歴歩

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大洲市・如法寺 毘沙門天立像が奈良時代の木心乾漆像と判明

2018年10月02日 | Weblog
 奈良国立博物館は1日、愛媛県大洲市の如法寺が所蔵する毘沙門天立像が奈良時代の木心乾漆像であることが分かったと発表した。 別の仏像の調査で偶然見つけ、CTスキャンなどを使い調査を行ったという。
 像は高さ約28cmで、木粉などを混ぜた漆を塗った木心乾漆造りだった。心木と乾漆の間に麻布が張られていることもわかった。
 甲冑を身に纏い、左手で宝塔を捧げ持ち、振り上げた右手には戟(げき、武器)を持ち、斜に構える姿。両足は2体の邪鬼を踏みつけている。
 乾漆造りが奈良時代に流行したことや、甲冑を纏っている点、彩色の技法などから奈良時代中期(8世紀半ば)頃と判定した。
 如法寺に伝わる地誌「富士山志(とみすさんし)」では、江戸時代に大洲藩士が大坂勤めの時、奈良・信貴山(朝護孫子寺)で出会った僧侶から毘沙門天立像を譲り受け、藩主の菩提寺である同寺に寄進したとの記述がある。
 仏像は奈良国立博物館の「なら仏像館」で公開されている。
[参考:共同新聞、産経新聞、毎日新聞、読売新聞、NHKニュース]


追記 2018.10.3
芸大コレクション展を観に行ったところ、ちょうど芸大保管の木心乾漆造月光菩薩像が展示されていました。
東京国立博物館保管日光菩薩像とともに、もとは京都・高山寺蔵薬師如来像と一具をなしていたそうです。
これらは京都府亀岡市・金輪寺の旧像と伝わります。
製作時期は如法寺の毘沙門天立像よりやや新しく8世紀後半とみられています。
芸大コレクション展は11月11日まで芸大美術館で開催されています。


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 亀岡市・金輪寺
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亀岡市・佐伯遺跡 奈良時代創建の寺院跡か

2018年01月20日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは17日、亀岡市稗田野町の佐伯遺跡で、奈良から平安時代の柱穴や大量の軒丸瓦や、仏塔を模した土製の「瓦塔(がとう)」の一部が見つかったと発表した。寺院の痕跡と見られる。
 佐伯遺跡は縄文時代から鎌倉時代にかけての集落跡で、調査は2015年度に始まり、奈良時代に役所があり集落が形成されていたと推測されている。
南北に並ぶ方形柱穴(一辺1m弱)10個を南北24mにわたり連なって確認。東西には柱穴がないことから、建物ではなく比較的規模の大きい塀があったと考えられるという。付近からは瓦塔の屋根の一部や、蓮華紋が刻まれた軒丸瓦や丸瓦など大量の瓦が出土した。瓦塔や瓦の形式などから8世紀の奈良時代から9世紀の平安時代前期にかけの遺構とみられる。綾部市の綾中廃寺(注)と同型の瓦が見つかり、古代の亀岡と綾部で職人同士のつながりがあったと考えられるという。
 約100m離れた場所からは平安時代の墨書土器や皿、木簡などが出土した。
 同市内ではこれまで、丹波国分寺・国分尼寺を中心に4カ所で古代寺院跡が出土しており寺院や役所のある佐伯遺跡は地域の拠点だった可能性があるとみている。
 20日午前10時半から現地説明会がある。
[参考:京都新聞、産経新聞、毎日新聞]

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2017.1.⒛ 佐伯遺跡で奈良時代の建物跡など出土
佐伯遺跡で、奈良時代の掘っ立て柱建物跡3棟が見つかった。建物跡は方位を北にそろえて建てられていた。
 蹄脚円面硯(ていきゃくえんめんけん、直径約20cm)や、「正福」と記された墨書土器も見つかった。
 ほかにも平安時代の掘立柱建物跡2棟や緑釉陶器などが発掘された。[参考:朝日新聞]

(注) 綾中廃寺
綾部郷の中央部には七堂伽藍のあった所という伝承があり、近からは古代寺院の礎石や軒丸瓦・同平瓦、風鐸の風招(銅製)、須恵器などが出土している。 軒丸瓦のうちには山田寺式(7世紀末)と藤原宮式(8世紀初)のものがある。

佐伯遺跡の西北約5kmのところにある、天台宗神尾山金輪寺(亀岡市宮前町宮川神尾山)は延暦2年(783)に西願上人により創建というので、気になる寺院である。日本最初の医学書『医心方』を著した丹波康頼(912-995)の五輪塔があり、本尊の薬師如来像は、康頼の六代後の基康が康頼の念持仏を胎内に納めたものを寄進したと伝わる。
現在、東京国立博物館「仁和寺と御室派のみほとけ」展で「医心方(巻一、巻九)」(12世紀、国宝)が展示されている。

2018.1.30追記
約1か月後に、東大寺二月堂で行われるお水取り(修二会)、それに先がけて若狭のお水送りの行事が行われる。
いろいろと調べていくと、若狭神宮寺(神願寺)と和久寺(福知山市)、綾中廃寺(綾部市)、佐伯遺跡(亀岡市)から出土する瓦が、各々同型の瓦、すなわち山田寺式(7世紀末)ないし藤原宮式(8世紀初)が出土している可能性がある。より詳しい資料を探してみたい。

<佐伯遺跡>柱穴や軒丸瓦出土 奈良〜平安の寺院か 亀岡 /京都

佐伯遺跡地図


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亀岡市・千代川遺跡 国府の建物跡?が出土

2017年01月25日 | Weblog
 京都府教委と亀岡市教委が24日、丹波国の国府跡と想定する亀岡市千代川町の千代川遺跡の2カ所で、平安時代の掘っ立て柱の建物跡2棟分や奈良時代後期から平安時代前期にかけての溝跡などが見つかったと発表した。ほかに墨書の入った土器片などが出土した。 南北、東西に長い建物跡が2棟分出土。柱穴は約70cm四方で、直径20~25cmの柱を使っていたとみられる。ともに方位をほぼ北にそろえて建てられていた。平安時代前期9世紀代に建てられた可能性があるという。同遺跡では同時代の建物跡が数十棟分出土しているが、今回の調査地は家老ケ岳の南側にあたり、当時の建物群の北端に推定される。
 建物跡から南東約250mの調査地からは、同遺跡では最大規模となる幅3m以上の溝跡(区画溝)が出土。また溝の中から800年前後に書かれたとみられる器の底に「大中」と墨書された土器も出土した。
 現地説明会は26日開かれる。午後1時半から建物跡(府教委)、3時から溝跡(市教委)。
[参考:京都新聞、産経新聞、朝日新聞]

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 亀岡市


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亀岡市・出雲遺跡 中国製の青白磁片が丹波で初出土

2013年10月13日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターは11日、弥生時代後期から鎌倉時代の複合遺跡である出雲遺跡(亀岡市千歳町千歳)で平安時代末期(12世紀後半)に掘られた溝跡から、口丹波地方では出土例の少ない中国宋時代の陶磁器片が多数見つかったと発表した。
 現場は、709年創建と伝わる丹波国一之宮の出雲大神宮の西約200mの棚田跡で、南北約23m、幅3・5m、深さ40cmの溝跡から、平安時代末期の儀礼や祭事に使われて廃棄されたとみられる土師器や須恵器などに交じって中国製の白磁碗や青磁皿、青白磁の合子などの破片が出土した。 これまで整理した約1千点の土器片のうち中国製陶磁器の占める割合は数%であった。
 同センターは、溝の東の高台にあったとみられる有力者の館から捨てたのではないかとみており、完全な形の土師皿なども多く、儀礼や祭事に使われた食器が廃棄された可能性もあるという。 当時のこの地にあった後白河天皇の荘園や出雲大神宮の社家との関連を調べたいとしている。
 現地説明会は13日午前10時から開かれる。
[参考:京都新聞、朝日新聞、毎日新聞]

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 2013.9.30 亀岡市・若宮神社 台風禍により境内の崩落地に12~13世紀の大量の土器が出現

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亀岡市・若宮神社 台風禍により境内の崩落地に12~13世紀の大量の土器が出現

2013年09月30日 | Weblog
 京都府亀岡市薭田野(ひえだの)町(注1)佐伯の若宮神社で、台風18号の風雨で拝殿脇の池の法面で幅10m高さ3mにわたって崩れ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての土師器や須恵器などの大量の土器が見つかった。
 土器は数万点にも上る皿や碗などの破片で地下約2mの深さに層状に見つかり、崩れた土砂にも多量の破片が混じっていた。釜、鉢の一部らしい破片もあった。
 形状や高台の丁寧な細工などから、12~13世紀の土器とみられる。
 祭礼などで一度に大量に使った器を集めたか、捨てる場所だったのではないかとみており、神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえるとしている。
 土砂崩れした箇所以外は拝殿などの地下にあたり、全容の確認は難しいという。
[参考:2013.9.26京都新聞、スポーツニッポン、2013.9.27産経新聞]

(注1) 古代は、丹波国桑田郡佐伯郷
 若宮神社は延喜式神名帳には載らない神社であるが、古くは多気神社といわれ祭神は現在の大鷦鷯命(仁徳天皇)でなく、別の祭神であるらしい。 しかしながら、12~13世紀頃の大量の土器が見つかったことから、当神社で大規模な祭礼が度々行われたことがうかがえるとし、その不明な歴史に興味がわく。 一の谷の戦いのために、源義経軍が都を立って、丹波路を二日かかるところを一日で通リ過ぎたといっても、水分補給のために当神社に立ち寄り「若宮のご香水(ごこうずい)」と呼ばれる井泉を飲むことがあったしても不思議ではない。

 同神社境内の説明板には、下記のように記されている。
若宮神社
 当神社の創建は、奈良時代の景雲三年(注2)とされ、多気神社として鎮祭されるも、その後社運の消長があり、南北朝の嘉慶元年(1387)九月に再建され若宮神社と改称された。 祭神は窮乏の民に三年の徴貢を免じた大鷦鷯命(仁徳天皇)で昔より安産の守護神とされ八幡信仰などで若宮八幡宮と呼ばれた事もある。
 左右の小社は地主彌勒尊と六孫王経基公である。
 真下を走る旧篠山街道は寿永三年二月一日、一の谷の戦に向う義経が通った腰掛石がある。
 本殿は再建当時の流れ造りで内陣天井裏の桁に約六百年前の龍が画がかれている。 例祭は毎年八月と十月で奇祭佐伯灯篭(注3)は平安時代より続いている。井出山の地名が知るす如く井泉は若宮さんの御香水と言って薬餌(注4)と甘露の水で知られる。
(注2) 神護景雲三年(769)
(注3) 佐伯灯籠は、五穀豊穣と盂蘭盆行事が合わさった夏祭りで、国の重要無形文化財に指定されている。 稗田野神社・御霊神社・若宮神社・河阿(かわくま)神社の四社の祭事で、当番を集落ごとの輪番制をとって行われている。 昼には灯籠や御輿の巡行が行われ、夜には江戸時代後期から伝わる人形浄瑠璃が上演される。 最後には、稗田野神社前で鳴り響く太鼓に御輿がのしかかる「太鼓掛け」や、御輿が灯籠を追う「灯籠追い」が行われる。
(注4) 薬餌(やくじ):病人にとっての、薬と食物

[平家物語]
 (寿永3年)正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞す。 (略)
 同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く遂(げ)行はる。(略)
 四日は吉日なればとて、大手搦手の軍兵二手に分て攻め下る。 大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、(略)都合其勢五萬餘騎、二月四日の辰の一點に都を立(つ)て、其日の申酉の刻には、攝津國昆陽野(こやの)に陣をぞ取(つ)たりける。 搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、(略)、都合其勢一萬餘騎、同じ日の同じ時に都を立(つ)て、丹波路に懸り、二日路を一日に打(つ)て、丹波と播磨の境なる三草の山の東の山口、小野原に陣をぞ取(つ)たりける。

 延喜式神明帳には、桑田郡の神社として下記19社が記されているが、若宮神社および多気神社の名は見られない。 ただ、多気は「たき」と呼ばれたかもしれないし、同じ桑田郡内の多吉神社が「たき」神社と呼ばれることから、「滝」に関係しているのかもしれない。あるいは、「竹」に関連した「たけ」かも。 
[延喜式]
府タ桑田郡十九座/大二座/小十七座∥
出雲神社/名神/大∥、 桑田神社、 三宅神社、 小川月神社/名神/大∥、 三県神社 、神野神社、 山国神社 
阿多古神社、 小幡神社、 走田神社、 松尾神社、 伊達神社、 大井神社、 石穂神社、 與能神社、 多吉神社
村山神社、 鍬山神社、 薭田野神社

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京都市・平安京 白虎楼の瓦片が出土

2012年08月29日 | Weblog
 京都市埋蔵文化財研究所の調査で、平安宮跡(同市中京区)で、宮内にあった楼閣「白虎楼(びゃっころう)」の屋根に葺かれたとみられる平安時代中期の瓦片100点以上が見つかった。 白虎楼はこれまで遺物や遺構は確認されておらず、「延喜式」などの記述を裏付ける発見となる。
 天皇即位の大礼を行う「大極殿」(だいこくでん)の東には「蒼龍楼」、西には「白虎楼」があった。「白虎楼」は二重屋根の建物で、宮内の人の動きを眺めたり、外敵を見張ったりした施設とみられている。
 5月の調査で、白虎楼があったとされる場所付近の穴(直径3m以上)から軒平瓦(長さ20cm前後)と軒丸瓦(直径15cm前後)などが出土した。 軒丸瓦と軒平瓦には唐草と蓮の文様が描かれており、11世紀後半に丹波国の瓦窯(京都府亀岡市)で作られたものと一致することが判明した。 歴史書では、大極殿の修復に丹波守・源高房(みなもとたかふさ)が担当したとされ、丹波の瓦が出土したことで、白虎楼の建設にも源高房がかかわったことがうかがえるとしている。
 また、近くでは、「緑釉瓦」の破片(最大で10cm四方、10点)も出土したが、平安時代前期の大極殿に関連する瓦とみられる。
[参考:読売新聞、産経新聞]
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亀岡市・余部遺跡 5世紀後半の墳丘のない埋葬施設から懸垂鏡1面が出土

2012年05月19日 | Weblog
 亀岡市教委は18日、同市余部町の余部(あまるべ)遺跡から、古墳時代中期~後期(5世紀後半)の墳丘のない埋葬施設が1基見つかり、中から「懸垂鏡」1面と多数の玉類が出土したと発表した。
 埋葬施設は、縦3・75m、横1・85m(最大)。 1段下がった場所に板を組み合わせ木棺跡(縦2m、横55cm)が見つかった。 木棺外の埋葬者の頭側と思われる場所から勾玉や臼玉など玉類計50個のほか、直径6・7cmの懸垂鏡1面が出土した。
 現地説明会が20日午前10時から開かれる。
[参考:京都新聞]

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 2011.7.1 余部遺跡 弥生時代の竪穴住居の貯蔵穴から土錘28点が出土
 2008.7.29 余部遺跡 古墳時代5世紀の方墳1基を発見

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亀岡市・余部遺跡 弥生時代の竪穴住居の貯蔵穴から土錘28点が出土

2011年07月01日 | Weblog
 京都府亀岡市教委は30日、同市余部町の余部(あまるべ)遺跡で、弥生時代後期(約1800年前)の竪穴住居跡部分から1m四方の貯蔵穴が確認され、中から素焼きの土錘(長さ4~7cm、幅2~3cm)28点が出土したと発表した。 土錘は本来、漁で使う網の重りであることから、人為的に埋めたものとみられ、祭祀に用いられたのではないかとみている。
 ほかに、弥生時代後期の竪穴住居跡3棟、古墳時代中期の竪穴住居跡1棟と鎌倉時代(13世紀)の溝が見つかった。
 現地説明会は、2日(土)午前10時30分から開かれる。
[参考:京都新聞、読売新聞]

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 2008.7.29 亀岡市・余部遺跡 古墳時代5世紀の方墳1基を発見
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亀岡市・丹波亀山城 石切り場跡から和歌山藩主・浅野幸長を示す刻印のある石を発見

2010年10月08日 | Weblog
 亀岡市教委が7日、江戸時代初期、幕府の命で改築された丹波亀山城(亀岡市荒塚町)の石切場跡で、和歌山藩主・浅野幸長(よしなが、1576-1613)が採石を担ったことを示す「あさのきい」と彫られた石が見つかったと発表した。
 亀山城は1577年頃、明智光秀が丹波国統治の拠点として築城。徳川家康もこの城を重視し、1610年岡部長盛を丹波亀山藩主に任じ、「天下普請」の一環として大修築し本丸に5層の天守閣が建てられた。
 市教委の調査で、城の北西約4kmの山裾に点在する石切場跡を初めて確認した。切り出しを担当した大名や家臣を示す刻印の入った石が、数多く見つかった。その中に、浅野紀伊守幸長を意味する「あさのきい」と彫られた石が、地上の露出部(幅2・2m、高さ0・7m)で見つかった
 幸長は名古屋城の築城にも加わっていた。普請には全国約50の大名がかかわったとされるが、掛け持ちが判明したのは初めてで、相当な負担がかかったと思われる。幸長が豊臣家に近かったことが災いした可能性があるという。
 ほかには、「三さ内」と読み取れるものもあった。市教委は、姫路城主・池田輝政の通称『三左衛門』ではないかと推測する。池田輝政の切石の刻印は、これまでに丸に「三佐」、丸に「左」、「三左内」がある。
[参考:読売新聞、毎日新聞]
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滋賀県甲賀市・春日北遺跡 緑釉陶器窯が新たに4基見つかる 量産体制の証

2010年04月30日 | Weblog
 県文化財保護協会が29日、昨年に平安時代中期(10世紀後半)の緑釉陶器窯(春日北1号窯)が見つかった春日北遺跡(甲賀市水口町春日)で、新たに同じ時期の緑釉陶器窯4基が見つかったと発表した。
 当時、平安京で流通していた緑釉陶器は近江産がほとんどを占めていたとされ、量産体制ができていたことを示す発見という。
 4基は、先に発見された窯の南側に、東西方向に並ぶようにして造られていた。うち3基は、薪を燃やす燃焼室と陶器を焼いた焼成室に分かれ、その下に火を通す溝があり、既に見つかっている窯と同じ構造。東端の1基だけが2つの焚口を持っており、燃焼室の底に粘土を柱状に立て、その上に焼成室の床を張って陶器を炙り焼きしたとみられる。この構造は、京都府亀岡市の篠窯跡群のものと同じという。
 同遺跡では昨年、灰釉陶器窯と緑釉陶器窯を1基ずつ確認しており、最初の窯(春日北1号窯)の40m東では、愛知県尾張地方に多い灰釉陶器窯1基が県内で初めて見つかった。この窯が年代的には最も古い。一緒に出土した陶器などから、当初は東海地方や京都の影響を受けていたとみられるが、10世紀半ば以降の窯は近江独自の構造を備えており、6つの窯を10世紀前半~後半の60余年間にわたって順次、造り変えながら使っていたとみている。
 遺物は碗と皿がほとんどで、コンテナ100箱分あった。窯からも、形が歪んだり、途中で割れて出荷されなかったとみられる不良品の碗が出土した。
 現地説明会は5月1日午後1時半から開かれる。
[参考:京都新聞、毎日新聞]

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 2009-09-19春日北遺跡 平安時代中期の緑釉陶器窯が出土
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亀岡市・国分古墳群 両袖式横穴式石室が見つかる

2009年07月31日 | Weblog
 京都府埋蔵文化財調査研究センターが30日、同市千歳町の国分古墳群で、6世紀後半(古墳時代後期)の築造とみられる両袖式横穴式石室1基や、7世紀(飛鳥時代)の小石室1基が見つかったと発表した。同古墳群で確認された古墳は、これで計62基となった。
 横穴式石室は全長7・6m、幅は最も広い部分で1・6m。玄室と、そこにつながる通路の一部に石が敷き詰められていた。玄室内や石室の周辺からは、須恵器や馬具の一部とみられる鉄製品、耳飾りなど計13点の副葬品が出土した。
 小石室は全長1・2m、幅0・5mで、棺を載せたとみられる楕円形石が三つ残っていた。
 また、同古墳群の西に接する蔵垣内(くらがいち)遺跡からは、今回の調査で2世紀ごろ(弥生時代後期)の一辺6mの竪穴住居跡1基や、多量の石や鉄の滓(かす)を埋めた中世の土坑4基などが見つかった。
 現地説明会は8月1日午前10時から行われる。
[参考:京都新聞]
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木津川市・文廻池遺跡 須弥山を表す三彩陶器が出土

2008年08月12日 | Weblog
 京都府木津川市の文廻(ぶんまわし)池遺跡(現在、馬場南遺跡)から、板状の三彩陶器数十点が見つかった。鮮やかに彩色されており、正倉院宝物にもひけをとらない国宝級。
 今回見つかった陶板の中には縦約15cm、横20cmの大きなものもあり、波や流れる水、雲など、須弥山特有の文様が描かれていた。大きな陶板は今のところ数点、小片は数十点。
 組み立てると高さ数mの須弥山の工芸品になるとみられるが、仏教世界の中心にそびえる想像上の高山である須弥山(しゅみせん)を表す、立体的な大型工芸品になりそうだ。
 三彩の須弥山は国内での出土例はなく、中国でもきわめて珍しい。陶器は唐からもたらされた貴重な唐三彩の可能性もあり、専門家は前例のない遺跡として、今後の調査に注目している。
 現場は平城宮跡の北東約5km。約5千㎡の住宅予定地を京都府教委などが調査している。土器や瓦から、奈良時代・8世紀中頃~後半の仏教施設や儀礼場の跡とみられる。近くでは、高句麗系とみられる飛鳥時代・7世紀初めの最古級の高麗寺跡(国史跡)があり、聖武天皇が都を置いた恭仁京(740~44年)の宮殿跡もある。
 同じ場所から、万葉集の歌が書かれたとみられる木簡や「神尾寺」と書かれた墨書土器も出土している。
 現地を訪れた考古学者は「三彩は、代表的な寺院跡からでも数点見つかるかどうかだ。驚いている。平城宮と同じ瓦も見つかり、かかわりが考えられる」と話している。

〈須弥山〉インドが起源とされ、仏教の世界観の中心にあると言われる高山。複数の山や川、海などの自然が表現されている。日本で有名なのは奈良県明日香村で見つかった7世紀の須弥山石。一部が失われたものの、山などが刻まれていることが分かる。噴水としても使われたらしい。文様が表現され、仏像をのせた「須弥壇」もその一種。このほか、銅鏡の文様などにも応用された。
[参考:朝日新聞]

備考
①三彩陶器/須弥山模様
 須弥山模様の三彩陶器は、松阪市伊勢寺町の伊勢寺廃寺でも出土されている。
 三彩陶器は小さい壺などが一般的であるが、須弥山を具現化したものか、あるいは仏像の台座ではないかと考えられている。時期も8世紀中頃から後半。奈良三彩らしい。
②神尾寺
 墨書土器に書かれた神尾寺を近辺で見つけるのは難しい。長岡京跡をさらに越えて150km先の亀岡市にある、金輪寺(きんりんじ)の裏山にあった神尾山城は別名神尾寺城とも本目城ともいう。天正年間(1573-1592)明智光秀が八上城攻めの中継基地として「本目の城」を使ったというが、この本目城とは神尾山城を指すと推定されている。当時神尾山は本目庄の中にあったからである。金輪寺は山号を神尾山といい、天台宗として延暦2年(783)に西願上人により創建され、一時衰退するが、寛治年間(1087~1093)に明恵上人により再興され、堂宇が建ち並び隆盛を極めたという。今は本山修験宗に属する。
 創建時期の783年頃、あるいは正式名がまだ決まっていなかったそれ以前の段階では神尾寺と称したのではないだろうか、それとも別の近い場所に神尾寺と呼んだ寺院があったのであろうか。


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亀岡市・余部遺跡 古墳時代5世紀の方墳1基を発見

2008年07月29日 | Weblog
 28日京都府亀岡市教委は、同市余部町の余部遺跡第9次発掘調査で古墳時代の方墳1基(余部2号墳)と竪穴住居跡1棟などが見つかったことを発表した。
 余部2号墳は一辺約16mの規模で、以前の調査で見つかった1号墳とほぼ同じ5世紀前半-半ばの築造とみられ、余部遺跡一帯で5世紀代に群集墳が築かれていたと想定している。
 調査ではこのほか、弥生時代中期と推定される竪穴住居跡2棟と方形周溝墓2基も見つかった。
 30日午前11時から現地説明会を開く。
[参考:京都新聞]
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