歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良県高取町・佐田タカヤマ遺跡 飛鳥時代の狼煙(のろし)台跡が見つかる

2021年01月21日 | Weblog
 高取町教委が20日、同町佐田の「佐田タカヤマ遺跡」で白村江の戦い(663年)を受けて設置されたとみられる狼煙(のろし)台跡が見つかったと発表した。
 遺跡は、飛鳥時代の都・飛鳥宮跡(奈良県明日香村)から、南西約3・5kmの標高約150mの丘陵上にある。
 直径約2m、深さ2.7mの煙突状の穴の跡が見つかった。黒くすすけるなど使用され跡もあり、枯れ草などを燃やして煙を上げる構造と考えられる。付近からは、材料を保管した倉庫や、建物の跡が見つかっている。
 穴と建物の跡は、一緒に見つかった土器などから、7世紀後半の飛鳥時代のものとみられる。
 大壁建物跡や、掘立柱建物跡とみられる遺構も出土している。
[参考:産経新聞、毎日新聞。朝日新聞、NHK,読売テレビ、奈良テレビ、ABCテレビ、関西テレビ]

日本書記 天智天皇三年(664)の条に「烽」の記載がある。
  是歳。於對馬嶋。壹岐嶋。筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水。名曰水城。
「日本書記」(岩波文庫1995、校注:坂本太郎ほか)では、「烽」は、ススミ、トブヒ、ノロシと書かれている。また、継体天皇八年三月の条に、「烽候(トブヒ)」と記されているが、ノロシをあげる所とある。

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 紀路

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奈良県高取町・森ヲチヲサ遺跡 5世紀後半、最大級の大壁建物跡が出土

2015年08月01日 | Weblog
 高取町教委が30日、森ヲチヲサ遺跡(高取町森)で、約13.5m四方(約180㎡)の大壁建物跡(5世紀後半)が見つかったと発表した。
朝鮮半島由来とされる大壁建物としては全国最大級。同半島の床暖房「オンドル」とみられる遺構も出土し、渡来人の有力者の建物とみられる。
 大壁建物は、並んで立てられた木の柱を塗り込めた厚い壁が特徴で、これまでに奈良県や滋賀県を中心におよそ120件見つかっているが、同町内では約40例確認されている。古代のオンドルは同町の清水谷遺跡や観覚寺遺跡、大津市の穴太遺跡に次いで4例目になる。
 5月から約500㎡を調査した結果、「大壁建物」3棟の跡が見つかった。このうち最も大型の1棟は、大壁建物跡の全体が出土。長さ13.5mの溝(幅約50cm)で囲まれ、中に直径約20cmの柱穴が約50cm間隔で並んでいた。建物東側には石敷きがあり、溝が約3mにわたって途切れているため、その辺りに建物の入り口があったとみられる。
 近くでは、約1・1m四方の穴と、そこから建物内の西に延びて北に屈曲する溝が出土し、中に炭化物が交じっていた。かまどの煙を床に通して部屋を暖める、「オンドル」とみられる遺構という。
 そのほか5世紀後半の韓式系土器、滑石製勾玉なども出土した。
 日本書紀には、5世紀後半の雄略天皇の時代に、朝鮮半島からの渡来人、身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)が中国・呉に派遣され、連れ帰った技術者らを、遺跡周辺を指すとみられる「檜隈野(ひのくまのの)」に住まわせたことなどが記されている。檜隈は高取町や明日香村の一部を指す地名と考えられている。
 同町の薩摩遺跡では「檜前村主」と書かれた古代の木簡も出土しており、5世紀後半ごろの檜隈氏は、同町を含む檜隈の地に居住していたと考えられるという。
 遺跡近くには紀伊(和歌山県)へと通じる古代の官道「紀路」があり、周辺に古い渡来人が居住していたとみられる。
 現地説明会は8月1日午前10時~午後4時に開催される。小雨決行。
[参考:奈良新聞、共同通信、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞、NHKニュース]

<参考> 『日本書紀』
■雄略天皇二年(戊戌458)十月是月。置史戸。河上舍人部。天皇以心爲師。誤殺人衆。天下誹謗言。太惡天皇也。唯所愛寵。史部身狹村主青。桧隈民使博徳等也。
■雄略天皇八年(甲辰464)二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。
■雄略天皇十年(丙午466) 秋九月乙酉朔戊子(4日)。身狹村主青等將呉所獻二鵝到於筑紫。
■雄略天皇十二年(戊申468) 夏四月丙子朔己卯。身狹村主青與桧隈民使博徳出使于呉。
■雄略天皇十四年(庚戌470) 春正月丙寅朔戊寅(13日)。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。
■雄略天皇十四年(庚戌470) 三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。

過去の関連ニュース・情報
 大壁建物
大壁造り建物

奈良・高取町で最大級の大壁建物跡出土 檜隈氏の関連有力者住居か


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奈良県高取町・薩摩遺跡 15mの木樋と防水用パッキンが出土

2009年11月25日 | Weblog
 県立橿原考古学研究所が25日、奈良~平安時代(8~12世紀)の灌漑用ため池跡が見つかった薩摩遺跡で、9世紀ごろの取水施設「木樋」が全長約15mにわたって出土したと発表した。当時の形状がほぼそのまま残り、木樋を覆う堤の構造も判明。古代の取水施設は、国内最古のため池「狭山池」(大阪府大阪狭山市)でしか見つかっていない。
 木樋はため池の水を堤の外に出す設備で、新旧4代が出土。池の底に土が積もるにしたがって上方に付け替え、ため池を400~500年間使い続けたとみられる。
 また、全長15mの木樋は3代目で、スギの丸太をU字形に刳り抜き、幅50cm、厚さ30cm。上部には木製の蓋も被せられていた。6mと9mの2本の木樋を繋ぎ、繋ぎ目などにはスギの皮を巻き、水漏れを防ぐパッキンの役目をさせていた。
 ため池は東西約40m、南北90m以上。谷川の水をせき止め、田畑に配水する水の量を調整していたとみられる。堤は高さ1.2m、幅35m、長さ14mを確認した。
 現地説明会は28日午前11~午後3時に開かれる。
[参考:共同通信、産経新聞]

過去のニュース
  2009.2.26 奈良県高取町・薩摩遺跡 「紀路」の道路遺構が出土
  2008.12.20 奈良県高取町 薩摩遺跡 ため池跡を発見
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奈良県高取町・薩摩遺跡 「紀路」の道路遺構が出土

2009年02月26日 | Weblog
<現地説明会に700人。大壁建物5棟が出土>
 2月22日、薩摩遺跡の現地説明会が実施された、奈良新聞では考古学ファンら約700人が訪れたと報道されている。また、町教委の担当者のコメントとして「紀路かどうかは判断できない」としている点が気にかかる。
 一方、読売新聞の19日の記事では「紀路」より「大壁建物跡5棟」が出土したことをより強調して取上げていた。1棟は約15m四方あり、全国最大規模とのこと。
[参考:奈良新聞、読売新聞]
備考:
 大壁建物跡は朝鮮半島から伝わったとされ、全国30遺跡以上から出土しているようだが、高取町の遺跡からの出土が多い。清水谷遺跡、森カシ谷遺跡、観覚寺遺跡、羽内遺跡、薩摩遺跡など。

<2009.2.19掲載分>
 昨年末に、奈良時代末-平安時代前半(8世紀末-9世紀前半)ごろの灌漑用ため池跡や、檜前村寸の名を記した木簡などが見つかった薩摩遺跡で、奈良時代(8世紀)の道路跡が見つかったことを、町教委が18日発表した。
 飛鳥地域(明日香村)から紀州の和歌山市に向かう古代の官道「紀路(きじ)」の可能性があるという。
 町教委によると、出土した道路遺構は南北方向に長さ約20m。幅は約9mで、当時の長さの単位では3丈(1丈は約3m)に相当し、規格に基づいて造られたことが分かった。両側にそれぞれ幅約60cm、深さ約40cmの側溝が平行に走っていた。側溝の東側には、道路に沿って塀が設けられ、道路周辺も整備されていたことが判明。
 5世紀中ごろに整備された紀路は、発掘現場付近では北東から南西へ延びると想定されていたが、奈良時代に土地を南北方向に区画する条里制の施行に伴って、道路が南北方向に再整備された可能性もあるという。
 道路沿い東側からは一辺5m以上で、柱を建てるための穴が一辺1mと、しっかりした造りの大型建物跡も出土。庇が設けられ、通常の建物より格が上の施設で、地方役所の倉庫だった可能性がある。溝からは8世紀後半の須恵器の破片が見つかった。
 紀路は大和政権中心地の磐余(同県桜井市)や、飛鳥時代の飛鳥(同県明日香村)周辺と、紀の川河口の港「紀伊水門(きのみなと)」(和歌山市)を結び、交易品や海外の文化を伝えたとされる。
 万葉集には紀路を詠んだ歌が登場し、日本書紀や続日本紀にも歴代天皇が紀伊へ行幸した記述がある。中世には「高野街道」と呼ばれた。薩摩遺跡近くを経由し、紀の川沿いを通る道と推定されてきたが、出土例はなかった。
 現地説明会は22日午前10時と午後1時。小雨決行。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

万葉集巻第一35 阿閉皇女(後の元明天皇)御作歌
 これやこの 大和にしては わが恋いふる 紀路にありとふ 名に負ふ背の山 
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