安永治さんの『21世紀に私たちはどう生きたらよいか』の中で、
私がポイントだと思うのは、「あれでもあの子たちは幸せなんです」
という捉え方が出来るかどうかなのだと思うのです。
「飢えで死んでいく子供たち」を「お役目」と見ることができるのか。
「あれでもあの子たちは幸せなんです」と捉えることが
出来るのか、出来ないのかということだと思うのです。
「飢えで死んでいく子供たちは、可愛そうだ」というだけでは、
霊的真理を理解していると言えないと思うのです。
具体的な例は差し控えますが、どのような「悲惨に見えること」が起ころうとも、決して冷たい言い方なのではなくて、「カルマ」としての、その「生」が完とうされることが、その「生」にとって「幸福」なことだと思うのです。
そのような見方をしますと、「それは進化の波に乗ったからです。」という表現になると思うのです。
>『あの子たちの姿は、現実的には不幸で、これ以上ないほど悲惨に見えるけれど、実は、神様の大きな摂理のなかの人間の進化の段階として、この地球の大変革期に生れあわせて来たのです。そうすることによって彼らの進化を早めるためです。そこに神様の大きな計らいがあったのです。ですから、その初めの出生の形が、あのような悲惨な姿をとっていたとしても、霊的に見れば幸せなことなのでしょう。』
自我という「エゴ」から見ますと、矛盾に見えますが、「脱エゴ」の視野に立ちますと、いままで、「矛盾」と見えたものは、「エゴに気付く」のためのプロセスだったということになるのかも知れません。
私がポイントだと思うのは、「あれでもあの子たちは幸せなんです」
という捉え方が出来るかどうかなのだと思うのです。
「飢えで死んでいく子供たち」を「お役目」と見ることができるのか。
「あれでもあの子たちは幸せなんです」と捉えることが
出来るのか、出来ないのかということだと思うのです。
「飢えで死んでいく子供たちは、可愛そうだ」というだけでは、
霊的真理を理解していると言えないと思うのです。
具体的な例は差し控えますが、どのような「悲惨に見えること」が起ころうとも、決して冷たい言い方なのではなくて、「カルマ」としての、その「生」が完とうされることが、その「生」にとって「幸福」なことだと思うのです。
そのような見方をしますと、「それは進化の波に乗ったからです。」という表現になると思うのです。
>『あの子たちの姿は、現実的には不幸で、これ以上ないほど悲惨に見えるけれど、実は、神様の大きな摂理のなかの人間の進化の段階として、この地球の大変革期に生れあわせて来たのです。そうすることによって彼らの進化を早めるためです。そこに神様の大きな計らいがあったのです。ですから、その初めの出生の形が、あのような悲惨な姿をとっていたとしても、霊的に見れば幸せなことなのでしょう。』
自我という「エゴ」から見ますと、矛盾に見えますが、「脱エゴ」の視野に立ちますと、いままで、「矛盾」と見えたものは、「エゴに気付く」のためのプロセスだったということになるのかも知れません。