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『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【85】私の「過去世」?

2005-01-27 05:23:56 | Weblog
私は、チャネラーさんたちとの出会いの中で、偶然に3つの過去世と思われるものを知ることが出来ましたので、参考までにご紹介します。眉につばをつけて、聞いてください。(^^;ゞ

① 【暗殺された白人の牧師】
奴隷制度の時代に、「人間は神の前に平等だ、
黒人の売買は良くない」と主張し、それを行動に移したので、
黒人を売買する業者に憎まれ、暗殺された白人の牧師。

その時の後遺症と思われるものが、私の頭部に突き刺さっていたので、
それを、霊的に取り除いてくれました。

その時の話では、霊的に取り除いても良い霊障と、
取り除いてはいけない霊障があり、守護霊さんと相談して
判断するそうです。(^^;ゞ

②【オランダで、チューリップの品種改良に失敗した男】
私が神経質なのは、この「前世」が影響しているそうです。(^^;ゞ
オランダ国には、チューリップの品種改良で栄えた時代があったのですが、
その当時、「品種改良」に情熱を燃やしていた彼(前世の私)は、
自分の仕事に失敗して、憤死(笑)してしまったそうです。

② 【古代ローマ時代の小市民な貴族】
私と会ったときに、「しきりに、『ローマ』という語句が浮かぶ」と
言ってくれる人がいました。その後、私の「食」に関する内面的な経歴を
吟味する中で、「ドキリ!」とするほど、私の「食」に対する姿勢と「私の前世」が結び付きました。

ローマ時代に貴族だった私は、罪悪感がありながらも、
嘔吐しては、美味しい物を食べるという生活を続けていました。(^^;ゞ
その「罪悪感」を打ち消し、解消するために今世に生まれてきたようです。

以上の3つです。「科学的に解明できるのか?」という問いには、
「いいえ」と応えるしかありませんが、自分の内面では、とても納得の行く話、符合する事象の多い話なので、これはこれとして、参考にしてください。 

【84】チャネラーさんたち(人生は、魂のための学校?)

2005-01-25 22:05:52 | Weblog
江原さんの「えぐら開運堂」という番組を見ているのですが、
http://www.tv-tokyo.co.jp/egura/
なかなか面白いです。(^^;ゞ

私も1年半程前に、チャネラーさんに観てもらったことがありますが、
現在、その予言の通りになりました。(^^;ゞ
http://www.geocities.jp/chanering_art/index.html
この方(Tさん)のチャネリングは、信頼できると思いますので、
機会がありましたら是非、どうぞ。

チャネラーさんというのは、不思議な存在ですが、
私たちの本質が、「魂としての存在」であるのなら、
そして、この人間界に「魂の学び」のために
生まれて来たのだとしたら、合点のゆく話です。(^^;ゞ

ただ、江原さんの番組を見ていて思うのは、
それぞれの人間にとって、個々に「魂の計画」があり、
すべての人が、「聖人にならなければならない」とか、
「修行をしなければならない」というようなことではなく、
個々の日常のなかに、「魂の学びと成長」があるということなのだと思うのです。

それで、私みたいに還元主義的に、「カルマ」とか、「霊性」とか、「精神性」などという言葉を使うのは、そういう「日常のなかに、魂の学びと成長がある」という主旨には反するようです。(^^;ゞ

もっと素直に、「自分の魂の計画」を信じて、
日々の生活ができれば、「自分の魂の計画」について、
「ああだ、こうだ」と考える必要すらないのかも知れませんね。

チャネラーさんというのは、その人の「魂の計画」に気付かせるために
助言を与える存在なのだと思うのです。

「ひとりひとりに、魂の計画がある」ことを、思い出させてくれる存在なのだと思うのです。

【83】ストップ瞑想法(存るものを、愛する)

2005-01-24 21:48:22 | Weblog
『ストップ瞑想法』は、とても手軽な瞑想法です。

1日に3分の瞑想法です。(^^;ゞ
一回は30秒で、一日に6回します。
完全に自分の動作を止めるのです。

状況がどうあろうと、「ストップ」と気付いた瞬間に「停止」するのですが、
もちろん、車の運転中など「危険な場合」はしないでください。(^^;ゞ

それは、「今」でも構いません。突然、止まってください。
そして、『今、在ること』を感じてください。(*^_^*)

「突然、ただ在る」ことを経験するのです。
この「ただ在る」という経験は、言葉で表現することは出来ません。
それは、「感覚」でしかないのです。ですがこの経験は、とても貴重です。

私は、踏み切りで電車を待っている間に『ストップ瞑想法』をするのですが、
とても心地の良い瞬間が訪れますと、いつまでも遮断機が上がらないようにと思うほどです。(^^;ゞ

目をつぶって、「存在」に自分を明渡した後、
再び目を開くと、その瞬間、世界が新しくなった感じがします。(*^_^*)

一度、お試しください。一日の6回でなくても良いのです。
私は、思いついた時にします。(^^;ゞ
『存るもの(存在)を、愛する』気持ちが湧いてきます。

ただし、「危険が予想される状況」では、絶対にしないでください。

【82】リバーシング(再生誕)とカタルシス

2005-01-23 21:12:30 | Weblog
「把われのない心」で、私が思い出すのが、リバーシング(再生誕)です。
私は小学生や中学生のときに、なにかというと「勉強しなさい」
と言われる環境だったので、そのことに強いストレスを感じていました。
もちろん、当時は、それを「ストレス」と捕らえることすら出来ませんでした。(^^;ゞ

私の中には、「勉強のできることが、唯一の価値である」(笑)とか、
「大学には、必ず行くべきだ」というような世界観があったわけです。(^^;ゞ

それに、「男性が、家族を養っていかなければならない」という社会の
ルールも重荷に感じていました。(*^_^*)

そのようなストレスがあって、ヤマギシ会(全人幸福社会の樹立)や
精神世界に惹かれたのだと思うのです。

そのような中で出会ったのが、OSHOの『リバーシング(再生誕)』という療法(?)です。(25年前です)

呼吸法によって過去にさかのぼり、子供時代の感情を再経験します。
私がその当時の感情の中に入っていった時、とめどなく涙が流れ、感情が爆発しました。自分が、自分の感情に気付きながら、「悔しい気持ち」を味わいました。それで、スッキリしたのです。(*^_^*)

今思いますと、カタルシス(浄化)が起こったのです。

この『リバーシング(再生誕)』を受ける以前、私は暗い性格だったの
のですが、それが改善されたように思います。

OSHOの瞑想法には、このような浄化(カタルシス)を中心に据えたものも、多くあるようです。

【81】へたでいい。へたがいい(他人の評価を気にしない)

2005-01-23 07:07:23 | Weblog
いままでは、小難しい話が多かったのですが、そろそろ、
それらを基礎にしつつも、多少くだけた話もしたいと思います。(^^;ゞ

「裸の心」というのは、把われのない「こころ」のことです。
いい意味で、他人の評価を気にしない「こころ」のことです。

私の趣味の絵手紙は「へたでいい。へたがいい」がモットーです。
その精神は、『把われのないこころ』で、描くということです。
幼児になったつもりで、「上手く仕上げよう」という分別心(見栄)
を捨てて描くと、本人でさえ驚くような『絵』が顕われます。(^^;ゞ

今日も、初心者の方に絵手紙を描いてもらったのですが、
初めての方は、教えられた通りに、自分で勝手なアレンジせずに、
一生懸命に描くので、とても良い作品が出来上がるのです。

一見、ヘタに見える「禅僧の書」に、私たちの心が引き付けられるのも、
上のような事情によります。

「うまい。へた。」という二元対立の分別心を超えた境地で書かれた
禅僧の書は、『把われのないこころ』で書かれたものなのです。

「書は人だ」ということがよく言われるのは、書いた人が
「人格者」だとか、「性格」が出るという意味だけではなくて、
「無分別心によっているのか、どうか」という線引きでもあるようです。(^^;ゞ

【80】「所有」って何?《裸の心になることです(*^_^*)》

2005-01-21 22:46:15 | Weblog
「存在」そのものが、どのような形式なのかは、定かではない。
「所有」となると、さらに観念(想い)の世界の話のように思われます。
どのような根拠が「所有」にあるのか、考えてみたいと思います。

一般的にいえば、「所有」というのは、「使用の権利」のことだと思われます。
私有財産制にしろ、国有制にしろ、「所有」という概念を認めている点では、
同じことです。

本来、物は物自体であって、人と物は「所有関係にはない」ということを、
禅では「本来無一物」、ヤマギシでは「無所有一体」と言います。

「事実は事実。思いは思い」という観点に立てば、
「所有」というのは、私たちの「思い」でしかありません。

よく、「裸で生まれて来て、裸で死んで逝く」と言われますが、
事実を事実としてみれば、そうなっています。(^^;ゞ

そういう事実を、「すべての物は、天からの預かり物」と捉えて暮らせれば、
どれだけ爽やかなことでしょう。
他人からは、『「人間」が出来ている』と言われるでしょう。(^^;ゞ

このことが、腹に落ちれば(真に納得できれば)、多くの悩みから解放されるかも知れません。私たちの悩みのほとんどは、「所有」と「見栄」に起因しているそうです。

★「所有」に囚われないで、「裸の心」になれば、
勇気も知恵も力も湧いて来ます。(*^_^*)

【79】「成長」って、何?(「人間」が、出来ている人物)

2005-01-20 22:35:39 | Weblog
生まれた時は、ただ寝ているだけの乳児が、一年も経つと、
よたよたと歩いたりします。表情も豊かになって、
教えたわけでもないのに、「恥かしい」という表情をみせたりします。

彼が、どのようにして、そういう感情や表現を手に入れたのかが、
私には、興味があります。遺伝子なのでしょうか?
霊性なのでしょうか?   解かりません(^。^?)

生まれたての彼は、もうすでに何らかの性格を持っているのでしょうか?
そばで見ていますと、慎重そうだったり、すばしっこかったりして、
もうすでに、「彼事自身」を表現しているように見えます。
その態度は、どうしようもなく、「彼」の態度です。
何かを、模倣しているのではないのです。

そして、彼は、肉体の成長とともに、精神が成長していきます。
といいますか、本質的に「成長」という言葉が冠せられるのは、
「精神性」でしょう。

人間の成長とは、「精神性の向上」のことだと思われます。
これは、「瞑想をすべきだ」とか、そんなことではなくて、
一般的に言って、「人間の出来ている人物」になることです。(^^;ゞ

別の言葉で言いますと、
「全肯定の人」とか、「全受容の人」ということだと思います。
裏を返せば、「全託の人」ということになるのでしょう。


【78】赤ちゃんはどこから、やって来るのか?(存在は神聖?)

2005-01-19 22:38:04 | Weblog
一歳になったばかりの孫がいるのですが、「彼はどこからやってきたのか」
と考えると、不思議な気持ちになります。(^^;ゞ

今はもう、家族の一員として、あたり前の事実として存在し、
生活していますが、一年少し前には、存在しなかったわけです。

「存在」。これは、どう考えても不思議です。
いつも急に、「在ります」。
気付いたら、「在ります」。

赤ちゃんは、急に存在し始めたのではなく、
その肉体は、徐々に形成されました。
赤ちゃんが存在を始めるのに、「明確な時点」はないのです。

ステーキでもそうです。
肉の塊を焼いていくと、ある段階でステーキになるのですが、
明確な時点があるのではないのです。

生焼けでも、「ステーキ」と呼ばれ得るのです。(^^;ゞ

ねっ、「存在」って不思議でしょ。

まして、「人間の存在」って、「何」なのでしょうか?

赤ちゃんは、何処からやって来るのでしょうか?

「霊という生命体」が、赤ちゃんという肉体を用いて、
この世に現われていると考えると、解かり易いと思うのですが。

【77】「今」を意識的に楽しむ。(*^_^*)

2005-01-18 21:55:17 | Weblog
大事なことは、「今」に意識をむけておくことだと思うのです。
なぜなら、常に存在し続けるのは、「今の意識」でしかないからです。

「今、感じていること」を、その苦楽を離れて、味わう・感じる・楽しむという姿勢が大切だと思うのです。

「想い」は、常に現れては、消えてゆきます。
「意識」はその「想い」の方向性を、意図的に変えることが出来ます。
自分の「想い」に振り回されているときの『私』は、「想い」の奴隷です。

「自分の想い」を意識できれば、私は「自分の想い」を
支配下に置くことができます。

このことに気付けば、世界は作り変えられるかも知れません。(*^_^*)

と、理屈ではわかっているのですが、
すぐに、過去や未来へ、「意識」が迷い込んでしまいますね。(^^;ゞ

こういう事態に、醒めて対応しようというのが、ヴィパサナ瞑想です。

【76】私たちは、何を何と思っているのか?(精神世界だけがある)

2005-01-17 21:33:37 | Weblog
「意識」を辞書で調べてみました。(^^;ゞ
① 自分の状況が、はっきりわかる心の状態。(意識を失う)
② 目・耳などが色・声などを別々に認識するのに対し、
その対象をまとめてとらえる心の働き。(仏教)
③物事について、はっきりと気付くこと。

このように調べましても、いま「意識」を意識している私のこの「意識」が、「何」のことなのかが、私にはよく解からないのです。(^^;ゞ

自分の「人生」(生)についての感慨と同じで、「これって、何?」という感覚なのであります。私の「意識」は、何をしているのか?

なぜ、私の「意識」は、「自分の状況」がわかるのか?
でも、本当に「自分の状況」がわかっているのかというと、
それもまた、疑問ですよね。「わかっている」と思っているだけかもしれませんから。(^^;ゞ

この世には「意識」しかない。唯、「意識」しかないという意味で、
「唯識」というのですが、同じような文脈で、「この世には、
精神世界しかない」とも言えるのではないでしょうか?

そして、「精神世界しかない」ということは、とりもなおさず、
私たちが、この世(物質界・明在系)と思っているものと、
あの世(精神世界・暗在系)と思っているものは、混在しているというか、
ひとつのモノであるということなのではないでしょうか?

【75】意識の中に、肉体がある(*^_^*)

2005-01-16 20:45:10 | Weblog
『肉体の中に、意識があるのではなくて、意識の中に、肉体がある』
ということを、「白光」の先輩(女性)がこともなげにおっしゃるのを聞いたことがあります。

そのとき、鋭い指摘だと思いました。(^^;ゞ
哲学的にいえば、そうなりますよね。
事実としては、そうなっています。

少し解説しますと、「肉体と思っている」のは意識なのだから、
「意識」が、「肉体」というイメージを抱いているというのが、
真実の姿(事実)なのではないでしょうか。

ですから、『意識の中に、肉体がある』ということになる。
同様にして、意識の中には、山もあれば、川もあれば、
幽霊もいれば、損得もあり、他人も居る。(*^_^*)

すべては、意識が見ている「夢」である。
岸田秀さんの「幻想論」もそのような文脈なのではないでしょうか。
でも、「幻想」と聞くと、「幻想」の対極に「実体」があるかのように
思えますが、人間の理解することは、すべて「幻想」ですよね。

『すべての理解は、誤解である』のですよね。(^^;ゞ

それで、この「意識」って、何なのでしょうか?

【74】天命とは、「愛念を顕わす」こと

2005-01-15 22:00:30 | Weblog
「天命」というと、なにか大袈裟なイメージがありますが、
「日常生活を、しっかりと、真摯に生きる」いうことなのだと思うのです。
そして、そうすることが「神(存在)の計画」であると思うのです。

別の言い方をすれば、「天命」というのは、その人の本心(善意・愛念)を顕すことであると思います。具体的には、日常の生活や仕事を通して、この世における役目を果たすことが、「天命」なのだと思います。

そして、そういう「日常」を通して、私たち魂は、多くの学びを
経験します。「魂の学び」が、神の計画なのです。

ご存知の方もおられると思いますが、私は昨日、江原さんのサイトを見つけました。そこには、こんなことが書かれていました。

『 私たちの生きる目的は、この現世において、より多くの目覚め(霊性向上)を果たし、より高き神に帰することなのです。それはこの現世をも浄化させ、より神性をともなった、高い愛に満ちた世とすることでもあるのです。その時、世界人類が、本当の幸せを実感する時なのです。そのために今の私の活動があるのです。』
http://www.ehara-hiroyuki.jp/message/message04.html

★ このなかの、『この現世において、より多くの目覚め(霊性向上)を果たし、より高き神に帰することなのです。』が、「日常生活を通して、天命を完とうする」ということなのだと思います。

人生の目的は「霊性の向上」であり、日常のなかに「魂の学び」
があります。自分の天命を完とうするためには、自分が
霊的存在(精神)であることに気付くことが近道です。(*^_^*)

【73】他人の苦痛は、私の苦痛ではない(母の腰痛)

2005-01-14 22:13:33 | Weblog
『他人の苦痛は、私の苦痛ではない』などと書きますと、
私は、「血も涙もない人間」のように思われるかもしれませんね。(^^;ゞ
でも、そういう意味ではありません。

一昨年、母が腰痛になりまして、カイロプラクテックに行ったり、
レイキ療法や、遠離療法で治るのではないかと考えたりして、
一時期、私は暗い気持ちになっていました。
「母の腰痛」のことが、私の頭(意識)から離れなかったのです。

今、思いますと、「どうにかして治したい」という気持ち(執着)が強くて、
「母が腰痛で、苦しんでいる」という現状が認められずに、
私が苦しんでいたのだと思うのです。

現在は、幸いにも、母の腰痛は耐え切れないほどではなくなり、
ほぼ良くなって、笑顔も戻りました。
その時期は、「母の苦痛」が、「私の苦痛」になっていたのです。

今になって考えると、「母の苦痛」と「私の苦痛」は、
まったく別のことなのですが、「執着」がありますと、「どうにかしたい」という「思い」で、悩んでしまいます。

「肉体の我は、何事もなし得ず」という語句をあてはめれば、
「人事を尽くして、天命を待つ」ことしか出来ないのですが、
なかなか、そのように割り切れないのが人情です。(^^;ゞ

母には、「天命を完とうしてもらう」ことしか出来ない。
押しなべて言えば、すべての方々には、「天命を完とうしてもらう」しかないと思うのですが、…。それでは、何が「天命」なのか?(*^_^*)


【72】カルマの法則と神の意図(大調和)

2005-01-13 22:45:53 | Weblog
「カルマの法則」と「神の意図」の関係を考えてみたいと思います。

「カルマの法則」というのは、法則に従って、事象が起こっているという事なのですが、それを「カルマの法則」と知らなければ、
「起こっていることが、起こっている」としか、
私たちには捉えられません。(^^;ゞ

「神の意図」というのは、地球や、私たちの人生に対して、神(存在)はどのような「意図」を持っているのだろうかという推察の域を出ませんが、
それにしても、知りたいところですね。(^^;ゞ

それで考えられるのが、「カルマの法則」は「神の意図」であるということなのです。そのように、人生を捉えますと、解かり易いと思うのです。

私たちの歩んでいる人生を、裏側から見ますと、歩かされている。(^^;ゞ

私のイメージとしては、透明なセルロイドの上で軌跡を画いている自分の人生を思い浮かべるのですが、それを裏からみますと、私が自分で歩いていると思っている人生には、何かテーマのようなものがあると思えるのです。

「私たちは、やみくもに投げ出されている存在」ではないように思うのです。

これは、ある程度の年齢になって、おぼろげながら分かってくることかも
しれませんが、私たちは、その人生の中で、何かを成し遂げようとしていると思うのです。具体的な成功も、成し遂げられるべきことかもしれませんが、
本当は、それによって「精神の充足」を得たいのだと思うのです。

それで、どのような形で「精神の充足」を得られるのかと言いますと、
外界との「調和」によってなのではないでしょうか。

おおまかに言えば、「神の意図」は、「カルマの法則」を通じて、
私たちに「大調和」を学ばせようとしている。(*^_^*)

そして、その「大調和」は、「他人のために良いことをすること」(愛)によって、成し遂げられるという意味が人間にはあるように思うのです。(^^;ゞ

【71】「不幸な人間」はいない(問題は、自分自身が作り出している)

2005-01-12 23:00:36 | Weblog
『「不幸な人間」はいない』ということが解かると、
「問題」だと思われていたことが、消えると思うのです。

多くの場合、「問題」というのは、「私(エゴ)」が「問題」だと思っているということだと思うのです。

『問題は、自分自身が作り出している』ということです。(^^;ゞ

サイコロの一面一面で、自分の「点の数」を比較しているのが、
私たちの「エゴ」なのかも知れません。

サイコロ全体を見れば、1~6の点があって、サイコロという
全体を形成しているのにです。(^^;ゞ

全体としては、常に整っているのかも知れません。