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『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【57】自分が正しいと思っても、他人を傷つけてはいけない

2005-01-02 06:44:28 | Weblog
Jさんという方に、『「大災害」の霊的解釈』についての
コメントを戴きましたので、そのことにお応えしたものを記載します。

>しかしJも含め因果応報説を信じている人は無情になることに注意が必>要だと思うのです。
>「消えて行く姿」を慈悲的な言霊として使っていただきたいのです。
>亡くなった人々、残された家族や家を失った人々、重傷を負った人々、(彼>等はJであり知足さんです)に対して我々のカルマを身代わりに引き受け>てくださったことを謝罪し感謝し苦しみ哀しみを共感したいと思います。

★ おっしゃる通りですね。
確かに、私の「消えてゆく姿」の語句の用い方には、「非情」な面がありますね。「冷静さ」を通り越して「冷酷」な感じさえしますね。

たぶん私は、そのような形で、「消えてゆく姿」を用いることによって、
「事象(大災害)を納得しよう」としているのだと思います。(^^;ゞ

ですから、そのような「消えてゆく姿」の使い方は、
自分の心の中で行なうものなのですね。

「白光日めくり」の中に、
『自分が正しいと思っても、他人を傷つけてはいけない』というが
あり、この禁を、私は犯しやすいと常々思っていたのですが、
Jさんのご指摘は、このことだと思いました。(^^;ゞ

今の私の感想は、こういうJさんからのご指摘も含めて、
『「大災害」の霊的解釈』を書いて良かったと思っています。

私が書いたことも、「消えてゆく姿」だったのですね。

>また霊的真理と言う言葉を知足さんは使われますが、
>Jは自分が霊的真理を掴んでいるとは思えないのです。
>知足さんは確実に霊的真理を、誰かの言葉の借り物(霊的知識)ではなく、>自分で把握されておられるのでしょうか? 

★ 私が、「人間が霊的な存在である」ということを、初めて見聞したのは、
2年ほど前に読んだ飯田史彦さんや、シルバーバーチの著作などからですから、私は知識としての「霊的真理」しか知りません。

ですから、簡単に言いますと今はまだ、私の考える「霊的真理」が
どこまで普遍性があるのかを、検証している段階です。

それで、その方法として、このような「やむにやまれぬ事」を書いて
自分の考えを整理しているのです。(^^;ゞ

今の自分は、そういう途上にあると思っています。
そういう過程を経ないと、たどり着けない私です。(^^;ゞ

ご意見を戴けると、私の問題点が浮き出すので、とても有り難いです。
今回のJさんのご意見、大変に参考になりました。
ありがとう御座いました。

今後とも、宜しく、お願いします。

Jさんとの意見交換は、下記の掲示版で行なわれました。
http://8323.teacup.com/rahiri/bbs


【54】測定できない「私」が、測定できる物質に宿っている

2005-01-01 07:09:32 | Weblog
「人間が死ぬ」ということは、肉体の機能が失われるということです。
それで、普通には、肉体が死ぬと「私」が死ぬと思われています。

「私」は、肉体に宿っていますが、
「私」は、細胞(身体・物質)から発生したのはないのです。

もし、「私」が、細胞から発生したのであれば、
人間の部分(手や足)が失われえば、
それに対応する「私」の意識の一部が、損なわれることになりますが、
実際には、手足を失っても、「私」という意識が欠けることはありません。

ですから、「私」は細胞物質から発生したのではないのです。

科学は、目に見えるもの(長さ・速さ・重さなど測定できるもの)
しか扱えません。「私」という意識は、測定不可能であり、
科学の対象としては扱えないのです。

測定できない「私」が、測定できる物質に宿っているのが、
面白いところです。(^^;ゞ

★ 「意識」に関しては、茂木さんの著作が興味深いです。(*^_^*)

『意識とは何か』茂木健一郎著(ちくま新書)には、
下記のように書いてありました。

① そもそも物質である脳の活動に伴って、どのように意識が生まれるのか?

②なぜ、宇宙にあるすべての物質の中で、神経細胞の活動だけに伴って
意識が生まれるのか?あるいは、他の物質の活動に伴っても、意識は生まれるのか?
だとすれば、どのような条件が満たされた時に、意識は生まれるのか?

③そのような意識を持つ〈私〉という主体は、一体どのように成り立っているのか?

といった根本的な問題には、答えることができない。(p12)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★あけまして、おめでとうございます。
本年も宜しく、お願いします。

メールのアドレスが変わりました。
Tisokunaito@aol.com


【53】生かされてる医学(私は、だれ?)

2004-12-31 19:09:39 | Weblog
『生かされてる医学』というHPをご存知ですか?
http://www.ikasareteruigaku.org/

数年前、NHKの「こころの時代」に、医学博士の 笹田信五さん
が出演されて、このサイトを見つけました。

その中のお話で、
『医学的に、死は、「私」の終わりではありません』
http://www.ikasareteruigaku.org/haken3.htm
というのがあり、医学的に「死」と「私」の関係が
論じられています。

内容を掻い摘んで書きますと、
①「死は私の終わりである」というのは、科学的に証明できて
いないそうです。ですから、私たちは、「死んだらおしまい」と
証明もなしに信じているのだそうです。

②身体から「私」が発生したということは証明できないそうです。
しかし、「私」は実在します。今このように考え、判断し、
行動しています。だから身体の死は、身体の消滅ではあっても、
実在している「私」の消滅ではないのだそうです。

★ この「私」という意識は、何なのでしょうか?
何処からやってきたのでしょうか?
考えてみると不思議です。(^^;ゞ

この「意識」は、地球(宇宙)の創造物なのかな?
この「意識」は、何がしたいのかな?

■私は、誰で、何をしたいと思っている「意識体」なのでしょうか?

【52】すべての想いは、「消えてゆく姿」

2004-12-31 18:27:28 | Weblog
良いとか、悪いとか、非情であるとか、無礼であるとかという
人間の判断とは関係なく、事実として、
『すべての想いは、「消えていく姿」』だと思うのです。

OSHOの言葉で言えば、「それは、それ」、あるいは、「それもまた、
過ぎ去る」というのは、「真理」だと思うのです。

「白光」の方が、世間的に見て「不都合なこと」が起こった時に、
『「消えていく姿」が起こった』と捉え、その事象を、自分の想いと
切り離して、客観視しているのが、印象的でした。(*^_^*)

「事実は、事実。思いは思い」の言葉通りに、
「自分の想い」は、「消えていく姿」として 客観視し、
事象と切り離している姿が、印象的でした。

【51】「法則としての神」とは、霊的真理のこと

2004-12-31 06:19:19 | Weblog
私の『「大災害」の霊的解釈』について、「非情」であるというご意見を
戴きましたので、すこし補足します。

以前にも書きましたが、「法則としての神」と「愛としての神」があると思うのです。私が『「大災害」の霊的解釈』で言いたかったことは、「法則としての神」についてです。

確かに、「霊的解釈(真理)」は非情な面がありますよね。

ですが、そういう「霊的解釈(真理)」を理解しないと、
「個人も人類も、真の救いを体得できない」という一面があると思うのです。

前後の文章を読んでいただければ、「非情」で語っているのではなくて、「法則」を語っているのだと、理解してもれえると思うのです。

そして、たとえ「非情」に映ったとしても、
「ああ、亡くなられた方々は、救われているのだ」と理解していただけると
思っています。

問題は、生き残った方々(私たちも含めて)が、大災害の事実をどのように受け止めるかなのです。「霊的解釈(真理)」を知っているかどうかが、「救われる」か「救われない」かの境目だと思いましたので、書きました。

そのように理解くていただけると、嬉しいです。(^^;ゞ

【50】人類と環境は、一つのもの?(依他起性)

2004-12-30 20:51:39 | Weblog
NHKスペシャルの『地球大進化(46億年・人類への道)』を見て、
http://www.nhk.or.jp/daishinka/
人間とは、何なのかということが、ますます、分からなくなりました。(^^;ゞ

私たちの肉体は、地球上の物質で作られています。
ということは、私たちは、「地球の部分(部品)」です。(*^_^*)

私たちのなかには、地球46億年の大変動が隠されています。
ということは、私たちは、「経過(プロセス)でしょうか?

私たちの祖先が微生物から人類へと進化しする過程とは、
いったい何なのでしょうか。
「大いなる意図」はあるのでしょうか?

生命は、地球の大変動による絶滅の危機を何度も乗り越えることに
よって、「人類」にたどり着きました。(*^_^*)

「環境の変化」が、「人類」を形成してきたのです。

例えば、人間の視力の良さは、環境の変化に対応することによって、
獲得された能力だそうです。

この「良好な視力」の獲得がなければ、
人類の今の文明はないかも知れません。

「人類」というのは、「単独」で存在するものではなくて、
「環境」とともにあることによって、存在し得ている存在のではないでしょうか。これは、「事実」だと思うのです。

これを、仏教では、「依他起性(えたきしょう)」といいます。
どんなものも、「他に依って、成り立っている」という意味です。

ですから、これはちょっと飛躍になりますが、(^^;ゞ
「自分」という確固としたものは、無いのです。

「自分」が「自分」と思い込むことによって、「自分」が在るのです。
「自分」を思い描いていない時、「自分」はないのです。

そして、「自分」というのは、「環境を含めた自分」なのです。
これは、主客合一に似ていますね。(^^;ゞ

「すべて」は、いまの私の見ている「世界」なのです。

【49】「大災害」の霊的解釈

2004-12-29 20:44:52 | Weblog
今回のスマトラ島沖地震の大津波による被害は甚大で、多くの方が亡くなり、胸がつぶれる思いです。

大きな地震と津波が起こったことは、大変に残念なことです。
今回の大災害も「消えていく姿」なのでしょうか。

霊的に解釈するとどうななるのでしょうか?

まず、肉体人間としての生命は、一時的なものであり、魂としての「いのち」は不滅だと考えれば、「肉体の死」は、悼むべきことではないことになります。

霊的な解釈をすれば、「人はみな死後、肉体から解放されて自由になり、輝く」と言われています。

霊的にみれば、過去のカルマが、「消えていく姿」として顕われたということになり、そのことにより、「浄まった」ということになります。

現象としての「津波」は起こり、消えて行ったというのが、「事実」の見方だと思います。前にも書きましたように、事実としての「時間」は、「今、今、今」の連続です。

霊的に見れば、
地球もまた、一つの生命体です。その地球の中心的な存在である人類
の悪い業想念や行為が、地球に影響を与えないはずはありません。

悪しき業想念や行為の結果として、「天変地変」が起こると言われています。

地震で死んでしまった方がいいのか、死なずに残って悲しい思いをした方がよいのかは微妙なところですが、生きている人にとってみれば、天変地変によって、「業(カルマ)が浄まった。」と考え、「災難に遭う時には、災難に遭うのがよろしく候」と受け取るしかありません。

それにしても、痛ましい惨状です。
しかしそれも、私たちが真理に目覚めるための「プロセス」なのだと思います。

それは例えば、阪神淡路大震災のときに、たくさんの悲劇があったけれども、それらの「不幸」を通じて、「助け合う心の大切さを学んだ」というようなことに象徴される「真理(愛)」です。


【48】「なんのために、仕事をするのか」という虚無(*^_^*)

2004-12-29 18:37:38 | Weblog
以前の私は、虚無主義的なところがありました。
「なんのために、仕事をするのか」という問いの答えが、
「食べるのため」ということぐらいしか、思い浮かばなかったのです。(^^;ゞ

朝起きて仕事に行くのが、「面倒だ」と思う時も、当然ありました。
でも、この頃は、ギリギリまで寝ていることがなくなったこともあるのですが、「仕事に行くのが嫌だなあ」、「寝ていたいなあ」と思うことがなくなったのです。

朝起きて、瞑想をする楽しみもあるのですが、
自分の本心は、今の、こういう生活を望んでいるのだということが納得できるので、「自我」による迷いがなく、「面倒だ」と思うことがなくなったようい思います。

それに、「仕事」というのは、「食べるため」ではなくて、
「仕事」のため、つまり、「事(こと)」に仕えることが、「仕事」だと分かってきたのです。池田さんの哲学風にいえば、「仕事」をするのは、「善」を成すことと言えるかも知れません。

それに、「仕事」を大事にすることは、
日常生活を大事にすることでもありますしね。(*^_^*)

★ サーバーが変わるため、私の下記のサイトが今月で閉鎖されます。
 必要な箇所がありましたら、保存してください。
http://homepage2.nifty.com/hiroshi_n/etegami.htm

【47】「あらゆる事、人を通して導いてくれる」から、『全託』

2004-12-29 15:28:10 | Weblog
「日常生活が大切」ということを、「白光」の言い方で言いますと、『守護霊、守護神は、あらゆる事、人を通して導いてくれる』となります。(*^_^*)

「守護霊、守護神」の存在を信じられれば、
「幸福」と感じる時には、そのことを通じて、
「不幸」と感じるときには、そのことを通じて、
私を導いてくれていると納得できるわけです。(^^;ゞ

そのように納得できれば、不幸に対する「悩み」(どうして、私は不幸なのか?)から、自動的に解放されることになります。(*^_^*)

「守護霊、守護神」の存在を信じられれば、「安心立命」の境地なのですが、人間の「二元論的思考」が、それを阻止してしまいます。(^^;ゞ

『守護霊、守護神が、あらゆる事、人を通して導いてくださる』ということが、腹に落ちれば、すべては、「守護霊さんへのお任せ」(全託)なのですから、「安心」以外はないのです。(*^_^*)

自分のすべてを、「守護霊、守護神」にお任せ出来る人、
すなわち、どんなことが起こっても、「日常生活」を大事にする人は、
悟っている人なのです。

本来、私たちは「生かされている存在」なのですから、「悩み」はないのです。「悩み」は、自分を中心に考えるから、顕われるのです。(^^;ゞ

私たち、「生かされている分際(ブンザイ)」が、「創造主(空)」に、不満を言える道理はありませんものね。(*^_^*)

★ 『全託』というのは、「すべて、託す」という意味です。
「与えれているいのち」なのですから、「託す」以外にはないのですが、
ついつい、「自我」の思いで、「悩んでしまう」のが、私たちですね。(^^;ゞ


【47】あらゆる事、人を通して導いてくれる(全託)

2004-12-28 20:13:35 | Weblog
「日常生活が大切」ということを、「白光」の言い方で言いますと、『守護霊、守護神は、あらゆる事、人を通して導いてくれる』となります。(*^_^*)

「守護霊、守護神」の存在を信じられれば、
「幸福」と感じる時には、そのことを通じて、
「不幸」と感じるときには、そのことを通じて、
私を導いてくれていると納得できるわけでして、

そのように納得できれば、不幸に対する「悩み」(どうして、私は不幸なのか?)から、自動的に解放されることになります。(*^_^*)

「守護霊、守護神」の存在を信じられれば、「安心立命」の境地なのですが、人間の「二元論的思考」が、それを阻止してしまいます。(^^;ゞ

『守護霊、守護神が、あらゆる事、人を通して導いてくださる』ということが、腹に落ちれば、すべては、「守護霊さんへのお任せ」(全託)なのですから、「安心」以外はないのです。(*^_^*)

自分のすべてを、「守護霊、守護神」にお任せ出来る人。
「日常生活」を、大事にする人は、悟っている人なのです。(^^;ゞ

本来、私たちは「生かされている存在」なのですから、「悩み」はないのです。

「生かされている存在」なのに、「私たちを生かしている創造主(空)」に、
不満を言える道理はありませんもの。(*^_^*)


【46】日常生活が大事。(市井の人々)

2004-12-27 22:14:49 | Weblog
「いのち」の立場、「脱意味」の立場として、代表的なのが、
禅なのだそうです。

以前に、紹介した良寛さんの
「災難に遭う時には、災難に遭うのがよろしく候」というのも、
「人生は、脱意味である」ということに通じます。

そして、そのような「脱意味」を生きているのは、市井の人々なのです。(^^;ゞ

市井の人たちは、その具体的な「仕事(日常)」に専念することによって、
すでに「脱意味」を生きているのです。

「脱意味」は、彼方にあるではなく、今、自分の在り様とともに、
もっとも具体的な形として、顕われているのです。


「白光」さんの言葉を借りれば、
『具体的な「いのちの働き」を通じて、天命が完うされる。』のが、
もっとも理に適った生き方なのです。

『人事を尽くして、天命を待つ』のが、人間の「真摯な生き方」なのです。(*^_^*)

そのように覚悟ができれば、悩んでいる暇はないのです。(^^;ゞ

最近の写真です。(*^_^*)

2004-12-27 00:01:22 | Weblog
最近は、近くのものが見え難くなりました。
いわゆる、老眼です。(^^;ゞ
それで、めがねをはずしていることが、多いです。

お客さんに、よく、「コンタクトに変えたの?」と言われますが、
老眼なのです。(*^_^*)


【45】どんな時にも、人生には意味がある(*^_^*)

2004-12-26 23:12:22 | Weblog
トランスパーソナル心理学というのは、「自己を越えた視点(価値)から、現在の自分の状況を見つめ直す心理学」です。

フランクルもまた、その範疇に入っています。

 フランクルについては、山田邦男氏の著作が優れています。
『生きる意味への問い』(佼成出版社)、『フランクルを学ぶ人のために』(第11章「現代の精神状況とその克服」)(社会思想社)などです。

フランクと聞くと、すぐに思い出されるのが、人間には「3つの価値が内在している」ということです。その価値を簡単に説明しますと、
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

①創造価値(我々が何を人生に与えるかということを通しての価値)
     <研究や仕事によって、自己実現される価値>

②体験価値(何を我々はこの人生から受け取るかということによる価値)
     <友人や家族と共に過ごしたり、芸術や自然に親しむことによって自己実現される価値>

③態度価値(我々が改善の余地のない宿命に対してとる心的態度を通しての価値) 
     <運命や苦悩(病や死や苦境など)を自分に受け入れることによって自己実現される価値>

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
山田氏の解説によりますと、フランクルのいう「価値」というのは、その場その時で、常に変化しているものだそうで、観念で、これこれと規定できるものではないそうです。この「価値は規定できない」というのは、TAOに通じる所がありますね。(*^_^*)

★フランクル心理学の要点は次のようなメッセージになります。

 『どんな時も人生には意味がある。なすべきこと,充たすべき意味が与えられている。』

別の言い方をしますと、『人生は、脱意味である。』(我々の人生は、脱意味に帰着する)となります。(^^;ゞ


『教育に生かすフランクル心理学 』というのが、あります。
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/soyama/gakusyuukai/siryou/01-7frankl.htm

『生きる意味への問いーフランクルをめぐって』山田邦男著
http://www.kosei-shuppan.co.jp/book/contents/culture-hobby/01878-1.html

【44】「所詮、~~~。」は、ダメよ。(*^_^*)

2004-12-25 22:30:47 | Weblog
簡単に言いますと、「いのちの立場」ということは、
「所詮、~」という発想(還元主義)で、物事を捉えてはいけないということです。

「所詮、世の中は、お金だ」とか、「所詮、男と女だ」という分析の方法は、
「いのちとしての人間の人生」の全体像を把握出来ていないのです。

また、同様に、「所詮、人間は神の僕(しもべ)だ」というジハード的発想も、還元主義(原理主義)だと思いませんか?

「所詮、人間は愛だ」なら、還元主義(原理主義)にならないと思います。

還元主義(原理主義)になるか否かの違いは、価値の基準が何処にあるのかによるのです。

価値の基準が、自分の内面(愛)にあれば、還元主義(原理主義)にならないのです。ジハードは、外なる神を価値とするから、
還元主義(原理主義)になるのです。

人間は、内なる神(愛)を見出すべきなのです。(*^_^*)

★ 【43】の還元主義についての説明は、『フランクル心理学入門』諸富祥彦著書(コスモライブラリー社)p164の一部を要約したものです。