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奈良県高取町・薩摩遺跡 「紀路」の道路遺構が出土

2009年02月26日 | Weblog
<現地説明会に700人。大壁建物5棟が出土>
 2月22日、薩摩遺跡の現地説明会が実施された、奈良新聞では考古学ファンら約700人が訪れたと報道されている。また、町教委の担当者のコメントとして「紀路かどうかは判断できない」としている点が気にかかる。
 一方、読売新聞の19日の記事では「紀路」より「大壁建物跡5棟」が出土したことをより強調して取上げていた。1棟は約15m四方あり、全国最大規模とのこと。
[参考:奈良新聞、読売新聞]
備考:
 大壁建物跡は朝鮮半島から伝わったとされ、全国30遺跡以上から出土しているようだが、高取町の遺跡からの出土が多い。清水谷遺跡、森カシ谷遺跡、観覚寺遺跡、羽内遺跡、薩摩遺跡など。

<2009.2.19掲載分>
 昨年末に、奈良時代末-平安時代前半(8世紀末-9世紀前半)ごろの灌漑用ため池跡や、檜前村寸の名を記した木簡などが見つかった薩摩遺跡で、奈良時代(8世紀)の道路跡が見つかったことを、町教委が18日発表した。
 飛鳥地域(明日香村)から紀州の和歌山市に向かう古代の官道「紀路(きじ)」の可能性があるという。
 町教委によると、出土した道路遺構は南北方向に長さ約20m。幅は約9mで、当時の長さの単位では3丈(1丈は約3m)に相当し、規格に基づいて造られたことが分かった。両側にそれぞれ幅約60cm、深さ約40cmの側溝が平行に走っていた。側溝の東側には、道路に沿って塀が設けられ、道路周辺も整備されていたことが判明。
 5世紀中ごろに整備された紀路は、発掘現場付近では北東から南西へ延びると想定されていたが、奈良時代に土地を南北方向に区画する条里制の施行に伴って、道路が南北方向に再整備された可能性もあるという。
 道路沿い東側からは一辺5m以上で、柱を建てるための穴が一辺1mと、しっかりした造りの大型建物跡も出土。庇が設けられ、通常の建物より格が上の施設で、地方役所の倉庫だった可能性がある。溝からは8世紀後半の須恵器の破片が見つかった。
 紀路は大和政権中心地の磐余(同県桜井市)や、飛鳥時代の飛鳥(同県明日香村)周辺と、紀の川河口の港「紀伊水門(きのみなと)」(和歌山市)を結び、交易品や海外の文化を伝えたとされる。
 万葉集には紀路を詠んだ歌が登場し、日本書紀や続日本紀にも歴代天皇が紀伊へ行幸した記述がある。中世には「高野街道」と呼ばれた。薩摩遺跡近くを経由し、紀の川沿いを通る道と推定されてきたが、出土例はなかった。
 現地説明会は22日午前10時と午後1時。小雨決行。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

万葉集巻第一35 阿閉皇女(後の元明天皇)御作歌
 これやこの 大和にしては わが恋いふる 紀路にありとふ 名に負ふ背の山 
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