歴歩

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都塚古墳と羅州・丁村古墳

2016年07月22日 | Weblog
 7月18日(日)かんだい明日香まほろば講座(総合テーマ 国際都市飛鳥と渡来文化)が有楽町朝日ホールで開かれた。
 その中で、國學院大學名誉教授・鈴木靖民氏の講演「飛鳥時代の渡来文化・渡来人/都塚古墳の系譜と東アジア」に特に興味を引いたので触れてみたい。
 『都塚古墳発掘調査報告書』(2016 明日香村教育委員会・関西大学文学部考古学研究室)が発刊された。
 都塚古墳の年代観については、白井太一郎氏が「墳丘と石室は7世紀初めに造られ、家形石棺は六世紀後半に造られたものをほかから移した。」と、西光慎治氏が「石室構造は縦軸で穹窿状を呈する天井である。墳頂に行くにつれて面積が狭くなり、持ち送りが必要になったことなどを考えると六世紀後半頃」を挙げた。 また、韓国・羅州市丁村古墳は6世紀前半築造、東西37.3m、南北40mの方墳で、墳丘基底部に石積、斜面部に葺石と長大石が置かれ階段状の築造の可能性があるとして、この2つの古墳が同じ六世紀、ほぼ同規模の古墳で、百済からもたらされた墓制との関係を示唆するとした。
 この報告書の中で、韓国ウリ文化財研究院・沈炫瞮氏が丁村古墳について書いており、それを基に鈴木靖民氏が、丁村古墳は多段築でないものの、墳丘基底部の石築、葺石、裏込めなどの共通性があると書いている。
 この、ブログでは都塚古墳丁村古墳を過去に取り上げている。
 羅州市丁村古墳について、過去の聯合ニュース、朝鮮日報、東亜ニュースなどを再度掘り起こし調べてみた。

丁村古墳(정촌고분、羅州市郷土文化遺産第13号)
■所在地
 全羅南道羅州多侍面伏岩里山91(전라남도 나주시 다시면 복암리 산 91)
■規模概要
 方形古墳(韓国では方台形古墳)
 海抜112mの西側斜面に位置し、下部は広くて上部は狭く、あたかも頂上部が平たいピラミッドのような姿である。
 残っている古墳の大きさは短片37.3m、長片40.0m、高さ11.6m規模。 だが、古墳の頂上部が後代に一部毀損されたのでこれを勘案すれば本来古墳の高さは13m近くであったと推定される。 古墳外表は斜面保護と装飾効果のために石を敷いており、周りには石垣を積んで土の墓を保護している。 石垣を支持する長台石が古墳北側と西側斜面の中下位で確認されている。 現在葺石は一部だけ残っているが、本来は斜面全体に敷かれた可能性が大きい。 このような外表施設は古墳の斜面を保護する機能だけでなく視覚的な効果も非常に大きかったと見ることができる。
 埋葬施設は、石室墓3基、石槨墓3基、甕棺墓3基の合計9基があり、蜂の巣型古墳でもある。
 最も大きい1号石室墓は、最大長さ485㎝、幅360㎝、高さ310㎝である。
 内部構造は石室の床から天井に上がるほど狭くなるように築造して、出入口には石の門を作った。
■築造時期
 5世紀後半漢城百済時期から6世紀泗沘百済時期。
 百済が実質的に韓半島の西南部地域を編入したのは538年の泗沘遷都以後のことである。
 (当初は5世紀後半とみられていた。この地が馬韓土着勢力の地であるためである。しかしながら、出土遺物などから年代が上がってきた。現在では、6世紀前半とみられているが、6世紀半ば近くになる可能性もあるかもしれない。馬韓の土着勢力が6世紀前半までいたことを示す結果にもつながる。)
■出土遺物(石室墓3基から)
 百済はもちろんのこと新羅・伽耶・倭との交流を示す遺物がある。
 石室墓3基に対する内部調査を行った結果、金銅靴(1号石室墓)・金製イヤリング・金製装身具・環刀・馬具・矢筒装飾・矢尻・玉・土器・石枕・蓋杯等の遺物が出土した。
 金銅靴の底には透彫と線刻で見事に仕上げた蓮華と鬼形模様がある。 蓮華模様は8個の花びらを三重に配置して中央に花芯を刻んで、鬼形は開いた目と大きく開けた口が精巧で躍動感あるように描写されている。 百済が受容した仏教の影響と見える。
 金銅靴は、百済が南下して既存馬韓の土着勢力を統合しようとするための下賜品であろう。
■被葬者
 馬韓地域の首長およびその親族

 羅州地域の馬韓土着勢力が当時隣接していた百済、新羅、伽耶および倭などから直接支配を受けず多様な文化を受け入れてきた姿を推察させる。

過去の関連ニュース・情報
 明日香村・都塚古墳
 羅州・丁村古墳



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