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奈良県高取町・森ヲチヲサ遺跡 5世紀後半、最大級の大壁建物跡が出土

2015年08月01日 | Weblog
 高取町教委が30日、森ヲチヲサ遺跡(高取町森)で、約13.5m四方(約180㎡)の大壁建物跡(5世紀後半)が見つかったと発表した。
朝鮮半島由来とされる大壁建物としては全国最大級。同半島の床暖房「オンドル」とみられる遺構も出土し、渡来人の有力者の建物とみられる。
 大壁建物は、並んで立てられた木の柱を塗り込めた厚い壁が特徴で、これまでに奈良県や滋賀県を中心におよそ120件見つかっているが、同町内では約40例確認されている。古代のオンドルは同町の清水谷遺跡や観覚寺遺跡、大津市の穴太遺跡に次いで4例目になる。
 5月から約500㎡を調査した結果、「大壁建物」3棟の跡が見つかった。このうち最も大型の1棟は、大壁建物跡の全体が出土。長さ13.5mの溝(幅約50cm)で囲まれ、中に直径約20cmの柱穴が約50cm間隔で並んでいた。建物東側には石敷きがあり、溝が約3mにわたって途切れているため、その辺りに建物の入り口があったとみられる。
 近くでは、約1・1m四方の穴と、そこから建物内の西に延びて北に屈曲する溝が出土し、中に炭化物が交じっていた。かまどの煙を床に通して部屋を暖める、「オンドル」とみられる遺構という。
 そのほか5世紀後半の韓式系土器、滑石製勾玉なども出土した。
 日本書紀には、5世紀後半の雄略天皇の時代に、朝鮮半島からの渡来人、身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)が中国・呉に派遣され、連れ帰った技術者らを、遺跡周辺を指すとみられる「檜隈野(ひのくまのの)」に住まわせたことなどが記されている。檜隈は高取町や明日香村の一部を指す地名と考えられている。
 同町の薩摩遺跡では「檜前村主」と書かれた古代の木簡も出土しており、5世紀後半ごろの檜隈氏は、同町を含む檜隈の地に居住していたと考えられるという。
 遺跡近くには紀伊(和歌山県)へと通じる古代の官道「紀路」があり、周辺に古い渡来人が居住していたとみられる。
 現地説明会は8月1日午前10時~午後4時に開催される。小雨決行。
[参考:奈良新聞、共同通信、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞、NHKニュース]

<参考> 『日本書紀』
■雄略天皇二年(戊戌458)十月是月。置史戸。河上舍人部。天皇以心爲師。誤殺人衆。天下誹謗言。太惡天皇也。唯所愛寵。史部身狹村主青。桧隈民使博徳等也。
■雄略天皇八年(甲辰464)二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。
■雄略天皇十年(丙午466) 秋九月乙酉朔戊子(4日)。身狹村主青等將呉所獻二鵝到於筑紫。
■雄略天皇十二年(戊申468) 夏四月丙子朔己卯。身狹村主青與桧隈民使博徳出使于呉。
■雄略天皇十四年(庚戌470) 春正月丙寅朔戊寅(13日)。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。
■雄略天皇十四年(庚戌470) 三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。

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