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『知足日記』

『知足』とは、『生かされて、生きている』・『必要な物、必要な経験は与えられている』・『すべて必要。すべて良し』と知ること

【100】自分の問題としての「カルマ」(ありがたく生きる)

2005-02-12 22:46:17 | Weblog
今までの話をまとめてみたいと思うのです。
「すべては、自分の問題」と「すべての人には、カルマがある」を統合してみますと、『すべての人には、自分の問題としての「カルマ」があり、それは「消えてゆくもの」である』ということになると思うのです。

論理的に言えば、私がJさんから指摘を受けましたように、
「他人のカルマ」を語ることは傲慢であると思うのです。
ただ、自分の問題として、「自分のカルマ」について考えることは、意味のあることだと思うのです。

「カルマ」とは、「只、私が生きるべき姿」であり、そこには、そのように生きるしかない「自分との約束」があるように思うのです。

そして、「カルマ」がありながらも、「カルマ」に把われないで、あるがままに「生きる」ことが、「より善く生きること」(いのちを輝かすこと)だと思うのです。飯田史彦さんの言葉を借りば、私たちは生まれてくる前に、「自分の人生の計画」を創り上げているのだそうです。

自分の問題として「カルマ」を受け入れて「有難く生きる」ということが大切だと思うのです。(^^;ゞ

【99】交通違反の「意味」は、「結果」において与えられる

2005-02-11 20:02:54 | Weblog
交通違反で捕まりました。以前に『すべてのことには、意味がある』と書きましたので、検証してみたいと思います。(^^;ゞ

【96】で、『大抵のことは、受容出来そうです』などと話をしていたら、先日『黄色等、信号無視』の交通違反で、パトカーに呼び止められました。

斜め前の車が、黄色の信号を抜けたので、私もそれに付いて交差点を抜けたら、パトカーにサイレンを鳴らされました。(^^;ゞ
「黄色」で進入したのか、「赤」で進入したのかは微妙ですが、
「やばいタイミング」だったことは確かです。

始めは「悔しい」と思いましたが、
「問題は、自分自身の中にある」とか、「すべてのことには、意味がある」「すべては、必然である」という今までの考察を当てはめてみることにしました。

まず、「悔しい」と思った内容を書きます。
この違反は、駐車違反などの、私の意志が反映された「違反」ではなく、ほんの一瞬の判断のミスであり、その時、たまたまパトカーがいたのであり、ほんの3秒違っただけでも、その「交通違反」が成立していないと思えて「悔しかった」のです。(^^;ゞ

しかも、その車には家内が同乗しており、1,2時間まえに彼女に対して、『何かを「問題」だと感じるのは、「執着」があるからです。「あるがまま」を受け入れましょう』などと、偉そうな話をしていたので、さらに、ばつが悪く「悔しかった」わけです。(^^;ゞ

悔しかった内容は、そのようなことですが、反則金9000円と言われて、まず思ったことは、『金銭に対する執着がなければ、「悔しい」と思わないのではないだろうか?』ということです。

実際、「金銭」とは何でしょうか?
「金銭」というのは、実体が「ある」ものだと、私たちは「思い込ん」でいますが、よく観察してみると、紙幣は「実体」なのではなくて、「頭の中にある数字(金額)」に共通の価値があるから「金銭」として成り立つのです。「金銭」という概念を知らなければ、実物の「紙幣」でも単なる「紙切れ」に過ぎません。

例えば、私が9000円を払うと、私の死後に残される金額(数字)が、9000円減るというは事実です。
「9000円の損をした」というのが、普通の見方なのでしょうが、何が得で、何が損かというのは、「一概には言えない」と思うのです。

「金銭」の増減だけを観察すれば、今月の小遣いが減って「損」なのでしょうが、この「違反」のお陰で、「大きな事故」を防げたのかも知れません。

ある時点で「損をした」と思っても、結果的には「良い結果」になることは多々ありますし、何がどう作用してどうなるのかは、「結果を見ないと分からない」し、「検証のしようがない」と思うのです。(^^;ゞ

実際に、この頃の私は「黄色信号の時」に、積極的には停止していませんでしたから、「今後の教訓」になりました。(^^;ゞ

『すべての体験には、意味がある』というのは、「結果」に基いた観察だと思うのです。『すべての体験には、意味がある』ということを受容できれば、「結果的には、すべてのことには、意味がある」ということになるのだと思うのです。

「カルマ論」で考えれば、私にはその時その時間にそこで「交通違反」で捕まるカルマ(因縁)があった。それで、その事象(交通違反切符)は起こった。でもそれは、あくまでも「プロセス」である。

「カルマ」を消すために現われたのです。「消える」ために現われたのですから、消えるままにして、取り合わないでおけば良いのです。「カルマ」とそれに関する「想い」は、「消えてゆく姿」なのです。人生は「プロセス」というのは、「目的ではない」ということです。「消えてゆく姿」ということです。

その「交通違反切符というプロセス」を通じて、私がこのブログ日記に書いた内容は、「私に起きた学び」です。
「あるがまま」を受け入れ、「全託(他にすべて任せる)」するための練習課題だったのかも知れません。

しかし、その時は家内の用事だったので、反則金は彼女が出してくれることになりました。(^^;ゞ私の車を使ったので、運搬費用が安くなっていました。

それで、結局は、だれが損をしたのでしょうか?
私?家内?業者?
国庫に入った金銭は、みんなのために使われるので、
得をしたのは、私を含めた「皆んな」かな?

「交通違反切符」を通じて、私が「学べた」ことだけは確実ですね。(*^_^*)

【98】人は食べなくても生きられる

2005-02-10 21:37:37 | Weblog
先日、『不食(人は食べなくても生きられる)』山田鷹夫著(三五館)という本を読みました。ご存知かもしれませんが、その内容が衝撃的でしたので、お知らせします。

西園寺昌美さんや、村上和雄さんの語られていることとも共通するように思うのです。以下、その内容を簡単に抜粋します。

★人間は霊的に向上すると、食物ではなく「永遠の光」のよって生きられるようになる
★人間は、人間としての体験を学ぶために「食」を必要としている
★「不食」をすると、遺伝子がONになり、とてつもない機能が発揮される
 (ブッタやキリストは、この例である)
★ 不食の聖女テレーザは、食べ物によらず、神の光で生きている
 (『あるヨギの自叙伝』)
★「不食」で餓死するというのは、そのように「教えられた」からである。
★「食べない」ということは、なによりも歓びである
★病気とは、病んだ意識の物質化現象である
★「不食」で身体を癒し、心を調和化する
★「不食の体」は食品の毒からの影響を受けない
★過剰なエネルギーは身体を疲れさせる
★「食べる」と身体が痛む
★世界中の人が、「「人間は食物なしでも生きられる」ということに気付くと、
 世界中のあらゆるシステムが変化する。これは、「革命」の名に値する。


■もし、『人は食べなくても生きられる』ということが本当なら、凄いことだと思うのです。そのような視点で周りを見ますと、今までとは、まるで違った「世界」が見えます。

五井氏や昌美氏が、「世界は、一挙に変わる」と言われているのは、
このことかもしれないと思いました。
もし本当に「人間が、食物を摂ることなく生存できる」のでしたら、
食料問題も一気に解決出来ますね。

人間が食事をするのは、「趣味(楽しみ)」に過ぎないのだそうです。(^^;ゞ
山田鷹夫さんは、この三年間「不食」だそうです。
楽しみと義理で、多少は食べられるそうですが、
「遺伝子がONになった状態」を、体験されつつあるそうです。

【この書き込みとほぼ同様のものをRahiriさんの掲示版に載せました。】
http://8323.teacup.com/rahiri/bbs

★「何も食べず、何も飲まない人々」というサイトがありました。
http://x51.org/x/05/01/1506.php

オーストリア人のジャズムヒーン(Jasmuheen)という女性が書いた
"Living on light"(リビングオンライトー光に生きる)という本に、
「不食」の本と似たような事が書いてあるそうです。

彼女はヨーロッパ、タイなどで活動をし、ワークショップ等をしているそうです。

【97】「幸福」という執着(問題を問題として見ない)

2005-02-09 21:49:42 | Weblog
「問題がある」という言葉を聞きますと反射的に、「問題があるのは、悪いことだ」というような発想を私たちはしますが、その辺りに「連想化された思考の落とし穴」があると思うのです。

この連想は、『問題がある≠まちがい≠解決すべきこと』と書き表わすことが出来ます。

「問題」と思うこと自体は、「執着」によって強いられた「現実」なのです。
そのことと、「問題」が「問題」であることとは、別のことなのです。(^^;ゞ

ですから、「問題」は「問題」であるだけなのです。
その「問題」を「問題」としてみるということと、
その「問題」が「問題」であることとは、別のことなのです。(^^;ゞ

「問題」は外界にあると同時に、内面にもあるのです。

池田晶子さんの『あたりまえのことばかり』に興味深い記述があります。

『人はなぜ、幸福にならねばならないと思い込んでいるのだろうか。
幸福でなければ、何が不都合だというのだろうか。
「幸福」という概念を所有した時点で、人が必ずや不幸を所有する。』

「言葉」というのは、『裏腹なもの』なのです。
「これは、コップだ」と言う時には、これは「コップ」以外ではないという指摘をしているのです。ですから、ある状態を「幸福」というときには、
それ以外の状態は「幸福でない(不幸である)」という意味を含んでいるのです。

「幸福」という言葉で人生を語ろうとする限り、それは「囚われ(執着)」になります。

【96】人間は執着の動物である(^^;ゞ

2005-02-08 20:46:25 | Weblog
「人間は思い込みの動物である」と、以前に書きましたが、
別の言い方をすれば、「人間は執着の動物である」のです。

お金に執着している人。異性に執着している人。ブランド品やファッションに執着している人。自分の身体に執着している人。自分の感情に執着している人。自分の欲望に執着している人。自分の考えに執着している人。自分の家族に執着している人。

『人間のあらゆる行為は、「執着」によって為される』と言っても、
過言ではないかも知れません。

ですがこの文脈は、「執着は、良くない」と言っているのではないのです。
『自分の「執着」に気付きましょう』というお話なのです。(^^;ゞ

この「執着」のことを、「カルマ」というのかも知れません。
ですから、「執着」を切ると、「カルマ」が切れるのだと思います。

私の捕えている「現実」とは、『私の執着』という色メガネを通した「現実」なのです。ですから、どんなことが起こっても、「カルマ(執着)」がその「現実」をそのように見せていると理解できれば、大いなる受容に到るのかもしません。

【95】そもそも、この宇宙に「悪」は存在しない(神とは?)

2005-02-06 19:33:52 | Weblog
「善悪は存在する」と言ったり、「悪は存在しない」と言ったり、
惑わしているみたいでスイマセン。(^^;ゞ

「悪」とは、「私の意識」が「すべては一つ」という真理から遠ざかっている状態なのです。
本来は「ひとつの宇宙」なのに、その「ひとつの宇宙」を二元対立的合理思考で捕えようとするので、「すべては一つ」という真理から遠ざかってしまい、葛藤が生まれるのです。この葛藤は、『執着』と呼ばれます。

創造主と創造物はひとつのものであり、私たち一人一人は「生命全体の一部」なのです。すべては「神」なのですから、私たちも「神」なのです。

それを忘れて、自分中心の思考をするので、「すべては一つ」という真理から離れてしまい、それが「苦」を生じさせるのです。

この「すべては一つ」という真理から離れた「思い」が、「悪」なのです。
ですから、本来の「善・悪」は、具体的な行為の「良し悪し」ではなくて、
その行為がなされた動機が、「すべては一つ」という真理から離れた想いであるのか、どうかに依るのだと思います。

こういう論理の中で、よく例に出されるのが、独裁者を暗殺するのは、
「善か悪か」という問いです。(^^;ゞ

『「殺人」という行為が、許される場合があるのか?』という問いです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
★ 昨日は、ブログへの接続状況が悪く、更新出来ませんでした。(^^;ゞ
まだ、当分は、この『知足日記』を続けていくつもりですので、
宜しく、お願いします。(^^)

★基本的には、毎日、更新するつもりでいます。

【94】問題は、自分自身の中にある(問題=執着)

2005-02-04 22:20:18 | Weblog
要するに、いままでの私が言いたかったことは、
『問題は、自分自身の中にある』ということです。(^^;ゞ

「問題」はすべて、自分自身の中にあるのです。
なぜなら、その「問題」を作り出しているのは、「私の執着」だからです。
「私の執着」が取れれば、「問題」は消えます。(^^;ゞ

「問題」はすべて、「私の執着」に起因している。
「私」が「現実」と思っているものは、どこまで行っても、「私の執着」が捕えた「現実」なのです。

このことを裏からみれば、『「現実」とは、私が「執着」に気付くためのプロセス』と言うことも出来ます。(^^;ゞ

ブッタが「人生は苦だ」と言ったのは、「執着心」があると
「人生は、苦しいですよ」という意味です。

キリストが「あなた方は、罪深い」(原罪)と言ったのも、
「ものごとに執着することは、罪深い」という意味です。

どんなに立派な「教え」であっても、その「教え」に執着することは「罪(苦)」なのです。

このあたりが、「生命としての人間存在」の「いのちの立場」を、
私が推奨する理由です。

言葉や他人の人生との比較によらないで、自分の人生をながめてみたいものです。

【93】「普遍的な価値」はある。(一蓮托生)

2005-02-03 22:26:51 | Weblog
「ありうるべき夫婦像」という普遍的な価値は、あるのでしょうか?

「人間」にとって、何が普遍的な価値なのでしょうか?
「人間」には、生きるべき普遍的価値があるのでしょうか?
これらは、「哲学的な問い」と呼ばれています。(^^;ゞ

結論を言えば、「人間」は、生きるべき普遍的価値を有しています。
なぜなら、人間は「言葉」を持っているからです。

人間が言葉を持っているということは、とてつもないことです。(^^;ゞ
「善悪」という言葉を持っていなかった原始時代の人類は、
「善悪」によって、他人や自分を裁くことはありません。

言葉を有しているからこそ、自他を裁く(判断する)ということが起こるのです。

文化としての「理想の夫婦像」は民族によっても、個人によっても違いますが、「人間」はその言葉(共通イメージ)によって「理想の夫婦」という価値(言葉)があることを知っています。
そして、知っているからこそ、苦しみます。(*^_^*)

「言葉」を有している人間は、「価値」を知っているのです。
「価値」を知っていること自体が、「普遍的価値」なのです。

「普遍的価値」(善)を知っているのに、それを実践しないことが
「罪」なのです。そのあたりの「価値論的洞察」(笑)を、
人間の心情に置き換えますと「一蓮托生」ということになります。

別の言葉でいえば、「出会うところ、私が人生」・「全託」です。

このような心情(生きる覚悟)が身に着きますと、すがすがしく生きられますね。(*^_^*)

【92】夫婦はどうあるべきか?(インドにて)

2005-02-02 22:50:10 | Weblog
ヤマギシ会の拡大路線と、「団塊の世代」は密接な関係があります。
私がヤマギシ会にいた25歳位の時も、そのような「渦の中」にあり、
同世代の夫婦がたくさん居ました。(^^;ゞ

ヤマギシ会というのは思想集団(笑)なので、「夫婦とは何か?」
「男はどうあるべきか?」「女はどうあるべきか?」ということが
生活上のテーマとして、常に研鑚され、実践されていました。

私も色々と考えたのですが、「考え」というのは「分析」なので、結論としては、「~すべき」という形に成り勝ちです。それで、言葉による解釈は、「還元主義」に陥る可能性を含んでしまうのです。

「色々と考えて実践する」のも成長なのでしょうが、そのような「成長」には、何かしら「息苦しさ」を感じます。(^^;ゞ

「夫婦はどうあるべきか?」というテーマについては、ヤマギシ会を出てからも色々と考えていたのですが、27歳のときに、「ヨガ教室の先生とインドに行くツアー」に参加のがキッカケで、「問題自体」が解消しました。

ツアーバスの中で、沢山のインド人が行き交う姿を見ていて、「心のたが」がはずれる体験をしたのです。(^^;ゞ

『こんなに多くの人がいて、数え切れないほどの夫婦が、世界中にいるのに、
それらに共通する普遍的な「ありうるべき夫婦像」はない!』と思えたのです。

それで、少し気が楽になって帰国出来ました。

【91】時の流れの中の2月1日の「大雪」(時は流れ、唯、今が在る)

2005-02-01 22:48:02 | Weblog
うちは、3人の子供(2男1女)がいるのですが、
今日、娘が新居に移ったので、私たちはまた、夫婦ふたりきりになりました。ちょっと寂しいです。(^^;ゞ

51年前に、私の弟が生まれたのも2月1日で、「大雪が降った」という話を母から聞いたことがあります。その同じ日に私の娘が家を出るとは思ってもみませんでした。…という書き方は、いささか感傷的ですね。(^^;ゞ

今まで、30年間も子供たちと共に過ごしてきて、ある日ふっと「居なくなる」という感覚には、感慨深いものがあります。

いったい、「時に流れ」というのは、何なのだろうかと考え込んでしまいます。もちろん、一年経つごとに【2月1日】が繰り返しやってくるのではなく、「時間」はただ流れてゆくだけの「しろもの」です。(^^;ゞ

いや、「流れる」というのも、所詮、「言葉」(イメージ)に過ぎません。(^^;ゞ

「存在」が、「瞬間の中に在る」とでも、云いましょうか。!?
私はただ、「存在」の不思議さに、感嘆するばかりです。(*^_^*)

そうそう、「今」というのは、言葉では説明出来ないと禅僧さんが言っておられましたが、「存在」も言葉では説明出来ませんよね。

【時は流れ、唯、今が在る】という語句で人生を捉えると、あまり、寂しがらないで、「娘の不在」をやり過ごせそうです。

【90】夫婦も独身も「神の計画」(*^_^*)

2005-02-01 22:06:16 | Weblog
以前にも書きましたが、「夫婦」というのは、過去世の因縁の繋がりだと捕えると、夫婦は、「偶然」の出会いではなく、必然の繋がりということになります。それに、最近は「独身」の方が増えていますが、そのこと自体にも問題はないと思うのです。

必要があって、「神の計画」として独身なのであり、「独身」の姿で、この世での「神の計画」(必然)を遂行しているのだと思うのです。

「人口が減るので困る」などというのは、「人間(分別)の算段」でしかありません。(^^;ゞ

【89】で、「他人との食事が出来ない私」について書きましたが、その頃に出合った「家内」とは、なんの緊張もなく食事が出来たのです。(^^;ゞ

ただ、「家内」とは基本的な価値観が違うため、その後の生活は波乱万丈なものになりました。(^^;ゞ

しかし考えれば、結果的には、私はそういう「価値観の違い」があったからこそ、問題意識を持って学ぶことが出来たのです。(*^_^*)

【89】「食物」は、「私の人生」のテーマ?

2005-01-31 21:34:16 | Weblog
③ の【古代ローマ時代の小市民な貴族】の過去世の件で、「しきりに、『ローマ』という語句が浮かぶ」と言ってくれたMさんは、「オーラソーマ」のヒーラーです。
http://www.aura-soma.co.jp/index.html
http://bambinausu.exblog.jp/i0
彼女が、『宇宙家族』へ誘ってくれたお陰で、
http://osaka.cool.ne.jp/naniwa1/
私は白光真宏会を知ることが出来ました。(*^_^*)

私は小学校低学年の時まで、とても偏食で体が弱く、学校を休み勝ちな子供でした。偏食のため、給食が苦手でした。(「絶対に食べ残してはいけない」と言われていたからです。)

特に野菜が嫌いだったのですが、香りや、喉へのちょっとした刺激に対しても、嘔吐しそうになるほど神経質だったのです。ほとんどの野菜が食べられませんでした。(^^;ゞ

子供の帽子の喉にあたるゴム、中学の詰襟、カッターシャツの一番上のボタンなどの首筋へ刺激が「嘔吐」の原因になっていました。

高校や大学時代も、「食事」に対する緊張があり、友人と一緒に食事をすることが出来ませんでした。要するに他人と食事ができなかったのです。

「レストラン」で、食べ物を残す子供に腹が立ったり、「パン屋」をしていた時に、売れ残ったパンを捨てることにとても罪悪感があったりしましたが、
幸いにも、今の弁当屋の「食品のロス」は、ほぼゼロです。
それに、大嫌いだった「野菜」を調理して生計を立てているのですから、考えてみれば不思議です。(^^;ゞ

今では、「野菜」を美味しいと思えるようになりました。(^^;ゞ
学生時代に友人と旅をしていて空腹になり、その時に食べたキャベツが美味しかったのです。それ以後、「野菜嫌い」が、徐々に治ってきました。

以上が、私の「食」の経歴です。(^^;ゞ
私はこのような「食物に対する考え方の不調和」を解決するために、今世に生を受けたと考えても、考え過ぎではないように思います。(^^;ゞ

Mさんと話をしていて、このことに気付いたとき、「鳥肌」(笑)が立ちました。「私の人生のテーマが、解った」と言えば大袈裟かもしれませんが、そんな気が、すこししました。(^^;ゞ

【88】Tさんの「チャネリングアート」

2005-01-29 22:08:47 | Weblog
http://www.geocities.jp/chanering_art/index.html

その合同展を主催されていたTさんに、初めてお会いした時、彼女は
私を見て、『「平和の波動(オーラ)」を感じます』と言われました。
その5ヶ月後に、「白光」さんに出会って、「世界平和の祈り」をするようになるのだから、不思議です。(^^;ゞ)

後日、「チャネリングアート」をしてもらいました。
(後日、その絵を載せますね。)
その時のお話は、次のようなことです。
私は、娘のことと、私の将来について尋ねました。

① 「娘の結婚時期」は、当りました。(^^;ゞ
② 長男の子供で、私の将来が変わる。(こればまだ、「?」です)
③ 最後に開くべき、かたい殻があるが、それは「絵の分野」ではない。
④ 胸に、「大きなエネルギー」がある。
⑤ そのエネルギーに対して、「私」は第三の目(脳・理性)で繋がっており「娘」は、ハートで繋がっている。
⑥ 「音符」と「的(まと)」のある絵を描いてくれました。
娘も私も音楽が好きなので、将来その分野で何かをするのかも知れません。


抽象的に書いたので、「意味」が分かり難いですが、
実際には、具体的なアドバイスをしてくれます。
Tさんは、神戸や大阪を中心に活躍されています。

【87】私は、「女性運が悪い」のか(^。^?

2005-01-28 21:42:32 | Weblog
私の周りにいる女性は、家内も含めて、いわゆる「気の強い人」が多くて、
なにか自分が「ないがしろにされている」という思いがあったので、
Kさんに、『私は、「女性運が悪い」と思うのですが、』と聞いてみました。(^^;ゞ

すると、Kさんは、霊界(?)にチャネリングをする仕種をされた後、
『あなたも、女性にそうされるだけにことをしている』と言われました。(^^;ゞ

「そう言われてみると、そうかも知れない。」と思うと急に、私の心が明るくなりました。霊的に見て平等なのだとしたら、『分別心の「私」に、なんの不服がありましょうか?』という気持ちになったのです。(^^;ゞ

霊的な平等(因果の関係)や、霊的な真理の立場で考えてみると、
私はむしろ、「女性運が良い」のかもしれないと思えたのです。(^^;ゞ

「頼りない私」が浮世離れしないように、支えてくえているのが、
私の周りの「力強い女性」なのかも知れないと思えてきました。(^^;ゞ

【86】「前世療法」で因縁を切る

2005-01-27 23:01:37 | Weblog
私が、自分の過去世を知ったのは、偶然なのです。(^^;ゞ

前に書いたかもしれませんが、
私が、精神世界系の掲示版に書き込みをしていた時、私の絵手紙(彩墨画)のサイトを見て、「波動を感じる」(笑)という方が、私の弁当店(松原市)に来られたのです。それで、その方の合同展に参加させてもらうというお話になりました。

それから4ヶ月後に、共同展に参加したのですが、
私の作品を展示している場所で、「前世療法」のようなものが始まったのです。そんなことは聞いていなかったので、目が点でした。(^^;ゞ

Kさん(男性)がお客さんの前に座り、Oさん(女性)が後に立って
ヒーリングをします。過去世を見るのは、Kさんです。私は一日中、50人位(ひとり10分位)の人の過去世を霊視してヒーリングする様子を、
見学できるいう幸運に恵まれたのです。

① の【暗殺された白人の牧師】はその時に、見てもらったものです。
今、その時のノートを見ているのですが、私の頭の右側に刺さっていたのは、
「ヤリ」だそうです。(^^;ゞ
その他には、「神とつながりたがっている」とか、「頭にダイヤモンド型の
エネルギーが見えるが、先の方がかすんでいるのでクリアーにした。」
「良いイメージを描いて生活すると、その通りになってゆく」
「天のエネルギーを信じること」「肝臓に注意すること」「唾液が出難くなっているので、治した」などと書かれています。(^^;ゞ

その「前世療法」のお客さんのほとんどは女性でしたが、みなさん一様に「表情が、見違えるほど柔らかくなる」のです。涙を流す人も何人もいました。確かに皆さん、とても癒されていました。

それに、その「前世療法」は、その時が初めての企画だったそうです。
合同展の2日目、「前世療法ヒーリング」はなかったのですが、私はKさんに密着して、霊的な話をたくさん聞かせてもらいました。

例えば、「幼稚園の時から、天からの声が聞える」とか、「霊」が普通に見える話、霊界へのチャンネルの合わせ方とか、土地の浄化をしたら金星人が
お礼に来た話とか、3時間位、独占してしまいました。(^^;ゞ

その後、人数が集まってきたので、もう一度、過去世を見てもらったのが、
② の【オランダで、チューリップの品種改良に失敗した男】です。
その時は、「花の香りがしてきますね」が、第一声でした。そして、
「あなたは、神経質なところがありますね」と続き、私のオランダでの過去世が語られました。1388年の9月に、亡くなったそうです。
その男は、研究熱心でしたが、神経質だったそうです。今の「私」と似ています。(^^;ゞそういう性格を是正するための、今世生なのかも知れません。

その他のお客さんでは、「わさび」を盗んだという罪悪感の「過去世」で、
今世生の「手が荒れている」という話や、「大きな犬が苦手な理由」が、
過去世を見ることによって理解できたりしました。(*^_^*)

しかもKさんは、それらの悪い因縁を「切る」ことが出来るのだそうです。
いやむしろ、「因縁を切ること」が出来るようになったから、この「前世療法ヒーリング」を始めたのだそうです。