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『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【70】あれでもあの子たちは幸せなんです(カルマの法則)

2005-01-11 22:15:31 | Weblog
安永治さんの『21世紀に私たちはどう生きたらよいか』の中で、
私がポイントだと思うのは、「あれでもあの子たちは幸せなんです」
という捉え方が出来るかどうかなのだと思うのです。

「飢えで死んでいく子供たち」を「お役目」と見ることができるのか。
「あれでもあの子たちは幸せなんです」と捉えることが
出来るのか、出来ないのかということだと思うのです。

「飢えで死んでいく子供たちは、可愛そうだ」というだけでは、
霊的真理を理解していると言えないと思うのです。

具体的な例は差し控えますが、どのような「悲惨に見えること」が起ころうとも、決して冷たい言い方なのではなくて、「カルマ」としての、その「生」が完とうされることが、その「生」にとって「幸福」なことだと思うのです。

そのような見方をしますと、「それは進化の波に乗ったからです。」という表現になると思うのです。

>『あの子たちの姿は、現実的には不幸で、これ以上ないほど悲惨に見えるけれど、実は、神様の大きな摂理のなかの人間の進化の段階として、この地球の大変革期に生れあわせて来たのです。そうすることによって彼らの進化を早めるためです。そこに神様の大きな計らいがあったのです。ですから、その初めの出生の形が、あのような悲惨な姿をとっていたとしても、霊的に見れば幸せなことなのでしょう。』

自我という「エゴ」から見ますと、矛盾に見えますが、「脱エゴ」の視野に立ちますと、いままで、「矛盾」と見えたものは、「エゴに気付く」のためのプロセスだったということになるのかも知れません。

【69】地球の次元上昇(アセンション)

2005-01-10 07:22:50 | Weblog
まずは、安永治さんの
『21世紀に私たちはどう生きたらよいか』をご覧下さい。(^^;ゞ
http://www.brainy-pc.com/~nagayasu/21-1F.html

私は、昨年の6月、安永治さんの講演を聴きました。
その講演の内容は、上のサイトのあることと同様でした。

「地球の次元上昇」などと聞きますと、何か大それたことのような気がしますが、要するの人間の意識が、「物質重視」から、「こころの時代」に移りつつあるということなのです。

それで、私のこの『知足日記』も、その流れに乗ったものなのです。
「精神世界」という言葉が、書店のコーナーに現れたのは、
私が大学生のころです。それ以前は、「宗教」のコーナーにある
仏教とか、禅の本を読んでいました。

確かに人類は全体として、「霊性」を高める方向にシフトしていると、
私は思います。私たちは、その流れの中にいると思うのです。

【68】「存在」とは「神の働き」である。(存在とは、神である)

2005-01-09 21:52:28 | Weblog
「存在とは、何か」を考えることは、とても「楽しいこと」でもあり、
「不思議なこと」でもあります。(^^;ゞ

私たちは、一人で生きているような気になっていますが、
その「私たち」を支えているのは、「存在」です。
「存在」があるから、「私たちは、在る」わけです。

何故だか、私はここに「居る」。「居る」けれども、この「居る」ことが何なのかは、不明である。私が「誰」なのかが解からない以上、私がここにいる「目的」が解からない。(^^;ゞ

私たちは、ただ無意識に、日常をやり過ごしている「存在」なのだろうか?

その「居る」こと自体が、「神」なのだと考えると、
なにか、しっくりとくるものを感じるのです。
「わかる」感じがして、ジクソーのピースが、納まった感じがするのです。

『「存在」とは、「神の働き」である』これは、真理かも知れません。

この「真理」を得ることが、「人生の目的」かも知れないと思っています。

そして、その「真理」を知れば、
私たちの人生に「安心立命」がやってくるように思うのです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
Rahiriさんの掲示版で、
http://8323.teacup.com/rahiri/bbs

『時間』がゼロになる(?)お話が、聞けるかもしれません。

私たちの観念の中にある「時間」は、相対的な時間だと思うのです。

これからは、そんな話もしたいと思います。(^^;ゞ

【67】自らの人生を間違いなく歩んでいる(状況は、常に中立)

2005-01-08 22:12:32 | Weblog
『状況は、常に中立』(=今に生きる)というのは、前にも書きましたよね。

私は、気に入った語句をノートに書き貯める(笑)のが趣味なのですが、
下記のようなものがありました。

『自ら意識しなくても、自分の人生の意味や目的を考えなくても、
その人は、自らの人生をまちがいなく歩んでいる。』

「ほっとさせられる言葉」だと思いませんか?

なぜ、ほっとした気持ちになるのかと言いますと、「真理」だからです。
「本当の話」だから、癒されるのです。落ちつけるのです。

今はこの『自ら意識しなくても、自分の人生の意味や目的を考えなくても、
その人は、自らの人生をまちがいなく歩んでいる。』という言葉が、
『神はすべてのすべて。肉体の我は、何事もなしえず』という言葉と
妙に重なります。(^^;ゞ

要約しますと、
『自ら意識してもしなくても、出来ることは出来るし、出来ないことはできない。大切なことは、キョロキョロしないで、自分の道を、自分の生命を輝かせながら、他人と比較しないで、一生懸命に生きていくことだよ』というような解釈なのではないでしょうか。

また、違った解釈(「わかる」)がやって来るのかも知れませんが、
今の私の解釈は、そのようなものです。(*^_^*)

【66】本当の自分は、すべてを知っている(「わかること」の不思議)

2005-01-07 22:24:10 | Weblog
自分の中に、神もあり、他人もいるのです。
「自分」は、本当は、すべてを知っているのです。
自分が知らないモノを探せるはずはないのです。(^^;ゞ

例えば、車のカギを探していたとします。
「車のカギ」がどういうものであるのかを、知っていないと、
「車のカギ」は探せないのです。

元々知っていることしか、見つけ出せないのです。
「カギ」が何を意味するのかが解からなければ、
「カギ」は探せないのです。

人間の脳の働きの一つである「わかること」とは、私が元々知っていたことを、「知る」ということなのです。

「わかる」は突然にやってきます。ジクソーパズルのワンピースが、
「ここしかない」という感覚でピタリとはまるように。
脳の中で、シナプスが結びつき、「ああ。このことがそのことか」と
「わかる」のです。

例えば、「親の気持ち」や「ある年齢での感慨」や「病人の気持ち」。
そのような状況になったとき、ふっと「ああ、親はあのとき、
こんな気持ちだったのだな」とか、「中年というのは、こういう
ものなのか」とか、「病人には、こんな疎外感があるのか」と、ストンと「わかる」のです。

その「わかりよう」は、「私が意図する」ものではありません。
どこからともなく、ふっと、やってくるのです。
「わかる」とは、不思議なことです。
「わかる」ために、私たちは生きてるのかもしれません。(*^_^*)

【65】結果はいつもOK(絶対よくなる)

2005-01-06 19:07:15 | Weblog
『すべては、不幸中の幸い』ということを、別の切り口で表現しますと、
『絶対よくなる(結果はいつもOK)』ということだと思うのです。(*^_^*)

経過(プロセス)としての人生を過ごしていて、どんなことが起こっても、
それらをすべて「学び」に変えてゆければ、「不幸」と思う暇はありません。(^^;ゞ

「不幸」という実態はないのです。「不幸」というのは、人生の日々の「経過」を、「結果」と捕らえたときに湧き上がる感情(想い)ですね。

商品が「売れる」も「売れない」も、単なる事実てあって、
そのことについての「想い」は、「消えてゆく姿」なのですが、
小心者の私が憂えてしまうのは、「人生とは、結果ではなく、プロセスである」ということが分かっていないからですね。(^^;ゞ

「事象」を事実としてみれば、
「起こることは、起こっているだけ」ですから、
肉体の我は、何事もなしえませんね。
「事実」に対しての、「肉体の我」の解釈は、無意味ですね。^^;ゞ

これらのことを、まとめて表現しますと、
『すべてを知っている「神さま(創造主)」は、最後には、良くしてくださる』ということなのかもしれません。(*^_^*)

なぜかと言いますと、生きている限りは、どんな出来事も「不幸中の幸い」だからです。生きている限りは、「感謝(有り難い)」しかないのだとしたら、
私の命がある限り、「結果はいつもOK」ということになります。

【本当は、すべてを知っているのは、「自分」です!】が。(*^_^*)

【64】すべては、不幸中の幸い(世界は一瞬一瞬、現れてくる)

2005-01-06 04:11:21 | Weblog
私は、商売を二十年ほどやっていますが、暇な日々が続きますと、どうしても憂えてしまうのです。憂えても問題は解決しないのですが、「問題」と
「悩み」を同居させてしまうのですね。(^^;ゞ

「人生は、プロセスである」ということは、
人生の一瞬一瞬は、「結果ではない」ということですね。

人間は、生まれて死ぬまでは生きています。その一瞬一瞬は
経過なのですね。『世界(自分)は一瞬一瞬、現れてくる』のですね。

もし私が、事故で右腕の機能を無くしたとしても、まだ左腕がありますし、
両足もあるのです。右腕を無くして不自由だという「問題」はありますが、そのことと、「悩む」ことは別のことですね。

右腕の機能を無くしたことで、同じように不自由な思いをされている方々の気持ちが学べたと、ポジティブに考えることも出来ますね。

このことを、『すべては、不幸中の幸いで、ケリがつく』と言います。(^^;ゞ

色々なモノを、得たり無くしたりしながら、人生というプロセスを過ごしていって、最後には、たぶん(笑)死んで、すべてを無くしますが、
「死んだ時には、悩む主体が消えいる」のですから、人生という事実を、事実としてみてゆけば、『すべては、不幸中の幸い』ということになると思うのです。

といいますか、私がそう思うというよりは、「人生はそういう構造になっている」のですね。(*^_^*)

【63】すべての業には、時がある(すべては、「一人相撲」)

2005-01-05 19:55:32 | Weblog
私たちは、「時間の中に生きている」と思っています。
ですが、そういう捉え方も、観念でしたよね。(^^;ゞ

「事象」は、起こるように起こり、消えるべくして消える。(*^_^*)
人間の色メガネを外せば、「世界は、起こるように起こっているだけ」
その起こっている事象を、「想い」で捕らえるから、執着になる。

私には、「あせり勝ち」の性格がありまして、
「はやく、結果を見たい」という欲求が強いので、
そういう性急な性格を戒めるために、守護霊さんが、私に、
『神はすべてのすべて。肉体の我は、何事もなしえず』という指針を
選ばせたのかもしれません。
なにしろ、すべて(守護霊さんも含む)は、「私」ですから。(^^;ゞ

私は、自営で「お弁当と惣菜の店」をしているのですが、
寒かったりして、お客さんが来ず、昼を過ぎても沢山の惣菜やごはんが
残っているときには、「憂鬱な気分」になってきます。(^^;ゞ

でも、そういう日は、夕方に沢山売れたりして、昼過ぎのあの「憂鬱」は何だったのか?と思う事がよくあるのです。

そうしますと、その時の「憂鬱」は、『意味ないジャン!』ということになるのです。結果的には、「一人相撲」を取っていたことになると思うのです。(*^_^*)

考えてみますと、人生のすべては、結果的には常に、「一人相撲」になっているのではないでしょうか?

ですから、「人生は、プロセスである」という語句が成り立つように
思います。

【62】善悪は外にではなく、内にある

2005-01-05 06:17:10 | Weblog
『14歳からの哲学』を開いたついでに、「善悪」の章の最後を引用します。

『もし君が、善悪は外にではなく内にあるという事実にはっきりと気がついたなら、よいことは「しなければならないこと」ではなくて、よいことでなければしたくない、よいことだけが「したいこと」、そういうふうに変わるはずだ。この時になって初めて、「善悪」と「快苦」は一致する。
本当によいことって、すごく気持ちのいいものなんだよ。』p164

この「善悪は外にではなく内にあるという事実」に気付くことが、
「神(創造主)」に気付くことなのです。

OSHOや「白光」が、内なる「神(本心)」に気付きなさいというのは、
この「内なる善(善悪の判断)」に気付きなさいということなのです。

それで、『神はすべてのすべて。肉体の我は、何事もなしえず』の
『肉体の我は、何事もなしえず』についてなのですが、

『「何」が、「私」か?』ということだと思うのです。
それと、存在論。(*^_^*)

『存在するのは「神」のみ』なのですから、
「私」も神の現れなのです。

「私」の私情(エゴ心)で、何かをしようとしましても、
それが、「神」(存在)に反しているなら、
「何事をなすことも出来ない」という意味だと思うのです。

ですから、『肉体の我は、何事もなしえず』というのは、
聖書の「すべての業には、時がある」という意味だと、私は思うのです。

「白光」の方とか、キキさんとか、皆さんの解釈も、気軽にコメントして、
教えてもらえると、嬉しいです。(*^_^*)

【61】存在するのは「神」のみ(自分がよければ、それで善い?)

2005-01-04 21:10:30 | Weblog
『神はすべてのすべて。肉体の我は、何事もなしえず』を考えたいと思います。この「神」というのは、以前にも書きましたが、人格神の「神」ではないです。「空」や「無」のこと。「創造主」のことです。

ですから、「神はすべてのすべて」というのは、あたり前のことなのです。
この世のもので、神から離れたもの(神が創らなかったもの)はないのです。
すべては、「創造主」が創ったのですから、すべては「神(創造主)」の
現れなのです。

それで、『この世の中には、本当はいけないとか、いいとかはないんです。』ということのなるのです。別の言い方をすれば、
『この世に「悪」は存在しない。存在するのは「神」のみ』ということになるのです。

ですから、極端に聞えるかも知れませんが、「創造主」と「創造物」は同じものなのです。「創造物」が「神」なのです。
すべては「神」なのです。「神」でないものはないのです。

別の言い方をすれば、この世に存在するものはすべて、
「神(創造主)の働き」の現れです。

私も、あなたも、肉体も、花も、動物も、
テーブルも、コップも、「神の現れ」なのです。(*^_^*)

それでは何が、「悪」なのでしょうか?(*^_^*)
それは、「神(創造主)」から離れた「想い」が、「悪」なのです。

自分だけよかったら、「よい」と思って行動したり、
自分の欲望だけを追及する「思い」は、
「神はすべてのすべて」という真理から離れているから「悪」なのです。

『自分がよければ、それでよい』すなわち、
『「自分にとってだけよいこと」が、「善い」ことだ。』と思っていることが「悪」なのです。

ですから、「神はすべてのすべて」ということに気付き、
それに従って行動したときには、「悪」はないのです。
一瞬にして変われるのです。

親鸞の「悪人正幾」というのは、そのような「意識の転換」の
妙を説いたものだと思います。

私は幼い時によく母親から、この『「自分がよければ、それでよい」と
思うことは、悪いことだ』ということを、さんざんに聞かされた思い出があります。(^^;ゞ

『14歳からの哲学』の「善悪」の章では、この『自分がよかったら、それでよい』の善悪が、哲学的に論じられています。「論理でわかる」ので、個人的には、すっきりします。(^^;ゞ


                 (つづく)

【60】自分を犯すものは何もない(本心としての私)

2005-01-04 04:20:33 | Weblog
昨日、五井氏の著書を見ていましたら、『自分を犯すものは何もない』
という言葉が、私の目に飛び込んできました。(*^_^*)

OSHOの講話集でも、
『どんなことも、私を傷つけることは出来ない。
指一本、私に触れることはできない』
という表現を見た記憶があります。(*^_^*)

それは、「どのような暴力や、暴言も「真の私」を傷つけることは出来ない」という意味だと思います。

この「真の私」というは、「白光」の言葉でいえば
「本心としての私」だと思うのです。

ですから、『自分を犯すものは何もない』をもう少し詳しく
表現しますと、『何事も、「本心としての私」を傷つけたり、
犯したりすることは出来ない』ということになると思います。

池田さんの哲学では、この「本心としての私」というのは、
「精神」のことだと思います。「真我」・「本来の自己」のことです。

。。。。。。。。。。。。。。引用です。。。。。。。。。。。。。
【自分を犯すものは何もない】

『この世の中には、本当はいけないとかいいとかはないんです。
ふつうの人はすぐ、これをやってはいけない、
あれはやってもいいとかいいますが、いけないいいではなくて、
やるときには、やってしまうんです。わかりますか?

そこで私は、「消えてゆく姿」という教えを説いているのです。
いけないとか、いいとか言ったってやってしまうのですよ。
それはしかたがないんだ、業因縁なんだ。

いけないいいの問題ではなく、現れてくるものは現れてくる。
消えるものは、消えてゆく。
うつるものはうつる。それはすべて、神さまのみ心。

自分の本心が現れるためのものだから、
どんなふうに形が悪く出ようと、善く出ようと、
有り難いのだ、-というのですよ。

「消えてゆく姿」自体が有り難いのではない。
消えて行ったあとから、「本心」が出てくるから有り難い。

だから、貧乏しても有り難い。病気をしても有り難い。
へんな嫌な感情が出ても有り難い。
怒りの想いが出ても有り難い。

すべてが有り難い。          』

           五井昌久著『色即是空』P92

【59】神はすべてのすべて

2005-01-03 19:28:59 | Weblog
今日、「白光」さんで、「新年の指針」を戴きました。(*^_^*)
たくさんある中から、「これ!」と思って引きます。

ヤマギシ会の時もそうなのですが、テーマがあって、
それを意識しながら日々の生活を送るというのは、
私の性(しょう)に合っています。(^^;ゞ

それで、今回戴いた指針は、
『神はすべてのすべて。肉体の我は何事もなしえず』です。
意味深長でしょ。(*^_^*)
一年掛けて、この内容を吟味しようと思っています。(^^;ゞ

ちなみに、昨年の指針は、
『自分のこころをいつわることは、弱い人間のすることである。
自分の心を正直にみつめることの出来る人は、強い人である』でした。

何かを判断する時に、この指針を思い出して決断した記憶があります。
出来ないことも沢山ありましたが。(^^;ゞ

【58】教えに把われるな(仏に会ったら、仏を殺せ)

2005-01-03 06:40:05 | Weblog
五井氏の著作で特徴的なのは、「教えに把われないように」と書かれていることです。ふつうの教祖は、「私の教えに従え」とは言いますが、
「私の教えに把われるな」とは言わないでしょ。(笑)
ですから、「白光」は精神世界系なのです。(^^;ゞ

でも禅では、そのようなことがよく言われますよね。
「仏に会ったら、仏を殺せ」。

「水が水であるというわけでは、決してない」というのも、
「教え」や「言葉」に把われないで、活き活きと生きなさいと
いう意味だ思います。

私は毎朝、「印(いん)」を組んでから、瞑想(統一)をしています。
「印」を組みますと、アルファー波が出て、恍惚感があり気持ちが良いのです。そして、瞑想をしていると、色々なインスピレーションが湧いてきます。

「白光」さんへの取っ掛かりとして、この「印」を教えてもらうのが、
良いと思いますので、一度、「印のワークショップ」に参加されてみては
いかがでしょうか。(無料です)

【光のネットワーク】ボランティア
http://www15.ocn.ne.jp/~lightnet/

【57】私が、「原理主義」でした。(^^;ゞ

2005-01-02 20:19:03 | Weblog
Jさんのご指摘で、解かったことは、
「還元主義(原理主義)はいけない」と発言していた私が、
「還元主義(原理主義)」になっていたということです。(^^;ゞ

「語る」ということは、言葉で分析するということです。
そして、言葉で語るのは、爽快ですので、ついつい、
「自分の考えが、正しい」という思い込みを持ち易いです。
私自身が、「還元主義(原理主義)」に陥ってしまったようです。(^^;ゞ

真理を語ろうとすればするほど、真理から離れていきますね。
言葉で語らなければ、伝わらないし、
言葉で語れば、把われるし。難しいです。(*^_^*)

私は、「カルマ」という言葉に捉われてしまって、
他人の「いのち」と、自分の「いのち」を輝かせることを忘れて
いました。そういう言葉の使い方が、「非情」という感じをJさんに
与えたのだと思います。

「○○さんの天命が、完うされますように」という語句は、
そういう「言葉で語られた世界観」を浄める働きがありますね。

仏教に、「偏計所執性(へんげしゅしゅうしょう)」という
語句があるのですが、それは、人間とはとかく、
『言葉で語られ「もの」に執着する性(さが)』を持っている
という意味です。

池田さんは、このことを、『人間は思い込みの動物である』と言っています。
気が付かない間に、私は、この「罠(罪)」に嵌まって、「言葉」で人や事象を切って(判断して)いました。