H22.8.19
昨日は、香川県善通寺市の「旧練兵場遺跡」に関するアクセス件数が少し目立ったので、何かなと思って探してみたが、見当たるところでは、読売新聞の「土器片発掘に歓声 善通寺(市の旧練兵場遺跡)で(地元の)小・中学生体験」のニュースのみ。
吉野ヶ里遺跡(佐賀県)と同じ50ヘクタール(50万㎡)の規模の弥生時代の大集落跡であり、発掘調査が続けられ貴重な発見がされていながらニュースにはあまり採り上げられていないのが実情とみられる。
香川県埋蔵文化財センターのホームページをみると、これまでの発掘調査の成果がまとめられてみることが出来るし、最近の発掘調査の状況も報告してくれている。今月7,8日は夕立で現場が水没し、呆然とたたずむ姿も登場している。水抜き作業で事なきを得たのか心配するところですが、いずれにしても、その10日後の18日に前述の発掘作業体験が行われたようです。
香川県埋蔵文化財センターのホームページから旧練兵場遺跡の主な特徴と出土品などを項目的にまとめてみると、
①東西1km、南北約0.5kmの約50万㎡の大きな面積を持つ遺跡。
②弥生時代から鎌倉時代に至る長期間継続した集落遺跡。弥生時代には500棟を超える住居跡がある。
今年の7月には、弥生時代の生活面を構成する土の中から、縄文時代後晩期の浅鉢とみられる土器が出土している。
③銅鐸・銅鏃などの青銅器や勾玉など、普通の集落跡ではめったに出土しない貴重品が出土している。
青銅製の鏃は、県内出土の9割以上に当たる約50本が出土している。
④弥生時代後期(約1,900年前)の鍛冶炉が見つかり、生産された鏃・斧・刀子が多量に出土している。
主に朝鮮半島から鉄素材の入手など遠距離交易・交流が必要となるため、本遺跡のような拠点的な集落を中心に鉄器生産が行われたとしている。
⑤讃岐の弥生土器の中に見慣れない土器が混じり、他地域産の土器が持ち込まれたものと、讃岐の土で他地域の土器の形を作ったものがある。これらの土器は九州東北部から近畿にかけての瀬戸内海沿岸の各地域で見られる器形をしている。弥生時代後期前半(約1,900年前)を中心とした時期に盛んに見られる。讃岐における物・人の広域な交流の拠点となった集落であることを示している。
⑥把手付広片口皿の内面に朱が付いた状態を確認している。辰砂を石杵や石臼で摺りつぶして液状に溶いたものを受ける器で、本遺跡で朱を使用したことを裏付ける。辰砂の産地は阿讃山脈を越えた若杉山遺跡(徳島県阿南市)が一大採掘地として挙げられ、同時代の巨大な墳丘墓である楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)などへの埋葬にも用いられたと推測でき、徳島―香川―岡山という「朱」でつながるルートの存在が浮かび上がって来る。
⑦勾玉、管玉、小玉などの玉類が多量に出土している。 材料には硬玉、碧玉、水晶、ガラスなどが使われている。
県内では産出しない材料を使用していることや、遺跡内から製作道具が出土していないことから、県外から持ち込まれた可能性が高いとし、他地域との交流が積極的に行われた結果を反映している。特に、弥生時代後期から終末にかけての竪穴住居跡で出土している。また、特定な分布傾向を示し、本来、装身具や威儀具であった玉が、共通の祭祀を有する集団が遺跡内に複数存在したことを示唆している。
⑧主な遺構には、竪穴住居跡と高床倉庫跡がある。
遺跡が継続する約500年の間、竪穴住居跡の検出数は増加し、人口が増えていたことが分かる。
一方、これまで調査では、弥生時代後期後半(約1,900年前)以前には、遺跡内の各丘で高床倉庫を建て物資を蓄えていたとみられるが、以後になると高床倉庫跡は検出されていない。 女王卑弥呼が活躍した弥生時代終末期(約1,800年前)になると、有力者が物資の管理を行う社会に変化し、どこにでも高床倉庫を建てることが許されなくなった可能性があるとし、当時の西日本各地が有力者を中心としたクニ社会へ移行しつつある姿を伝えているとみられるとしている。
[参考:
2008.11.8 前出、香川県埋蔵文化センターHP]