はあった)
そうこうして1年ほど。
この地震で、偶然、ある人との話になり
そのネコの最期を看取った人の話を聞かされた。
彼の心で、ようやく決着がついた。
この世にそのネコはいないけれど
可愛がられてこの世を去った、手を尽くされて去ったと知り
彼は安堵しただろう。
それも泣けた。
彼の心を忖度して泣けた。


夕方のローカルニュースで

オマーンという中東の国が、原発で苦しんでいる南相馬市のある企業に
浄水器を26億円分の発注したとやっていた。
急な話ではなく、この地震前の昨年末に、既に浄水器がオマーンで活躍しており
震災の支援を兼ねた大きな受注だという。
オマーンでどれほどその浄水器が活躍しているかの映像があった。
水、貴重な水。汚水を浄化して飲み水や農業水になり、人々が喜んでいる姿。
日本のこういう企業の姿勢が
中東などの国で認めてもらえているんだ。
津波で家を失った従業員を呼び寄せ、地震で仕事を失った人を雇用し
原発で絶望している空気が一転して、がんばろうと再起しようとしている。

いつもの私なら
手を叩いて喜んでいるかもしれない。
しかし、弱っている心を持つ今は
ありがたい・・・と、なぜか泣けてくる。
風評被害や、日本というだけで、他国では郵便物まで受け取り拒否しているところもある。
それなのに、こんな形で支援してくれる国もある。
元気になるじゃないか、その企業の人たち、地元の人たち。
たとえ、そこで製造できなくても、作る人はいるんだ、どこがで再建して
オマーンの支援を受け止めてほしい。
こんな素敵な支援があるなんて。
義捐金もさることながら、こういう形で支援をしてくれることの強さもあるのだと
本当に、聡明な支援の仕方である。

今日の政府の発表を受けて
どれほどショックを受け、怒りに満ちたことか。
いろんな疑問がある。
そもそも
避難しろ、というが
何十年も避難しろ、ということか。
それは避難という言葉を使うのは間違っているのでは。
1ヶ月避難して、戻って来られるのならまだわかる。
一時避難して、自分の家に戻ってこられるなら渋々納得できるかもしれない。
しかし原発のレベル7の事故って
収束するのに、そんなものじゃないでしょうに。
土地を放棄しろ、と言うなら寧ろその方が現実味がある。
放棄するなら、そこを政府や東電が買い取ってくれるのが当然。
土地も家も家財も仕事も財産である。
もしも
100キロ圏内の仙台にも、避難しろと言われるなら
私はそれらの疑問を提示したい。
買い取れ、と言いたい。
日本のあちこちに避難者を放浪させて、お金もなく、家もなく
どうしろと言うのだ。
一時的な仮設住宅を建てても(これは地震被災者対象ではあるが)
何の解決方法にもならない。
一体、どうなっていくのか、日本。

(4/11)落ち着かない、落ち着かない

2011年04月11日 19時34分45秒 | 東日本大震災
何だか
ずっしりと心が重い。
ずっと
余震(余震なのか、これ。)続きで
具合が悪くなった。
ごはんどころじゃなかったね。
食欲がなくなると
何を食べても味がない。
食べていられない、いろいろと
地震に備えて準備しなくちゃ、なんて思ったりね。
雨が
冷たい。

5,6分置きに地震が来ているね。
そのたびに心臓がぐちゃぐちゃして
具合が悪くなった。

本震から1ヶ月目の今日。
また強い地震が来た。
地震そのものが終わっていない。
こんなに長く
不安を募らせる地震はあったろうか。
1978年の宮城県沖地震のときはどうだったろうか。
何も、過去の教訓を思い出せない。

携帯の地震警報の音が
点けているストーブを早めに消せることがありがたいが
それは強い地震が来る、という予報でもある。
ネコたちも
すっかり今日の夕食の食欲を無くしている。

命だけは助かろう、助かってよかった
という思いはあるけれど
ミシッと来る音に
命が削られるようだ。

原発も不安。
仙台は大丈夫だろうか、
これ以上もっとひどくなったら
自分たちもどこかに避難しなければならないのか
とか
ネコたちをどう車に積み込むか
とか
そんなことを考えてばかりいる。


あと1時間くらいで
就寝の私である。
昨夜も余震で
目が覚めて以来
起きて、そのまま定刻に出勤した。
睡眠不足と疲れが心配だ。
寝られるときは寝ておきたい。

こんな内容でごめんなさい。
疲れてしまった・・・

(4/8)昨日夜の余震、そして初仕事、疲れ倍増

2011年04月08日 19時13分49秒 | 東日本大震災

本震で上から落ちた本を積み上げたりしていたものが、またもバラバラになる。


今日のブログには
どんなことを書く予定だったか。
仕事の初日の緊張感や感想を書く予定だった。

しかし。
なんとも・・・心が疲れた。
あの余震である。
気力が無くなる・・・


昨日ブログを書き終えてから
9時半ごろだっただろうか
一階のオーディオルームに行って
ダイジローと寝始めた。
携帯と時計の二重の目覚ましを掛けて。
それでも、緊張していた。
起きることができるかどうかと。

夢の中で
携帯の目覚ましが鳴り、もう起きなきゃ・・・と思う。
思っているうちにまた少し寝る。
そしてガタガタと家が鳴る。
余震が何回も続いてきたから、じゃこの余震をきっかけに
起きようと思う。

ここまでが夢である。
夢の中にまで、一番気になる「起床」が出てくるんだ。
そして
現実の余震が
今までの余震と違う、地鳴りがする、とわかったとき
本当に目が覚めた。
豆電球をつけて寝るのだが
あの地鳴りを聴いて
これは危ない!あの本震と同じ音だ!
と、逃げようとしたが
立っていられない。
呆然とした。
この部屋は
本震のときに
作りつけのCD棚は大丈夫だったが
既製品のCD棚は前面に飛び出し、中のCDも飛び出して
とても寝られない状態だった。
しばらく、二階のソファで寝ていた自分だった。
夫がようやくCDを片付けて
棚を直したので
もうあのような大きな地震はないだろうと思って
1階で再び寝るようになって数日。
一応
枕元には逃げるための荷物は置いているんだ。
ところが
逃げられなかった・・・
本震のあとの心構えが粉々。
そして
豆電球が消える。
停電だ。
夜中の地震のため
何の準備もなしに真っ暗になってしまった。
懐中電灯を手探りで探す。
二階に寝ていた夫が
懐中電灯がなくて、怒っていた。

あの停電があると
情報が全くわからないのだ。
携帯ラジオをつけるにも焦って
どこにあるかわからなくなってしまう。
ようやく
ラジオをつけ、ろうそくをつけ(本震の時のままにしてある)
心が沈んでいく・・・
怖いというより、なんで・・・という気持ちだ。
あれから4週間目の金曜日の夜。
また真っ暗闇だ。

外に出てみた。
路地の人たちが出てきていた。
皆、同じ気持ちだ。
ところで、うちのカエル、3匹重なっているのよ、こんなときに。
路地にも2,3匹出ていた。

時刻はてっきり3時ごろだと思っていた。
時計を見て、はじめて11時半過ぎと気づき、寝て2時間しか
経っていなかったのだ。

二階の被害のほうが
一階より凄いんだ。
奥の私の部屋(今はネコ4匹が過ごしている)の本棚は滅茶苦茶になっている。
ついこの間、本震のあとの散らばったものを積み上げたり片付けたりしたのに
それらがまた崩れてしまった。
あの部屋を片付けるのって、結構腰を据えてやらなければならないんだ。
片付け上手の私じゃないから。
きっとまたしばらくこのまま手付かずのままにしておくに違いない。
二階の居間の本、夫の寝る和室の本も、PCの上の書類ももうゴッチャ。
戸棚には本震以来、ガムテープでガラスを留めているので、中のものは
倒れただけで割れなかった。


真っ暗闇の中、
寝られるわけがなかった。
3時に目覚ましが鳴る予定である。
目覚まし時計のアラームを止めておいた。
もう、こうなったら
出勤まで起きていなければならない。

いちいち懐中電灯を持っての行動だ。
真っ暗なところで、パンをかじる。
それが朝食だ。
停電だから、パンを焼けないからそのまま食べるように言った。

早く明るくなれ、と思いつつ
電灯のない薄暗い時刻、私は初仕事のために出勤した。
停電は
信号もつかないし、自転車の電灯だけでは非常に危ない。
懐中電灯を自転車の前の籠に入れた。
朝にならない朝に、出勤していくときの心細さ。
なんでこうなるのか・・・せっかくの自分の心構えをどうして
くじくのか、と考えつつ自転車を走らせた。

真っ暗な建物の中に懐中電灯を照らしながら入る。
そこで、今日の営業は中止、と言われた。
ここも停電だ。
いつ電気がつくかわからないから、いったん帰っていいと言われた。
9時にもう一度、来てほしいと。

そしてうちに帰り、
時間まで寝ようと思ってソファに横になる。
で、また起床の強迫観念(よっぽど遅刻が怖かったのだろう)が夢の中で
出てきて
寝ぼけて、夫の名を呼んだらしい。
「なんで、起こしてくれないんだ」と。
ああ、寝ぼけていたなあ、と目が覚める。
そしてうつらうつらしていると
急に電話で呼び出し、「電気がついたので営業開始するからすぐ来て。」と。
7時前に着く。
そこから怒涛の忙しさ(いやいや、怒涛は大げさ。ただ急だったので一瞬忙しいと
感じただけだ。本当はもっと大変らしい)。
私にとっては怒涛の忙しさだ。
何もかもはじめてのことなので、一から教えてもらわねばならない。
素直に「はい」「はい」と返事をして
一生懸命頑張ったよ。
で、これ続くの?というのが本音。
慣れれば、大丈夫だよね。
と、皆に同意を求めている。

途中、両手が交互に攣る。
今まで、脚が攣っていたのに、今度は手まで攣り始めた。
午後1時まで休みなく働いた。

夫は
前の仕事のほうが楽だろう、と言った。
確かに時間的に楽だった。
お昼は1時間半ぐらい、帰宅していたもの。
イベントがあれば仕事をしなくて休みだったもの。

会社では
私の前職業が話題になっている。
なんで、前の仕事をやめてここに来たの?とか
前の勤務先と関係のある若い子がいて、私に
わざわざ挨拶に来たのだ。
まだ、前の職場の人には
ここで働いていることを伝えていないからしばらくは内緒ね、と
言った。
そんな余裕がないくらいに
今、前職場も変則的な忙しさだし、私も
伝える暇がない。

まあ、前の職場の名に恥じないように
お互いに頑張りましょう、という気持ちだ。

帰宅して
夫とともに買出しに。
この大きな余震で
再び、車が渋滞している。
ガソリンスタンドもせっかく通常の業務になったとたん
余震で営業中止しているし
スーパーも軒並み、閉めてしまった。

東の方に行けば行くほど
本震で亀裂の入った建物の修復にかからないうちに
更に傷口を広げて、崩れかかっているところが多い。
その企業も、ショックだろうな。
社員もショックだろうな、とこれは容易に想像できる。


ガス復旧も更に遠のいた。
他県から応援に来ている人たちもさぞ
あの地響きに驚いたことでしょう。
こうして椅子に座っていると
あの地響きが繰り返されるような錯覚を覚える。
だからあまりじっとしていたくない。



という一日でした。
早めに夕飯を食べたのでもう寝ます。

私、風呂に入っていません。
お湯を何回も沸かして、湯船に少し溜めて
洗髪と身体洗いを数回していますが
ゆったりと湯船につかる、というのは1ヶ月していません。
はあ~。
疲れる。精神的に疲れる。
本震から1ヶ月。なのに、逆戻り。







(4/6)東京の火葬場にて、名取被災者の火葬

2011年04月06日 21時09分01秒 | 東日本大震災
今日は
コンビニにタバコを買いに行った。
(他にもあちこち行ったのだが)

全部、うちの近くのコンビニである。
セブンイレブンに行った。
張り紙は「3個まで」だった。
私はその張り紙に気付かずに
「5個ください。」と言った。
「申し訳ありません、3個までなんですよ。」と本当に申し訳なさそうに
言われ、そのとき張り紙に気付いた私は
「あ、こちらも気が付きませんでした。」と言った。

次にローソンに行った。
何も張り紙がなかったので
「5個ください。」と言った。
「1個までです。」と言われた。
特に申し訳なさそうではなく、冷たい言い方(これはあくまでも印象)だった。

その次に
ファミリーマートに行った。
張り紙が見え、「2個まで」とあった。
だから
「2個、ください。」と言った。
甲高い声で「ありがとうございました!」と言われる。

明日から接客業の仕事をする私は
「申し訳ございません」とか
笑顔で接することを忘れないようにしなくてはと思った。
それでなくても、声のトーンの低い私である。
冷たい言い方に聞こえる私の話し方である。
よく言えば、落ち着いている
悪く言えば、冷たい
印象とは裏腹に、ハートは温かいつもりだが
第一印象というのは
客を不快にさせることがしばしばある。
頑張れ、トモロッシ。



新聞に
被災地名取市の、亡くなった方の火葬が追いつかず
東京の火葬場を借りて行われることが載っている。
記事は事実を載せるだけだから
読み手はどんな感想を持つだろう。
東京・・・遠いなあ、と思うかもしれない。
あるいは
どんなに遠くても、火葬していただけることは
遺族にとってホッとすることかもしれない。
火葬もできないところがあったり
土葬というところもあるのだから。
その
東京での火葬場の状況を詳しくブログに載せてくださった方の
記事を取り上げよう。
私のブログ仲間の
しゃちさんである。
彼は
自分の母親の手術があるにも拘らず
東北にボランティアに行きたいと思っている方である。
その彼の町の火葬場で
名取の被災者の火葬をする際
献花台が設置してあり
東京の人々が次々と献花してくださっているとのこと。
そして彼も
お花屋さんからお花を買い、献花してくださったとのこと。
私はその記事を読んで
しみじみと泣いてしまった。
今でも目が潤んでくる。

もしも
私のブログを読んでくださっている仙台の方、東北の方が
いらっしゃるなら
それをどうしても知らせたい、と思った。
日本中で
東北を助けてくださっている、ということを
改めて認識する。
東北の痛みを、日本の痛みとして受け止め
献花している姿を想像した。
心に沁みてくる、その姿。
冥福を祈ってくださっている姿。
祈りがどうか空に届くように。

東京江戸川区の火葬場にて

しゃちさんに許可をいただいたので
彼のブログも読んでください。

(4/5)仕事が決まった

2011年04月05日 20時24分44秒 | 東日本大震災
仕事が決まった。

本当は、今日のブログにては
今日の面接の感想を書くだけで終わると思っていた。
まさか
今日中に決まるなんて。

10時半に本部の方へ。
担当者が面接。
いろいろな質問(朝が早いこと、夜もお願いするかもしれないことなど)を
されて、それに全て応じたい、と答えた。
挨拶はきちんとできるか、なんて聞かれた。
笑顔は大丈夫か、と。
これもOKです。
こちらからの質問として
「年齢が若くはないけれど、大丈夫だろうか。」と。
場違いな年齢だったら、身を引く。
しかし
「年齢は関係ない、あなたよりも年上の方もいる。」と言われる。
面接の感触として
いい雰囲気だった。
これが落ちたら、なぜ落ちたのか知りたいくらいだった。
後日、電話で知らせる、とのこと。

そして夕方
携帯が鳴る。
その会社の電話番号だった。
「採用したい。」との朗報。
早い、早すぎる。
嬉しい。

つらいことを今考えず
仕事を覚えることだけを考えていこう。

今までと全く違う仕事だ。
今までのキャリアは通用しない。
PCなんて使わない。
家にての勉強も要らない。
疲れたら、勉強のことを考えずに
パタンと寝るだけだ。

頑張ろう。
まず自分が頑張って、余力があったら
震災の被害者の人たちのことを考えよう。
自分のことが不安定なときに
とても他のことを考えられないからだ。
待っていて、皆。
一人一人、自分のポジションで頑張って
そして、他者に目を配ろう。

(4/4)明日、面接に行ってくる

2011年04月04日 20時52分49秒 | 東日本大震災
また、トシちゃんに笑わせてもらってから
このブログに。
この間も
地震の傷心を忘れるかのように
笑わせてもらい
2週間足らずで
トシちゃんから笑いのプレゼント。
彼を見ていたら
アハハ、ゲラゲラという笑いになってしまう。
お笑いと違う笑い方。
お笑いは、事前に一生懸命練習してどこで笑ってもらうかを
計算している。
でも、トシちゃんのは、危ない感じで終始笑いっぱなし。
トシちゃんコーナーが終わったらテレビを消す。
この番組、前にも爆笑問題とトシちゃん、やっていたね。
思い出した。
ゴールドカードで支払うって言って、ヤマダ電機のカード出したんだよね。
確かに、ゴールドだ、大笑いした。
誕生日パーティの企画だったけれど、きっと前回のクリスマスパーティで
視聴者が大喜びしたから、また企画ができたんだね。
そして、今度は太田さんの作詞が企画になっている。
ああ、おもしろかった。
今回は歌がなかったけれど
ぜひとも、今のジャニーズの面々の前で
往年のヒット曲とダンスを披露してほしいな。
山Pもびっくりのダンスだよ。


明日、面接に行ってくる。
先週の土曜日に、履歴書を中央郵便局で送り
今日、会社に到着したはず。
書類が到着後7日で、書類選考後の連絡が来る予定だったので
のんびりしていたら
携帯に電話が鳴る。
記憶していた会社の電話だったので、すぐに出る。
明日、面接をしたいということだった。
おお、書類選考は通ったのかな。
書類で落とされる覚悟は多少していたんだ。
何しろ、年齢が凄いもんで。
接客業だから、若い女性の方がいい、となるのが当たり前だと思っていたので。
面接をしていただいて
その上で合否が決まるなら、本望。
あとは
人事を尽くして天命を待つ、という心境。
よく、以前の職場で、若い子たちに贈った言葉だ。
それを
自分にプレゼント。

まだガスが通っていないので
再び、お湯を何回も沸かして
身体を洗い、髪も洗い、洋服もクリーニングに出して
明日のために備えておいた。

まずは明日。
それ以降のことはまた明日を過ぎてから
考えよう。
不思議と、悲観はしていない。
本当は
経済的に、前年度よりも大変なんだ、今。
あまり詳しく書けないけれど。
でもね、
なんていうか・・・
あの震災のことを考えるとね
どんなつらいことに遭遇しても
あれ以上のことはない、と思ってしまうんだ。
生きていれば、何とでもなる、と
思うようにしている。
それまでは
この先どうしよう、もう10年前の自分たちの生活に
戻れないのだろうか、なんて考えていたけれど
不思議と今
全てを甘受しよう、と思っているんだ。
だから
人事を尽くして、それなりの結果が出たら
それを受け入れよう、悔しいとか困ったとか
そんな思いにならないような気がしているんだ。

いったん更新。
パソコンがうなっている。

(4/4)これが現実だった(名取、閖上方面へ)

2011年04月04日 10時12分25秒 | 東日本大震災
昨日は
震災後、初めて遠出をする。
ガソリンの温存のために
極力、車を使わないでいたが
月に一度、ネコの食糧を大量に買っていた
ホームセンターに行くために
南に向かった。

そこは、津波の影響があったのかどうか
わからなかったが
段々近づくにつれて
道路の脇に
山積みされたゴミが目立って
ここまで、ゴミが流されてきたのかと思った。

思い切って
ほんの数百メートル先の道路を行くことにした。
そして写真を50枚ほど撮る。
言葉にならなかった・・・









一番下の画像は、被害に遭ったコンビニの駐車場に、各救援隊の車が待機して
近くでは
自衛隊員がゴミを片付けたり、捜索していた。



地元に住んでいながら
津波の被害地の現状は、テレビのニュースやワイドショーで
観るばかりであった。
これらの場所を通って
ああ、これが現実なんだ・・・と思った。
これはほんの一部である。
この状況が延々、東北の太平洋沿岸に続くのである。
一体何からどう手をつけたらいいのか、と思うほどの惨状である。
ここは、海がすぐ傍という所ではない。
まさか、波がここまで来るなんて、と思われる場所である。
どれほどの恐怖だったか、想像の範囲を超えている。
復興、という言葉が空しくなるほどだ。
政府は、義捐金の分配に悩んでいるらしいが、
道路の復興、公的なものの復興は、政府で全額負担し
義捐金は、被害に遭った人たちに直接渡していただきたい。
家も財産も仕事も無くした人たちが立ち直れなくて、復興という
言葉は使えない。
1人も残らず、絶望から脱するように、どうか彼らを助けてほしい。
頑張れ日本、頑張れ東北、頑張れ我が地。

(4/3)仕事探し

2011年04月03日 05時16分43秒 | 東日本大震災
今朝は
3時に目が覚めた。
何度も何度もクシャミをして
そのまま起きた。
昨夜は9時過ぎに寝る。
夫がオーディオルーム(私の寝床)でCDを聴いていたが
「もう寝るから」と私は言って
すぐに寝付く。
ソファでの寝起きは解除。
再び、下で寝ている。

昨日は
ある所に履歴書を送った。
初めてハローワークを利用した。
あまり深く考えないで
インスピレーションでここ、と決めた。
もう一つ、今までの仕事に似たところが
あったのだが、資格を活かせばそちらのほうが
いいのかもしれないが
敢えて、今までと全く違う分野の仕事を選んだ。
担当者に調べてもらうと
2人募集のところに、10人(一昨日時点)が
応募しており、もう一つの、これまでの仕事に
似たところはまだゼロということだった。
でも、最初の方に応募したいと言った。
年齢からして、不利のようだが。
書類選考の段階で、撥ねられそうだな。
でも、私の想像は膨らむ。
そこは
朝6時からの仕事。
そのため、自分は4時起きだ、と決めた。
朝の5時半にうちを出て、自転車で行く。
その前に、自分の食事をして、夫の朝食を用意しておき
ネコたちの食事も準備して・・・などと
想像していた。
昨日の朝の起床は4時に目覚ましをセットしておいた。
眠いながらも起きる。
今朝は、同じ時刻にセットしておいたが
クシャミで目が覚め、そのまま起きている。
換算して、9時ごろに寝れば、自然に3時過ぎに目が覚めるなあ、と
身体実験である。
採用されなかったらされなかったで
自然なものとして受け入れられる心になっている。

それにしても、ハローワークの混雑ぶりは
この地震で、失業した人が多いということだ。
若い人がたくさんいた。
皆、皆、それぞれの事情を抱えている。

履歴書を丁寧に書いたのも久しぶり。
職務歴というのを別紙に書くのだが、初めて書いた。
畑違いのことを書いて、
この人、何なの?とでも言われそうか。
この年齢、この履歴書、どこまで通じるのか
試してみたい自分である。


今日は夫とともに
ネコの缶詰の買いだしである。
あの、南のホームセンターへ。
地震の被害にあった南。
向こうがどんなふうになっているのか全くわからない。
HPをずっと見てきたが
ようやく時間を短縮して再開しているようだ。
あそこまで津波は来ていないようだが
まさに近くまで来ている場所。
痛々しい気持ちになる。
日常が消えて、当たり前の日常が消えて3週間。
まだまだ不便であるし
不安な毎日である。
原発のことが一番心配だ。
ニュースを見るたびに
暗澹たる気持ちになる。




(3/31)私のカエル

2011年03月31日 22時35分27秒 | 東日本大震災

シンノスケのお得意ポーズ

明日で3週間である。
いまだに余震続きである。
大きな建物の中に長く居られない。
職場でのあの日が甦る。
家にいると、私よりネコたちの方が先に気づく。
身体が熱くなる。

お風呂に入っていない。
3週間丸々である。
ガスがなかなか復旧しない。

と、こういうふうに書いている途中に
何度か
揺れるのである。
そのたびにドキッとして
怖いし、心臓に悪い。

ガス復旧の遅れについては不満はないんだ。
全国のガス局から応援に来ていて
いろんなライフラインの復旧を手伝ってくれているんだ。
あ、また揺れた。
5分も立たないうちに
グラッと揺れる。

予定の日を大幅に遅れているということは
それだけ、大変な地震であった、とわかっている。

そこで
また、お湯を何度も沸かし
髪を洗い、身体を拭いた。
少しはスッキリするだろう。


心はスッキリしないね。
一番問題なことがまだ解決していないし
この先、どうなるのだろうかと
仙台に住む自分も不安である。
原発。
心が澱む。



夜にスーパーに行ってきた。
あまり混まないだろうと思って
行ったのだが
相変わらず、品物は完売のものが多く
制限しているのもある。
卵はたくさん仕入れてあり
入り口に積まれていた。
あまり売れていないのは
チーズ、キムチ、梅干。
種類が多いからかもしれない。



うちのカエルたちが
6匹出ていた。
皆、路地に出ていた。
庭に移動して、スーパーから帰ってくると
2匹が重なっていた。
どうぞ、たくさん子どもを残してほしい。

それから
発見。

秋だったか
気の強いカエルが死んだのだが
サンルームの下にお墓を作ったんだ。
雨に当たらないようにと。
確か、その辺にあった球根(何の球根がわからない)をいっしょに
埋めて、ビニールを貼った箱で覆ったんだ。
さっき、カエルを見たときに
箱が浮き上がったようになっていたので
地震でそのようになったのだろうと
直してやろうと、箱を取ると
何と、浮いていた理由は
球根の芽が出て、今にも花が咲きそうになっていたんだ。
どの球根よりも、葉が大きくて花の実がついていた。
明日、その写真を撮ろうと思った。
あのカエルが栄養分になったのかな。
そして
花も葉も一段と大きくなって
カエルの分身となって甦っていたんだ。
嬉しかった。
どんなに、地面が揺れようとも
花はしっかりと根付いて
再生してくれていた。
ありがとうね、私のカエル。
明日、写真を撮るからね。

(3/29)サッカーのセレモニーに泣く。

2011年03月29日 23時57分42秒 | 東日本大震災
今日は、職場に行ってきた。
今月中に、お別れの品を届けなくてはと思って。
皆、PCに向かって黙々と仕事をしていた。
同じ部署の後輩に、品物とコメントを託して
渡すことができた。
ホッとした。

いつも楽しく話してきた、山P仲間にも
御礼の品を渡して。
別にこれでお別れじゃない。
またすぐに、皆と会うことにしているもの。

今はどの家庭も大変。
この年代になると、年を取った親のことが
現実に圧し(のし)掛かって来る。
彼女も
病気の父親、そして看病疲れの母親の面倒を
見なければならない。
特に、この地震によって、普段いっしょに生活をしていないものが
身を寄せることで、生活サイクルの歪み(ひずみ)が出てきて
殺伐としてくる。
私の家でもあること。

そんな話をしてきて、
最後に、昨日の山P話をしてきた。
笑いあった。
そしてお別れした。
また会える。家だって、自転車で5分だもの。
会える。
そう思って、にこやかに別れた。

ただ、肝心の一番の上司に挨拶をしていない。
今、彼非常に忙しいので
また日を改めて、挨拶しなくては。


昼食をまたまた
伊達の牛タン弁当にした。
駅の地下街が少しずつ回復してきたので
義母のお昼(散らし寿司)と私たちの牛タン弁当。
義母は、牛タンを食べない。
それを自転車の後ろに乗せて帰宅。

途中、コンビニの横で
伊達の牛タン弁当を屋外販売しているのだが
(最初の2回はここで買った)
そこの前を通ると
売り子さんが「伊達の牛タン弁当いかがですか~」と
私に言った。
私はうしろの袋を見せて
「買ったよ~」と言う。
「ありがとうございました!」とにこにこして返事をされる。

家に着くと
私の両親が来たことを知らされた。
病院の帰りに
先日の父のゴルフ旅行のおみやげを持ってきたのだ。
3、4日前に
両親から電話があり
「おみやげを渡したいから家に来ないか。」と言われたのだが
「ガソリンがもったいないから、メドが立ったら行く」とだけ答えた。
今は
会いたくない気分。
だから、今日の私たちの不在で会えなかったことに
なぜかホッとする。
あの日(停電中に父がわめいて来た日ね)のわだかまりが
まだ自分の中で消えていない。
あんな恥知らずな父だったとは。
いやいや、あんなのは序の口。
いまだに変わっていないんだ、と再認識。
忘れるところだった、普段あまり交流がないから。
半年前の両親との北海道帰省が結構、良かっただけに
父も大分丸くなった、と思っていただけにね。


夜。
今日はサッカーを観る日、山Pのクロサギを観る日と決めていた。
早めに夕食を終える。

そしてサッカーのセレモニー。
ボロボロ泣いた。
何ていうか
この震災で
初めて黙祷を捧げた自分だった。
高校野球の東北高校の試合も観られなかったし。
このサッカーの試合で
日本中の人々が
東北を応援してくれて
励ましてくれて
君が代もしっかりと歌い
最後に
こんなに大勢の人数がいるのに
皆厳粛な気持ちで黙祷を捧げてくれて
涙が出てしまった。
まだまだ
行方不明者がいて、
原発も落ち着かないし
とても追悼の気持ちというわけにいかないと
思っていた。



ああ、続かない。
ちょっとやめよう。
いったん更新。

(3/28)伊達の牛タン弁当 500円

2011年03月28日 15時02分53秒 | 東日本大震災

先週の金曜日だったか土曜日だったか
朝市に行ったとき、何も買わないでフラッと道にそれたら
こんな大きな看板が出ていて、秋田からわざわざ来ているということで
寄ってみた。
野菜が安かった。

ニラとか、たらの芽とかごぼうとかをあれこれと買ってくる。
朝市は混んでいたが、値段を見比べながらも、何となく買わなかったのは
このあとに気づいた秋田の野菜があったからかもしれない。
というふうに
私は全て、自分の心のなりゆき(朝市に来てはみたが、買うまでにはいかないという
気持ち)のままに動いている気がする。
朝市と離れたところで販売していたので、人が少なかった。
もっと呼び込みをすればいいのに。
嬉しい看板だった。
同じ東北でも、日本海側の秋田には被害は少なかったであろう。
しかし
秋田も、かつて日本海中部地震の津波で多くの人たちが犠牲になった所である。
今回は、太平洋側だったので津波の被害はなかったけれど
同じ痛みを持つ東北人として、物資の応援に来てくれたのである。



今朝も強い余震があった。もう怖くて、しばらくは呼吸の乱れ。
浅い震源地だったので、ガタガタと揺れる音の刻み方が
あの日とそっくりだった。

トチはちょうど一階に下りてきたばかりで
あわてて、階段前のドアを自分で開けて二階に逃げていった。
ヒカルは
どこに隠れたのか幾ら呼んでも出てこない。
布団とマットの間に挟まったまま出てこない。

もう終わりにしてくれないか、あの揺れ。


今日は
東北太平洋沖地震の被災者に対する緊急小口資金特例貸付の説明会に行ってきた。
一世帯に一口ということで、私は対象にならなかった。
夫が書いた書類の
私の生年月日を見ると
今日の日付を書いていた。
私が「私の誕生日、まちがっているじゃない、4月9日だよ。なんで、今日の
日付を書くの」と、夫のありえない間違いに抗議。
すると「4月9日ですか。私も4月9日です。」と担当の、岡山から来た支援者が
言う。
「そうなの、山Pといっしょよね。」
「そうです、山Pといっしょです。」と握手を求めてきた。
若い男の子で、山Pと同じく優しい目をしていた。
「山Pのファンなんですか。」と聞かれたので
「そうです」とにこやかに、財布に入っていた写真を見せる。
真剣な場所での、ちょっとした和やかな空気。
何しろ、夫は「恥をかいた」と顔を真っ赤にしていたので。
今日、結婚記念日だったから、無意識に書いたのか、
それとも単純に今日の日付を書いたのか、あまり追及すると
怒るのでやめた。


遅い昼食を食べる。
買ってきたのは

伊達の牛タン弁当。仙台の有名な老舗の牛タン。

これ、こんなに牛タンが入っていて値段が500円です。
実はこれで3回連続で買ったのです。
牛タン好きの夫が、1回目に買ったときに
「500円でこんなに入っているなんて、安い!」と言ったので
ワンコインで3日連続で買っています。
味噌味ですが、おいしい!
また明日もかなあ、と思っています。

いったん更新。