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精神科医師のブログ。
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祭りの最中の断酒会(断油会)・・COP15の予想された結末

2009年12月20日 | Weblog
近年の積雪量の減少によりスキーリゾートである信州白馬の関係者も毎年ヒヤヒヤしているそうだ。
ここ数日の積雪で白馬のスキー場は一安心といったところだろうか・・・。

ICPPなどの議論をみると人類の活動が地球環境に影響を与えており、化石燃料の使用にともなうCO2など温室効果ガスの増加が地球温暖化をおしすすめているという事実は間違いないように思える。
地球をひとつの生命体としてみるなら、その地球自体を破壊しつくし改変しようとする人類はがん細胞のようなものであろうか。
ビル・マッキベンの「自然の終焉」などでも指摘されているように本当の意味での自然はもはや存在しないのかもしれない。

世界の閣僚と約100カ国の首脳がコペンハーゲンに集まった国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)は、迷走の末に全体会合で「コペンハーゲン合意」をまとめた。
しかし、温室効果ガスの削減に実効性を持つ新たな枠組みを構築することはできず先進諸国の足並みも乱れ、責任と義務をめぐり途上国と先進国が対立し合意点を見いだせずにいる。
この事態を放置すれば人類は自ら引き起こした地球環境の急激な変化についていけず、ごく近い将来に大変まずいことになることは明らかだが、有効な手を打てない。

状況はまるで遅れて帝国主義に参加した日本が、はじめて近代戦を経験した第一次世界大戦の痛手から戦争を二度と引き起こすまいとした国際協調の枠組み(国際連盟)から離れていった第二次世界大戦前の状況と同じ。
歴史は繰り返す。

まさにコモンズの悲劇であるが、これは人間の本能に根ざしたものであり解決はそうとう難しいだろうと思う。
今日明日の生活もわからないのに将来のことなんか考えられない、あるいは今の自分さえ贅沢できればそれでいい。
そういった状況の中でアメリカインディアンのように7代先の未来のことなんか考えらないということだろう。

自然の範囲内でつつましく暮らしていたイヌイットやアメリカインディアンなどの先住民族にしてもかつてのような生活を奪われ消費者に仕立て上げられてしまった。
そっと生活したい人たちも放置しておいてくれないのが西欧式のグローバリゼーションの恐ろしいところだ。
このパターンも19世紀末からの帝国主義と同じ。
幕末期、日本も鎖国は許してもらえなかった・・。

さて、ピークオイル(石油生産ピーク)はすでにむかえたという説もあるが、我々は人類史上はじめて体験した産業革命以来の化石燃料祭り(石油祭り)のまっただ中にいる。
石油文明とは大昔に地球に降り注いだ太陽エネルギーの蓄積である化石燃料をエネルギーとして利用した産業革命以来の大量生産大量消費という生活スタイルのことである。
これは自分自信でつくれるエネルギーの何百、何千倍のエネルギーを使って、体内外の環境をはじめ、あらゆるものを自分の思うようにコントロールしたいという欲望に根ざしたものである。
養老孟司流に言えば「脳化社会」であり、その実現を可能にしたのが石油などの化石燃料エネルギーであると言えよう。
そしてマイホームや自動車社会など20世紀のアメリカ型の生活がその典型であるが、その依存から脱却することが難しくなっている。
清貧の思想や、LOHASやスローライフなどがいわれるようにはなってはいるものの、エネルギーを大量につかった生活は麻薬のようなものでその生活に慣れるとそこから脱却するのは難しい。
放蕩息子が祖先から受けついた財産を使いまくり豪遊している姿に重なるだろう。
「わかっちゃいるけど、やめられない。」という構造の中で悪循環から脱却できない。

(年金問題や国の借金、クレジットカードのリボ払いなども目先の快楽を優先しとりあえず将来に負債をおっつけるという本能を利用したビジネスの仕組みである。おそろしや。)

小さなうちから消費者としてテレビCMなどを通じて良い消費者(奴隷)になるように洗脳され、甘やかされて王様としてそだてられる。
死や障害、病は巧妙に隠され、ひっそり処理される、自然の限界(死など)にうちひしがれる経験は乏しい。
結果、脳が先行したまま幼児的万能感のまま大人になり自分の体自体が自然の一部である(などの制約がある)ということなど忘れ去ってしまう。

それに気づくのは、極限に挑戦するアスリートや冒険家をのぞけば、身内や友人の死や、歳をとったり体が悲鳴を上げて病気になったり、障害を負ったりしたときであろう。

実は温暖化の問題にはシンプルな解決方法はある。
それは空手形などのイカサマがおきやすい排出権取引などの出口を管理する枠組みではなく入り口を押さえてしまうことだ。具体的にいうと油田や炭田を封印し化石燃料の使用に制約を加えコントロールしながら使うことだ。
人間はもともと様々な制約の中で生きていたのであるから、制約があれば経済活動は自然に縮小し温室効果ガスの排出も削減され省エネルギーの生活スタイルや技術の開発も推進される。
人体に例えるなら、がんに対する断食療法のようなものだ。

ところでそれを東西対立という社会情勢の中でやむを得ず強要された結果、エコロジストのパラダイスとなり注目されているカリブの小国がキューバだ。
そして、それを意識的にやろうとしているのがデンマークなどの北欧初諸国だろう。
いづれも小国ではあるが我々の目指すべき道筋を示していくれている。

それでは我が国はどういう態度をとるべきであろうか?
鳩山首相のいう2020年までに25%の温室効果ガスの削減するということは技術の進歩に期待するところももちろんあるだろうが、基本的には25%経済活動を縮小するということ、すなわち物質的に25%貧しくなるということを意味する。
これは「物質的な豊かさを捨て、Smart declineが果たせるか?その覚悟はあるか?」と言う問いに等しい。
キューバや北欧の例をみれば産業構造やライフスタイルを変化させるということで25%不幸になるということではないのではあるが。
しかしこのような先進的な態度を日本がとったということは辺境民族たる我が国の歴史上画期的なことであろう。
日本がすすんで貧しくなったところで世界的にみればその分、中国などが経済活動を拡大するだけで意味が無く日本がババをひかされているだけという考えもあろう。
それでも、地球は有限でいずれ石油や石炭はなくなるのだから先んじてその時代に対応しておくという意義はある。
資源の無い日本という国は国境を閉じてしまったら人口の4分の1程度、江戸時代と同じ3000万人程度しか養えないだろう。(技術の進歩を勘案すると6000万人くらいは養えるかもしれないが。)
いづれにしても海外との共存を計っていくことは必須の課題である。
しかしそのための途上国への経済支援は相当慎重にやらなければ目指すべき低炭素社会のためには逆効果になってしまう可能性が高い。
困難な課題だ。
これらの課題をいかにうまくやり遂げるかというのがコンクリートから人へという民主党政権に期待される内容だ。

さてCOP15の枠組みに最期まで抵抗したChildishなアメリカ帝国や後から来た中華帝国という2大大国は20世紀的思考から離れられていない。
これは帝国主義に遅れて参加した第二次世界大戦前の日本が自国優先の拡大政策という19世紀的思考にとらわれていたのと同様・・。
そして残念ながらこの2国はSelfishな態度という点ではこの19世紀的思考すらも引きずっている。

しかし考えてみれば甘えさせ依存させてくれる地球の自然の恵み(母なる自然)を利用し破壊する一方で自然災害やインフルエンザのパンデミックなどのような自然からの反撃(父なる自然)を受けながら、それを技術で克服しながら生きのびていくというのはもうアダムとイブ以来の人間の業のようなものである。

であるなら温暖化問題などの地球環境問題の解決はとっとと石油を使い尽くすか、または疫病のパンデミックなどの大規模自然災害などを経験することで自然の制約を思い知ること(底付き体験)しかないのかもしれないが・・。

チベットの高僧が言うように、環境問題はこころの問題でもある。社会は単にこころを反映したものにすぎない。
技術をコントロールすべき哲学が追いついていないか、忘れ去られているのが現代という時代であろう。
子供が火遊びをしているようなものだ。

変化への兆候は感じられるが今回の国際会議は、まだまだ皆が祭りの余韻に浮かれて酔いしれているさなかで、断酒会(断油会)をやるようなものだ。
そりゃうまくいくわけがない。
COP15の政治合意の結論を私はまったく驚かない。


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