歴歩

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栃木県壬生町・愛宕塚古墳 5か所の地点から「盾持人埴輪」を確認

2018年09月04日 | Weblog
 栃木県壬生町教委は3日、東京学芸大、茨城大などが8月20日から18年度末までの予定で実施している愛宕塚古墳(壬生町壬生甲)の発掘調査で初めて周堤上の調査地点5カ所の地点から「盾持人埴輪」が確認されたと発表、これまでの調査成果を説明した。
 「盾持人埴輪」は盾を構えた人物の形をした埴輪で、古墳を守るために配置されると考えられている。 この埴輪は県内でも小山市内の桑57号墳と飯塚35号墳、下野市内の甲塚(かぶとづか)古墳でしか確認されていない。 同じ特徴がある古墳が見つかっている群馬県とのつながりを示す可能性があるとして、注目される。
 同古墳は6世紀後半に造られたとされる前方後円墳。昨年、両大の発掘調査団の発掘調査などで二重の周溝を備えた古墳であることが初めて確認され、周堤上から円筒埴輪、盾持人などの人物、馬の形の形象埴輪が発掘された。堤の上に並べられた円筒埴輪の間に数多く配置されていたことがわかり、このような事例は県内では初めてだという。
 昨年の調査では、埴輪が墳丘の平坦な部分と周溝外側の土塁に計2列あり、墳丘全体を囲んでいたと推定していたが、今回、墳頂部にも列があり、三重に配置されていたことが分かった。また、昨年は1カ所で確認された葺石が、今回の調査で3カ所で確認。前方部南側斜面に明確に残っており、群馬県にある古墳の影響を受けた特徴がみられる。
 現地説明会は8日午前10時と午後1時の2回行われる
[参考:下野新聞、産経新聞、NHKニュース]

過去の関連ニュース・情報
2017.9.7  [参考:東京新聞]
 前方後円墳を大小の埴輪が2重に取り囲んでいる状態が良好な状態で残されていることが分かった。
 古墳は六世紀後半の築造とされ、墳丘部は全長約82m。墳丘部の周りに溝があり、その外側に土塁があり、その外側にも溝があり、二重の周溝を備えた古墳であることが初めて確認された。
 埴輪の列は墳丘の平坦な部分と、周溝の外側の土塁の二列あった。円筒埴輪が立った状態で出土。墳丘全体を囲んでいたと推定される。古墳の墳丘部と外側の土塁上で規格の違う埴輪列があるのは、今城塚古墳(大阪府高槻市)でも確認されているが、全国的に例は少ない。
 墳丘部の斜面表面に葺石が並んでいたことも判明。

2018.2.13  [参考:産経新聞]
 愛宕塚古墳で出土した埴輪を復元し、稲葉地区公民館(同町上稲葉)の「みぶ愛宕塚古墳出土はにわ展」で展示している。同古墳から出土した円筒埴輪9点と石見(いわみ)型埴輪、盾持人埴輪の計11点を展示。

 盾持人埴輪
 壬生町


周堤上に「盾持ち人埴輪」 栃木県内で初、複数の地点から確認 壬生・愛宕塚古墳

「盾持ち人埴輪」複数確認 「変遷知る手がかり」 栃木・壬生の愛宕塚古墳
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栃木県壬生町・遠見塚古墳 県内初の複室胴張り石室が出土

2016年11月17日 | Weblog
 県内で初めて「複室胴張り石室」が出土した遠見塚(とおみづか)古墳(羽生田字三番塚地先)で13日、現地説明会が開かれた。同古墳はこれまで「三番塚(さんばんづか)古墳」と呼ばれていた。
 町教委が9月から始めた調査で全長約9mの石室が発見され、消滅したと伝えられていた「遠見塚古墳」だと確認された。
 「複室胴張り石室」は複数の部屋があり、側壁が弓状に張っている。古墳全体の大きさは50mを超える大型とわかった。また、石室の形が北部九州に源流をもつことがわかったとしている。
[参考:下野新聞、NHK宇都宮ニュース、壬生町HP]

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 銅張



キーワード: 遠見塚古墳、三番塚古墳、胴張り石室、胴張石室
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栃木県壬生町・車塚古墳 葺石の下に砂利層と墳丘内石積み 排水効果の工夫か

2015年01月17日 | Weblog
 壬生町教委などの調査で、7世紀頃に築造された車塚古墳(壬生町壬生甲)で、葺石の下に新たな砂利層と墳丘内石積みがあることが分かった。 古墳の形を維持するほか、効果的な排水で石室内部を守る役割があったと考えられるという。
 似たような構造は、高槻市の今城塚古墳で墳丘内石積みと排水溝遺構が確認されている。
[参考:下野新聞]

過去の関連ニュース・情報
 壬生町・車塚古墳


排水促す古墳の工夫か 砂利層と石積み、栃木県内で初確認 壬生の車塚古墳(下野新聞) - goo ニュース
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栃木県壬生町・車塚古墳、古墳の周囲を須恵器の瓶で装飾か

2014年09月06日 | Weblog
壬生町教委が5日、初めての本格的な調査を8月下旬から進めている古墳時代終末期(7世紀頃)に築造された国指定史跡(1926年)車塚古墳(壬生町壬生甲)で、
■これまで82mとされてきた円墳の墳丘の直径が84mであることが判明
■3段築成の墳丘の頂上や斜面にかけて全面に小さな河原石を敷き詰める装飾が施されていることが分かった。 全体が葺石で覆われた古墳が確認されたのは県内で初めて。
■墳丘の頂上部分や平坦部、周溝から須恵器の破片が多数見つかった。古墳の周囲を取り囲むように須恵器の瓶(かめ、高さ50cmほど)が並べられていた可能性が高いという。 この時期は古墳を飾る埴輪制作が制限されていたため、埴輪に代わって配置されたとみられ、全国の古墳で同様の例はないという。
と発表した。
現地説明会が7日午前10時と午後2時に開かれる予定。
[参考:下野新聞、共同新聞、産経新聞、読売新聞、毎日新聞]

壬生・車塚古墳、須恵器かめ周堤に 全国初の発見、埴輪代わりに装飾か(下野新聞) - goo ニュース

車塚古墳「埋葬者に大きな権勢」 全体に葺石、周囲は須恵器 栃木(産経新聞) - goo ニュース

<車塚古墳>古代に思いはせ 壬生の発掘調査 河原石で全面装飾、権力誇示の政治的意図 須恵器のかめの破片も /栃木(毎日新聞) - goo ニュース
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栃木県壬生町・塚越1号墳 5世紀後半の青銅鏡の破片が出土

2011年09月13日 | Weblog
 壬生町教委による同町国谷の塚越1号墳の発掘調査で古墳時代中期(5世紀後半)のものとみられる青銅鏡の破片が発掘されたことがわかった。
 壬生町の「広報 みぶ/ 2011年8月号 No.627」には、壬生の『考古楽』講座として10月8日(土) 壬生中央公民館(研修室)で、『「青銅鏡が副葬された塚越1号墳」大型古墳が築造される前のみぶの姿』と題して、壬生町歴史民俗資料館君島利行文化財係長が講演を行う予定になっているので、既にこの時点では発見されている。
 青銅鏡の破片は、約3cmと2cmの2点であるが、材質、厚さから同一のものと考えられ、復元規模は直径8cm、厚さは1~3mmと推定される。 仿製鏡の一つ「珠文鏡」とされ、複数の丸い突起である珠文や鋸歯文、櫛歯文が施されており、県内では4例目の出土となる。 町内古墳からの青銅鏡出土は初めてという。
 さらに、後期に造られた円墳(直径24m)とされてきた同古墳は、一辺約20m、墳丘の高さ約1・6mの方墳だったことも新たに確認された。 埋葬施設である「礫郭」に使用された川原石などが見つかった。
 青銅鏡出土と合わせ、壬生の古墳群の始まりが、古墳時代中期までさかのぼることを裏付けたとしている。
[参考:下野新聞、壬生町HP]

過去の関連ニュース・情報
 壬生町の古墳関連
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栃木県壬生町・吾妻古墳 純銀で装飾された刀子が出土

2010年12月17日 | Weblog
 栃木県埋蔵文化財センターは16日までに、壬生町と栃木市にまたがる6世紀後半の前方後円墳・吾妻古墳(全長128m)で、純銀で装飾された副葬品の刀子を発見した。 刀子(復元長さ30cm)は、前方部の石室付近で出土した。刀身手元部分に嵌められた約1・5cm幅の金具が銀製だった。
 同時に金メッキされた馬具の一部や銀メッキの太刀の金具も発掘され、埋葬された人物の力の大きさが分かるとしている。
 また、横穴式石室の大きさが、横幅が最大1.7m、全長8.4mであることが確認された。
 説明会は19日(日)午前10時半~11時半、と午後1時半~2時半に開かれる。
[参考:下野新聞、朝日新聞、栃木県埋蔵文化財センター]

過去のニュース・情報
 2010.1.13 栃木県壬生町・吾妻古墳、車塚古墳 17日に現地説明会
 2009.12.29 車塚古墳 2重の周溝を発見
 2009.2.10 藤井39号墳 直径35mの円墳と確認
 2008.12.13 吾妻古墳 全長128mを確認

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栃木県壬生町・吾妻古墳、車塚古墳 17日に現地説明会

2010年01月13日 | Weblog
 発掘調査が行われている吾妻古墳(同町藤井)と車塚古墳(同町車塚)で、17日に現地説明会が開かれる。ともに国指定史跡で古代下野国の首長墓とされる。
 吾妻古墳は、6世紀後半の全長約128mの墳丘を持つ県内最大の前方後円墳。昨年度の調査で石室が全国でも珍しい巨大な硬質の一枚岩で組み立てられていることが分かった。本年度の調査では巨岩全体が見通せるまで掘り進められ圧巻な姿を現している。一般に石室材は凝灰岩が多いが、同古墳の場合は左右と奥壁が青みがかった一枚岩で、内側は赤く染められていた形跡が残る。石室は奥行き約2・4m、幅約1・7m、高さ約1・8mと確認され、岩1枚の重さは10ton以上とみられるという。石室は説明会後に埋め戻される。
 一方、車塚古墳は7世紀に造られ、この時代国内最大の円墳(墳丘直径約82m)。吾妻古墳の石室と同規模の凝灰岩の石室を持つ。町教委の本年度調査で終末期古墳としては県内で初めて2重目の周溝が見つかっている。
 2古墳の直線距離は約3・5kmで、同じ地域の二つの巨石文化を実感できる貴重な機会となる。
 吾妻古墳の説明会は午前10時半から11時半。車塚古墳の説明会は午後1時から行われる。
[参考:下野新聞、栃木県埋蔵文化財センター]

過去のニュース・情報
 2009.12.29 車塚古墳 2重の周溝を発見
 2009.2.10 藤井39号墳 直径35mの円墳と確認
 2008.12.13 吾妻古墳 全長128mを確認
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栃木県壬生町・車塚古墳 2重の周溝を発見

2009年12月29日 | Weblog
 同町教委は27日までに、下野国の首長墓である車塚古墳(円墳、直径82m、7世紀~8世紀初め)で墳丘を取り巻く2重目の周溝を確認した。終末期古墳の2重周溝の確認は全国的にもまれで、県内では初めて。「県内の終末期古墳には2重周溝はない」という通説を覆す発見。
 1重目の周溝とその外側の周堤までの直径は約122m。今調査で墳丘西側の周堤外側に3カ所のトレンチを入れ、幅約6m、深さ約1mの2重目の周溝が見つかった。2重周溝の発見で墳域が拡大し、直径は約136mにも達する。
県内でも2重周溝が確認されているのは宇都宮市の笹塚古墳(5世紀中~後半)など同時代中期までの4古墳だけ。今回の2重周溝発見で、町終末期の他の古墳にも2重周溝存在の可能性が出てきたという。
[参考:下野新聞]

過去の関連ニュース
  2009.2.7. 宇都宮市・笹塚古墳 墓域総長が県内最大の前方後円墳と確認
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栃木県壬生町・藤井39号墳 直径35mの円墳と確認 

2009年02月10日 | Weblog
 町教委は9日までに、国指定史跡・吾妻古墳(全長127.8mの前方後円墳)の西に隣接する藤井39号墳(下都賀郡壬生町大字藤井)が墳丘直径約35mの円墳で、河原石が組み上げられた石室を持つことを確認した。
 吾妻古墳に埋葬された人物と近しい人の墓だろうとする。
 調査によると、同古墳は吾妻古墳より約50-70年後の七世紀前半に造られたとみられる。二段墳丘のうち一段目が極端に広い「下野型古墳」。
 横穴式石室があり、幅約2m、高さ約1.8m、奥行き約5mで、河原石が「持ち送り」と呼ばれる当時の技術で組み上げられ、壁面は丸みを帯びた形状に仕上げられている。
 吾妻古墳の石室壁は青みがかった巨大一枚岩だが、藤井39号墳との材質や大きさの違いは、古墳を築造できる豪族でも権力に大きな開きがあったことをうかがわせるという。
 現地説明会は午前10時から。問合せは町歴史民俗資料館電話0282・82・8544。
[参考:下野新聞、前出・吾妻古墳]
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宇都宮市・笹塚古墳 墓域総長が県内最大の前方後円墳と確認

2009年02月07日 | Weblog
 東谷町の前方後円墳「笹塚古墳」の外堤で囲まれた墓域の総長が、外堤の位置が正確に確認されたため、従来の190mから少なくとも210mあり、県内の前方後円墳としては最大であることが市教委の調査で分かった。
 外堤の一部に、墓坑または祭壇とみられる長方形の石積み(長さ5m、幅2.0-2.5m)が見つかった。外堤から直角に突き出すように位置し、20-30cmの石が三層に積まれている。地層などの分析から古墳の付属物であることは間違いないが、ほかの出土品がなく、目的ははっきりしない。祭祀関係施設の可能性が高いが県内では類例がなく、規模判明と同時に新たな疑問点が浮上したとする。
 今回の調査では前方部の外側などを発掘し、従来の外堤想定ラインの外側に盛り土や敷石が見つかった。これまで、県内の前方後円墳では琵琶塚古墳(小山市=198.9m)が最長とされてきた。なお、墳丘の全長では吾妻古墳(壬生町=127m)が最長で、笹塚古墳は約100m。
[参考:下野新聞、2008.12.13吾妻古墳]
備考
2007年1月 
 笹塚古墳の発掘調査で、二重周溝と三段築成を確認。県内の大型古墳で二重周溝が確認されたのは3例目で、その中では最も古い(5C中頃)という。
 その2例とは、ともに小山市にある琵琶塚古墳と摩利支天塚古墳。[参考:朝日新聞]
2007年12月
 笹塚古墳は、周溝まで含めた総長が190mを超え、琵琶塚古墳、摩利支天塚古墳に匹敵する規模であることが分かった。葺石があり平坦面に埴輪が樹立するなど、典型的な畿内型大型墳墓であることから、中央との結び付きが強い首長の墓と考えられるという。[参考:下野新聞]
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栃木県壬生町・大光寺町 吾妻古墳 全長128mを確認 現地説明会12/13

2008年12月13日 | Weblog
 本日行われた、吾妻古墳現地説明会のニュースが下野新聞で18枚の写真とともに報道されていました。約200名が参集した模様です。 

[12月11日掲載分]
 県埋蔵文化財センターより、現地説明会のお知らせの案内が発表されました。
 前回と今回の計測結果より全長が127.8mとなり、それまで最大であった小山市琵琶塚古墳(全長123.1m)を抜いて、栃木県最大の古墳と確認されたそうです。また、横穴式石室が約100年ぶりに見られるとのことです。
 日 時:  平成20年12月13日(土) 10:30~11:30 (小雨決行)
 場 所:  吾妻古墳の南西川 (トヨタホーム工場の東側)
 問合せ: (財)とちぎ生涯学習文化財団埋蔵文化財センター
 内 容:
① 後円部の北側で墳丘の端が確認され、昨年確認された前方部の端を考慮すると全長が127.8mとなり、それまで最大であった小山市琵琶塚古墳(全長123.1m)を抜いて、栃木県最大の古墳と確認された。
② 周堀の深さは最大で2.8mであり、かなりの掘削をして造られていたことがわかった。また、外側を調査した結果、二重目の堀や周掘を巡る土手などは存在しないことを確認。
③ 2段目の墳丘頂上や斜面、裾から埴輪片(殆んどが土管のような円筒埴輪)が多数出土し、表面にハケが見られる特徴などから6世紀後半に築造されたと考えられる。
④ 前方部で横穴式石室が確認された。奥行き2.4m、幅1.7mの広さで玄室と考えられ、両側の壁と奥壁は、それぞれ1枚石を使用し、内面が赤く塗られている。
 など
[参考栃木県埋蔵文化財センター]

備考:
 今年1月に発表された報道記事では、全長134m、2段造成。さらに、出土する埴輪の大半が大型の円筒埴輪で、ハケメが細かいのが特徴などから、古墳の南約3kmにある「飯塚埴輪窯跡」(小山市)の生産品に似ており、古墳は6世紀後半に造られたことが裏付けられたとしていた。また、堀を含めた長さは165mで、琵琶塚古墳(200m)、小山市の摩利支天塚古墳(197m)に次ぐ第三位の大きさに対しては変更がない模様。
[参考:2008.1.17東京新聞、毎日新聞]

[壬生領史略(嘉永3年(1850)編纂)]
 「(吾妻古墳の石室は)南一方に口あり。厚石を以、上と左右を五六尺に囲、夫より奥に入には、幅三尺五六寸、竪四尺四寸計に穴を穿あり、此の穴を潜りて奥に入ば、九尺四方計、高さ八九尺。皆厚石を以て囲たり。」
 これより、羨道:高さ、奥行き約1.8m、玄室:2.7m四方が推定されていた。

[現地の説明版より]
 国指定史跡 吾妻古墳(あずまこふん)
 昭和45年7月22日指定 壬生町大字藤井字吾妻  栃木市大光寺町
 吾妻古墳は、黒川東岸の台地上に築かれた前方後円墳です。墳丘は二段につくられ、墳丘第一段の平坦面(基壇・・きだん)が幅広くつくられているのが特徴です。墳丘の全長は第一段が117m、第二段が86mあり、堀(周湟・・しゅうこう)の底からの高さは約10mあります。墳丘の周囲には、保存の良い状態で堀が廻っています。東側では、堀の内側に突き出した張り出し部がみられ、堀を渡るための橋がかけられていたと考えられます。堀を含めた古墳の総全長は約170mに達し、壬生町では最も大きな古墳となります。
 吾妻古墳の石室については、昔の記録から凝灰岩の切り石を使用した横穴式石室が前方部前端につくられていたことがわかっています。石室の玄門(げんもん)は、現在壬生城址公園内に保存されています。墳丘からは埴輪が出土しており、これらの資料から吾妻古墳は古墳時代後期(今から約1400年前)につくられた古墳と考えられます。
 平成3年3月 壬生町教育委員会
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