歴歩

歴歩 歴史は歩く。ゆっくりと歩く。それを追いかける。

栃木県壬生町・遠見塚古墳 県内初の複室胴張り石室が出土

2016年11月17日 | Weblog
 県内で初めて「複室胴張り石室」が出土した遠見塚(とおみづか)古墳(羽生田字三番塚地先)で13日、現地説明会が開かれた。同古墳はこれまで「三番塚(さんばんづか)古墳」と呼ばれていた。
 町教委が9月から始めた調査で全長約9mの石室が発見され、消滅したと伝えられていた「遠見塚古墳」だと確認された。
 「複室胴張り石室」は複数の部屋があり、側壁が弓状に張っている。古墳全体の大きさは50mを超える大型とわかった。また、石室の形が北部九州に源流をもつことがわかったとしている。
[参考:下野新聞、NHK宇都宮ニュース、壬生町HP]

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 銅張



キーワード: 遠見塚古墳、三番塚古墳、胴張り石室、胴張石室
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足利市・機神山24号墳 「胴張形石室」と判明

2012年09月16日 | Weblog
 足利市西宮町の長林寺境内にある機神(はたがみ)山24号墳の石室が、同市山川町にある口明塚(くちあけづか)古墳の石室とよく似た「胴張形石室」であることが分かった。
 同古墳は、1913年に舟形の石室から金銅製の大刀飾りなどが出土した。
 立正大考古学研究室が、2010年度からあらためて発掘調査を行った。
 説明会が15日午後1時から開かれた。
[参考:東京新聞]

過去の関連ニュース・情報
 2008.8.19 足利市 機神山山頂古墳 葺石施した2段墳丘

キーワード: 機神山24号墳、口明塚古墳、胴張形石室
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群馬県榛東村・金井古墳群 2基の円墳から金銅製馬具などの副葬品が出土

2012年06月16日 | Weblog
 北群馬郡榛東村広馬場地内にある6世紀末から7世紀半ばごろの金井古墳群の2基の古墳(榛東村54号墳・55号墳)で、装飾性の高い馬具や権威を示す武具などの副葬品がまとまって出土した。
 両古墳は、長さ3~4m、幅2mの玄室に長さ3m前後の羨道が付く横穴式の石室を持ち、その上部に直径20m、高さ1.5mほどの円錐台状に盛り土した円墳。
 54号墳は胴張りの石室が特徴で、鉄製の小刀や鏃、金銅製の耳飾りなどが見つかった。
 55号墳からは、杏葉と辻金具、具(かこ)や鞍の一部などの馬具や直刀の鍔(つば)、須恵器などが出土した。
 現地説明会が17日午前10時~午後3時に開かれる。
[参考:上毛新聞、群馬県埋蔵文化財調査事業団HP]

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武蔵府中熊野神社古墳 上円下方墳で初めての、1段目に「前庭部」

2008年10月25日 | Weblog
上円下方墳で初めての、1段目に「前庭部」
 府中市は24日、復元工事を進めていた武蔵府中熊野神社古墳(西府町2)で、石室の入り口に続く前庭部を発見したと発表した。上円下方墳でこのような遺構が見つかるのは初めてで、古代の多摩地域と畿内との強い結びつきを示すとみる。
 遺構は熊野神社本殿の真下で、今まで手つかずであったが、今回の復元工事のために本殿を西側に移動し20~30cmほど盛り土を取り除いたところ、奥行き約4.5m、横幅約2mのシルト岩を並べた縁石が露出した。
 縁石は3段構造の古墳の1段目に「ハ」の字を描くようにして前庭部を形成していた。上円下方墳では、2段目にだけ前庭部を持つのが一般的。
 今回見つかった遺構は埋め戻されるが、市は来春までに保存工事を終え、古墳を一般に公開する。
[参考:毎日新聞]

“ウィキペディア”によると、「武蔵府中熊野神社古墳の主体部は複室構造の横穴式石室で、八の字に開く前庭部と呼ばれる墓前域、そして入り口側から前室、後室、玄室という3室があり、一段目墳丘上に造営されている。』と書かれている。
しからば、「1段目に前庭部は初」とは何を示すのか、写真あるいは詳細な情報を待ちたい。

[9/30掲載分]
 標題のニュースが9月に入り、読売新聞、朝日新聞、日経新聞などで取上げられている。要約すると、
 埋葬施設の横穴式石室を埋め戻し、当時と同様に版築工法を用いて墳丘を再現する。壁面は玉石を積み重ねた石張りにする。完成時の高さは6.5m。その工事が始まった。墳丘のあった場所に建っている現在の神社本殿、山車小屋など建物は可能な範囲で移設する。来春公開する予定。
ということである。

《最古・最大規模》
上記記事の共通のキーワードとしては、「最大、上円下方墳、国史跡、(横穴式)石室、来春までに復元」であるが、気になるワードとして「最古」と書いているものがある。もちろん、上円下方墳としての中でのことであるが。
文化庁は、平成17年5月20日付けの文化審議会答申「史跡等の指定等について」で熊野神社古墳の年代について「古墳の築造時期は横穴式石室や鞘尻金具の特徴から、7世紀中頃から後半と考えられる。本古墳は、調査で確認された上円下方墳としては、史跡石のカラト古墳(京都府・奈良県)、清水柳北1号墳(静岡県)に次いで3例目であり、このうちで最も大きく、かつ古くなる可能性が高い。」と記している。
すなわち、三鷹市の天文台構内古墳が昨年12月に上円下方墳と確認され、さらに今年になって須恵器の壺が出土し、そこから7世紀の中頃と時代が判明するまでは最古と言えたが、今は熊野神社古墳が最古とは言えない。ところが、今月6、7日に行われた天文台構内古墳の現地説明会の資料では、「天文台構内古墳を上円下方墳のひとつの類型とし、熊野神社古墳を典型的な上円下方墳」と記しているのが気になる。
備考:
上円下方墳と確認されたもの
 ①武蔵府中熊野神社古墳(府中市、7C中~後半) ②石のカラト古墳(奈良と京都の県境、7C末~8C初頭) ③清水柳北一号墳(沼津市、8C初頭)
上円下方墳の可能性があるもの
 ①宮塚古墳(熊谷市) ②山王塚古墳(川越市) 

 三鷹市天文台構内古墳(三鷹市)はどちらに入るのであろうか。一般的には確認されたとみるが、専門的には確定ではないのかも?
 山王塚古墳は、川越市教育委員会(現地案内板)によると、市指定史跡であり、方形部63m、円形部径47m、高さ4.5mの東日本最大の上円下方墳だろうと記している。もし、この古墳が発掘調査の上、上円下方墳ということになれば最大規模となる。

《北緯35度40分上の3古墳》
 北緯35度40分ライン上の、多摩川の西側に北大谷古墳(八王子市)、東側に熊野神社古墳がある。古墳形状が違うものの築造の特徴が似ており、さらには同じライン上に同じような特徴の古墳があるのではと推測されていたらしい。天文台構内古墳が発掘される毎に、それがはっきりと当てはまるようになってきた。
 北大谷古墳は円墳ないし方墳であり、熊野神社古墳および天文台構内古墳は上円下方墳である。周辺の他の古墳を凌駕する規模である、中軸は角度の差があるもの南北方向である、版築工法を使用する、シルト岩を利用している、複室構造胴張り形横穴式石室を持つ、玄室床面に敷石を置く、埴輪がない、周溝(または周濠)がある、築造時期は7世紀である、などの共通点がある。多摩川周辺の有力者の連合の現われか興味のあるところ。
[天文台構内古墳 前出1 前出2 前出3]
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三鷹市・天文台構内古墳 現地見学会

2008年09月07日 | Weblog
 7世紀に造られた上円下方墳である三鷹市天文台構内古墳の現地見学会が、昨日と今日の2日連続でしかも1日に2回実施された。昨日は800名の見学者、そして今日は昨日よりも多い見学者が現れ、1000人になるかもしれないという。
 天文台の構内は広いが、周りは住宅地であるから住民の見学者も多い。結構、母親と娘の組み合わせも見かける。
 26日に、玄室の角から7世紀後半のものとみられる須恵器などの3点の副葬品が見つかった。
 青白い色をした須恵器の壺(高さ25cm、胴直径16cm)は酒器として使われていたもので、その口の部分に赤色の供献用の土師器の杯(直径10.5cm、)2点が食い込んでいた。壺はひび割れがなく、ほぼ完全な形である。形状から、大化改新後(650~675年ごろ)に東海地方で作られたと見られ、盗掘されていない可能性が高くなったとする。
 壺は東海地方の湖西窯と説明しているが、確認すると、まだ取り出していないので確定ではないという。(注1)
 また、棺は木棺の可能性があるが、釘が見つかっていないので今のところ不明であり、ただし、石棺の可能性はないという。
 北大谷古墳(八王子市)、武蔵府中熊野神社古墳(府中市)と天文台古墳(三鷹市)は西から東へ一直線上に同じような間隔で並び、何らかの関係があると話す。

(写真)左上:第一赤道儀室(2002年国登録有形文化財に指定)横に並ぶ見学者
     左下:南東部の周溝(境界を示すものとの説明)
     右:横穴式石室

(注1)その後、三鷹市教委の担当の方から、須恵器の壺はフラスコ形長頸瓶であり、浜名湖の西岸に分布する湖西古窯跡群の産であることをご教示いただいている。

<備考>
1970年 初調査を行う。
 縦横27~28mの方墳に径18mの円墳が乗った形状の古墳。高さ2.1m(推定高さ3.7m)。
2007年 上円下方墳(国内4例目)として確認される。
 7世紀に築造。石室が3室構造である、全長6.9mの切石を用いた複式胴張り構造の横穴式石室を持つ。
 西7.5kmには、03年に発見された、国内最大の上円下方墳(1段目1辺32mの方形、2段目径16mの円形)である武蔵府中熊野神社古墳がある。
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三鷹市天文台構内古墳 発掘見学会

2008年09月03日 | Weblog
 三鷹市教育委員会より、表題開催のお知らせが出ています。

 国立天文台の敷地内にある「天文台構内古墳」は、7世紀に造られたと推定されるもので、全国的にもたいへん珍しい「上円下方墳」です。市では8月18日(月)からこの古墳の石室内部の本格的な調査に入りますが、あわせて一般見学会を開催します。
◆日時 9月6日(土)・7日(日)(各日2回開催)
     [1]午前10時~11時30分  [2]午後1時30分~3時
◆所在地 大沢2-21 国立天文台構内(正門から入場してください)
主催:三鷹市教育委員会・三鷹市遺跡調査会
教育委員会生涯学習課 ℡0422-45-1151 内線3315
[参考:三鷹市HPより]

1970年 初調査を行う。
 縦横27~28mの方墳に径18mの円墳が乗った形状の古墳。高さ2.2m。
2007年 上円下方墳(国内4例目)として確認される。
 7世紀に築造。玄室と石室が3つある、全長6.9mの切石を用いた複式胴張り構造の横穴式石室を持つ。
 西7.5kmには、03年に発見された、国内最大の上円下方墳(1段目1辺32mの方形、2段目径16mの円形)である「武蔵野府中熊野神社古墳」(府中市、7世紀半)がある。
[参考:三鷹市HP、三鷹市遺跡調査会HP、2007/12/4東京新聞]
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足利市 機神山山頂古墳 葺石施した2段墳丘

2008年08月19日 | Weblog
 市教委は18日、織姫神社がある機神山(はたがみやま)山頂古墳の第1次発掘調査結果を発表した。
 葺石が施された2段築成の前方後円墳で、葺石は石室がある南側正面だけでなく北側も丁寧に造られた本格的な古墳であることが確認された。
 調査の結果、2段目の墳丘は全長36m、高さ4m以上あった。斜面にはチャートの割り石を積んだ葺石が施され、傾斜は45度から60度と急だった。墳丘1段目には葺石はなく、全体に山すその斜面を削り出してテラスおよび1段目墳丘を造っていた。葺石は墳丘の崩落を防止したり、見栄えを良くしたりするために造られたらしい。
 また北側中央のくびれ部テラス部分からは、円筒埴輪がほぼそのままの形で南北に2基並んで据えられて出土した。また他の調査個所からは馬、太刀、楯、翳(さしば)などの埴輪片約千点が出土したが、これらはもともと墳頂に並んでいたものが転落したものらしい。
 同古墳は古墳時代後期(六世紀後半)に造られたと見られ、明治26年(1893)に行われた調査では石室から鏡、馬具、勾玉などの副葬品や埴輪などが出土。昭和48年(1973)に市指定史跡になった。今回は墳丘の斜面など7カ所に溝を掘るなどして規模や形状を本格的に調べた。
 市教委は「小首長クラスの古墳のため、周囲から見られることをかなり意識して造られたのでは」と説明している。
 機神山から両崖山にかけての標高53mから118m、東西500m、南北600mの範囲の尾根上と斜面に26基の古墳が点在、機神山古墳群と呼ばれている。
同市内には、約1300の古墳が残っており、今回調査を行った機神山山頂古墳は、墳頂部の標高が118mと古墳群のなかでも最も高い場所に位置し、市街地全体を見渡せることなどから、古墳群のなかでも有力な首長の墓であったと考えられるとしている。
 同古墳は普段は立ち入り禁止となっているが、市教委は23日午前十時から正午までの間、現地説明会を開き一般に公開する。
[参考:下野新聞、産経新聞、読売新聞、東京新聞]

<機神山山頂古墳の位置関係>
 東400mに足利市役所、南1kmに利根川、東南1kmに足利館、鑁阿寺、北東5kmに先の大日如来坐像で話題になった樺埼寺がある。

<現地説明板より>
 機神山の頂部を占める本墳は後円部を東、前方部を西に向けて築造された前方後円墳である。紛糾の全長は約36m、後円部径と前方部幅はともに約19m、高さとともに約3mで、見事な二子塚形である。
 本墳の埋葬施設である横穴式石室は、奥壁、両側壁、天井石すべてに割石(硅岩)をもって胴張袖無型に構築上し、後円部の南に開口するが、石室内には(被葬遺体の副うように)直刀2、鉄鏃17、獣帯鏡2、六鈴鏡1、勾玉、小玉や馬具(杏葉1、轡1)、須恵器などが納められ、また封土(墳丘)には人物、馬、鳥、家、靫、楯などの形象埴輪や円筒埴輪が樹てられていた。
 山頂に盛土した本墳は山腹に群在する古墳群(主に小型円墳)の主墳であれば、領民が挙(こぞ)Tってつくったものにちがいない。眼下にいろがるおのれの支配じを睥睨(へいげい)し権威を誇示するようであるが、また黄泉の国から領民たちを見守る姿でもある。本墳はおよそ六世紀代にこの地一円を治めた支配者の奥津城(墳墓)であろう。
(昭和53年6月 市重要文化財指定) 昭和61年7月  (財)足利市民文化財団、足利市教育委員会
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