歴歩

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羅州市・丁村古墳 出土した矢筒から栄山江流域と大伽耶が交流していた証拠

2018年09月13日 | 韓国の遺跡・古墳など
 2014年に全南羅州伏岩里丁村古墳(나주 정촌고분)で、金銅靴とともに出土した矢筒(화살통)が栄山江流域と大伽耶交流を立証する遺物であるという説が、国立羅州文化財研究所が14日に開催する「古代韓国・日本の矢筒と装飾刀」というテーマの学術大会で発表される。
 矢筒は盛矢具(성시구)ともいう。
[参考:聯合ニュース、国立羅州文化財研究所]

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 丁村古墳
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羅州市・丁村古墳 殯葬を行った可能性を示すハエのさなぎの殻を確認

2017年04月19日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は17日、2014年12月に羅州市・丁村古墳(정촌 고분)1号石室から発見された1千500年前の金銅靴から、ハエ(蠅、파리)のさなぎの殻が確認されたと発表した。
 金銅靴内部の土を整理する過程で埋葬者の踵(かかと)骨片とともにハエのさなぎの殻約10個を検出して法医昆虫学的分析を進めた。
 これは葬儀を行う時、死体をすぐに埋めないで、外部で一定期間儀式を行った後に埋葬する、殯葬(빈장)の可能性を示すこととして注目される。
[参考:聯合ニュース]

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 丁村古墳
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羅州市・丁村古墳 石室造成・盛土を同時進行など築造技法を確認

2016年09月09日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は5日、5世紀後半から7世紀初期までに作られた羅州市・丁村古墳の築造技術と構造を確認するための発掘調査を実施して、丁村古墳は1号石室造成と盛土作業を同時に進めて作った墓とわかったと発表した。
 このような築造技法は栄山江流域の古代墓では初めて確認された。
栄山江流域古墳は普通平地や低い丘陵にあるのに対して、丁村古墳は海抜112mの山斜面に単独で造成された。上部の土を削平し1,600㎡の広さの平坦な土地を固め、安定的に古墳を築く(積み重ねる)ために石室造成と盛土を一緒に行った。土の墓が流れないように外側の土は水平に固めて積み、築台を設置して古墳下部を補強した。
 今回の調査では1号石室と甕棺2基、木棺1基は同時代に造成され、以後に石室2基と石槨4基、甕棺4基が古墳中に追加されたことも分かった。
 1号石室(4.9x3.8x3m)の3Dデジタル写真が添付されており、石積みの壁と天井を構成した姿がよく確認される。また、そのドーム状は。思ったより天井の幅が狭く傾斜が強かった。
[参考:聯合ニュース他]

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 羅州市・丁村古墳


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都塚古墳と羅州・丁村古墳

2016年07月22日 | Weblog
 7月18日(日)かんだい明日香まほろば講座(総合テーマ 国際都市飛鳥と渡来文化)が有楽町朝日ホールで開かれた。
 その中で、國學院大學名誉教授・鈴木靖民氏の講演「飛鳥時代の渡来文化・渡来人/都塚古墳の系譜と東アジア」に特に興味を引いたので触れてみたい。
 『都塚古墳発掘調査報告書』(2016 明日香村教育委員会・関西大学文学部考古学研究室)が発刊された。
 都塚古墳の年代観については、白井太一郎氏が「墳丘と石室は7世紀初めに造られ、家形石棺は六世紀後半に造られたものをほかから移した。」と、西光慎治氏が「石室構造は縦軸で穹窿状を呈する天井である。墳頂に行くにつれて面積が狭くなり、持ち送りが必要になったことなどを考えると六世紀後半頃」を挙げた。 また、韓国・羅州市丁村古墳は6世紀前半築造、東西37.3m、南北40mの方墳で、墳丘基底部に石積、斜面部に葺石と長大石が置かれ階段状の築造の可能性があるとして、この2つの古墳が同じ六世紀、ほぼ同規模の古墳で、百済からもたらされた墓制との関係を示唆するとした。
 この報告書の中で、韓国ウリ文化財研究院・沈炫瞮氏が丁村古墳について書いており、それを基に鈴木靖民氏が、丁村古墳は多段築でないものの、墳丘基底部の石築、葺石、裏込めなどの共通性があると書いている。
 この、ブログでは都塚古墳丁村古墳を過去に取り上げている。
 羅州市丁村古墳について、過去の聯合ニュース、朝鮮日報、東亜ニュースなどを再度掘り起こし調べてみた。

丁村古墳(정촌고분、羅州市郷土文化遺産第13号)
■所在地
 全羅南道羅州多侍面伏岩里山91(전라남도 나주시 다시면 복암리 산 91)
■規模概要
 方形古墳(韓国では方台形古墳)
 海抜112mの西側斜面に位置し、下部は広くて上部は狭く、あたかも頂上部が平たいピラミッドのような姿である。
 残っている古墳の大きさは短片37.3m、長片40.0m、高さ11.6m規模。 だが、古墳の頂上部が後代に一部毀損されたのでこれを勘案すれば本来古墳の高さは13m近くであったと推定される。 古墳外表は斜面保護と装飾効果のために石を敷いており、周りには石垣を積んで土の墓を保護している。 石垣を支持する長台石が古墳北側と西側斜面の中下位で確認されている。 現在葺石は一部だけ残っているが、本来は斜面全体に敷かれた可能性が大きい。 このような外表施設は古墳の斜面を保護する機能だけでなく視覚的な効果も非常に大きかったと見ることができる。
 埋葬施設は、石室墓3基、石槨墓3基、甕棺墓3基の合計9基があり、蜂の巣型古墳でもある。
 最も大きい1号石室墓は、最大長さ485㎝、幅360㎝、高さ310㎝である。
 内部構造は石室の床から天井に上がるほど狭くなるように築造して、出入口には石の門を作った。
■築造時期
 5世紀後半漢城百済時期から6世紀泗沘百済時期。
 百済が実質的に韓半島の西南部地域を編入したのは538年の泗沘遷都以後のことである。
 (当初は5世紀後半とみられていた。この地が馬韓土着勢力の地であるためである。しかしながら、出土遺物などから年代が上がってきた。現在では、6世紀前半とみられているが、6世紀半ば近くになる可能性もあるかもしれない。馬韓の土着勢力が6世紀前半までいたことを示す結果にもつながる。)
■出土遺物(石室墓3基から)
 百済はもちろんのこと新羅・伽耶・倭との交流を示す遺物がある。
 石室墓3基に対する内部調査を行った結果、金銅靴(1号石室墓)・金製イヤリング・金製装身具・環刀・馬具・矢筒装飾・矢尻・玉・土器・石枕・蓋杯等の遺物が出土した。
 金銅靴の底には透彫と線刻で見事に仕上げた蓮華と鬼形模様がある。 蓮華模様は8個の花びらを三重に配置して中央に花芯を刻んで、鬼形は開いた目と大きく開けた口が精巧で躍動感あるように描写されている。 百済が受容した仏教の影響と見える。
 金銅靴は、百済が南下して既存馬韓の土着勢力を統合しようとするための下賜品であろう。
■被葬者
 馬韓地域の首長およびその親族

 羅州地域の馬韓土着勢力が当時隣接していた百済、新羅、伽耶および倭などから直接支配を受けず多様な文化を受け入れてきた姿を推察させる。

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 明日香村・都塚古墳
 羅州・丁村古墳


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羅州市・丁村古墳 完全に近い状態の百済金銅履物が出土

2014年10月24日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は23日、全南羅州伏岩里古墳群と隣接した丁村古墳(정촌고분、羅州市郷土文化遺産第13号)で、これまで発見された百済金銅履物のうちで最も完全に近い状態の遺物を発掘したと発表した。
 同古墳は蜂の巣型古墳で、石室、石槨、甕棺など計9基の埋葬施設が発見されていた。今年は石室墓3基に対する内部調査を実施した。
出土品は、金銅靴ほか、金製耳飾り、と金製装飾、馬具、矢筒の装飾具、・矢じり・玉・石枕などが多量に出土した。
 1号石室墓の規模は、最大長さ485cm、幅360cm、高310cmで、これまでに知られている馬韓・百済圏の大型石室墓の中では最も大きいという。金銅靴は1号石室墓から出土し、長さ32cm、高さ9cm、幅9.5cm。足の甲先端に龍の飾りがあり、足首の部分には金銅板の覆いを付着した。 履物の底には蓮華と鬼の模様を透彫と線刻で整えて派手に飾られていた。
 主人公は百済だけでなく伽耶、新羅とも交流があったとみられる。
[参考:聨合ニュース]

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 金銅履物
 丁村古墳


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羅州市・丁村古墳 一辺40mの栄山江流域最大級の古墳 (6C前半)を確認

2013年12月09日 | 韓国の遺跡・古墳など
 国立羅州文化財研究所は羅州市多侍面伏岩里蠶崖山西側にある丁村古墳(정촌고분、羅州市郷土文化遺産第13号)を発掘調査した結果、三国時代の栄山江流域では、これまでに確認された古墳の中で規模が最大であり、大型の方形古墳を発見したと発表した。
 古墳の規模は、短辺37.3m、長辺40.0m、墳丘残存高さ11.6m、復元高さ(推定)13m。 蜂の巣型古墳で、石室、石槨、甕棺になど計8基の埋葬施設が発見された。 封墳表面には葺石と墳丘の周囲には護石、そしてこれら石築施設を支持する長台石が封墳の北と西斜面で確認された。
[参考:2012.11.27聨合ニュース]
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