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降って来るもの

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我がChronicle.Ⅶ

2018-06-11 05:48:25 | 詩15

                       我がChronicle.Ⅶ-祝歌と挽歌-

 

 書くことを支えたその短詩系の”みそひともじ”の形式は、省略と凝縮という書くことの重要なプロセスの在り方を鍛えてくれた。

 詩を書くことから隔たった三十年の月日を、折々に奏でる短歌を新聞に掲載される週に一度の地方版の短歌係宛てに投稿する日々。数多い投稿歌から入選に選ばれるのも、はたまた特選の栄誉に輝くのも、或いは没(書いた数の歌の比べれば、掲載されるのは一割にも遠く及ばない確率だったが)の憂き目を見るのも、全ては選者の感覚次第の新聞投稿の短歌欄だったが、其処で切磋琢磨した二十数年の武者修行は知らぬ間に僕のpoemの感覚も磨いてくれたような気がする。

 1982年運命の伴侶に巡り合って結婚。10数年ぶりに詩心が復活して愛のUTAを詩5として成立させた後は再び沈黙のTOKIを移ろったが短歌に限れば、その後の”祝歌と挽歌”で膨大な数の作品を生んだ時期でもあった。

 1984年1月、初めての我が子を授かる。それから一年半たって次女が誕生。僕はその度に何首もの”祝歌”を書き何度も応募した。1986年二人の孫娘を目の中に入れても痛くない程に可愛がってくれた義父が急死して舞台は暗転する。

 地域の消防の副団長という要職にあった義父が、行ってらっしゃい!と送り出したその火災現場で”脳内出血”で倒れ、ICUでの緊急の治療も叶わず僅か51歳の男盛りでこの世を去り、子供たちは飛び切りの”爺ぢい”を喪失。

  百か日の法要に合わせて短歌百首の挽歌を詠んだ。

1987年に長男誕生。喜びも束の間に2年後の平成元年(1989年)に父がこの世を去る。喜怒哀楽を繰り返しながら、その度に僕はその感情の起伏を歌日記にしながら日々を送った。

一人に為った母はその後の20年余りを故郷の家で過ごしていたが2011年に倒れ、それから四か月介護の甲斐なく他界する。

    

ようように心が穏やかになった頃に、母への挽歌「円ゐ」を編んで仏前に供えた。

翌年の一月、母の生まれ変わりのように京都に住む長女に初孫が誕生する。紆余曲折を経て僕はとうとう本物の”爺ぢい”になったのだ。

 平成22年、新聞に掲載された入選特選歌が200首を突破したのを契機に思い立ち、女房の百%の協力を得て詩歌集「道、なかば、」を完成させ、短歌と共に歩んだ20有余年の集大成としたのだった。

    

その間にも子供たちの結婚、孫の誕生と続き、僕は息つく間もない日常を余儀なくされていたが、多分それは幸せに裏付けされた繫忙の日々だったのに違いない。

その日常の中から再び詩心が芽生え、その芽を伸ばし始めるのはもう少し後の話になる。

 

 

 

 

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