先日、『人は食べなくても生きられる』の山田 鷹夫さんと電話でお話をする機会に恵まれました。(^^;ゞ
私が、「山田さんと同じことを、西園寺昌美さんや五井氏が言っていますよ。」と言うと、山田さんはその人の本が、今手元にあるとおっしゃるので驚きました。
数日前に、東京の読者から五井氏と西園寺さんの本が数冊贈られてきたそうです。たぶん、それらの本を贈られた方も、私と同じように思われたのだと思います。
山田さんのお考えは、「不食」をすることで「精妙体」になり、霊的に向上するというお考えなのだと思います。私は、霊的に向上することによって、自然に「不食」になると思っていました。
ですが、断食修行という言葉もあるように、「断食」はひとつの行としても成り立つのですから、「不食と霊的向上は、同時に成り立っている」ということが分かりました。
「不食」を通じて、精妙体になるのだと思うのです。
私もこの頃、「空腹」を感じなくなり、「空腹」と「食欲」が別のことであるのが分かりました。少し「物足りなさ」を感じたときも、「呼吸法の唱名」をしますと、「空腹」を感じなくなります。
私は気(プラーナ)を取り入れて、エネルギーにしているように思うのです。
体にも疲れがなく、近頃は4時間位の睡眠でも、睡眠不足を感じないのです。
『不食からのプレゼント』として、
★人は「食べる」より「食べない」ほうが正しく、それによって、「精妙体」が出現してくるのだそうです。
★4月に新しい本が、発刊されるそうです。
「呼吸法の唱名」
『食べなくても生きられる』の内容が良く纏まっている
私が、「山田さんと同じことを、西園寺昌美さんや五井氏が言っていますよ。」と言うと、山田さんはその人の本が、今手元にあるとおっしゃるので驚きました。
数日前に、東京の読者から五井氏と西園寺さんの本が数冊贈られてきたそうです。たぶん、それらの本を贈られた方も、私と同じように思われたのだと思います。
山田さんのお考えは、「不食」をすることで「精妙体」になり、霊的に向上するというお考えなのだと思います。私は、霊的に向上することによって、自然に「不食」になると思っていました。
ですが、断食修行という言葉もあるように、「断食」はひとつの行としても成り立つのですから、「不食と霊的向上は、同時に成り立っている」ということが分かりました。
「不食」を通じて、精妙体になるのだと思うのです。
私もこの頃、「空腹」を感じなくなり、「空腹」と「食欲」が別のことであるのが分かりました。少し「物足りなさ」を感じたときも、「呼吸法の唱名」をしますと、「空腹」を感じなくなります。
私は気(プラーナ)を取り入れて、エネルギーにしているように思うのです。
体にも疲れがなく、近頃は4時間位の睡眠でも、睡眠不足を感じないのです。
『不食からのプレゼント』として、
★人は「食べる」より「食べない」ほうが正しく、それによって、「精妙体」が出現してくるのだそうです。
★4月に新しい本が、発刊されるそうです。
「呼吸法の唱名」
『食べなくても生きられる』の内容が良く纏まっている
辞書に入れたいフレーズ(どんなに長くても良い)をコピーしますと、
自動的に「単語/用例登録」にそのフレーズが入っていますので、
あとは頭文字の一字を登録すれば、辞書機能が使えます。
どなたが考えたのか知りませんが、世の中には、頭の良い人がいるものですね。(^^;ゞ
ただただ、有り難いばかりです。
自動的に「単語/用例登録」にそのフレーズが入っていますので、
あとは頭文字の一字を登録すれば、辞書機能が使えます。
どなたが考えたのか知りませんが、世の中には、頭の良い人がいるものですね。(^^;ゞ
ただただ、有り難いばかりです。
ほとんどの方は、ご存知だと思うのですが、「ワードの辞書機能」について書きます。
一年ほど前、ある名前を入力する時、今後頻繁に使いそうだったので、ワードに「辞書機能」があることを思い出して、使ってみました。
それで、思いついたのが、「フレーズ辞書機能」です。
「じ」と入力するだけで、自分の「住所」を表示したり、「自分」「状態」「事実」…となんでも登録しておけるのです。
「め」と打って、メールアドレスや、「ほ」と打って「HPアドレス」に変換するのは、お茶の子再々です。「よ」と打って、「宜しく、お願いします。(^^)」などにも使えます。
「せ」と打って、「世界人類が平和でありますように!」とか。(^^;ゞ
これで、随分と文章を打つのが、省力化できました。(*^_^*)
私はこのことに、2年間も気付かなかったのです。お恥ずかしいです。
息子や娘が、言ってくれないのですもの~。(^^;ゞ
一年ほど前、ある名前を入力する時、今後頻繁に使いそうだったので、ワードに「辞書機能」があることを思い出して、使ってみました。
それで、思いついたのが、「フレーズ辞書機能」です。
「じ」と入力するだけで、自分の「住所」を表示したり、「自分」「状態」「事実」…となんでも登録しておけるのです。
「め」と打って、メールアドレスや、「ほ」と打って「HPアドレス」に変換するのは、お茶の子再々です。「よ」と打って、「宜しく、お願いします。(^^)」などにも使えます。
「せ」と打って、「世界人類が平和でありますように!」とか。(^^;ゞ
これで、随分と文章を打つのが、省力化できました。(*^_^*)
私はこのことに、2年間も気付かなかったのです。お恥ずかしいです。
息子や娘が、言ってくれないのですもの~。(^^;ゞ
『人は食べなくても生きられる』という書物に影響を受けたわけではないのですが、最近、「食欲」をあまり感じないのです。「あっても良い」「なくても良い」という心境といえば、カッコ良過ぎますますが、「一食主義」なら出来るかも知れません。(^^;ゞ
「不食」の山田さんが、「霊的向上」と「不食」の関係を述べておられましたが、思い当たることがあるのです。(^^;ゞ
と言いますのは、日課の「世界平和の祈り」なのです。今では日常でも、私の脳の中に「世界平和の祈り」の祈り言葉が、「波動」として響いているのですが、この波動が、色々な「執着」を取ってくれているように思うのです。
考えてみるとこれは当然のことでして、いつでも「世界平和の祈り」が心の中に鳴り響いているのですから、「執着」や「煩悩」が起きる暇がないのです。
「想い」が起こったら、「世界人類が平和でありますように!」と唱えるのですから、「執着」や「煩悩」が実を結ばないのです。(^^;ゞ
それで分かったのは、「世界平和の祈り」をしていると、「執着」が切れる。そして、「執着」が切れることによって、「カルマ」が消える。従って、「食欲という執着」が消えて、「不食」になるということなのではないでしょうか。私はそのように理解しました。(*^_^*)
ヴィパサナの瞑想理論から言っても、これはかなり正解に近いと思うのですが、どうでしょうか(^^;ゞ
「不食」の山田さんが、「霊的向上」と「不食」の関係を述べておられましたが、思い当たることがあるのです。(^^;ゞ
と言いますのは、日課の「世界平和の祈り」なのです。今では日常でも、私の脳の中に「世界平和の祈り」の祈り言葉が、「波動」として響いているのですが、この波動が、色々な「執着」を取ってくれているように思うのです。
考えてみるとこれは当然のことでして、いつでも「世界平和の祈り」が心の中に鳴り響いているのですから、「執着」や「煩悩」が起きる暇がないのです。
「想い」が起こったら、「世界人類が平和でありますように!」と唱えるのですから、「執着」や「煩悩」が実を結ばないのです。(^^;ゞ
それで分かったのは、「世界平和の祈り」をしていると、「執着」が切れる。そして、「執着」が切れることによって、「カルマ」が消える。従って、「食欲という執着」が消えて、「不食」になるということなのではないでしょうか。私はそのように理解しました。(*^_^*)
ヴィパサナの瞑想理論から言っても、これはかなり正解に近いと思うのですが、どうでしょうか(^^;ゞ
私は、Sさんと出会いの「奇遇さ」が不思議でならないのですが、
よく考えて見ますと、すべてのことは「奇遇」ですね(^^;ゞ
私はこれを「神(存在)の配剤」と呼んでいます。
微妙なところに、まるで「意図」したかのように人や物があると思うのです。
家内、職場の人、ネット上での出会いなどなど、多くの「奇遇」があります。「奇遇でない」のは家族ぐらいだと思っていましたが、神(存在)の立場に立てば、何処からやってきたのか分からない「家族」もまた、大いなる「配剤」、最大の「配剤」と言えます。ただ、そう言えるためには、それらのすべての「出会い」を善い事として、認められる精神がないとダメですね。
「嫌な出会い」も「学び」だと捉えられれば、「悪しき出会い」=「神(存在)の配剤」と受け取れるのでしょうね。その辺りがポイントのようです。(^^;ゞ
そして、それは、後になって気付くのが常なのです。
「そうか、あの人(事象)との出会いは、こういう意味だったのか。」という具合に、すべては結果還元主義的なのです。(^^;ゞ
「神はすべてのすべて」なのですから、私たちは良いにしろ、悪いにしろ「神(存在)の配剤」の中で生きているのです。
よく考えて見ますと、すべてのことは「奇遇」ですね(^^;ゞ
私はこれを「神(存在)の配剤」と呼んでいます。
微妙なところに、まるで「意図」したかのように人や物があると思うのです。
家内、職場の人、ネット上での出会いなどなど、多くの「奇遇」があります。「奇遇でない」のは家族ぐらいだと思っていましたが、神(存在)の立場に立てば、何処からやってきたのか分からない「家族」もまた、大いなる「配剤」、最大の「配剤」と言えます。ただ、そう言えるためには、それらのすべての「出会い」を善い事として、認められる精神がないとダメですね。
「嫌な出会い」も「学び」だと捉えられれば、「悪しき出会い」=「神(存在)の配剤」と受け取れるのでしょうね。その辺りがポイントのようです。(^^;ゞ
そして、それは、後になって気付くのが常なのです。
「そうか、あの人(事象)との出会いは、こういう意味だったのか。」という具合に、すべては結果還元主義的なのです。(^^;ゞ
「神はすべてのすべて」なのですから、私たちは良いにしろ、悪いにしろ「神(存在)の配剤」の中で生きているのです。
★「何も食べず、何も飲まない人々」というサイトがありました。
http://x51.org/x/05/01/1506.php
★ 山田鷹夫さんが、船井幸雄さんとお会いになったそうです。
(2月10日の記事です。山田さんの主張が上手く表現されています)
http://www.funaiyukio.com/hisho/index.asp
★山田さんご本人が参加している不食のBBSがあるそうです。
http://www.shiryu-music.com/treebbs/2/
露天の鷹というHNが山田さんだそうです。
オーストリア人のジャズムヒーン(Jasmuheen)という女性が書いた
"Living on light"(リビングオンライトー光に生きる)という本に、
「不食」の本と似たような事が書いてあるそうです。
彼女はヨーロッパ、タイなどで活動をし、ワークショップ等をしているそうです。
http://x51.org/x/05/01/1506.php
★ 山田鷹夫さんが、船井幸雄さんとお会いになったそうです。
(2月10日の記事です。山田さんの主張が上手く表現されています)
http://www.funaiyukio.com/hisho/index.asp
★山田さんご本人が参加している不食のBBSがあるそうです。
http://www.shiryu-music.com/treebbs/2/
露天の鷹というHNが山田さんだそうです。
オーストリア人のジャズムヒーン(Jasmuheen)という女性が書いた
"Living on light"(リビングオンライトー光に生きる)という本に、
「不食」の本と似たような事が書いてあるそうです。
彼女はヨーロッパ、タイなどで活動をし、ワークショップ等をしているそうです。
ちょっとこの頃、うっかりミスの多い私です。運転免許書が行方不明になったのです。結果的には、ベットの下から出てきたのですが、右往左往の2日間でした。(^^;ゞ
はじめの日、カバンの中に運転免許証がないことに気付きました。店に忘れたのだろうと思い、あくる日に店を探したのですが見つからないのです。焦りました。「紛失して悪用されたら、大変だ」と想像したからです。(^^;ゞ
それで、立ち寄ったレストランにも電話をしましたが見つかりません。
それで再度、私の部屋を探したところ、ベットの下から出てきたのです。
何かの拍子に入り込んだようです。(^^;ゞ
「運転免許証は、失われていなかった」と家内に言ったら怒られました。(^^;ゞ「人騒がせ!」だというわけです。「なるほど」とは思いますが、私にも釈明をさせてください。(^^;ゞ
「運転免許証」は、私の部屋の中にあったのですから、「失われて」いなかったのです。私の所有するの物が、私のコントロールできない状態にあっただけなのです(屁理屈です(^^;ゞ)。それを一般的には「紛失」と言いますが、本来『所有』というのは観念なのですから、私も、運転免許証もそれぞれに存在している『それはそれ』でしかないのです。「所有」というのは、ある種の「執着」から生まれた観念(概念)だと思うのです。
私は「悪用されたら、大変だ」と想像しましたが、それはイメージです。
そのように思うことと、「運転免許証」が運転免許証として何処かにあることとはなんの関係もありません。(「事実」と「想い」の分離)
「本来、失われるべきモノは何もない」と洞察できれば、
右往左往することなく、やるべきことをやれば良いだけの話なのです。
それなのに家内が、「この頃のあなたは、ボーとしている」などと、個人的印象によって創作された「因果関係」(?)を押し付けて決め付けるので、口論になるのです。(^^;ゞ
事物と観念は別の「事象」なのに、「事実」と「観念」を混同するから「原理主義的争い」(笑)になるのです。(^^;ゞ
『何事も、語り得ない』というのが、真実のようです。(*^_^*)
はじめの日、カバンの中に運転免許証がないことに気付きました。店に忘れたのだろうと思い、あくる日に店を探したのですが見つからないのです。焦りました。「紛失して悪用されたら、大変だ」と想像したからです。(^^;ゞ
それで、立ち寄ったレストランにも電話をしましたが見つかりません。
それで再度、私の部屋を探したところ、ベットの下から出てきたのです。
何かの拍子に入り込んだようです。(^^;ゞ
「運転免許証は、失われていなかった」と家内に言ったら怒られました。(^^;ゞ「人騒がせ!」だというわけです。「なるほど」とは思いますが、私にも釈明をさせてください。(^^;ゞ
「運転免許証」は、私の部屋の中にあったのですから、「失われて」いなかったのです。私の所有するの物が、私のコントロールできない状態にあっただけなのです(屁理屈です(^^;ゞ)。それを一般的には「紛失」と言いますが、本来『所有』というのは観念なのですから、私も、運転免許証もそれぞれに存在している『それはそれ』でしかないのです。「所有」というのは、ある種の「執着」から生まれた観念(概念)だと思うのです。
私は「悪用されたら、大変だ」と想像しましたが、それはイメージです。
そのように思うことと、「運転免許証」が運転免許証として何処かにあることとはなんの関係もありません。(「事実」と「想い」の分離)
「本来、失われるべきモノは何もない」と洞察できれば、
右往左往することなく、やるべきことをやれば良いだけの話なのです。
それなのに家内が、「この頃のあなたは、ボーとしている」などと、個人的印象によって創作された「因果関係」(?)を押し付けて決め付けるので、口論になるのです。(^^;ゞ
事物と観念は別の「事象」なのに、「事実」と「観念」を混同するから「原理主義的争い」(笑)になるのです。(^^;ゞ
『何事も、語り得ない』というのが、真実のようです。(*^_^*)
このブログ日記を始めてから3ヶ月位です。現在、私の書きたかった事の基本的なところは、ほぼ書き終えたと思っています。
題名に番号が付いているのは、番号順に読んでもらった方が分かり易いと思うからです。少し量が多いですが、是非、「全体」を読んでみてください。
今後は、もう少し具体的なことや、突っ込んだ話をざっくばらんに書いていきたいと思います。今後とも、宜しくお願いします。(*^_^*)
★見やすい形で、無料の簡単なHPに『知足日記』をまとめようと思うのですが、
ないか良い方法がありましたら、お教えください。(^^;ゞ
題名に番号が付いているのは、番号順に読んでもらった方が分かり易いと思うからです。少し量が多いですが、是非、「全体」を読んでみてください。
今後は、もう少し具体的なことや、突っ込んだ話をざっくばらんに書いていきたいと思います。今後とも、宜しくお願いします。(*^_^*)
★見やすい形で、無料の簡単なHPに『知足日記』をまとめようと思うのですが、
ないか良い方法がありましたら、お教えください。(^^;ゞ
初めてディズニーランドに行ったのは、10年以上前だと思うのですが、
その時のカルチャーショックを今でも覚えています。(^^;ゞ
それまでの私は、「どのように生きたらよいのか」という悩みを抱えていた青年(笑)だったのですが、ディズニーランドに入場するやいなや、そこが「楽しむための空間」であることに気付いたのです。(あたり前ですが(^^;ゞ)
その時ふっと思ったのは、「人生」もディズニーランドと同じように、「楽しむための空間」なのかも知れないということです。(^^;ゞ
『私は、楽しむためにこの世にやって来た』と思えたのです。
それ以前の私は、「考え込んでしまう」性格のために「暗かった」のです。(^^;ゞ
その時のカルチャーショックを今でも覚えています。(^^;ゞ
それまでの私は、「どのように生きたらよいのか」という悩みを抱えていた青年(笑)だったのですが、ディズニーランドに入場するやいなや、そこが「楽しむための空間」であることに気付いたのです。(あたり前ですが(^^;ゞ)
その時ふっと思ったのは、「人生」もディズニーランドと同じように、「楽しむための空間」なのかも知れないということです。(^^;ゞ
『私は、楽しむためにこの世にやって来た』と思えたのです。
それ以前の私は、「考え込んでしまう」性格のために「暗かった」のです。(^^;ゞ
私たちの日常は、「批判、非難、評価」のオンパレードですが、
何事に対しても「批判、非難、評価をしない」ことが「神(存在)の心」なのだそうです。
といいますか、想念が停止(瞑想)しますと、「批判、非難、評価」をすることが出来ません。「批判、非難、評価」をしなければ、争いは起きようがありません。心が「あるがまま」の世界を見ているので、「神(存在)の心」になっているのです。
相手を変えようと思って、批判、非難、評価をしているうちは、決して相手は変わりません。(^^;ゞ
私の「批判、非難、評価」が止んだ時に、相手は自分の執着に気づき、自分の力で変わるのです。
具体的には、『慈悲の瞑想』で接する方法があります。
「○○さんが、しあわせでありますように!」という「祈り心」で、
相手に接するのです。その時には、「批判、非難、評価」が止んでいるのです。
何事に対しても「批判、非難、評価をしない」ことが「神(存在)の心」なのだそうです。
といいますか、想念が停止(瞑想)しますと、「批判、非難、評価」をすることが出来ません。「批判、非難、評価」をしなければ、争いは起きようがありません。心が「あるがまま」の世界を見ているので、「神(存在)の心」になっているのです。
相手を変えようと思って、批判、非難、評価をしているうちは、決して相手は変わりません。(^^;ゞ
私の「批判、非難、評価」が止んだ時に、相手は自分の執着に気づき、自分の力で変わるのです。
具体的には、『慈悲の瞑想』で接する方法があります。
「○○さんが、しあわせでありますように!」という「祈り心」で、
相手に接するのです。その時には、「批判、非難、評価」が止んでいるのです。
「動かなければ、出会えない」という言葉が好きです。
老若男女を問わず、自分のやってみたいことをするのが、自分のいのちを輝かせる方法だと思うのです。
そして出来れば、その「自分の好きなこと・やりたいこと」を通して、他人を幸せにすることが出来ればいいですね。
誰にでも、「好きなこと・得意なこと・やりたいこと」があります。そして、その「好きなこと・得意なこと・やりたいこと」は神(存在)から与えられた才能(天命)だと思うのです。
情熱をかたむけて取り組めば、それを通じて、自分が生かされる道が見えてきます。もっと単純に、人間は『自分はこうしたい』という気持ちのために「生きている」と考えてもいいのかも知れません。(^^;ゞ
老若男女を問わず、自分のやってみたいことをするのが、自分のいのちを輝かせる方法だと思うのです。
そして出来れば、その「自分の好きなこと・やりたいこと」を通して、他人を幸せにすることが出来ればいいですね。
誰にでも、「好きなこと・得意なこと・やりたいこと」があります。そして、その「好きなこと・得意なこと・やりたいこと」は神(存在)から与えられた才能(天命)だと思うのです。
情熱をかたむけて取り組めば、それを通じて、自分が生かされる道が見えてきます。もっと単純に、人間は『自分はこうしたい』という気持ちのために「生きている」と考えてもいいのかも知れません。(^^;ゞ
このブログ日記は、自分が今までに学んできたことを、検証しながら書いています。出来るだけ批判的な視点で考察しているつもりなのですが、
「信じる」という要素が入ってきますと、なかなかそのようにいかない場合もあります。
それで出来ましたら、疑問や批判的な書き込みもお願いしたいのです。(^^;ゞ
「疑問点」をあげてもらいますと、問題点が浮き彫りになりますし、私の理解の助けにもなるのです。
★たとえば、『大難が、小難になった』ことは、どのように証明するのか?
(証明出来ません。(^^;ゞそのように思うことのなかで、解決されています。)
たんぽぽさんのコメントを読ませて戴いて、そのようなことを考えました。
tisokunaito@aol.com
「信じる」という要素が入ってきますと、なかなかそのようにいかない場合もあります。
それで出来ましたら、疑問や批判的な書き込みもお願いしたいのです。(^^;ゞ
「疑問点」をあげてもらいますと、問題点が浮き彫りになりますし、私の理解の助けにもなるのです。
★たとえば、『大難が、小難になった』ことは、どのように証明するのか?
(証明出来ません。(^^;ゞそのように思うことのなかで、解決されています。)
たんぽぽさんのコメントを読ませて戴いて、そのようなことを考えました。
tisokunaito@aol.com
『人は食べなくても生きられる』の中に下記のように記述があります。
ギリバラという女性の行者は、
①『人間は霊的に向上するにつれて、食べ物ではなく、「永遠の光」によって生きられるようになる』と語っています。
また、山田鷹夫さんは
②『不幸や飢え、病気、死は学びとして必要だっただけである。人間の学びのために、それらはあった。それ以上の存在理由はない。
それらの存在を許したのは神の愛である。どれほどの悲惨も、飢餓死も、病気の理由も、死という絶望も人間のためにセットされたものだった。
人間の栄光のためにのみ悲惨は存在を許された。人間の高貴さと栄光を体現するために人生のいたるところに巧妙にセットされたものなのである。』
と述べておられます。
② の文章は、「人類即神也の宣言文」ととてもよく似ています。
すなわちどちらも、「すべての苦」は、真理に気付くためのプロセスだと語っているのです。
また①も、とても重要な記述だと思うのです。
「不食」というのは、単に「人間は食べなくても生きれますよ」ということではなく、「不食」であるためには、「自分の執着に気付き、離れる」という霊的な向上が必要だということのです。
「食」にこだわるのは、「自分の幻想としての苦」を体験することのようです。(^^;ゞ
ギリバラという女性の行者は、
①『人間は霊的に向上するにつれて、食べ物ではなく、「永遠の光」によって生きられるようになる』と語っています。
また、山田鷹夫さんは
②『不幸や飢え、病気、死は学びとして必要だっただけである。人間の学びのために、それらはあった。それ以上の存在理由はない。
それらの存在を許したのは神の愛である。どれほどの悲惨も、飢餓死も、病気の理由も、死という絶望も人間のためにセットされたものだった。
人間の栄光のためにのみ悲惨は存在を許された。人間の高貴さと栄光を体現するために人生のいたるところに巧妙にセットされたものなのである。』
と述べておられます。
② の文章は、「人類即神也の宣言文」ととてもよく似ています。
すなわちどちらも、「すべての苦」は、真理に気付くためのプロセスだと語っているのです。
また①も、とても重要な記述だと思うのです。
「不食」というのは、単に「人間は食べなくても生きれますよ」ということではなく、「不食」であるためには、「自分の執着に気付き、離れる」という霊的な向上が必要だということのです。
「食」にこだわるのは、「自分の幻想としての苦」を体験することのようです。(^^;ゞ
昨年の12月から、行(ぎょう)の一つとして、「人類即神也」の宣言文を円形マンダラに書いています。
「人類即神也の宣言文」とは、下記のようなものです。
『私が語ること、想うこと、表わすことは、すべて人類のことのみ。人類の幸せのみ。人類の平和のみ。人類が真理に目覚めることのみ。
故に、私(わたくし)個(こ)に関する一切の言葉、想念、行為に私心なし、自我なし、対立なし。すべては宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり。
地球上に生ずるいかなる天変地変、環境汚染、飢餓、病気……これらすべて「人類即神也」を顕(あらわ)すためのプロセスなり。
世界中で繰り広げられる戦争、民族紛争、宗教対立……これらも又すべて「人類即神也」を顕すためのプロセスなり。
故に、いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず。
私は只ひたすら人類に対して、神の無限なる愛と赦しと慈しみを与えつづけ、人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで、人類一人一人に代わって「人類即神也」の印を組みつづけるのである。』
http://www.byakko.or.jp/1_about/teaching.html
この中の『人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで』という語句を書いて、ふっと思ったのは、人類すべてが真理に目覚めなければ、「世界の平和」は来ないのではないかということです。
この場合の「真理」というのは、「私たちは、思い込み(執着)の動物である」という理解です。
「世界平和」と聞きますと、なんとなく、戦争や争いのない社会で人々が「和気あいあいと生活している状態」を連想しますが、そういう状況というのは、他から与えられるものではなく、ひとり一人の「こころ」が、状況に関らず「平穏・平和」になることが必要なのであり、人類全体が「何事にも把われない心情」になってこそ、「真の世界平和」が訪れるように思えたのです。
しかし具体的には、自分自身の心を「平穏・平和」にするしか方法はないのでありまして、そのための方法の一つが「瞑想」なのだと思うのです。
といいますか、「自分の心が、平穏・平和」であることこそが、
唯一、全世界が「平穏・平和」であることなのだと思うのです。
「人類即神也の宣言文」とは、下記のようなものです。
『私が語ること、想うこと、表わすことは、すべて人類のことのみ。人類の幸せのみ。人類の平和のみ。人類が真理に目覚めることのみ。
故に、私(わたくし)個(こ)に関する一切の言葉、想念、行為に私心なし、自我なし、対立なし。すべては宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり。
地球上に生ずるいかなる天変地変、環境汚染、飢餓、病気……これらすべて「人類即神也」を顕(あらわ)すためのプロセスなり。
世界中で繰り広げられる戦争、民族紛争、宗教対立……これらも又すべて「人類即神也」を顕すためのプロセスなり。
故に、いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず。
私は只ひたすら人類に対して、神の無限なる愛と赦しと慈しみを与えつづけ、人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで、人類一人一人に代わって「人類即神也」の印を組みつづけるのである。』
http://www.byakko.or.jp/1_about/teaching.html
この中の『人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで』という語句を書いて、ふっと思ったのは、人類すべてが真理に目覚めなければ、「世界の平和」は来ないのではないかということです。
この場合の「真理」というのは、「私たちは、思い込み(執着)の動物である」という理解です。
「世界平和」と聞きますと、なんとなく、戦争や争いのない社会で人々が「和気あいあいと生活している状態」を連想しますが、そういう状況というのは、他から与えられるものではなく、ひとり一人の「こころ」が、状況に関らず「平穏・平和」になることが必要なのであり、人類全体が「何事にも把われない心情」になってこそ、「真の世界平和」が訪れるように思えたのです。
しかし具体的には、自分自身の心を「平穏・平和」にするしか方法はないのでありまして、そのための方法の一つが「瞑想」なのだと思うのです。
といいますか、「自分の心が、平穏・平和」であることこそが、
唯一、全世界が「平穏・平和」であることなのだと思うのです。