
今年は戦後70年ということで 色々と 国内行事も組まれているが 終戦直後の混乱時の家族の話。
「なんでも鑑定団」出演の影響が起きている。ほとんどは知人の「見たよ!」で このネタで 旧交を温めている。番組出演による交流で 自分が全く知らなかった ファミリ―ヒストリーを知ることになり 驚き 感激している。
従妹(新座市在住)より 自家製ママレードに添え 早々に便りが届いた。 「番組を見ました・・・ お元気の様子うかがいながら TVではとても身近にお会いしたような気持でした・・・」 実は 彼女とは 60年くらい逢っていない。父が戦地にゆき 住んでいた神戸市内も 空襲が始まり 母方の実家 山口に疎開した。その後 父は戦病死する。伯父(父の弟 彼女の父)は戦地に行くも 戦後無事帰還(生き延びれたのは 東大バスケット部 黄金時代の選手で 体力が・・・ と話をされていた事を想い出す) 結局 戦後は 父 戦死の為 自分たちは山口に住み続けることになり。父の3人兄弟の家族は 夫々に 山口 東京(後に浦和) 富山に定住した。その後 直接の交流は 冠婚葬祭等に限られることに。遠隔地のため 従妹同士も手紙や電話に限られた交流に。先日来 これを機会に 従妹同士で逢いましょうとの話がでてきた。
父方の祖父(義彦)の記憶は 父の納骨の時(富山)と 中学時代の夏休み 弟と2人だけの上京時の2度しかない 60数年前であるが かなり気難しそうな 印象の祖父が とても優しく気を配りながら 当時の東京を案内してくれたことを 断片的に記憶している。
先日の 従妹(三枝子さん)との電話のおかげで 自分が 全く知らなかった 祖父の話を 初めて 知ることになった。この電話の会話がなかったら このストーリーを 自分は知ることはなかったかと思えば感無量。
今回の鑑定団出品作品は 母方の祖父 骨董好きの吾一の話題が 紹介されたが 父方の祖父と 俳句ホトトギス同人だったと 母から聞いていた。父は 終戦後 戦地で帰還船を待機しているうちに マラリヤに罹り 戦病死した。 遺骨には 紙切れ一枚だけしか入っていなかったと母からも聞いていた。当時 母弟3人で 山口から 富山まで 長時間かけ 納骨に行ったことは かすかに覚えている。
今回 電話で教えてくれたこと。 紙切れ一枚に添えて 祖父は この一句を 墓に納めたとのこと。時は立った今でも 彼女は暗唱しており 忘れられずにいるという
犬死にの むくろはいずこ 焼け野原 義彦
終戦後 一日千秋の思いで長男の帰還を待っていたのに 祖父の当日の口惜しい強烈な想いが64年たった今でも ひしひしと伝わってきた。母からはこの話を聴くことはなかった。父も遠い中国の地で家族のことを思いながら力尽きたと思うと胸が熱くなる。
5歳当時の三枝子 チャンの写真を見つけた。TV出演祝いとの自家製ママレード お気に入りは 晩白柚。

いぬじに 【犬死に】 とは。[名](スル)何の役にも立たない死に方を すること。徒死。むだじに