今までの話をまとめてみたいと思うのです。
「すべては、自分の問題」と「すべての人には、カルマがある」を統合してみますと、『すべての人には、自分の問題としての「カルマ」があり、それは「消えてゆくもの」である』ということになると思うのです。
論理的に言えば、私がJさんから指摘を受けましたように、
「他人のカルマ」を語ることは傲慢であると思うのです。
ただ、自分の問題として、「自分のカルマ」について考えることは、意味のあることだと思うのです。
「カルマ」とは、「只、私が生きるべき姿」であり、そこには、そのように生きるしかない「自分との約束」があるように思うのです。
そして、「カルマ」がありながらも、「カルマ」に把われないで、あるがままに「生きる」ことが、「より善く生きること」(いのちを輝かすこと)だと思うのです。飯田史彦さんの言葉を借りば、私たちは生まれてくる前に、「自分の人生の計画」を創り上げているのだそうです。
自分の問題として「カルマ」を受け入れて「有難く生きる」ということが大切だと思うのです。(^^;ゞ
「すべては、自分の問題」と「すべての人には、カルマがある」を統合してみますと、『すべての人には、自分の問題としての「カルマ」があり、それは「消えてゆくもの」である』ということになると思うのです。
論理的に言えば、私がJさんから指摘を受けましたように、
「他人のカルマ」を語ることは傲慢であると思うのです。
ただ、自分の問題として、「自分のカルマ」について考えることは、意味のあることだと思うのです。
「カルマ」とは、「只、私が生きるべき姿」であり、そこには、そのように生きるしかない「自分との約束」があるように思うのです。
そして、「カルマ」がありながらも、「カルマ」に把われないで、あるがままに「生きる」ことが、「より善く生きること」(いのちを輝かすこと)だと思うのです。飯田史彦さんの言葉を借りば、私たちは生まれてくる前に、「自分の人生の計画」を創り上げているのだそうです。
自分の問題として「カルマ」を受け入れて「有難く生きる」ということが大切だと思うのです。(^^;ゞ