歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

奈良県高取町・清水谷遺跡 5世紀中頃の人工の池跡が見つかる

2021年11月18日 | Weblog
 奈良県高取町教育委員会が17日、同町の清水谷(しみずたに)遺跡で、川原石を積んで護岸を造った国内最古級(5世紀中頃)の人工の池跡が見つかったと発表した。清水谷遺跡からは、これまでの発掘調査で渡来人特有の建物の跡などが確認されている。
 池は東西26m、南北13mの長方形で、深さは約60cm。斜面に30~50cm大の石を3~4段に積んで護岸にしており、西側には石組みの排水路がある。
 護岸などからは、朝鮮半島系の土器や、祭祀具の刀形木製品、馬の歯などが出土している。
 同様の人工の池は朝鮮半島でも確認されており、出土した土器や、周辺の土に焼けた跡があることから、町教委は、この地域に住んでいた渡来人が池を造り、池で水の祭祀を行ったとみている。一方、池の内側からは、大壁建物の遺構(東西約12m、南北約11m)を確認。池を埋めた跡に5世紀末ごろに造られたとみられる。
 石組み護岸のある池跡は、奈良県御所市の南郷大東(おおひがし)遺跡、大阪府東大阪市の神並(こうなみ)・西ノ辻遺跡でも見つかっている。
[参考:読売新聞、産経新聞、毎日新聞、共同通信、奈良テレビ、NHKテレビ]

過去の関連ニュース・情報
 清水谷遺跡


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県高取町・森ヲチヲサ遺跡 5世紀後半、最大級の大壁建物跡が出土

2015年08月01日 | Weblog
 高取町教委が30日、森ヲチヲサ遺跡(高取町森)で、約13.5m四方(約180㎡)の大壁建物跡(5世紀後半)が見つかったと発表した。
朝鮮半島由来とされる大壁建物としては全国最大級。同半島の床暖房「オンドル」とみられる遺構も出土し、渡来人の有力者の建物とみられる。
 大壁建物は、並んで立てられた木の柱を塗り込めた厚い壁が特徴で、これまでに奈良県や滋賀県を中心におよそ120件見つかっているが、同町内では約40例確認されている。古代のオンドルは同町の清水谷遺跡や観覚寺遺跡、大津市の穴太遺跡に次いで4例目になる。
 5月から約500㎡を調査した結果、「大壁建物」3棟の跡が見つかった。このうち最も大型の1棟は、大壁建物跡の全体が出土。長さ13.5mの溝(幅約50cm)で囲まれ、中に直径約20cmの柱穴が約50cm間隔で並んでいた。建物東側には石敷きがあり、溝が約3mにわたって途切れているため、その辺りに建物の入り口があったとみられる。
 近くでは、約1・1m四方の穴と、そこから建物内の西に延びて北に屈曲する溝が出土し、中に炭化物が交じっていた。かまどの煙を床に通して部屋を暖める、「オンドル」とみられる遺構という。
 そのほか5世紀後半の韓式系土器、滑石製勾玉なども出土した。
 日本書紀には、5世紀後半の雄略天皇の時代に、朝鮮半島からの渡来人、身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)が中国・呉に派遣され、連れ帰った技術者らを、遺跡周辺を指すとみられる「檜隈野(ひのくまのの)」に住まわせたことなどが記されている。檜隈は高取町や明日香村の一部を指す地名と考えられている。
 同町の薩摩遺跡では「檜前村主」と書かれた古代の木簡も出土しており、5世紀後半ごろの檜隈氏は、同町を含む檜隈の地に居住していたと考えられるという。
 遺跡近くには紀伊(和歌山県)へと通じる古代の官道「紀路」があり、周辺に古い渡来人が居住していたとみられる。
 現地説明会は8月1日午前10時~午後4時に開催される。小雨決行。
[参考:奈良新聞、共同通信、読売新聞、朝日新聞、産経新聞、毎日新聞、NHKニュース]

<参考> 『日本書紀』
■雄略天皇二年(戊戌458)十月是月。置史戸。河上舍人部。天皇以心爲師。誤殺人衆。天下誹謗言。太惡天皇也。唯所愛寵。史部身狹村主青。桧隈民使博徳等也。
■雄略天皇八年(甲辰464)二月。遣身狹村主青。桧隈民使博徳使於呉國。
■雄略天皇十年(丙午466) 秋九月乙酉朔戊子(4日)。身狹村主青等將呉所獻二鵝到於筑紫。
■雄略天皇十二年(戊申468) 夏四月丙子朔己卯。身狹村主青與桧隈民使博徳出使于呉。
■雄略天皇十四年(庚戌470) 春正月丙寅朔戊寅(13日)。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。
■雄略天皇十四年(庚戌470) 三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。

過去の関連ニュース・情報
 大壁建物
大壁造り建物

奈良・高取町で最大級の大壁建物跡出土 檜隈氏の関連有力者住居か


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県高取町・薩摩遺跡 「紀路」の道路遺構が出土

2009年02月26日 | Weblog
<現地説明会に700人。大壁建物5棟が出土>
 2月22日、薩摩遺跡の現地説明会が実施された、奈良新聞では考古学ファンら約700人が訪れたと報道されている。また、町教委の担当者のコメントとして「紀路かどうかは判断できない」としている点が気にかかる。
 一方、読売新聞の19日の記事では「紀路」より「大壁建物跡5棟」が出土したことをより強調して取上げていた。1棟は約15m四方あり、全国最大規模とのこと。
[参考:奈良新聞、読売新聞]
備考:
 大壁建物跡は朝鮮半島から伝わったとされ、全国30遺跡以上から出土しているようだが、高取町の遺跡からの出土が多い。清水谷遺跡、森カシ谷遺跡、観覚寺遺跡、羽内遺跡、薩摩遺跡など。

<2009.2.19掲載分>
 昨年末に、奈良時代末-平安時代前半(8世紀末-9世紀前半)ごろの灌漑用ため池跡や、檜前村寸の名を記した木簡などが見つかった薩摩遺跡で、奈良時代(8世紀)の道路跡が見つかったことを、町教委が18日発表した。
 飛鳥地域(明日香村)から紀州の和歌山市に向かう古代の官道「紀路(きじ)」の可能性があるという。
 町教委によると、出土した道路遺構は南北方向に長さ約20m。幅は約9mで、当時の長さの単位では3丈(1丈は約3m)に相当し、規格に基づいて造られたことが分かった。両側にそれぞれ幅約60cm、深さ約40cmの側溝が平行に走っていた。側溝の東側には、道路に沿って塀が設けられ、道路周辺も整備されていたことが判明。
 5世紀中ごろに整備された紀路は、発掘現場付近では北東から南西へ延びると想定されていたが、奈良時代に土地を南北方向に区画する条里制の施行に伴って、道路が南北方向に再整備された可能性もあるという。
 道路沿い東側からは一辺5m以上で、柱を建てるための穴が一辺1mと、しっかりした造りの大型建物跡も出土。庇が設けられ、通常の建物より格が上の施設で、地方役所の倉庫だった可能性がある。溝からは8世紀後半の須恵器の破片が見つかった。
 紀路は大和政権中心地の磐余(同県桜井市)や、飛鳥時代の飛鳥(同県明日香村)周辺と、紀の川河口の港「紀伊水門(きのみなと)」(和歌山市)を結び、交易品や海外の文化を伝えたとされる。
 万葉集には紀路を詠んだ歌が登場し、日本書紀や続日本紀にも歴代天皇が紀伊へ行幸した記述がある。中世には「高野街道」と呼ばれた。薩摩遺跡近くを経由し、紀の川沿いを通る道と推定されてきたが、出土例はなかった。
 現地説明会は22日午前10時と午後1時。小雨決行。
[参考:産経新聞、朝日新聞]

万葉集巻第一35 阿閉皇女(後の元明天皇)御作歌
 これやこの 大和にしては わが恋いふる 紀路にありとふ 名に負ふ背の山 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする