リカバリー志向でいこう !  

精神科医師のブログ。
弱さを絆に地域を紡ぎ、コンヴィヴィアルな社会をつくりましょう。

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シンポジウムその3 在宅医療支援病棟

2009年12月13日 | Weblog
そして東海大学の高度救命救急センターの山本五十年氏の話。

プレホスピタルからERへと繋がる救命救急医療のシステムが悲鳴を上げているそうだ。
東海大学の高度救命救急センターでも65歳以上の高齢者の搬送が半数を超え、入院した高齢者の半数が転院や転床、あるいは死亡しているという。
高齢社会をむかえるにあたりこれでは救急システムももたないということらしい。

病院前、あるいは病院の入り口の部分にあたるはずの救急の世界でも学会のテーマとして「介護 and/or 在宅医療と救急医療の連携」ということがかげられるほど、出口問題が取りざたされているらしい。

飲み会のときに救急救命士さんから、「これぞ救急というようなケースは稀で、高齢者の搬送が多く、しばしば冷たくなったご遺体を搬送することになるケースも多い。」という話は聞いていた。

在宅療養をおこなっていた寝たきり状態の高齢者が衰弱したり、朝起きたら痰をつまらせて冷たくなっていたりしてなくなるのは急変ではなく悪化であり、だからターミナルなのである。
そこで救急車を呼ぶと、検案(犯罪性の有無)や検死などで大騒ぎになったり、多くの人を巻き込んで大変なことになり、たとえ蘇生に成功してもむしろ不幸な結末になることが多いだろう。

医療の出口側にいることの多かった自分にはまことに実感できる視点ではあるが、救急の世界でも在宅医療福祉が話題になっていると言うことは驚きであった。

山本先生は、そういう問題意識から救急医療出身ながらメディカルホームに診療所や訪問看護、介護の機能をもたせた、湘南メディケアセンターをつくってしまったという。

うーむ・・・。
これぞまさにニーズオリエンテッドな実践。
すごい。



そして国立長寿医療センターの洪英在先生の講演。
高齢者医療のナショナルセンターである国立長寿医療センターではこの春からモデル的に20床の在宅医療支援病棟を立ち上げたそうだ。

コンセプトは在宅療養を支援する病棟。

高齢医者の尊厳を大切にしつつ訪問診療の負荷がかかっている在宅診療所医師の負担を減らし在宅のバックアップを行うことで在宅医療を推進するのが目的だ。

・患者は登録制。
・入院かどうかの判断は在宅主治医の判断を優先し、緊急入院、レスパイト、看取りまでどんな状況の方でも断らない。
・看護が完全プライマリ制で継続して支援を行うが、医師はその場の状況で変わりうる。そして看護師は必ず一度は自宅を訪問する。

いいコンセプトだと感じた。
なにより看護師を完全プライマリ制としてケアの観点から継続してかかわるというのがよい。
リハビリのスタッフや訪問看護の経験者を配属することで、病院しか知らない看護師が在宅の視点や技術を学ぶ場にもなるだろう。
登録制ということで地域と病院が一緒にみているという感じがより強まる。
こういう仕組みがあれば在宅医療を一生懸命やっている医師にも大きなバックアップになるだろう。

在宅の支援という目的では老人保健施設との異同はどうだろうか?
老人保健施設はリハビリのスタッフも医師や看護のスタッフも病院ほどではないにしろいる。
そしてキュアではなくケアの発想で作られている。
かつて私が関わっていた佐久老健(老健のモデルケース)では長期の方が老衰という形でなくなられた場合は、看取りもおこなったし、それについてスタッフの話し合いも行った。
しかし医療費は包括であり、医学的には安定した状態が前程のためスタッフ的にも多くの医療介入は期待できない。
また老人保健施設は介護からの連携の位置づけであり、在宅医療支援病棟は医療からの連携という点が異なるのだろう。

それでは回復期リハビリテーション病棟との役割分担はどうだろう。
必要な時期に十分な質・量のリハビリテーションをチームで生活の場である病棟を中心に行うと言うコンセプトの回復期リハビリテーション病棟ではADLをあげることそして在宅復帰を目標としている。
ケアが中心の慢性期の患者を長期入院させていた療養型病床群の診療報酬が切り下げられる中で、回復期リハビリテーション病棟の制度は全国の療養型や中小規模の病院の救世主となった。
しかしつくづく感じるのは回復期リハビリテーション病棟はリハビリテーションとはいえキュアの発想がベースにある場所だと言うことだ。

急性期期病棟から回復期リハ病棟という流れは、初めて在宅医療を導入する場合は良いとしても、何回も入退院を繰り返している場合は長期に入院することで逆に在宅復帰を妨げてしまうケースもあるだろう。
院内外の連携がなかなかうまく行かないのもしばしば感じることだ。
またリハビリテーションが有効な脳卒中モデルのケースには良いが、廃用モデル、認知症モデルのケースではむしろ老人保健施設の方がよいというのは回復期を運営してみて感じたことだ。病棟の看護スタッフの自宅訪問というのも考えたこともあったが、交代勤務の看護師が病棟を外れられるほどの余裕は無く、退院前訪問はリハビリのスタッフとケースワーカ、ケアマネージャーの訪問で終わることがほとんどであった。
廃用症候群に関しては病院内にリハビリテーションの視点や仕組みが行き届けば、、若年者の脳卒中や頭部外傷に特化したスパルタ合宿型リハ病棟以外の回復期リハ病棟はその役割を終えるだろう。
(数年のうちに制度は大きく変わると思われる。)

高齢者がますます増える今後はケアモデルの在宅医療支援病棟のニーズはあると感じる。

それではホスピスや緩和ケア病棟とはどう違うのかだろうか?
緩和ケア病棟も在宅支援病棟もどちらもQOLの向上を目的とし、ケアの視点で運営されている点では共通である。
癌の緩和ケアも技術が進歩し、訪問診療をおこなってくれる医師がおり、日中付き添える家族がいるなど条件が整うなら自宅で行う選択肢が優先されるだろう。
しかしいざと言うときに入院できる安心感があるから在宅療養がつづけられるということもあるに違いないし在宅療養を担当する医師も安心して引き受けることができるだろう。

野の花診療所や、花の谷クリニックをはじめとする有床診療所や過疎地域の小規模の病院で実質的に在宅医療支援病棟と同様のことをやっているところは多いと思われる。
そしてそういうところは訪問診療や看護も自前でやっているかもしれない。

もちろんそういうところには頑張ってもらいたいのだが、しかしこの在宅医療支援病棟、都市部の中規模~大病院でこそやる意義があると思うのだ。
それは回復期リハビリテーション病棟が、チーム医療とリハビリのモデルケースとすることで病院全体へ波及効果を狙ったのと同様ねらいである。
何より病院内で在宅医療やケアの視点を広めることこそ期待される役割だろう。
そしてこの在宅支援病棟は救急医療システムの維持にも貢献するだろう。

地域の二人主治医制を推進し、セミオープンベット形式にすれば顔の見える地域医療の連携も推進されるに違いないし、そういうのがあるのなら在宅医療をやってみようかという開業の先生も増えるだろう。

長寿医療センターでの試みは実験的な試みであるからコストは度外視で運営しており、また別料金がかかる部屋が半数ということでだれでも利用できるわけではないようだ。
平均入院期間は16.5日。がん患者と非がん患者の両方で非癌患者の方がやや多い。

当院でもそうだが、高齢者が入院患者の大半をしめる地域の中小病院では現実的にはそういう形の運営を目指して病棟運営おこなっているところも多い。

たいていの病院にオープンベッドは形の上では用意しているが現実的には使いづらく利用が無い。
結局、病気をこじらせて、あるいは介護が破綻した状態になって初めて簡単な紹介状だけで、あるいはいきなり救急車で来院し、結果としておちついて看取りまでみすえたケアができない。

高齢者の単独世帯や老老介護の世帯や、若年層の貧困化で、介護保険サービスをフルに使ってもそもそも在宅生活困難な障害高齢者は増える一方である。
障害者手帳や生活保護で福祉医療(医療費公費負担)となる人は病院が一番安いということもあり経済的にも在宅医療へのインセンティブが働かない。

しかし精神科医療の立場から言うとますます増えていく認知症をかかえる人への対応はどうなるかという疑問だはある。
統合失調症の患者さんの地域移行で、空いてきたきた精神科病床が認知症の重度のBPSDの患者さんを受け入れるようになってきているが、精神科病院、病棟では合併症や終末期の対応は慣れておらず難しいところが多い。
一方で総合病院精神科も、認知症の患者さんであふれかえり、それ以外の疾患のケアが困難になる。

こういった理由で現実は大変だ。

うちの病院でも在宅医療支援病棟のコンセプトは使えそうであるが、現在の診療報酬の中でクオリティを保ちつつ在宅医療の支援を目指して在宅医療支援病棟と同様のことをやろうとしても足がでる可能性が高い。

長寿医療センターでの試行が始まっているということは近い将来、在宅医療支援病棟は制度化され診療報酬がつくだろう。
地域の病院や在宅をがんばっている診療所をバックアップする意味で早期の制度化が望まれる。

回復期リハ病棟の使命
最期の強がり

シンポジウムその2 キュアからケアへのパラダイムシフト

2009年12月13日 | Weblog
つづいて、鹿児島のナカノ在宅医療クリニックの中野一司先生の講演。

初めてお会いしたが、いい感じに力の抜けた先生で、ML(メーリングリスト)を主催し、NQネットワーク指数は相当高い方だ。
ペーパーだが薬剤師でもあり夕張で活躍されている村上智彦先生同様のヤクザ医師であるそうだ。

情熱的でありながら分かりやすい講演で自分の問題意識と重なり視点論点が整理できた。

中野先生は、もともと大学病院で10億円の予算で医療情報システムを構築した実績があり、今は「過労死したくない。楽して楽しく!赤ひげの要らない、医師が働かないシステム」を作るために診療所をベースに鹿児島を舞台に地域をラボにして壮大な実験を行っていると言う。
抱え込まない。働きすぎない。賢くはたらく。楽をするために知恵を絞る。

「失敗したらやめます!」というノリでいかにも楽しんで仕事をされている様子がうかがえた。


これぞ、まさに「はたらく」だ。

・はやく
・たのしく
・らくになるように
・くふうする。

楽しそうに振る舞うことで仲間を増やすトムソーヤ方式でMLを通じて仲間をどんどん増やし在宅医療を全国に広める中心となっており、MLではどんなことでもレスを返し、いい場の維持につとめているそうだ。

そしてそのML等のICT (Information Communication Technology)を通じたネットワークをフル活用し、多職種の在宅医療学会も実行委員もつくらず低コストで鹿児島で開催してしまった。

講演の中で一番主張されていたのは「我々はキュアからケアへのパダダイムシフト、医療で言えば病院医療から在宅医療へのシフトというのムーブメントのまっただ中にいる」ということだ。

これは、イリイチの言う「脱病院化社会」ともつながるだろう。

客観的な治癒(キュア)、主観的な願いや価値観が反映された(ケア)のずれが苦しみになる。
これまで医療も政治もキュアに大きく片寄っていたが、これからはよりケアをベースとした対人援助を行わなければならないという。
超高齢化社会が到来し、増えているのは病気ではなく障害である。障害は病院で治療(キュア)するよりも地域でケアしていく方がQOLも上がればお金もかからない。

もちろんキュアを目指す医療の役割は存在しキュアを否定する訳ではない。
キュアとケアの比率が8:2くらいでキュアに片寄っている現状からせめて5:5くらいまでにすることを目指したいということだそうだ。

在宅医療は落ちこぼれの医療なのだろうか?
否、最先端の医療であると言う。
在宅医療は手抜きの医療ではあるが、どこを手抜きするかを見極めるには何かあるときにしっかり対応できる知識や経験は必要である。
またキュアはできなくても予後や経過を予測するのは医師の大切な仕事だ。

キュア主体の病院の専門医師にはなかなか理解されないことであるが、定期的な訪問診療の重要性は「病状」だけではなく「生活や思いを把握する」ことにある。それが結果として緊急の往診時に良い対応、ケースによっては自宅での看取りにつながる。
結果として低コストになる場合が多いが、それは目的ではない。

病院は病気をみつけ、検査をし、治療をする場所だ。

そこは患者から生活や人生をはぎ取り条件を同一にし、生物学的に疾病だけを診るのに特化した作りになっている。
場所的に看取りはできない。
しかし死んじゃう患者は返せない。
結果、満足死が実現できず、死因が病院としか言いようがないケースも多いのは実感として感じるところだ。

しかし在宅医療は、患者を中心に考えて検査や治療もしない、結果として看とる選択肢もとりうる。
よけいな医療介入をしない方が結果として長生きできる場合もある。
リラックスできる家と言う環境がもっとも良い薬になる場合も多い。
なにしろ家は自分を元気にする気が満ちている場所(東洋医学的に外経絡(がいけいらく)という考え方だ。)なのだから当然だ。

医療崩壊が問題とされるが、医療崩壊とは病院医療の崩壊であり、在宅の側から見れば在宅医療再生だという。

在宅医療はチーム医療である。
チーム医療実践のための条件として、連携のコストを安くし、各職種スタッフが優秀なことが大事でありそれにはITのフル活用が鍵となる。
もちろん顔の見える関係あってこそのICTだ。
これは、千葉県東金地区での平井愛山先生らの「わかしおネットワーク」の実践でも強調されていたことだ。

日本福祉大学の二木立氏はかつて地域包括ケアはネットワーク型ではコストがかかりすぎ質が悪くなり、むしろ一つの保健医療福祉の複合体が抱え込むモデルの方が良いと主張していたそうであるが、それはICTの発展を見逃していた考え方であった。
確かに二木の言う一つの良質な複合体を中心とした囲い込みの医療で、良質な医療福祉を提供しているところは南佐久地域をはじめとして全国に散見される。
しかし、地域には様々なリソースが存在し、それをフル活用するためには、囲い込んだらうまくいかずネットワークを作り、それを有機的に結びつけるのが重要だという。
お互いに足りないところを暴露して、協同作業や勉強会などを通じて相互にレベルアップを目指すことが大事だそうだ。

これは自分も日頃実感していることであるが、多職種でチームで医療を行うことで相互に技術移転がおこる。
細菌やウィルスの間で薬剤耐性の遺伝子などプラスミドなどを通じて移転するのは困ったことだが、こういう技術の移転は大歓迎だ。

ナカノ在宅クリニックでリハビリスタッフ(PT,OT)が配属されているのは看護職他にリハビリの教育を行うことが主目的であるという。
そして、医師と看護師が訪問診療に同行するのも同様の狙いがあるのだろう。
つまり看護師は医師から、医学的なキュアの視点やアセスメントや治療技術を学び医師は看護師からケアの視点や技術を学ぶことができる。

そして頻繁に開催されるミーティングやカンファレンスこそ教育だという。
クリニックでは電子メールで患者の情報をやり取りし(実質、電子カルテになっている)、病院に来る前にすでにMLで情報が共有できており、それらの情報に目を通した状態でスタッフミーティングに望む。
だからそれは申し送りではなくディスカッションになるのだそうだ。

これは回復期リハビリテーション病棟のモデルルームである初台リハビリテーション病院での電子システムの活用やカンファレンスのあり方と全く同じである。

自分の病院でも情報共有ではいつもバタバタしてなかなかそこまではいっていない。
情報をいちいち開かないと見ることができない、できあいの電子カルテシステムの使いづらさにもあるが、カンファレンスやミーティング、ケア会議をもっと盛り上げるような仕掛けを導入しなければならないだろう。

そして病院に入院したときなどには退院前カンファレンスを大事にして、こういう人でも在宅できるのだという実例を示すことで病院スタッフへの在宅医療の啓蒙(営業活動)の意味もあるそうだ。
こういったことを通じて医師の頭の中でキュアからケアのパラダイムシフトを促進することが今後の医療福祉のあり方の鍵の一つになるであろう。
(これは次の洪先生の在宅医療支援病棟の話にもつながる。)

中野先生が主張されていたのは事務仕事に忙殺されているケアマネージャーに情報がしっかり入るようにして、モニタリングなどのケアマネジメントに専念できるようにするということである。
もうひとつ、教育の割に活用されていない職種である薬剤師をもっと活躍させるべきだと言う主張。これにも強く同感できた。

最期に褥創のラップ療法を紹介。
ラップ療法の普及こそキュアからケアのパラダイムシフトの一部ともいえる。

学会では認めたがらない人もいまだに多いラップ療法であるが、効果は確実だ。
コンセプトは傷を治すのではなく、傷が治るもの、人がやることはその環境を整えるだけということだ。
これはまさに東洋医学的な考え方だ。
貧乏な在宅ではいかに安くするかがポイントである、
水道水とオムツとポリ袋で低コストでできるラップ療法は従来の治療法の200分の1のコストでできる。そしてホームヘルパーでもできる。

人は貧しい時代はまず物、ついでエネルギー、そして情報をもとめててきた。
そしてこれからは時間を大切にするようになるだろう。
民主党のいうコンクリートから人への転換にもつながる。
IT時代とはお金があまり価値をもたない時代であると言う。

そんな時代に、こころの豊かさとはどうやって手に入れるものなのだろうか。

その答えが「ケア」にあるのだろう。



地域循環型の医療連携
初台リハビリテーション病院

シンポジウムその1 これからの我が国の社会保障政策と在宅医療・介護の将来

2009年12月13日 | Weblog
友人がシンポジストとして講演するというので東京永田町に出かけた。

テーマは在宅医療と医療・介護制度改革。

まずは、民主党の衆議院議員の山崎摩耶氏の講演。
お題は「これからの我が国の社会保障政策と在宅医療・介護の将来」だ。

山崎摩耶氏は、我が国の訪問看護のパイオニアとして、在宅ケアや保健活動の先駆けとして活躍された後、医療・介護の制度作り、特に介護保険制度の産婆役を自負している看護師であり、今回の選挙で衆議院議員に民主党から出馬し初当選した。
さっそく忙しく活躍されているご様子であり、国会議員の活動や仕事、思考の一端をうかがうことができた。
さすがに国会議員ともなると頭は切れるし、活動的だと感じた。
タフでないと務まらない仕事だ。

政権交代を成し遂げた民主党が訴えるのは「コンクリートから人へ」の政策である。
大方針としては「地方分権」「直接的な社会保障へのシフト」「情報開示」
これらは国民一人一人に自ら考え、行動することを求める。
「知らしむべからず、依らしむべし。」という徳川時代以来の伝統から脱却し、一人一人が市民になる覚悟はできてるだろうか。

06年の小泉改革の影響がボディブローのように効いて医療や福祉の現場を蝕んでいる。
権丈善一先生の言うように「ムードにのせられて小泉政権に一票を投じた人は反省し責任を感じなければならない。」のだろう。

貧困の問題と健康格差も大変な問題だ。
また教育年数や、所得などが低いことと貧困と要介護度や、うつ、そしゃく力などが存在すること(日本福祉大学、近藤克則先生らのデータ)などを紹介し健康格差、いのちの格差もすすんでいることを示された。
個人としてバラバラにされコミュニティの衰退。家族福祉の後退でますます生活にお金がかかるようになる。結果、可処分所得は減り、貧困が広がっている。
貧困の襲来は医療現場での実感とも合致する。

少子高齢化は山村過疎地の問題と考えられているが、これから大変なのは都営住宅などの都市部だそうだ。
団塊の世代が高齢化し、かつて無いスピードで少子高齢化が進行している。
2015年を一つのピークとして、これから10年が正念場だ。

医療費自体も他の先進諸国の並のGDPの10%位までを目標に増やしていくのは当然だが、適切な医療費の配分も大事である。
「Cure」から「Care」の医療のパラダイムシフトに応じた適切な医療費の配分を考えなくてはならない。
急性期をスリムにする一方で介護と連携した在宅医療を手厚くする方向性だ。
現状を考えると、ケアの場を自宅だけではなく。ケアハウスなどの居宅系サービスに移し、そこに医療を外付けするという誘導も致しかたないかもしれない。
また一千億円を投じて、ライセンスの無い職種を医療の分野で10万人雇用を創出するというのはメディコポリス構想にもつながる発想だ。

そして地方分権も課題。
医療や福祉が東京と島根と、北海道と沖縄が同じサービスで良い訳がない。
道州制になったところで地域ごとで競うような形になれば面白いのではないか。

例えば北海道を保健医療福祉特区にして先進的、実験的な政策を先行させるなどのことも面白いだろう。

介護保険の産みの親の一人である山崎氏が振り返って悔やまれるのは人材がフルタイムで雇用でなくてもできる仕組みにしてしまったことだそうだ。
ヘルパーはコマ切れの労働力の提供になる。主婦の片手間ならいざ知らず、しかし介護職だけで生計を立てていくのは苦しい。
そして介護福祉士やケアマネージャーなどへの道は開かれてはいるものの、看護師や医師などのようなキャリアラダーがない。これではプライドが保てず、モチベーションも上がらない。
介護人材の立ち去り、そしてサービスの質の低下につながっている。

09年度診療報酬改定で介護報酬は3%アップしたが、加算分の引き上げのみであり、本体部分はそのままであり、介護職の賃金の引き上げ(4万円が目標)などの処遇改善には結びついていない。

また国連の障害者権利条約などの批准はしているものの国内法の整備は遅れている。
とても福祉とは言えない応益負担で悪名名高き障害者自立支援法は廃止し、応能負担の「障害者総合福祉法(仮)」の制定を目指すという。

上から与えられたものではなく「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例」の取り組みように、当事者、市民が徹底的に議論して制定した障害者差別禁止を盛り込んだものにしていきたいところだ。

結局、介護保険にしろ、自立支援法にしろ現物給付が原則である。直接の現金給付と言うのは色々問題が多いだろうが、もうすこし当事者のニーズに応じられるフレキシブルなものにできないか。

「現場の声をどんどん聞かせてください。陳情ではなく提案してください。」というスタンスの山崎まや氏。
一方で、「産まれたばかりの政権なのであたたかく見守ってください。」という言葉には、同席したジャーナリスト氏は「あたたかくではいけない、厳しく、せめてしっかりと見守ってくださいというべきだろう」という感想を述べていた。
自称、野党的山崎まや氏もまだ与党議員としての立ち位置に慣れていないのであろうか。

頼りになる政権与党の議員としてこれまで以上に医療福祉の現場と政策をつなぐ活躍を期待したい。

山崎まやオフィシャルサイトー医療・介護・看護の明日を考える輪