歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

栗東市・下鈎遺跡 弥生時代の青銅製環状分銅(環権)か

2019年05月24日 | Weblog
 滋賀県栗東市教育委員会が23日、弥生時代の環濠集落として知られる下鈎(しもまがり)遺跡(栗東市)で、20年前に出土した弥生時代後期後半(2世紀後半)の青銅品1点が、天秤ばかりに用いるリング状の分銅「環権」である可能性が高いことが分かったと発表した。青銅製環権は中国や韓国では墓に副葬された例があるが国内で見つかるのは初めて。
 下鈎遺跡では青銅器や赤色顔料「水銀朱」を生産しており、青銅の配合、朱の計量など精密な計量に用いたのだろうとしている。弥生時代に度量衡制度が伝わっていたことを示す史料となる。
 これまで亀井遺跡(大阪府八尾市など)などで天秤用の円柱状の石製分銅が、原の辻遺跡(長崎県壱岐市)では、竿秤(さおばかり)に吊り下げる青銅製分銅(弥生後期)が出土している。
 1999年に実施した発掘調査で、この青銅品(外径12.7cm、内径11.25cm、厚さ0.7cm)は弥生時代後期の川底跡から土器片や銅鏃と一緒に出土した。腕輪の「銅釧」(直径5cm)としては大きすぎるため、用途は不明で「銅環(どうかん)」と仮称されてきた。
 2017年ごろから調査し、韓国昌原市の茶戸里遺跡1号墓(紀元前1世紀)で出土した青銅製環権と重さを比較した。青銅品は重さが89.3g。茶戸里で出土した大小3点の環権と2の累乗倍という質量の法則と類似性が見られ、また、平たん面もあり積み重ねに適した形状から、分銅の可能性が高いと判断した。最大の環権(22.73g)の約4倍に当たるという。形状から中国か朝鮮半島で生産されたと考えられるという。
 5月25日~7月15日に栗東歴史民俗博物館(同市小野)で展示される。
[参考:共同通信、朝日新聞、毎日新聞、京都新聞、産経新聞、BBC びわ湖放送]

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 下鈎遺跡
 分銅
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阿南市・若杉山遺跡 水銀朱の原料となる辰砂の坑道跡を最古となる弥生後期と確認

2019年03月01日 | Weblog
 阿南市と徳島県教委が1日、赤色顔料「水銀朱」の原料となる「辰砂(しんしゃ)」が採取されていた若杉山遺跡(阿南市水井町)の坑道跡が、土器片の年代から弥生時代後期(1~3世紀)の遺構と確認されたと発表した。
坑道跡は太龍寺山(たいりゅうじざん、標高618m)の斜面・標高約250mにあった横穴。全長12.7m、高さ0.7~1.2m、幅3m。
 これまで最古とされてきた山口県美祢(みね)市の長登(ながのぼり)銅山跡の坑道(8世紀)を約500年さかのぼり、国内最古の坑道という。
[参考:共同通信、読売新聞、毎日新聞、朝日新聞]

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若杉山遺跡


徳島に国内最古の坑道 弥生土器出土、朱を採掘

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阿南市・加茂宮ノ前遺跡 縄文後期の「水銀朱」関連遺物が大量に出土

2019年02月19日 | Weblog
 徳島県教育委員会が18日、阿南市加茂町宮ノ前の加茂宮ノ前遺跡で、「水銀朱」(赤色顔料)を生産したとみられる縄文時代後期(約4千~3千年前)の大量の水銀朱関連遺物が出土したと発表した。水銀朱の生産の始まりが縄文時代にまでさかのぼることが明らかになったとしている。
 縄文時代後期の集落が確認され、円形配石遺構(ストーンサークル)のほか、石臼や石杵(きね)300点以上のほか、朱が塗られた耳飾、土器や原料となる辰砂原石など大量の水銀朱関連遺物が出土した。
 円形配石遺構も16基見つかった。 直径約1~3mで、石が敷き詰められており、祭祀用とみられる。
 三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の朱の原石や朱が付着した土器が見つかっているが、水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多とする。
 現地説明会が、23日(土) 10:00からと13:00からの2回(各1時間半)開催される。
[参考:共同通信、産経新聞、読売新聞、徳島県立埋蔵文化財総合センターHP]

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加茂宮ノ前遺跡
水銀朱


徳島、縄文の「朱」生産遺跡 石臼や赤い耳飾りも
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阿南市・若杉山遺跡 赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂を採掘していた坑道を発見

2018年02月01日 | Weblog
 徳島県と阿南市教委は31日、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての若杉山遺跡(阿南市水井町)で赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂(しんしゃ)を採掘していた坑道が太龍寺山(標高618m)の斜面・標高約250mの地点から見つかったと発表した。
 入り口付近から辰砂が付着した石22点の他、採取に使ったとみられる石杵なども見つかった。
[参考:徳島新聞、共同通信、産経新聞、読売新聞、毎日新聞]

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 若杉山遺跡



<若杉山遺跡>「辰砂」採掘の坑道跡 奥行き14メートル、横穴発見 阿南 /徳島
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阿南市・加茂宮ノ前遺跡 1~3世紀の水銀朱の精製工房跡か?

2017年02月25日 | Weblog
 徳島県教委と県埋蔵文化財センターは22日、阿南市加茂町大西の加茂宮ノ前遺跡で見つかった弥生時代中期後半~古墳時代前期初頭(1~3世紀)の竪穴住居跡の内外から、赤色顔料の水銀朱が付着した石器15点と、水銀朱の原料の辰砂原石10点が出土したと発表した。
遺跡の南西約5kmには辰砂の採掘遺跡として全国で唯一確認されている若杉山遺跡があり、同遺跡に関連する水銀朱の精製工房跡とみている。
 25日(土)午後1時から現地説明会が開かれる。
[参考:徳島新聞、朝日新聞]

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 若杉山遺跡

<阿南・加茂宮ノ前遺跡>顔料精製の石器出土 「水銀朱産地の可能性」 県教委など /徳島
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大和郡山市・八条北遺跡 縄文人が身につけた耳栓が2個出土

2015年07月07日 | Weblog
 橿原考古学研究所が6日、大和郡山市八条町の八条北遺跡で集落のそばを流れる当時の川の中からで縄文人が身につけた土製の耳栓(じせん、耳飾り)が2個出土したと発表した。
 耳栓は鼓形で中央に穴があいたリング状。 大きさは、直径4cm、高さ1・5cm、重さ21gと直径3・7cm、高さ1・5cm、重さ19g。粘土を成形して焼き固め、表面に水銀朱を混ぜた朱漆(しゅうるし)を塗って仕上げていた。
 一緒に出土した土器から縄文時代後期後半(紀元前1500-1000)に使われたとみられる。
 耳栓は縄文時代中期(紀元前3000年)ごろから使われるようになり、東日本の遺跡を中心に数多く出土しているが、近畿ではこれまでに約100個ほどしか見つかっていない。県内では橿原遺跡(橿原市)など8遺跡で18個出土しており、今回分を含めると計20個になった。
 年齢とともに徐々に大きなものを装着し、魔よけや、集落でのステータスを表したものとみている。
18日から橿考研付属博物館(橿原市)で始まる発掘調査速報展「大和を掘る」で展示される。
[参考:読売新聞、産経新聞、毎日新聞、朝日新聞、奈良新聞、橿原考古学研究所HP]

<コメント>
 石の切目に耳たぶを挿し入れ、回転させて耳たぶにあけた穴にひっかける「けつ状耳飾」(玦状耳飾)というものもある。
<参考>
 けつ状耳飾
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新潟県胎内市・城の山古墳 未盗掘の古墳から畿内的要素を持つ副葬品が出土

2012年09月06日 | Weblog
 胎内市教委は6日、同市大塚にある4世紀前半の城(じょう)の山古墳(東西41m、南北35m、高さ5mの楕円墳)から、長大な舟形木棺や弓(注1)、靫(ゆぎ)(注2)、刀剣、銅鏡、勾玉、管玉、ガラス玉、大刀、銅鏃、鎗、鉇(やりがんな)、斧などの副葬品100点以上が未盗掘の状態で出土したと発表した。 城の山古墳は同時期の古墳では日本海側で最も北にある。 北部日本海側では例のない、ヤマト政権期の畿内的要素を持っており、市教委は「初期ヤマト政権と同盟関係にあった王の墓」とみている。
 大和政権の直接的な影響が及んだ範囲はこれまで、石川県能登半島の国分尼塚1、2号墳(七尾市)や雨の宮古墳群(中能登町)が北限と考えられてきた。
 今春より、古墳上部にある長さ約10.5m、幅約5mの墓坑の調査を行っていた。
 主体部から長さ8m、幅1・4~1・8mの舟形木棺が見つかった。人骨片も残り、頭部を北東に向け、木棺やそれを覆う粘土には多量の赤色顔料(水銀朱とベンガラ)がまかれていた。
 副葬品には小型銅鏡(直径9cm)や大刀(長さ67cm)、ヒスイの勾玉、凝灰岩製管玉、ガラス玉、銅鏃など畿内の古墳にみられる遺物が残っていた。靫は黒漆塗りだった。 築造時期は4世紀第2四半期(316年-330年)とみられる。
 現地説明会が8、9両日の午前10時と午後1時に開かれる。

(注1)弓は2張が見つかっており、黒と赤の漆の塗料が付着していた
(注2)靫は革製で表面には刺繍で描かれた菱形の模様が残っていた。塗られていた黒漆も確認された。
[参考:産経新聞、時事通信、共同通信、毎日新聞、朝日新聞]

大和政権、新潟まで影響力? 城の山古墳から銅鏡や勾玉(朝日新聞) - goo ニュース



キーワード: 城の山古墳、槍鉋、やりがんな、ヤリガンナ

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久留米市・水分遺跡 2~3世紀の住居跡から水銀朱が付着した土器の鉢などが出土

2011年11月18日 | Weblog
 久留米市は17日、同市田主丸町常盤の水分遺跡(みずわけいせき)から、弥生時代後期(2~3世紀)の17棟分の竪穴式住居跡や二重環濠の一部(幅2・6m、深さ60cm)を発見したと発表した。 住居跡の一つからは、赤色顔料の水銀朱やベンガラがまとまって見つかったほか、顔料加工に用いたとみられる土器製の鉢2点やガラス製の勾玉1点、小玉238点、さらに鉄・銅・骨製の矢尻などがまとまって出土した。 住居跡17棟のうち9棟で赤色顔料を確認したという。
 赤色顔料が入った鉢などが見つかった住居跡は縦5・8m、横5m、深さ60cm。中央に炉の跡があり、周辺には大量の土器などが散在していた。
 見つかった2点の鉢(縦39cm、幅26cm)は、焼成後の甕を縦に二つ割りにした1対で、それぞれの切削面が合致する。中には水銀系の赤色顔料が入っていた。
 焼成後の甕を切削して二つの鉢として利用した例は極めて珍しいという。当時、赤色顔料は祭祀に利用されたもので、見つかった住居跡には祭祀に使う品物をまとめて保管していたらしい。 交易などの形で朱を扱う集団の集落だった可能性があるとしている。
 現地説明会が23日午前10時から開かれる。
[参考:西日本新聞、共同通信、毎日新聞]
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徳島市・犬山天神山古墳 石棺から水銀朱で彩色された埋葬骨を発見

2011年09月08日 | Weblog
 徳島県埋蔵文化財センターは8日、徳島市八万町の犬山天神山古墳から新たに4基の箱式石棺と、うち1基から残り具合が良好な身長150cm程度の50代後半以上とみられる女性の埋葬人骨(5世紀後半)を発見したと発表した。 この女性の顔面から胸にかけてと、石棺の床面には赤色顔料の水銀朱が塗られていた。 祭祀を執り行ったシャーマンや女性家長とみられるとしている。
 石棺はいずれも全長約1・9m、幅約0・4mで阿波の青石を使った「阿波式石棺」。
 既に発見された石棺1基を含めて、5体の人骨が出土した。
 現地説明会は10日(土)午前10時~12時に開かれる。
[参考:産経新聞、読売新聞、毎日新聞、徳島新聞、徳島県埋蔵文化財センターHP]

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2011.6.24および6.26
 徳島県埋蔵文化財センターは、犬山天神山古墳から、箱式石棺2基を埋葬施設とする古墳時代中期(約1550~1500年前)の方墳(一辺が推定16m)が見つかったと発表した。
 石棺は阿波の眉山北側で産出されたとみられる青石を使った「阿波式石棺」で1基は全長2.2m、幅0.7m。もう1基は全長2.4m、幅0.7m。
 また、墳丘東側に幅2m、深さ1mのくびれた部分があり、一部に葺石が積まれていた。
 25日に現地説明会が開かれた。
[参考:徳島新聞]

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桜井茶臼山古墳 全面を朱で彩った石室を60年ぶり発掘し一般公開 

2009年10月22日 | Weblog
 奈良県立橿原考古学研究所が22日、桜井茶臼山古墳(3世紀末~4世紀前半、前方後円墳、全長200m)で全面を朱で彩った石室が約60年ぶりに確認され公開した。
 大王クラスの墓の中心部が明らかになるのは極めてまれで、竪穴式石室は内寸で長さ6・75m、幅約1・27m、高さ約1・71m。石室内の四方の壁は板石(幅50~60cm、最大長1m、幅80cm、厚さ12cm)1千枚以上をレンガのように整然と積み重ねて構築し、天井は12枚の巨石(最大長2.75m、幅76cm、厚さ27cm)を乗せて塞いでいた。石はすべての面に朱が塗られており、水銀朱をふんだんに、少なくとも200kg使っている。魔除けや防腐のためとみられる。水銀朱は、大和(奈良県)で産出した辰砂(しんしゃ)という硫化水銀の鉱物を粉状にすりつぶして水に溶かしたのち、石材に塗ったとみられる。国内の古墳で使われた水銀朱は、これまで大和天神山古墳(天理市)で確認された42kgが最多とされていた。
 石室内に残っていた木棺は、ほぼ当時の状態で残っていた。長さ4.89m、厚さ27cm、丸太を刳りぬいた形で遺物はなかった。木棺は石室から取り出し、橿考研で保存処理している。
 1949~50年同研究所の発掘調査で石室と木棺は見つかっていたが、当時は一部の研究者が確認しただけで公開されていなかった。石室構造などの解明を目指し、今年から再調査を進めていた。
 石室内からは、被葬者の権力を推定するのに役立つ銅鏡片なども多数出土しており、整理を進めている。
 現地見学会が、29~31日(午前10時~午後3時)に開かれる。
[参考:共同通信、毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、産経新聞]

全面朱塗り、大王の石室を確認 奈良・桜井茶臼山古墳(共同通信) - goo ニュース
全面朱塗りの石室出土 大王の墓?奈良・桜井茶臼山古墳(朝日新聞) - goo ニュース
水銀朱で魔よけ、桜井茶臼山古墳の石室公開(読売新聞) - goo ニュース

過去のニュース
 桜井茶臼山古墳

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木津川市・上津遺跡 泉津の大蔵省施設(コンテナターミナル)跡か

2009年09月17日 | Weblog
 木津川市教育委員会が16日、奈良時代に河川港の「泉津(いずみのつ)」として栄えた上津(こうづ)遺跡(同市木津宮ノ裏)で、建物跡から、奈良時代後期(8世紀後半)の漆が付着した壺や甕の土器片が出土したと発表した。
 当時、漆は税物の「調」の一つで国家に納められていた。地方から港に集められた漆を荷揚げし、甕に移すなどして管理・配分していたとみられ、市教委は「平城京にあった大蔵省の出先機能を持つコンテナターミナルだった可能性が高い」としている。
 市教委によると、発掘は、御霊神社北側の木津川堤防べり約100㎡で、8月から行った。直径15~30cmほどの掘立柱跡が約50見つかり、配置から、2棟以上の倉庫があったとみられる。今回新たに見つかった倉庫群とみられる掘っ立て柱建物跡から、内側に漆の付いた須恵器の長頸壺(ちょうけいこ)約20個分、甕(高さ、幅各40~50cm)3個分を確認した。製塩土器の破片や税物だった水銀朱が付いた須恵器もあった。人名の一部とみられる「足」と記された墨書土器もあった。
 長頸壺は高さ22~30cm、胴の直径が18cm前後で、最大約2ℓの容量があった。いずれも頸部が切り落とされ、胴部が割れていた。
 壺の形状は数タイプあり、北陸や山陰などさまざまな産地から漆が運ばれてきたこともうかがわせた。
 市教委は、当時の役人が漆を検査後、この建物で一部を貯蔵用の甕に移し替えて管理。ほかの役所にも配分し、仏像制作などに利用したとみている。
 現地説明会は20日午前10時と午後1時から行われる。
[参考:共同通信、産経新聞、京都新聞、読売新聞]


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守山市・下之郷遺跡 正倉院の宝物「椰子実」そっくりのココヤシ製人面付き容器

2009年04月24日 | Weblog
 市教委は24日、環濠集落跡「下之郷遺跡」の出土品で、熱帯原産のココヤシの実の殻を加工して人の顔に見立てた容器が、奈良・正倉院に伝わる宝物「椰子実」と似た造形とわかり発表した。
 弥生時代中期後半(約2200年前)の遺物とみられ、弥生時代のココヤシの出土例としては、長崎県の原ノ辻遺跡(弥生時代中期)の笛、神戸市の玉津田中遺跡(同)の容器があるが、人面を模したココヤシ製の容器としては国内最古。正倉院蔵「椰子実」は、少なくとも平安時代終わり頃からあるというから、それより1000年以上遡ることになる。
 東南アジアやオセアニアには容器を人面の形に装飾する文化があり、ココヤシの容器は南方から伝わったとみる研究者が多い。当時、東南アジアとの交易が内陸部にまで及んでいた可能性を示す貴重な史料という。ただ、東南アジアから海流に乗って日本の沿海部に漂着したものが近江に届けられた可能性もある。
 容器は長さ10・3cm、高さ10cmの楕円形、重さは110gで、1993年11月に出土。直径約4cmの穴を開けて口にし、雌しべの跡(子房痕)を目に見立て、鼻になる小さな穴で鼻の形を作り、大きく口を開けた顔を表現。口の両脇には「ひげ」となる線が彫られ、鼻とひげは水銀朱で赤く着色されていた。
 ココヤシ容器は25日から、守山市服部町の市立埋蔵文化財センターで行われる「様々な木器展-甦る古代の木製品」で公開される。
 その後、安土城考古博物館(安土町)でも展示される予定。
[参考:読売新聞、産経新聞、京都新聞]

正倉院蔵「椰子実」
 直径11.8cm 高10.6cm 口径3cm 重さ170g
 内部は刳り取って黒漆のようなものを内塗りしている。
 宝庫にいつ、どのような経緯で納められたのかは不明であるが、少なくとも平安時代終わり頃から宝庫にあったという。
[参考:奈良国立博物館HP]

正倉院の宝物そっくり、滋賀「下之郷遺跡」出土の人面容器(読売新聞) - goo ニュース
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鳴門市・天河別神社古墳群3号墳 海に面する東側くびれ部に装飾石列

2009年03月12日 | Weblog
 市教委が11日、古墳時代前期(4世紀前半)の前方後円墳・天河別(あまのかわわけ)神社古墳群3号墳(同市大麻町池谷)で、東側のくびれ部から約40cm四方の大きな砂岩を並べた装飾が見つかったと発表した。
当時、海に面していた古墳東側の見栄えを良くする狙いがあったらしい。
 市教委は今年1月から3号墳の規模を調査した。墳丘は標高26mの尾根にあり、全長約40m。盛り土を2段に積み上げた2段築成で、各段の裾に直径10~20cmの石を列に並べて飾っていた。
 これら石列のうち、特に古墳東側では、前方部と後円部の付け根のくびれ部に、大型の砂岩を並べた。さらに、石列の外側にテラスのような場所を設け、小ぶりの砂岩礫を敷き詰めていた。県内の前方後円墳で、このようなくびれ部の装飾が確認されたのは初めてという。
 同古墳群は、丘陵地に古墳時代前期~中期(4~5世紀)の古墳11基以上が並ぶ。3号墳は最大規模。古代には、丘陵地近くまで紀伊水道や吉野川河口が迫っていたといい、阿波で採れた青石や水銀朱を、摂津や河内に運び出す港、集落があったと考えられている。
 現地説明会は14日午前10時~11時半に行われる。
[参考:読売新聞]


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徳川12代、13代将軍の正室・浄観院と澄心院の墓誌が見つかる 2.9m四方の最大の大きさ

2008年06月10日 | Weblog
浄観院、楽宮喬子(さざのみやたかこ)女王(1795~1840)
12代将軍・徳川家慶の正室 京都の宮家・有栖川宮織仁親王の王女
澄心院、一条秀子(寿明姫)澄心院(1826~1850)
13代将軍・徳川家定の正室 一条忠良の娘

現在NHKで放送中の大河ドラマ「篤姫」では、篤姫は13代将軍・徳川家定の正室であるが、浄観院・楽宮喬子は12代将軍・徳川家慶の正室であり、澄心院・寿明姫は13代将軍・徳川家定の正室である。
浄観院は1840年、澄心院は1850年に逝去している。1856年になって篤姫は初めて江戸城大奥に入る。
その浄観院と澄心院の墓誌が上野・寛永寺で見つかったとの報道である。
墓誌の大きさは、2.9m四方、重量約5トンで現存する最大の大きさ。
木棺には水銀朱が充填されていたため、遺骨や副葬品は朱色に染まっていた。
水銀朱は虫よけだったのではないかと考えられるという。
水晶製の数珠や、水晶の容器入りの仏舎利、金銅や黒漆塗りの厨子に入った念持仏などの豪華副葬品が出土。
大奥が相当の実権を握っていたことの大きな裏づけになる。
ちなみに、篤姫こと天璋院は明治16年(1883年)に東京の一橋邸で死去し、上野・寛永寺に家定の墓と並べて埋葬されている。
[参考:毎日新聞、読売新聞、朝日新聞、共同通信など]

2012.10.29 追記
 2008年6月に、徳川幕府12代将軍・家慶(いえよし)の正室・浄観院(1795~1840)の墓から出土した念持仏2体(注1)が10月27日から11月18日まで修復した元興寺文化財研究所のある元興寺(奈良市)で初公開される。
(注1) 木製の阿弥陀如来立像(3.3cm)と不動明王坐像(2.8cm)で、ともに厨子(高さ8~9cm)に納められていた。仏像本体は、鎌倉~室町時代初期の作。
[参考:朝日新聞]

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 浄観院
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